smile21「お母さんとの約束」
目が覚めた。ミンミンミン、という蝉の鳴き声が聞こえるから、ひょっとしたらこれで目が覚めたのかも。
時計を確認すると、起床時間まではまだ一時間以上ある。それなら二度寝しようかなと思うけど、誰かに無理矢理起こされるのは嫌だから、もう起きておくことにする。早起きは何とかって言うからね。
靴をはいて、カーテンを少し開けて外を見る。まだ暗いような、もう明るくなってきたような、その中間って感じかな。今日も朝が来たわけだ。朝が来て、目を覚ましたら、今日も一日頑張るぞうと気合いを入れたくなる。
しかし早起きをしたら、色々余計なことも考えてしまう。起床時間前後に起きたら、アラームに起こされたら、色々考える暇なんてないんだけどね。起床時間まで一時間以上もあると、早起きをしゃうと、やることもないし暇だならね。とりあえず顔を洗おうかな。それぐらいはしておこう。
私は洗面所へと向かう。鏡に映った私はいつもと変わらなくて、目が覚めたら突然男の子の姿になってるとか綺麗な大人の女性になってるとか、そんな漫画のような出来事は何も起こらない。まだまだ子どもで、背伸びをしても大人にはまだ届かない私がいるだけだ。
蛇口をひねって水を出す。流れてくる水に手をつける。何か生ぬるいような気がする。毎日暑いから水がぬるくなってるのかしら。水がぬるいと、プールとか海水浴とかも冷たくないのかなぁ。それは嫌だよね、涼みに行ってるのに。
手に水を集める。手の中が湖のようになった。いやそんなに深くはないか、池と言ったほうが正しいかな。いやいや池でも深いかな? それなら水溜まりになるぞ。手の中に広がる水溜まりってどうなの! しっくりくる表現が思い付かない。
そんなことはどうでもいいよ顔を洗おう。私は水で顔を洗う。生ぬるい、けどサッパリしたような気がする。起きたぞって、もういつ起こしに来ても大丈夫だよって、誰かに大きな声で自慢したい。そんなことを自慢しても誰も羨ましいとは思わないけど、そんなことでも自慢したくなるのは早く起きたせいかな。
そういえば昔、まだ私が小さい頃。お母さんと一緒に眠ってた時に早起きをしたことがあって、まるで時が止まっているかのように感じたことがあったな。電気が点いていなくて真っ暗で、外も暗くて、時計の音が聞こえるだけの静けさで、お母さんは目を閉じていてまるで死んでいるみたいで。それで怖くなって、気付いたら涙が出ていて、気付いたらお母さんお母さんと叫んでいて。
私の声に気付いて起きてくれたお母さんは、眠気まなこで優しく抱きしめてくれて、頭をなでてくれた。良かったお母さん生きてた! 良かった良かった! と安心して涙は増えて、何勝手に殺してんのよとお母さんは笑っていた。だってお母さん動かないし、目を閉じているから、死んじゃったのかと思って、と震えながら耳元で叫んだ。
私はご覧の通り生きているわよ。だから耳元でそんな大声を出さないで。鼓膜が潰れてひなちゃんの声が聞こえなくなったらどうするのよ、と小さい私には脅迫のように聞こえた。私が泣くからお母さんの耳が聞こえなくなるの! とそこで私は静かに泣くことにした。よしよし、とお母さんは背中を優しく撫でてくれたっけ。
頭を撫でられる、優しく抱きしめられる、背中を撫でられる。そのどれもがお母さんの愛でいっぱいで私を包む。私はとても大切にされてるんだな、何だか嬉しくなってきた。鏡に映る私が笑ってるよ。思いでの中のお母さんで笑顔になるなんて、私は相当なマザコンかもしれない。別にいいもん、何も恥ずかしいことじゃないもーん。
私は笑っている。大好きなお母さんのことを思い出して、お母さんに愛されていることを実感して。ついでにお父さんも好きだけどね。お父さんにもじゅうぶん愛されてるけど、娘への愛が強すぎるから落ち着いてほしい。父親にとって娘は特別なものだとはわかるけどさ。
