smile11「あの先生」
このまえ早苗さんが言っていた、最近来た先生の評判が私の耳にも入ってきた。
あの先生に任せると命が縮む、あの先生は本当に医師免許持ってるのかあやしいもんだ、あの先生は患者のことを何も考えていない、あの先生は遅かれ早かれそのうち辞めるだろう、あの先生に聞いてみたいよ何で医者になったのかって。
なんとなくそうだろうなと予想はしてたけど、まさかここまでとはね。このまえの早苗さんのイライラもわかる。評判は悪いものしか聞かなくて、良いことを言う人なんて一人もいない。おせじでも言わないとは相当だ。
私はその先生に会ってみたくて、こうして散歩をしてるわけだ。普段あんまり行かないようなところも、お馴染みのところも、散歩のふりをして先生を捜している。
しかしなかなか見付けることができない。もう一週間もこうして捜して……いや散歩をしているのに、その姿は一度も見たことがない。休んでいるのかなと独自のルートで調べてみたら、ちゃんと病院には来ているようだ。なら何故こんなにも見付けることができないの。
このままじゃ全然散歩に集中できないじゃない! 運動不足を解消したいのに、集中が続かないとそれもできない。どうしてくれるのよ。と八つ当たりしてみる。たまには私だって悪になる。
あんなに色んな人が被害報告してたのに、この一週間はそれも聞かなくなったのは先生を見付けられないことと何か関係があるのかしら。私の前に現れてくれないだけじゃなくて、皆の前にも現れないとか何かあったのかな。
やっぱりあれかな、お父さんのいる所にお邪魔してるのかな。そこは私なんて行けないし、他の患者さんも行けないし、一部の先生や看護師さんしか行けない所だから。早苗さんはそこに行けるのかな。今度聞いてみよう。
……って何だか私は野次馬みたい。そうじゃないんだよう、私はただお話がしたいだけなんだよ。話題の人だから気になるから、結局は面白可笑しく楽しみたい人と何も変わらないのかもしれないけど。
一週間姿を消している先生のことを、皆はホッとした顔で言いたい放題だ。あの先生が来なくて安心だよ、もう辞めたのかねえこれだから最近の若いやつはダメなんだ、あの先生が酷すぎたから他の先生がだいぶマシに見えるよ、ところであの先生のことをお父さんはどう思っているのかな。
お父さんとはこの病院の院長先生のことだ。一週間姿を消している先生はその息子。だからどうしても注目されるし、期待するし、プレッシャーがある。それが大きすぎて、先生を苦しめているのかもしれない。
だとしたらかわいそうだ。偉そうな態度はダメだけど、院長先生であるお父さんの息子というその立場から逃れることができなくて、そのことが重荷になっているのだとしたら今先生の心は壊れる寸前かもしれない。だから姿を消しているのかな。
とにかく早く見つけないと。私がでしゃばらなくてもいいんだけど、どんな先生なのかこの目で見たいから。皆の話では酷いことを言われてるけど、実際はそうじゃないのかもしれないから。本当はとてもいい人で、真面目で優しくて、仕事にたいして熱心な人かもしれないから。
そう期待しつつ、その反対も考えておきつつ、私は角を曲がった。もうここらへんはさっきも歩いたけど、ひょっとしたらまだ探していない所があったりしてと思うから。さっきは鍵がかかって入れなかった部屋も、時間がたてば鍵が開いてる場合だってある。
ここら辺にもそんなドアがあったよね。開いてないとは思うけど一応見ておこう。と私はその鍵がかかっていたドアへと歩く。
外からは蝉の声が聞こえてくる。もう季節は夏なのだ。この前まで梅雨だった気がするけど、時間というものは自分が思っているよりも早いものなのだろうか。変化がない毎日だと時間の流れが早く感じると、何かの本で読んだことが有るような無いような。
子どもの頃は新鮮な経験がとにかく多い。次から次へとやってきて、それを受け止めることで精一杯なのだ。だから一日でも長く感じるし、一週間なんてもっと早く感じるし、一ヶ月なんてもっともっと。一年なんてとにかく長い。
私も子どもなんだけど! と心の中で大声を出す。でもやっぱり元気な子と違って、新鮮な経験というものが圧倒的に少ないから時間の流れも早く感じるのかな。新鮮なものが何もないから、私が人間として成長するための経験が何もないから。そんなことはないと言いたいけど。
皆が当たり前のようにしている事を私はしていない。それってやっぱり新鮮なものがないってことかな。それでも私は毎日楽しいし、辛いことだってあるけど笑ってるし、背も高くなったし鏡に映る自分の姿を見たらお姉さんになってきたと思うよ。
気にしない気にしない、世界中の人がみんな同じような毎日を送ることはできない。一人一人それぞれに与えられた毎日を過ごすんだ。それが幸せなのかそうじゃないのか、それはよくわからないけど私は幸せだと言いたい。ここがこうして動いているから幸せだと。
「あれ?」
ドアが開いていた。さっき見たときはドアはしっかりと閉まっていて、鍵もかかっていたというのに。しかし今はしっかりと開いていて、鍵もかかっていない。部屋の中は明るくて光が廊下に漏れている。
部屋の中に先生いるかな? そうだとしたらやっと見つけることができるから嬉しい。そして聞きたいことを聞きたい。何だかそれは容疑者を取材するマスコミみたいな感じだけど、私のはそうじゃなくてただ単純にお話がしたいだけなの。
少しだけ開いているドアから部屋の中を見てみる。するとそこには大量の本と、大量の空のお弁当箱と、大量の空のペットボトルがあった。先生はこの部屋で生活でもしているのかな、ここならあんまり目立たないだろうし。
誰かに見つかったらああだこうだ言われるから、この部屋に隠れているということなのかな? その原因を作ったのは先生本人なんですけどー。先生が皆から嫌われるようなことをするから、居場所がなくなったんじゃないですかー!
