そして灰へと
秀吉は、生まれたときから世の中というものの底辺にいた。
澱んだ河の底の底、どろどろした川砂だとか汚泥だとかそんなものどもが積もり積もってなだらかな隆起をつくったような、唾棄すべき平穏の中に、生まれる前から行き先を決定されていた。
彼にはいまさら、生まれが貧しいとか卑しいとか言って哀れを請うつもりなどないが、それにしても、生まれるところを間違えたとは思っていた。貧しく生まれたなら生まれたなりに、汗水垂らして食い扶持を稼いで、日々かつかつの暮らしを送っていれば、きっとそれはそれでよかったのだ。昔から腕っ節は弱くて、ちびの痩せぎすで、見るからに貧相だった。それが、なにを間違ったか、身を立てようなどと思ってしまった。
多分、絵空事を絵空事で終わらせれば、秀吉はそれなりにしあわせだったのだろう。
だけれど、どうにも、性分というものだったに違いない。偉くなってたらふく飯を食って広い屋敷に住んで、そうしてもっと広い世界を見たいと、願うようになっていた。
掃いて捨てるような、塵にも等しい少年を拾ってくれる人間がいた。尾張から流れ流れて遠江で働いたが、やはり、どうにも性分とあわずに飛び出した。十八を数えるまで彷徨って、そうして今度は尾張に戻って清洲で働いた。主は若い男で、ひどくおそろしい存在だった。
見る人によっては、主は美しい青年だと言うだろう。そのとおり、秀吉も最初はきれいな顔だと思ったし、実際、織田信長の造形はひどく整っていた。けれど違うのだ。美青年だとか美丈夫だとか、そういうのは「人間」を言う言葉だ。いくら美しかろうと、どれほどきれいだろうと、信長という若い男はまるで人間には見えなかった。得体の知れない生き物だった。形のいい頭の中に何を考えているのか、輝くような双眸がなにを見ているのか、しゃんと笑む唇から何が吐き出されるか、誰にも、もちろん秀吉にも分からなかった。
『お前も、誰も、僕を理解しなくていい。お前たちすべての生き物のすべきことは、ただ僕に従うことだけだ』
人間が言ったならひどく寂しいそんな台詞を、信長は堂々と言い放った。異質だ、と秀吉は思った。人間の中で、人間を従えている信長は、まるで鳶の群れに君臨する鷹のようだった。似ているが、絶対的に違う。
それでも、信長は強い生き物だった。鷹が鳶より強く、狼が犬より強いように、信長は他の平々凡々の人間よりもずっと強かった。
『殿様は、鷹や狼みたいに強いですね』
一度、そんなことを言った覚えがある。主を畜生と並べるな、と怒られるかと思ったが、意外にも信長は面白そうに笑った。
『僕が鷹や狼ならば、お前は鼠だな。僕の活餌となるべく存在するのだ』
後になって考えてみると、それは信長としては褒め言葉のつもりだったのかもしれない。鼠ははしっこく、小さいくせに賢く、なによりしぶとい。そして「鼠は沈む船から逃げ出す」という言葉のとおり、機を見るに敏い生き物なのだ。だから、無礼極まりなくも主を畜生などに例えた小僧を、同じく畜生に例えて返したのだろう。鼠が鷹に食われてその血肉となるように、信長は秀吉を食って自らの糧とするつもりだったのだ。
そこに思い至ったとき、反射的に思った。
――食われてたまるか。おれは諾々と食われるだけの肉になったつもりはない。窮鼠は猫を噛む。鼠にだって牙はあるのだ。
秀吉が己の持つ牙を意識しだしたのはそのときで、信長に対して鷹や狼みたいだなどと不用意な発言をするくらいには彼に対する理解が浅く、だからつまりは相当昔のことだった。
秀吉は、信長の率いる軍団の中に、ささいな役職を与えられた所から、猛進を開始した。
