smile9「絵を描こう」
テーブルには画用紙と鉛筆と消しゴム、それから色鉛筆と絵の具がある。
私は腕を組んでどうしようかなーと考えている。今年もこの季節が来てしまったのかーと、こういうの苦手だからやりたくないなーと、読書感想文なら喜んでやりますよーと。
前を見ると子どもたちは楽しそうに何かを描いている。それは誰かの顔だったり、空だったり森だったり、ドラゴンだったり妖精だったり。それぞれが描きたいものを楽しそうに描いている。
私はというと、この画用紙はまだ真っ白なままで何の絵も描いていない。テーマが決まっていたらまだ描きやすいんだけど、決まっていないからなかなか描けなくて困る。みんな何で悩まずにそんなにスラスラ描けるのか不思議だ。
「あー! 陽菜お姉ちゃんまだ何も描いてない!」
あっヤバイ。見つかってしまった。一人に見つかるとたちまち広まってしまうからやっかいだ。だって大声出すから、みんなこっちに来るから、ひやかされるから。
「うわ、ホントだー! 陽菜お姉ちゃんサボってるぞー!」
「陽菜お姉ちゃんは特別だから、サボっても許してくれるらしいって聞いたけどホントなの?」
「何でもいいんだよ! 因みに僕はね、お母さんとお父さんの顔を描いたんだよ!」
「絵を描くのが苦手でもね、気持ちを込めて描けば伝わるんだよ。だから陽菜お姉ちゃんも頑張ろうね!」
みんなわかっている、だからからかうし励ますし寄ってくる。ほっといておくれよとは言えない状況だ。年上として、お姉さんとして、この行事をサボるという選択肢は許されそうにはない。
ここは笑って誤魔化そう、笑顔で許してもらおう、それも考えたけど今回は無理そうだ。覚悟を決めるしかない、ただ絵を描くだけで覚悟なんていらないけど。私に絵を描く才能があったら喜んで書いたなー。それこそ超大作を描いてみたりして。
子どもたちが私を注目している。もーそんなに見ないでよ! 私は漫画家でもイラストレーターでもないんだよ! 別に今から陽菜先生のサイン会が始まるわけでもないよ! だからそんなに注目しないでください。
「皆の気持ちは嬉しいよ、ありがとう。でも注目されると描けないよ」
「嘘だ嘘だー! そんなこと言ってサボりたいだけだー!」
「やっぱり陽菜お姉ちゃんは特別なのかな? 先生たちは頭が上がらないという噂があるけど」
「何でもいいんだよ! 例えばね空とか海とか。それなら簡単でしょ!」
「とりあえず鉛筆で下書きしてみようよ。気に入らなかったら消ゴムで消せるからさ」
ワイワイガヤガヤと子どもたちは元気がいい。大人からすれば私も子どもだけど。それにしても私のことを思ってくれる、とてもいい子な子どもたちだ。
「んー、どうしよう」
私は適当にあたりを見回す。可愛らしい壁紙、あちこちにある色んなぬいぐるみ、こっちの様子を優しい笑顔で見ている看護師さん、算数や国語のドリルや教科書が並んでいる本棚、子どもたちの顔。
とくにこれといって変わったものはない。いつも見る光景で、変わらない光景だ。もう空とか海とかそういうのにしようかな簡単そうだから。私はとにかく絵を描くのが苦手だから難しいものは描けないし。
子どもたちの顔のなかに友妃奈ちゃんもいた。転院はまだもう少し先で、友妃奈ちゃんにとっては今回が絵を描く最後となる。もう次にはいない、転院しても絵を描いてほしいな。
そんなことを考えていたら自然と友妃奈ちゃんを見ていた。その視線に気づいた友妃奈ちゃんが私と目が合ってニコッと笑った。可愛い笑顔だ、この笑顔を見れなくなるのは寂しい。
……あっ、そうだ。それならさ描けばいいんだよ。なんでこんな簡単なことに気づかなかったのかな、変わらないけど変わりがないものがとても近くにあったのに。いつもの光景だからその大切さに気づかなかったのかな。
「よーし描くぞ! 絵を描こう!」