わざわざ嫌われるようなことをする意味がわからない。嫌われて良いことなんてあるのかな? 私には思いつかないけど、有るとするのならそのために先生は嫌われ者になったのかな。変なの、お医者様には変な人が多いけどさ。
賢すぎると変になってしまうのかな。一般人には思い付かないような、考えもしないような、そんなことを賢い人は簡単に閃くしより良くするような方法も見つけるし。頭の中がどうなっているのかなんて見たことがないからわからないけど、ありとあらゆる知識がぎゅうぎゅうに詰まっているのだろう。
でも変になってしまう人は、頭の中にはおさまらなくて少しずつ流れ出ているのかもしれない。だから何かが欠けてしまって変になる。知識を詰め込みすぎた代償ということなのかな。まあそれは私の考えでしかないけどね。
先生は部屋のなかにはいないようだ。まだ病院に来ていないのかな、それとも食べ物や飲み物を買いにいってるのかな。ここで待っていたらそのうち先生に会うことはできるよね。じゃあ待っていようかしら。
いつ先生が来るかわからないのに? そうなんだよね、それが問題なのよね。何時頃に来るからその時間に来てくれよな、とメモを残してくれていたら良かったんだけど……残念ながらそのようなメモはどこにも見当たらない。だから何時頃に来るのかもわからない。
でもなーここまで来て引き返すのはなー。せっかくだから会ってみたい、お話ししたい、どうして嫌われるようなことをしてるのかも知りたいし。それならここで待つしかない、張り込むしかない! 何だかますます容疑者を取材するマスコミみたいになってきたけど。
私は壁に背中を付けて座った。床はひんやりとしていて気持ちいい。外は暑いからこのひんやりが心地よくて、一度この良さを知ったらなかなかやめられなくなる。これはこたつと同じだ。こたつはあたたかくて一度体を包まれたらなかなか出られない。
廊下は静かで、蝉の声がいつもより騒がしく聞こえてくる。この声は命の声。子どもを残すための、次に繋げるバトンのような、だからこそ力強くて騒がしい。私はそんなこと考えられない。子どもとか、次に繋げるとか、そんなことは。
子どもが子どもを生んだというニュースがあった。初めこのことを知ったときはおかしな話だと思った。子どもが何故子どもを生めるのか、子どもから生まれたその子は子どもなのかと、子どものお母さんは子どもだということを。あまりにもおかしくて私の頭までおかしくなりそうだった。
早苗さんや他の看護師さん、先生やお父さんとお母さん。その他の大人。とにかく色んな人の意見を聞きたくて、私はメモ帳を持って病院を歩き回った。実に様々な意見があって面白かったし勉強にもなった。しかし正解というものは無かった。
何が正解なのか。それは人それぞれだと誰かが言っていた。子どもが子どもを生むのはよくないけど、生まれてきた子には何の罪もないからしっかりと生きてほしい。世間様から色んな視線を浴びせられるかもしれないけど、そんなことには負けずに一生懸命生きてほしい。
ミンミンミンと蝉の声が聞こえてくる。いつもより騒がしく聞こえてくるのは気のせいかな。この世界の生きとし生けるものは皆この時この瞬間を生きている。私だってそうだ、この柔らかいものの奥にある大切なものが弱いけど生きている。
私は思わず胸に手を当てた。自然に目を閉じていた。こうやって私を感じる、手から伝わってくるこの鼓動を確かめる。ドキドキと私の大切なものは動いている。ありがとうね、いつもいつも休みなく動いてくれて。
「き、きみ! だ……大丈夫なのか!」
「えっ?」
突然声が聞こえたからびっくりした。私は声のほうへと顔を向けた。するとそこにはツンツン頭の男の人がいた。白衣を着ているから先生なのかな。先生には見えないけれど。
「はい、大丈夫です。ちょっとここに手を当てていただけです」
「それは良かった、安心した。君が大丈夫だと言うのなら大丈夫なんだろう」
「すみませんでした、心配かけて」
「いやいいよ。ここは病院だからね、そんなことは常日頃あるだろうし。まあ俺には関係ないけどさ」
「関係ない?」
「知らないのか俺のこと。君は見たところここに入院してるよね?」
「はい、もうずっと。ここが弱いので」
「ずっと……そこが弱い……ああ、君はあの子か。へー本当にいたんだね」
何かその言い方引っかかるけど気にしないでおこう。ツンツン頭は私を珍しそうに見てくる。
「で俺に何か用なの?」
「いや、その……」
「用はないのか。なら早く自分の部屋でゆっくりするといいよ、俺は忙しいからさ」
じゃあねと笑顔で言われて、頭を撫でられた。そしてそこの部屋へと入っていった。このツンツン頭があの先生だったのか! こんなところに来るって時点で気づくべきだった。気づいていたら聞きたかったことを聞けたかもしれないのに。
私は笑っている。とりあえず会うことができたからいいよね。一応ミッションコンプリートだよね? 自分の部屋でゆっくりしよう。蝉の声を聞きながら読書でもしようかな。