ひょろひょろの細腕で槍を抱えて、がりがりの痩躯はちょこまかと動き回った。動きの素早いことは、信長が喩えたとおり鼠のようだった。元々、病に縁は無かったが、体力とも無縁だった。ぜいぜいと喘ぎながら駆け回る秀吉を見て、信長は含み笑いを漏らした。
『随分貧相な有り様だな。鼠ほど毛並みが良くないから、お前は禿鼠だ』
同調して笑う声は多かった。そのほとんどは嘲笑だった。誰が見ても、秀吉は彼の許容量を遥かに越える行動を続けていた。知恵も腕っ節も足りない鼠が、無理と無茶を専売特許に走り回って、無残に衰弱していくだろう。秀吉は、嘲笑の主たちがそう思っているだろうと察していた。
無理も無茶も、時には無謀すら、秀吉は手札として使った。生き延びる確率は低くなるかもしれない。しかし、立身の確率は上がるのだ。秀吉は、とにかく偉くなりたかった。
『おれは、こんな所では終わらねえ』
もっと上へ、もっと高くへ、ひたすらに這い上がり続けた。
立身出世という際限の無い山登りの途中で、竹中重治という男を得た。
出会った当時は二十四と若く、血色の悪い繊弱そうな外見に反して血の気の多い青年だった。見た目の通りに武術はぱっとしなかったが、頭の働きの鋭さは群を抜いていた。
「おれに従ってくれませんか、竹中殿」
姉川の合戦の後、秀吉はそう尋ねた。
「そうせよというご命令ならば従います」
「違う、そうではないんです。命令の有る無しは関係なく、おれに従ってくれるかという意味です」
「ならば、木下殿からは何を頂けますか」
「何を?」
背の低い秀吉と並ぶと、重治はずいぶん大きく見えた。実際には、それほど長身と言うわけでもなかったが、ぴしりと伸びた背筋と悪寒のするような眼光とが、重治の痩躯を大きく見せていた。
重治は秀吉の反問に、小さく溜息を吐いて答えた。
「俺はただ働きはしません。禄でも何でも、何かしらを頂けなければ、従う気は毛頭ありませんよ」
「ああ、そういうことですか」
「何を頂けますか」
秀吉は、重治の問いに即答した。秀吉の考え付く限り、もっとも狡い答えだった。
「竹中殿が望むもので、おれが与えられるものならば、何でも、好きなだけ」
それを聞いた重治は、少し笑ったようだった。
「では、俺を信用してください」
「それだけですか?」
「俺はあまり信用されない性質ですから、それを頂ければ十分です」
重治が浮かべたのは、ひんやりとした笑みだった。お前にそれが与えられるか、と挑発するような表情でもあった。
秀吉は腹を決めた。
今まで、散々あざ笑われ、軽侮と嫌悪とを向けられてきた秀吉は、他人を信用することが無かった。三十一を数えるその時まで、古参の坪内長泰や蜂須賀正勝、弟の長秀、妻の於祢でさえも、秀吉にとって信用できる人物ではなかったのだ。
(誰かを信じて裏切られることほど、嫌なものはない)
秀吉は階級制社会の底辺から歩み始めた。身分の低い者にとっては、たとえ小さな裏切りであっても致命的な痛手になる。まして、当時の秀吉は破竹の出世を遂げている最中だった。嫉妬され、疎まれ、嫌われて当たり前の立場だった。
だが、それを理由にみすみす重治を捨ててしまうならば、秀吉は裏切りの恐怖を抑えなければならなかった。重治は秀吉が持っていない「智慧」を、おおいに抱えていた。喉から手が出るほど欲しい才能だった。
「分かった。おれは竹中殿を信じます」
言ってしまってから、震えが背を襲った。脇に嫌な汗が流れた。おれは今、戻れない選択をしたのだ、と秀吉は思った。
「ありがとうございます。では、今後俺のことは半兵衛とお呼びください。敬語も敬称も不要です」
「ああ、まあ、それは追い追いに。竹中殿はまだ殿様の直臣だから、おれが勝手に竹中殿を呼び捨てにしては怒られますよ」