私は笑っている。絵を描くことは苦手だけど、人の顔を描くことはもっと苦手だけど、それでも何だか楽しくなってきたし下手でも何でもいいから早く描きたくなってきた。
クライマーズハイとかランナーズハイとかこんな感じなのかな? 私はこれから絵を描くところだというのに、もうそれが来ているのかな。このハイな気持ちが完成まで続いてくれればいいんだけど。無理しない程度に頑張ろう。
まず誰を最初に描こう。記念すべき一人目だ。誰でもいいんだけど、何だか一人目というのは特別な感じがする。みんな特別なんだけどね、何で僕が一人目じゃないんだよと言われても困ってしまう。まあでも一人目はもう決まってるよ。
私は友妃奈ちゃんをじーっと見た。目がくりっとしてて、柔らかそうなほっぺたで、背が低くて、綺麗な髪の毛で、見た目ではとても病を患ってるとは思えない。それは友妃奈ちゃんだけじゃなくて、他の子どもたちにも当てはまる。みんな何かしらの病を患ってるけどニコニコ笑っている。辛い時こそ笑顔だよと私が言ったからなのかな。
画用紙の真ん中あたりに友妃奈ちゃんのくりっとした目を描いていく。下手でもいい、似てなくてもいい、気持ちが大事なんだ。心がこもっていたらいいんだ。きっと相手に伝わるから、言葉に出さなくてもメッセージは受け取ってくれるから。
口や鼻、輪郭や髪の毛、目や眉毛、画用紙の真ん中を陣取った友妃奈ちゃんは笑っている。私は笑顔が好きだ、だからここには笑顔をいっぱい描こう。画用紙の友妃奈ちゃんと、そこにいる本当の友妃奈ちゃんとを見比べる。上手い出来とは言えないけれど、この絵は友妃奈ちゃんだとわかるからとりあえずホッとした。さて次は誰にしようかな。
「あー! 友妃奈ちゃんだ!」
「ほんとだ。真ん中に友妃奈がいるー」
「ねえねえ陽菜お姉ちゃん。なんで私が最初じゃないの? 私がよかったよう」
「んーでも上手くはないよね。まあ絵が下手なわりにはよくやったよ!」
子どもたちが再び私に注目してきた。画用紙を覗き込む子どもたち、皆に見られている画用紙の真ん中を陣取る友妃奈ちゃん、あっちで恥ずかしそうにしている本当の友妃奈ちゃん。私はおいでおいでと手招きした。
友妃奈ちゃんは首を横に降っている。可愛いなあもう! 私が男の子だったら、友妃奈ちゃんを彼女にしたいぐらいだよ。画用紙を手にとって、立ち上がって、友妃奈ちゃんのもとへと歩く。
「上手に描けなかったけど、友妃奈ちゃんだよ」
私だって恥ずかしい。本人に見せるのはやっぱり緊張する。絵が上手い人ならこんな緊張はないんだろうけど、私は絵が下手だから。でも心を込めて描いたよ、自分なりに頑張ったつもり。
友妃奈ちゃんは画用紙を手に取ると真ん中に陣取る自分の絵をじっと見た。そんなに見ないでよー! 何だか恥ずかしくなるじゃない! そして何を言われるのかとっても気になるじゃない。友妃奈ちゃんはいい子だから、きっと褒めてくれるに違いない。
画用紙から目線を上げて、私と目があった。ほっぺたは赤くて、ニコニコしていて、くりっくりの目に吸い込まれそうになる。友妃奈ちゃんは画用紙を床に置いて、急に私に飛びかかってきた。
「陽菜お姉ちゃん大好きー!」
「なに! どうしたの?」
「真ん中にいるからうれしいの」
「そりゃ真ん中だよ。友妃奈ちゃんは特別なんだから」
「友妃奈が特別?」
「そうだよー。友妃奈ちゃん大好き」
私は友妃奈ちゃんを抱きしめた。小さくて柔らかい友妃奈ちゃんはあたたかくて、もう二度と離したくないよと思えてくるぐらい可愛い。胸のなかで、どうしたの陽菜お姉ちゃんと困ってる声が聞こえる。
後ろからも色んな声が聞こえる。うわー大胆! 恥ずかしい、子どもはこういうの見ちゃいけないんだよね、それよりも早く絵を描かないとさーまだ画用紙はだいぶ白いよ、キャーキャーキャー! 陽菜お姉ちゃんえっちー!
