smile15「川端くんちの事情 後編」
川端君のおばあちゃんは私の挨拶が聞こえていないのか、相変わらず黙々とポテトを食べていて無表情で、何だこれと何かが引っ掛かった。しかしその引っ掛かりは気のせいかなと思って、もう一度挨拶をしてみることにする。
「こんにちは! 川端君の友達のひなです」
私は笑っている。二回もソレを自分で言って何だかむなしくなる。いやそんなわけない、私は別に川端君のことを気にしてなんかいない。そんなんじゃない、川端君はそんな安っぽいものでもとても大事というわけでもなくて……もっと違うものだ。
それよりおばあちゃん。私の挨拶がまるで届いていないのか、やっぱり黙々とポテトを食べている。無視をしているってわけではないと思う。だって川端君のおばあちゃんとは初めて会うし、だから無視される理由もないわけだし。
無視ではなかったら何だろう。人見知りかな、それなら私の声が聞こえていないふりをしているってことになる。いくら聞こえていないふりをしていても、それはふりなだけで実はちゃんと聞こえてるからね。
それでもないとしたら、川端君のおばあちゃんの心はここにはいない? それは考えたくないけど。引っ掛かりはこれかな、だとしたらあんまり踏み込むのはよくないのかな。
他所様には他所様の事情がある。それは私にも、川端君にも、早苗さんにも。人の数だけある、家庭の数だけある、みんなみんなそれがある。踏み込んだところで私なんかが解決できるのかって問題もある。
でもさっきの川端君の表情を見たら、そんなこと気にしてられない。何かあったから悲しい顔をしていたんだ。嬉しかったり楽しかったりであんな顔にはならない。私は川端君の力になりたい、少しでも力になれたら川端君が背負ってる重荷がちょっとは減るかもしれないから。
「がんばれ」
思わず声が出た。反射的に回りを確認した。別に私の声が聞こえた人なんて誰もいないようだ。川端君のおばあちゃんは相変わらずだし、川端君はまだ戻ってこないし、私は何を気にしているんだろう。何だか急に恥ずかしくなった。
川端君はせっかくできた私のともだ……大切な人だ。だから大切にしないと。親には言いにくいこと、先生や看護士さんなどの大人に言いにくいこと、そんなことを私に話してくれて少しでも楽になれたらいい。イライラやモヤモヤを自分の中に溜め込むのは、体にも心にも悪そうだから。
よしっ、今度は声に出さずに心の中で声に出す。私は気合いみたいなものを入れて、再び川端君のおばあちゃんを見た。白髪でほっそりしていて、花柄の服を着ていて虚ろな目をしている。そして手にはポテトを持って……あれ、ポテトがない。
私は席を立ち、ポテトカートンを確認した。そこには何もなくて、食べ終わったあとの少し寂しい雰囲気が漂っていた。しかし川端君のおばあちゃんは、さっきからの一連の動作を続けている。無表情で、一定のスピードでポテトを手にとって口に運んでモグモグと食べる。まるでポテトを食べるロボットみたいだ。
何か変だ、それは私にもわかる。そこにポテトがないのに、何もないのにあると思って食べている、今もポテトを食べ続けている。実はそこにはちゃんとポテトがあって、それが川端君のおばあちゃんにはしっかりと見えていて、私にはそれが見えないとかそんなんじゃない。
川端君のおばあちゃんの心はここにはいない。いやここにはいるんだけど、半分ぐらいどこか違うところにいる。この病院でそんな人を見かけたことが何回もある。私のおじいちゃんとおばあちゃんもこうなるのかなとか、お父さんとお母さんもこうなるのかなとか、考えたことがあった。
何故人がこうなるかはまだ解明されていないのかな。解明されていたらこうなる人はいないよね。いるってことはそういうことだよね。どんなに進化や発展をしても、人間というのはまだまだ謎が多いのかな。
「お待たせ! おばあちゃん見てくれてありがとう。はい、オレンジジュース」
「ありがとう。ちょっと待ってね、お金返すから」
そう言って私は、ズボンのポケットから小銭入れを取り出した。病院内での買い物にお札はいらない、小銭でじゅうぶんってことで親からこれを持たされている。本屋さんで本を何冊か買うと、千円を越すことがあるからその時は小銭だけで支払うのが少し面倒臭い。
「いいよお金は。親にお金貰ってるから」
「それはダメだよ。汗水垂らして頑張って働いて、それでお金もらってるんだから」
「いいんだよ。そのせいで家族をほったらかしにしてるんだから」
「……でも悪いよ」
「ひなちゃんが気にすることじゃないよ。でも気にしてくれてありがとう」
川端君はニッと笑った。そんな笑顔をされたら言い返せないじゃんか! 悲しいはずなのに、辛いはずなのに、重荷を背負ってるはずなのにそんな笑顔されたらさ。
ここでしつこく言ったら私が悪者みたいになるじゃないか。時と場合によっては悪者にならなくちゃいけない時はある。でもそれって今なのかな? んー今のような、今ではないような気がするぞ。
とりあえずせっかく買ってきてくれたんだ、飲んでいいよって言ってくれたんだ、おとなしくオレンジジュースをいただくことにしよう。ってことで今ではないことに決定した。そもそも私が悪者になることってあるのかしら。
「うん、美味しい」
「やっぱオレンジジュースだよね。大人ぶってコーヒーとか飲むと後悔するからさ」
「コーヒー飲まないの?」
「飲んだことあるけど、後悔したからさ。何で大人はこんな苦いもの好きなんだろって」
「ブラックで飲んだの? それは苦いよ。砂糖とかミルクとか入れたら甘くなるよ」
「えっそうなんだ! そんなものあるって知らなかった」
川端君は無邪気に笑っている。ホントに知らなかったのかな。病院暮らしが長い私でもそれぐらいは知ってるのにと言いたくなった。ていうか私じゃなくても誰でも知ってるような。まあいいや、ちょっと可愛いし。
「そっかー、だからみんな平気でガブガブ飲むんだ」
「ガブガブ飲むものではないよ」
「大人は仕事中に、コーヒー飲んでるイメージあるじゃん。だから朝から帰るまでずっと飲んでるのかなって」
「ずっとは飲んでないんじゃない? 飽きるしお腹たぷたぷになるよ」
「そうだよね、そうだとは思ってた。でもこの目で見たことないからわからないなー」
「大人になったらわかるんじゃないかな」
「大人かー。俺とひなちゃんが大人になるのってあと何年ぐらい?」
「五年ぐらい? でも義務教育は中学生で終わるから、それが終わったらもう子どもじゃないのかな」
「選挙権とか、お酒とかタバコは二十歳からだよね。あっでも選挙権は十八歳からになるらしいから、十八から大人なのか」
「少年法だと、十八歳と十九歳は成人と同じ刑罰を受けるからもう大人なのかな」
私はんーと考える。すると川端君もんーと考える。なんだこれ、何二人して真剣に考えてるんだろう。私たちがああでもないこうでもないと悩んだところで、私たちはまだ子どもだというのに。
大人にはそのうちなる。あと何年後かに。そう思うと大人って案外早くなれるのかと少し焦る。今は子どもだからって言えるけど、あと何年後かには大人だからと言われる。えっどうしよう、大人の私ってどうなってるのどうしてるの、大人になるまでにやらないといけないことって何なの!