「なるほど、俺を誘ったのは調略でしたか」
今度は、重治はおかしそうに笑った。単純馬鹿だと思っていた相手が意外な狡知を働かせたことを、小気味よく思う類の微笑だった。
こうして秀吉は「智慧」を得た。信じる者の無い安心感を犠牲に、得たものは大きかった。
やがて重治は信長の直臣から秀吉の与力となった。側近く置いた重治からは、それまで考えもしなかった様々のことを学んだ。
「人々の上に君臨し、統治する人間というのは、ひどく寂しいものです。統治者は、彼を取り巻く全ての環境と事変とに正しく対応せねばならず、彼に求められる全ての物事に完璧に応えねばなりません。欠点を見せてはなりません。己一人のために何かをしてはなりません。強大な力――権力や兵力と引き換えに、統治者は自身の自由と安息を失うのです」
「そんなに大変なのか、主ってのは」
「まあ、今のは理想形です。史上に名君と呼ばれる人々は多々あれど、完璧だった者は一人もいません。俺はただ、名君達の所業の良い所をまとめただけですよ」
「参ったな、おれは今の話を聞かねえほうがよかったかも知れん」
「身につまされますか」
「まあな。その理想形とやらで考えてみりゃあ、そこいらじゅう暗君だらけじゃねえか。……どことは言わねえけどよ」
難しい顔で腕を組んだ秀吉に、重治は微笑した。ふっと浮かべた笑みは、一見すると風にそよぐ柳のように儚げだったが、そんなものは仮面に過ぎないと秀吉は知っていた。重治は、穏やかに見える微笑の下に、どす黒い思念を持っていた。
「暗君は嫌いですか?」
「嫌いだね」
「では、いつまでそこに座っているおつもりですか?」
「…………」
重治はあまり表情を動かさない。底冷えのするような目で、ごく薄い笑みを貼り付けているだけだ。微笑みの能面は、秀吉を見据えて尋いた。
「忠誠や義理や情けは、貴方の柄ではないでしょう」
「答えさせるなよ、おれに」
「意志の有る無しを尋ねているだけですよ。暗君を倒す意志は、ありますか」
秀吉は重治の冷たい目を見返した。
「半兵衛、おれはな」
「なんでしょう」
「大志とか理想とか、そういうのは持ってねえんだ」
「…………」
「ただ上へ、おれはもっと偉くなりてえ。それだけ思って、生きて来てる」
「そうですか」
その時の重治が見せたのは、秀吉の思い違いでなければ、安堵の表情だったかもしれない。
ちらりと凶暴性を閃かせた鼠は、自嘲気味に唇を歪めた。
「今のやりとりは他言無用だぞ。おれも、お前も、殿様に忠実でなければならねえんだ」
「分かっています」
秀吉は、忘れろとは言わなかった。重治も、忘れるとは言わなかった。交わされた言葉は、彼らの記憶の中に保存された。
余人に知られてはならない秘密を共有できるほど、秀吉は重治を信用していた。あれほど恐れていた「信じる」ということが、いつの間にか出来るようになっていた。
長浜城が完成した年、秀吉は織田軍の人間を「敵」と「敵ではない者」とに区別した。
味方は考えなかった。おのれの身の内に取り込んだ者でなければ、秀吉は信じられないからだった。信じられない味方など、いないも同然である。考えるだけ無駄だ、と切り捨てたのは重治だった。
秀吉が明智光秀を立身出世の競争相手と見定めたのは、この頃からだった。かつて金ヶ崎からの帰途、決死の殿軍を務めたうちの一人である。撤退戦の指揮官は池田勝正。秀吉や光秀は勝正の采配の下、「生還」という最大目的のために結束して戦った。
秀吉の眼には、そのときの光秀の姿が焼き付いている。