この頃だっけ、あの約束ができたのは。この出来事から私は夜が怖くて怖くてしょうがなくなって、それで夜になると泣いて叫んで、その声で回りの人に迷惑をかけていたな。赤ちゃんだったら泣いてもしょうがないなぁと思えるけど、小さな私だったけどもう赤ちゃんではなかったし、しょうがないなぁでは済まない。
ある日、夕方ごろに、その日のお母さんはいつもと何かが違った。着替えや化粧品やら何やらを大きな鞄に詰め込み始めていて、私は何かを感じ取ったけどただ静かにそれを見ていて、窓の向こうに見える夕日がやけに眩しかったのを覚えている。お母さんはその間、何一言話さずに、たな鞄に色んなものを詰め込んでいた。
私はこの時泣きそうだった。ていうかもう泣いていたかもしれない。目が潤んでいて視界がボヤけていたから。お母さんがこっちを見て、私と目があって一瞬動きが止まったけれど、何事も無かったかのように手を伸ばして、私の横に置いてあったものを手に取った。鞄のファスナーを閉める音、携帯を開いた音、タンスの引き出しを上から順番に開いていく音、ススッという音が順番に聞こえた。
もう私はわかっていた。このあとどうなるのかわかっていた。小さいながらも、そのことはわかっていた。いつもの夕方ではない、今日は何かある、でもそれをどうすることも私にはできない。手をぎゅっと握ってその時を待っていた。お母さんがもう一度私と目を合わせた時、その時私は────。
「ひなちゃん。私と約束しようか」
「……やくそく?」
「うん、約束。難しいことじゃないよ、慣れれば簡単だからね」
「……や、やくそくって……なに?」
「もーそんな顔しないの。まだ何も言ってないのに」
「だって……だって……」
「大丈夫だから。私はひなちゃんのお母さんなんだよ? ひなちゃんを置いて、どこにも行かないから」
「……うん……でも……」
「怖いのはわかるけど、いつまでもこのままじゃひなちゃんが成長しないよ。だからね、これはひなちゃんのためなんだよ」
「……わ、わたしの?」
「泣き虫ひなちゃんって言われたくないでしょ。だから約束しましょう」
「やくそく……」
「今日からひなちゃんは一人で眠ります。隣に私はいません、私はお家に帰ります」
「……」
「夜が怖くなっても私はいません。だからひなちゃん一人で、夜と戦わなくてはなりません」
「……」
「でも大丈夫。怖いのは最初だけ、そのうち慣れてくるから。それに私はいつでもひなちゃんの側にいるから」
「……これ、なに?」
「これはね、ミサンガっていうの。お守りなんだよ。ひなちゃんが夜、何も怖がることなく一人で眠れますようにっていう願いが、強く強く込められているのよ」
「……」
「そんな顔しないのー。怖くない、怖くない、だから震えなくていいよ」
「……こわいよう」
「お守りがあるから大丈夫だよ。ほら手を前にこうやって出して」
「……」
「あれ、お守りいらないのかな? ひなちゃんはお守りがなくても一人で眠れる強い子だったのかな」
「いやー! いるー!」
私はこの時怖くて不安でいっぱいだったけど、手首に巻かれたミサンガがとても心強くて、一人でも眠れるんじゃないのかと思い始めてきた。だから次第に手の震えはおさまってきた。お母さんの笑顔が力を注入してくれているような感じがした。
それでもやっぱり怖くて不安なのは消せない。だからお母さんの胸に飛び込んだ。お母さんはよしよしと私の頭を優しく撫でてくれた。あたたかい、良い香り、落ち着く。私の中に残る、少しの怖さと不安を、こうやって追い払っている。あっちに飛んでいけ! 私は一人で眠るんだから!