もうこのまま友妃奈ちゃんを離さずにいようか。そうしたらここではない違う場所に行かなくてもいいのだから。陽菜お姉ちゃん甘えたさんだね、友妃奈より年上なのにね。胸のなかで声が聞こえるけど、その声は何だか余裕を感じる。
私だけが寂しがってるなんてわけはない。友妃奈ちゃんだってそうなんだ。それなのに私は何やってんだろう、突然抱きしめてさ。ていうか抱きしめてる場合ではない、絵を描かないといけないよ。まだ一人しか描いてないんだから。
次は誰にしようかな? と画用紙の友妃奈ちゃんに聞いてみる。友妃奈ちゃんはニコニコと笑っているけど、私のその質問には答えてくれない。うんそうだよね、自分で考えないとね。私は子どもたちを見る。
みんなそれぞれの画用紙に絵を描いている。その目は真剣で、無邪気な子どもの顔から少し大人の顔つきになったように見える。ちょっとしたことで子どもは成長する、大人が知らない間に難しい言葉を覚えたりマニアックな知識を増やしたり。私だってそうだ。
親にとったら、子どもは私が育てているんだよと言うだろう。でもね親が見ていないところで子どもは成長するんだよ。ちょっと見ない間に背が伸びるし、体重も増えるし、お兄さんになっていくしお姉さんになっていく。そうやって子どもは大人になっていく。
私もそのうち大人になる。大人のイメージは賢くて、強くて、怖くて、綺麗だしかっこいいし……それからなんだろう、私がなりたいのは優しい大人かな。誰にたいしても優しくて、困っている人がいたら助けないと気がすまなくて、そしてなによりこの世界が大好きで。
子どもの頃あんなことがあったな、そんな風に思い出に花を咲かせたいな。きっとその時は今日のことも思い出すだろう。子どもたちのこと、絵を描いたこと、私の笑顔で誰かを照らしていたこと。大人になっても私の笑顔が効き目あるといいな。今以上に強い効き目になってたらいいなあ。
さてと、そんな未来の話はこれぐらいにしておこう。今は目の前にある画用紙にみんなの笑顔を描くことに集中しよう。笑顔ってみんな違うからそこを上手に描くのが難しいよね、なんてプロフェッショナルみたいに偉そうになってみる。
それよりもさ、友妃奈ちゃんの横に誰を描こう。それが次の問題なのだ。一つの問題を無事にクリアすると、また次の問題が出てくる。この問題に正面から立ち向かわないとこの画用紙が笑顔で埋まらないということなのか。
……ん? 私は今なんて言ったのかな。この画用紙が笑顔で埋めるとかそんなこと言ったよね。ここにいる子どもたちを描けばいいやと思ってたけど、全員描いてもまだ余白はたっぷりありそうだ。友妃奈ちゃんをもっと大きく描けば良かったよ。何でこんな小さく描いたんだろう。
「逃げ出したいー!」
私は床に寝転んだ。絵が苦手な私にとっては、この絵の完成までの道のりが遠すぎるから。何人の笑顔を描いたら余白がなくなるんだろうと想像すると頭が痛くなりそうだ。笑顔を描くのは良いことだけど、みんなのそれぞれの笑顔をちゃんと描けるのかどうか。
もうサボってるー、年上なんだからもっとしっかりしてほしいですね、ゆっくり描けばいいから頑張ってね陽菜お姉ちゃん、もうすぐ完成だー! お父さんとお母さんに見てもらうぞ! 子どもたちの声が聞こえてくる。
そうだよねえ、頑張らないとねえ、苦手なものを乗り越えたらきっとその先には何かがあるよね。がんばれ私、負けるな私、苦手だからって何後ろ向きになってるんだ私。前向きなことが私の長所じゃないか、とっても簡単なことだよねそれって。
「よーし、頑張るぞ!」
数日後、ロビーに絵が飾られた。絵を描くことは自由参加だったのでみんながみんな描いたわけじゃない。でも子どもは全員描いていた。画用紙には色んなものが描かれていた。それはお父さんとお母さんだったり、海だったり空だったり、元気になって走り回っている自分の姿だったり、お医者様になって世界中の人の命を救うという将来の夢だったり。
そこにはもちろん私の絵も飾られている。絵が苦手な私が頑張って描いた渾身の作品だ。完成した時物凄い疲れがきたからもうこんな大作は描きたくないけど、みんなから陽菜ちゃんの作品とってもいいねと言われるから嬉しい。
タイトルは笑顔。そこにはこの病院にいる人達の笑顔がたくさんある。辛いことのほうが多い病院だけど、こうやって笑顔でいれたらそれも少しはマシになるはずだ。体の痛みがなくなったよ、退院おめでとう、陽菜お姉ちゃんのこと忘れないからね、治って良かったよ本当に良かった――――。
そんな声が聞こえてきそうだ。だから笑顔なんだ。そう思うとこの絵を描いて良かったなと笑顔になる。この絵のように、みんなが笑顔になりますように。私は手を合わせて祈った。