ひょろりとした長身の光秀は、抜き身の刀身のような男だった。切れ上がった双眸は灯火にぎらぎらと照る刃に似ていた。なめらかな刃ではない。無秩序に牙を並べた鋸刃だ。攻撃的で、威嚇的で、野心という血脂に濡れていた。
「あの男は危ねえな」
「そうですね。しかし、誰彼構わず敵対しているわけではないでしょう。必要以上に刺激しなければ、さほど危険ではないと思います」
「なるほどな。じゃあ、明智殿にもおれの猿芸の観客になってもらおう」
光秀は個人の武芸という点では、さほど優れている男ではなかった。しかし殊の外うまく鉄砲を遣った。そして、一介の武将には余りあるほどの知識を持っていた。野心家であり、激情家でありながら、揺らぎのない鋼のように冷静であった。
秀吉にとって、そういう男は最も警戒すべき種類の人間だった。
「鼠が猫を噛むのは、窮した時だけだ。それまで、おれのことは道化と思っていてもらわねえと困る」
秀吉の「猿芸」は、人々の笑いを効果的に誘う手段だった。自ら道化を演じることは、秀吉にとって屈辱だったが、本心を隠す仮面としては最上のものだった。なにも本当に猿を操るわけではない。禿鼠に次いで信長がつけたあだ名が「猿」だったから、猿を真似てふざけた舞を舞ってみせたという、それだけのことだ。
「道化を演じさせれば、貴方ほど巧みな者はいないでしょうね」
「嬉しかねえけどなあ……」
「道化の演技こそ、最も難しいと思いますよ。周囲を見渡して、貴方より上手く人々を笑わせられる者がいないことが、その証拠です」
重治は薄く笑った。会心の笑みだ。秀吉は傍らの参謀の表情を見て、ひそかな満足を覚えた。
この男は、大きな野心を持っている。しかし、それは秀吉の邪魔をしない、むしろ秀吉にとって躍動力となる類の野心だった。
(お前の夢が叶ったとき、おれは頂点に立っているんだろう)
一度だけ、その夢を語ったときの重治の顔を秀吉は覚えている。淡々と、冷え冷えと、重治はむしろ嫌悪するかのようにおのれの野心を語った。
(俺の夢を叶えられるのは貴方だけです、か……どうりで、お前はおれに従ったわけだ。丁度よかったんだな)
覇を成す、と重治は言った。いつか人々の記憶に「竹中重治」の名を叩き込むことこそが、重治の痩躯を突き動かす原動力だった。
おれはどうだろう。秀吉は思った。
大志は無い。理想も無い。正義だの信念だのも無い。あるのはただ、「天辺」という目標地点だけだ。そこを目指す理由も、動機も、秀吉はもう覚えていなかった。
『ただ、上へ』
駆け上がることそのものが、秀吉の行動の理由であり目的だった。
ひとを信じられない性分は変わらなかった。後にも先にも、秀吉が信じたのは竹中重治ただ一人だった。
「半兵衛、おれは名字を変えるぞ」
「どう変えられます?」
「羽柴。丹羽殿と柴田殿から一字ずつ貰うんだ」
それを聞いた重治は、にやりと笑った。
「本当は、何を頂くのですか?」
「名を貰うのさ。木下なんてザラにある名前じゃあ、目立たねえし力不足だ。あの二人の名前なら目立つ。二人分まとめてくっつければ、もっと目立つ」
「目立つ、か。やる気ですね」
「おう。城を持ったからな。ここがおれの根城で、足掛かりだ。そろそろ手を広げてもいい頃合だろう」
秀吉は喉を鳴らして笑った。
窮鼠、猫を噛む。鼠が牙を研ぐのは、沈む船から逃げ出すその時が最大の窮地だと、本能的に知っているからだ。船は沈む、弱ければ猫に食われる。猫の喉笛を食い千切るその瞬間、鼠は初めて、一匹の獣となって野に立つのだ。
長浜を与えられてから、秀吉は多くの若者を登用してきた。まだ十分に育っていない彼らが、いずれ秀吉の牙となる。
「では、俺も手を広げますか。相手が人間なら、俺の得意分野です」
「頼むぞ。おれは今のうちに町をでかくするかな」