大人の常識とか、大人の品格とか、あとは何だろうなぁ……とりあえず今の状態では大人になった時に困るということはわかる。私は世間を知らなすぎる、外の世界を知らなすぎる。これって結構ヤバいことなのかもしれない。ここが、この柔らかいものの奥にある大切なものが治って外の世界に出たときに困る。
その時に備えておかないと。予習とか復習とか、頭に入れておけば慌てずに済むと思うからね。そのことはお父さんとかお母さんに聞こう、早苗さんや川端君にも聞こう、外のことを知っている人に聞こう。大丈夫だよ、今からでも遅くはないよ、焦らなくてもいいよ時間はあるよ。
そうやって自分を落ち着かせる。落ち着いていないとちゃんと考えられない。動揺しながら考えた答えは本当に合っているのかわからない。落ち着いて考えた答えが本当に合っているのかもわからないんだけど、どうせ間違ってるならこっちのほうが納得できる。
「んーお馴染みの味だね。やっぱり何回も食べると飽きる」
川端君は定番のバーガーを食べている。おばあちゃんがポテトを食べている姿を見て、お腹がすいたのかな。
「そんなに食べてるの?」
「毎日ってわけじゃないけど、親が殆ど家にいないからコンビニ弁当とかバーガーとかを買ってる」
「そっか」
「うん、でも全然寂しくないから。俺んちはこうだからしょうがないかなって」
「おばあちゃんがいてた時は?」
「作ってくれたよ。友達が見たらこんな地味なものよく食べれるなと言われそうだけど、俺はおばあちゃんの料理好きだから」
「美味しいんだね。私も食べたいなー」
「それはもう無理だよ。それぐらい俺でもわかる」
「何でそんなこと言うの? 治療したら治るよ」
「気遣いは嬉しいよ。でも治らないものは治らない。さっき見ててくれたからわかるでしょ?」
川端君は悲しい表情をしている。明るい顔は今そこにはない。
「ひなちゃんは病院長いからわかってるはず。おばあちゃんみたいな人を何人も見たことあるよね? それで治ったって人はいるの」
「それは……」
「別に怒ってるわけじゃないよ、そう聞こえてたらごめん。俺はただ受け入れたいだけなんだよ、そうしないと悲しいだけだから」
「……」
「だからって希望を捨ててるわけでもない。でもそれはほんの少しだけ。もう前みたいなおばあちゃんはいない、現実を見ないとさ」
夏の制服が少し濡れている。おばあちゃんのことを思って熱くなったのかな。その気持ちはわかる。私のことを思ってくれる人がいるから。
川端君のおばあちゃんを見た。相変わらずポテトを食べ続けている。もうポテトはないとうのに、一つ手にとってそれを口に運んでモグモグと噛んでいる。美味しいとか、お腹いっぱいとか、そんな表情も声もなくてただ無表情で。
元気だったおばあちゃんはどんな人だったのかな。いつか聞きたいな、今は無理かもしれないけど。そのしわしわの手は今まで生きてきた証だから。生きるよこれからも、長生きしてほしいよ。
横から声が聞こえた。でも私は横を向くことはなくて、おばあちゃんを見ている。姿勢よく座っているおばあちゃんは、モグモグしている。そんなに食べたらお腹いっぱいになるよ、そんなにポテト美味しいのかな好きなのかな。
横から手がスッと出てきた。この真っ白な手は川端君だ。日焼けしてないんだね、夏場だとプールの授業とかありそうなんだけど。そういえば川端君って部活は何してるんだろう。聞いてなかった気がするぞ。
真っ白な手と、しわしわの手が重なった。真っ白な手がしわしわの手を優しく包み込む。するとおばあちゃんはモグモグを止めて、ピタッと静止した。瞬きもしたくて、手も鼻も動かない。
「もういいんだよ、おばあちゃん」
声が震えている。顔は見てないないけど、きっと川端君は見られたくないはずだ。今度は見なかったよ、これぐらいの気遣いはさせてください。
私は二人の邪魔にならないようにそっと席を立つ。オレンジジュースを持って。そのまま二人を見ないまま歩いていく。後ろから、また会ってねという声が聞こえた。