お母さんに優しく包まれる。私はとてもとても大切にされている。私お母さんの子どもに生まれてきて嬉しいよ、お母さんも私が子どもで嬉しいかな? そんなことは聞いたことがないけれど、お母さんの答えはわかるよ。だって私はお母さんのことが好きだし、お母さんも私のことが好きだから。ついでにお父さんもね。
なんか思い出してたらここが熱くなってきた。この柔らかいものの奥にある大切なものが。ここに悪いかな、それなら思い出すのはやめたほうがいいけど。でも思い出して良かったよ、改めてお母さんのことが好きになれるし。いつも感謝してるし、好きだけど、昔のことを思い出してもっともっと好きになりそう。母は偉大だなぁ。
「ひなちゃんは強い子だよ。もう泣き虫ひなちゃんじゃないよね!」
「うん、ひながんばる!」
「偉いぞーひなちゃん。じゃあ改めて約束しようか」
「うん」
小指と小指を交差させて、指切りげんまんをした。あのお馴染みの歌を二人で歌った。もうこの時には何の怖さも何の不安も無かった。むしろお母さんに泣き顔なんて見せれるかと、涙のあとを隠すかのようにとびきりの笑顔を見せた。お母さんも笑っていた。
「じゃあ私はそろそろ行くね。また明日来るけど、夜は隣にいないよ」
「うん」
「いい笑顔だね。それならもう心配はいらないね」
「ねえねえお母さん」
「ん?」
「気をつけて帰ってね!」
「うん、ありがとう。眠る前はちゃんと歯磨きしてね、それからトイレも忘れずに」
「うん!」
「また明日ね、ひなちゃん」
お母さんは笑顔で手をふって、そしてドアを閉めた。ススッという音も聞こえた。一人残された私は、暫くその場を動けないでいた。手にも足にも、お腹も歯も、全身に力を入れて夜に挑もうとしていたのかもしれない。窓の外は少し暗くなってきてたから。
チクタクという時計の音がやけにうるさく響き渡る部屋。全身に力を入れていて突っ立っている私。お母さんがいない夜はすぐそこ。そうして時間が過ぎていって、看護師さんが部屋に来るまで私はその状態だった。気付いたらひなちゃんひなちゃん、と看護師さんに声をかけられていた。
力を入れすぎて、集中しすぎて、心がどこか違う世界に飛んでたのかな。安心したらお腹が鳴って、しっかりと夜ご飯を食べて、そしたら眠くなってきて。あんなに怖かった夜だけど、睡魔には勝てなくて、初めての一人の夜はそうして終わった。
次の日からも別に夜が怖いとかはなくて、それはミサンガのおかげなのかなって思ったり思わなかったり。案外早く約束を守れたから、お母さんは次の約束を考えないとなーって腕を組んでいたな。お父さんが、偉いぞ偉いぞとご褒美におもちゃをいっぱい買ってきて、お母さんに睨まれていたっけ。
そして今も続く約束がある。それは私に会わないこと。なんでそんな約束が継続中かというと……ひなちゃんは他の子と違って世間をあまり知らない。だからそれを少しでも知るために自分で何でもすること。毎月のお小遣いをあげるからそれで好きなものを買いなさい、でも本だけは許してあげてとお父さんが言うから大目に見ます。ほしいものがあったらメールをください、私がかわりに買ってきてお金はお小遣いから出しなさい。
会わないといっても、二度と会わないというわけではありません。たまに会いに行きます。それなら約束の意味がなくなるけれど、大好きなひなちゃんに会えないのは結構寂しいのよ。会いたくて会いたくてしょうがないのよ。でもまあ私が作った約束だからね、何でこんな約束作ったのかしら?
その言葉を思い出して、お母さんの愛に包まれすぎている私はホントに幸せだなあと感じて、涙がこぼれたかもしれない。手の甲で拭うと冷たかった。なんだよ私泣いていたのか、泣き虫ひなちゃん再びじゃん。
ススッという音が出た。あれ、この音って。じゃああの時お母さんは……そっか、そうだったんだ。スマホを手にとって、タッチして、お母さんにメールを送る。大好きだよお母さん、とハートマーク付きで。