襲い来る猫を噛み千切る牙は、鋭いほど良い。近江で見出した若者たちも然り、城下を潤して得られる豊かな財源も然り、情報戦と調略に秀でた重治もまた然り。秀吉は、ひたすらおのれの保有する力を強くすることに心血を注いだ。
黒衣の異邦人が秀吉に接触してきたのは、天正五年、大和・信貴山に松永久秀を滅ぼしてすぐの頃だった。
「あの老いた者は、デウスを信じる我らを追い払いました。あなたは、我らの敵を滅ぼしてくれました。感謝のしるしに、あなたのために祈ってもいいですか?」
秀吉は、異邦人の喋る片言の話を真剣に聞いていたが、話題がそこに至ると口角を吊り上げた。
「もう一度いいかな。何をしてくれるって?」
「デウスの祝福があなたにあるように、祈ります」
異邦人は黒く長い衣服の袖を翻して、胸の前で妙な仕草をした。秀吉は片手を上げて遮り、にまにまと笑ったまま尋ねた。
「その『でうす』ってのは何だ? お前の上役か?」
「いいえ、いいえ! デウスとは我らの信じる神です。この世界に、神とはただデウスのみなのです」
「神、ねえ。その神様が、おれを祝ってくれるって?」
秀吉は満身の努力をもって、嘲笑を押さえ込んだ。この男は、これで勧誘しているつもりなのだろうか。
人間ですら、秀吉は信じられないのだ。神だかデウスだか知らないが、そんなよく分からないものなど、冗談のネタにもなりはしない。
しかし、異邦人の黒衣の袖元に輝く飾りは気になった。
「祝福とは、ただのお祝いではありません。デウスの……」
「ああ、ちょっと待った。その前に幾つか尋きてえんだ。お前が手首に提げてるそれは何なんだ?」
「これはクルスといいます。神の御子であり、救済者であるイエズスが架けられた磔の十字架を表します」
「飾りなのか?」
「いいえ、我らはクルスを信仰の対象としています。この十字がクルスで、これは全体でロザリオといいます。こうして手繰りながら祈るのです」
異邦人は器用にロザリオを手繰って見せた。
「ははあ、数珠みたいなもんか。細かい細工だなあ」
「故郷から持ってきたものです。我らはロザリオを常に持ち歩き、時間があればロザリオの祈りを唱えるのです」
「ちょっと見せてくれるか? ああ、取りゃしねえって。ほんのちょっとだけでいい」
手渡されたロザリオは、大小の珠がいくつも連なり、先にはクルスが付いていた。珠にもクルスにも、繊細な彫刻が施されていて、秀吉の興味を誘った。
今までに、秀吉はこれほどの細工を見たことがなかった。
(こいつは、噂に聞く伴天連って奴だよな。ってことは、このロザリオを作ったのは南蛮の国の人間か)
神でもデウスでもいいが、秀吉は宗教に興味は無かった。念仏や祈りが人を救うのなら、なぜ真摯に祈る人々は死んだのか。人は死んだらそこで終わりだ。救いがあるのならば、生きているうちでなければ意味が無い。そうならばつまり、救いなど無い。
目の当たりにしてきた惨劇は、宗教というものに対する畏敬のことごとくを、秀吉から削ぎ落としていた。
だが、と秀吉は思う。
(伴天連がこれだけの技術を持った国から来たっていうんなら、うまいことおだてりゃ使えるかもしれねえ)
神仏の類に興味は無い。けれど技術は別だった。
(長篠で武田を打ち負かしたのも技術の力だ。種子島は南蛮から来た新技術。南蛮にはああいう力がある)
秀吉は南蛮の技術力が欲しくなった。これこそ、窮鼠の牙にはもってこいだった。
異邦人が得々と語る異国の神の話を聞き流しながら、秀吉の脳裏には踏破の計画が少しずつ組み立てられていった。
「半兵衛、播磨へ出陣するぞ」
「閣下のご命令ですか」
「ああ。作戦の最終目標は毛利家の服属もしくは討滅、だとさ」
「一昨年でしたか、確か小寺とかいう人物が閣下に謁しに来ましたね。彼の手引きですか?」
秀吉は、二年前の天正三年、信長に謁見しに遥々やって来た小寺孝高を思い出した。一重の三白眼が抜け目無い印象を与える男だった。
「あの男一人じゃねえけどな、きっかけはそうだ。織田と毛利に挟まれて、だいぶ苦しいらしい」
孝高は小寺政職の家臣だった。長篠で武田勝頼を降した信長を鬼才と評価し、主君・政職や近隣の別所・赤松といった人々も説得して、信長に接近してきたのだ。
「小寺官兵衛孝高、こいつについて何か情報はあるか?」
「そうですね……小勢での奇襲が巧いようです。八年前に、池田殿が赤松・別所とともに姫路を攻めて失敗した時の、姫路城代が小寺官兵衛です。この時は池田殿らが三千に対し、城側は三百ほどだったと聞いています。去年にも、毛利方の浦という武将が水軍五千を率いて攻め込みましたが、五百の兵で退けたそうです」
「十倍の敵を押し返すか……そんな猛将には見えなかったけどなあ」
「俺と似た型の人間なのでしょうね。腕力より、悪知恵を働かせるほうが得意な男だと思います。事実、毛利と織田とで閣下を選んだのは、鋭いと言えるでしょう」
ただ、と重治は平坦な声で続けた。
「これは俺の勘にすぎませんが、小寺官兵衛……そう簡単に信用できる人間ではない。悪知恵を働かせる人間は、常に計算を忘れません」
その言葉が重治自身を卑下しているように聞こえて、秀吉は重治の言葉に付け加えた。
「そして計算したら、賭けるんだろ? お前がおれに賭けたように」
「…………」
「お前はおれに賭けて、おれはお前に賭けた。だからおれはお前を信じられる。官兵衛って奴がどれほどの男かは分からねえけど、奴がおれに賭けねえ限り、おれは信用なんて出来ねえさ」
重治は少しだけ俯いて、薄く微笑したようだった。
「そうですね。だから、俺も貴方を信じられる」
次に顔を上げたときには、重治はもういつもの冷ややかな表情に戻っていた。
「けれど、信じるなと言っているのではありませんよ。信用するに足る人間ならば信じ、そうでなければ利用すればいいのです」
「ああ、分かってるさ」
「どちらにせよ、今はまだ情報が少なすぎます。播磨入りは貴方の主導ですか?」
「そうだ。小寺官兵衛の知己ってことでな。まず小寺、そこから先は、辿れる伝手は全部使う」
にやりと口角をつり上げ、秀吉は重治に目配せをした。心得て重治が頷く。
「そうとなれば、俺の出番ですね。諜報は任せてください」
「ああ、頼りにしてるぞ」
秀吉も頷きを返した。
重治が様々な情報を集めて整理し、秀吉はそれを材料に作戦を立て、判断を下す。そういうやり方が、この頃にはしっくりと馴染んでいた。
天正五年に松永久秀を滅ぼしたのが十月の頃。それが落ち着く間も無く命じられた毛利攻めは、この年の内に播磨・但馬をほぼ平定する結果を挙げた。小寺孝高は秀吉に自らの居城・姫路城を提供し、ここが中国方面の作戦拠点となった。翌年三月、前年のうちに味方に引き入れていた別所長治が離反した。東播磨の諸勢力は長治に同調し、中播磨の三木や西播磨の宇野が長治を支援し、長治は三木城に篭城して毛利氏に援軍を要請した。その対応として、秀吉も方々に働きかけた。さらに七月、秀吉の背後・摂津国を担っていた荒木村重が信長に反旗を翻す。度重なる詰問や説得にも村重は応じず、ますます叛意を明確にした。織田に付いた孝高が村重の有岡城に赴いて説得を試みたときには、孝高を捕らえて土牢に閉じ込めるという事件もあった。秀吉の天正六年は裏切りに染まっていた。
(なんで、こういう時に限って――!)
秀吉の無言の苦鳴だった。
本当は分かっている。大事なときだからこそ、裏切るのだ。重要な時機を見計らって、力を持った者が裏切るからこそ、その行動を賞賛し報奨する人間がいる。それは「利害の計算」なのだ。
明けて天正七年は、三木城も有岡城も囲まれ、篭城戦や包囲戦というよりは根比べの戦だった。城を囲み、兵糧の入る道を断ち、城兵を餓えさせる作戦だった。積極的な合戦は減り、兵士の損失は少なくなったが膨大な時間が必要となった。
だが、三木城が限界に達するのを座して待つのは、得策ではない。まだ残っている兵糧の輸送路や、毛利からの支援の経路を完全に絶ってしまわなければ、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。
そこで秀吉が利用したのは、前年のうちに接触していた宇喜多直家だった。毛利方の武将の一人で、元は浦上という家の家臣だったという。それが主家と対立して、浦上は織田に、宇喜多は毛利に付いた、という話だった。
浦上は、既に力を失っている。他ならぬ直家が、浦上宗景を居城から追い落としたからだ。
(辿れる伝手は、全部使う)
秀吉は重治にそう言った。その言葉の通りに、秀吉は直家を利用した。密かに口説いたときの遣り取りが、ふと秀吉の脳裏に浮かび上がった。
『憎い相手は倒したんだろ? それに、毛利に従ってるのは、毛利が強いから。だけど織田も強いぞ。備前にいるお前は、織田と真っ向から遣り合うことになる。お前がどれだけ身を削っても、毛利はそれに報いてくれるか? おれはそうは思わねえな。毛利は別所を助けたか? 有岡の荒木はどうだ? お前も同じように、捨て駒にされるのがオチじゃねえのか?』
淡々と主張する秀吉に、直家は薄暗い微笑を浮かべていた。事はそう単純ではない。敢えて感情を抑えて話したのが秀吉の作戦なら、始めから終わりまでやわらかな笑みを装っていた直家も、肚の内を読ませないという策を選んでいた。誰そ彼の、宵闇に似た直家の微笑は、しかし、直家が肚の内を読まれては困る状況にあると語っていた。一歩間違えれば、先は無い。その大きな賭けに伸るか反るかの線上だった。
『浦上を追っ払うって目的は果たされた。だったら、毛利に付くも織田に付くも同じだろう。あとは、どっちに付けば自分が得か、それが判断基準になるはずだ』
そんな交渉の末、直家は病と称して居城に引き篭もった。そして翌七年の三月、とうとう直家は旗幟を鮮明にした。毛利方の城を落としたのだ。
「これで毛利は手を出せねえ。宇喜多が潰れねえ限りはな」
備前は秀吉に味方した。播磨の三木城は、毛利の支配領域から切り離された。毛利からの直接の支援は受けられない。
西は直家に任せ、秀吉は三木城を囲みながら、兵糧の輸送を援けている支城を一つずつ落としていった。
重治が倒れたのは、そんな泥沼の静寂に似た四月のことだった。
幾重にも展開した戦線は、どれも情報の獲得と操作が重要になる。頭脳戦を得意とする重治だったが、一人で全てに対応できるはずもない。頼りに出来そうだった孝高は、有岡城の牢の中にいる。城の攻囲から飢餓と士気の低下を待つ膠着状態へ移ってからは、ますます負担が増えた。元々のひ弱そうな痩躯はさらに痩せ細り、しばしばひどく咳き込んでは血の混じった痰を吐いた。
「半兵衛、京へ戻れ。こんな陣中より、京で落ち着いて休んだほうがいい」
秀吉はしきりにそう勧めた。しかし、重治は頷かなかった。
「俺の居場所はここです。今は、まだ戦況は動かない。けれど動いたなら、また俺の出番が回ってきます」
「だったら、それまでは療養しろ。お前、ろくに飯も食ってねえんだろ? ちゃんと栄養あるモン食って、しっかり休んで、ばっちり元気になってくれねえと、安心して戦も出来やしねえ」
「…………」
重治は目を細めて、答えなかった。秀吉は、三木に残ると言い張る重治を、ほとんど拝み倒すようにして京都に送り返した。
背筋からうなじの辺りに、ざわざわとした黒い靄が纏わりついた気がした。
「……死ぬなよ。おれには、まだお前が必要なんだ」
ひそりと呟いた言葉は、その予感を振り払うための確認のはずだった。
しかし六月、本陣を置いた平井山に重治が現れた。
「馬鹿野郎、なんで来た!」
秀吉は、骨と皮ばかりに細くなった重治の肩を掴んで怒鳴った。
「言ったでしょう、俺の居場所はここだと……自分の死期くらい、自分で分かります」
「こんな所まで出て来やがって、無理は禁物だと言っただろう!」
「屋敷の畳の上でなど、死ねるわけがない。俺は、まだ貴方に伝えるべき事があります」
かさかさに乾いた唇が、きつく引き結ばれた。秀吉を見上げる重治の目には冷たい光があった。青白い氷塊が煌めくような、凍てついた視線だった。
秀吉は怒声を抑えて、その目を見返した。
「……何が言いてえんだ」
重治の手が、秀吉の手首を掴んだ。はっとするほど強い力だった。
「貴方に接触してきた伴天連の話を、覚えていますか。あの大それた計画を」
「ああ、覚えてるさ」
「実行の時、俺は既にいないでしょう。だから、これはあくまで現時点での予測にすぎませんが、」
重治は掠れた声を低めて言った。
「もう誰も、信じてはなりません。計画を聞いた時点で、貴方に逃げ道は残されていない。あれは極秘裏に進められる類の計画で、それが故に、知ってしまったら、伸るか反るか……加担するか消されるか。それしか、ありません。配された役者、誰が何処に繋がっているか、俺にも掴みきれませんでした。それが分からない以上、全ての人間を疑うことが必要になります」
「誰もが裏切る可能性がある、って事か?」
「いいえ、誰が何の役割を果たすのか、それを見極めなければならないという事です。そして、貴方は、貴方に最も利する策を立てて下さい。信用や縁故は、判断材料にはならない。貴方に利するか、害するか、それが最優先です」
秀吉は、思わず息を呑んだ。
重治が口にした「あの計画」が、不意に現実味を帯びた気がした。同時に、地位や名声の獲得をここまで度外視した重治の言葉に、少なからず驚いていた。死に際の参謀は、そんなものは必要ないと言っているのだ。地位も名声も富も権力も、それらを得ようとして動けばどこかで躓く。利害を判断基準にしろという事は、つまり、生き残ることを最優先にしろという事だった。
「……そんなに難しいか、あの計画は」
「そうですね……俺には、計画の全ては把握しきれません。けれど、どう考えても綱渡りだという事だけは確かです」
そうか、と秀吉は答えた。緊張と恐怖がないまぜになった戦慄が、喉をふるわせた。
「俺が死ねば、貴方の諜報能力は落ちるでしょう。今からでは後手になりますが、諜報は強化してしすぎることはありません。今まで、俺が育ててきた諜報網を、貴方はもっと拡充して下さい。俺が伝えるべきはこれだけ……この二点を、覚えておいて下さい」
「ああ、分かった。お前の言ったことだ、忘れねえさ」
この約束は必ず守る。秀吉は囁く声で言った。
重治は安堵したように目を細めると、弱々しい息を吐いて瞼を閉じた。体力も気力も使い果たし、疲れきって眠ったようだった。秀吉は人を呼んで、静かに休めるところへ重治を運ばせた。
可能な限りの手当てをせよ、と指示は出したものの、秀吉はもはや重治の延命は絶望的だと直感していた。
(あの目……まるで客星だ)
濃紺の夜空に一筋の弧を描いて流れる客星の光は、冷え冷えと澄んで美しい。しかし、客の星はじきに消えるのだ。重治の双眸が燈していた底知れぬ野望は、客星のごとく煌めいていたが、消えるのはもう、すぐのことなのだろう。
秀吉は、腸を鷲掴みにされたような不快感を覚えた。
(お前という客星が消えるのなら、半兵衛、おれがお前の夢を叶えてやる)
ぎりぎりと締め付けられるような不快感が「悲しみ」と言うものだと、秀吉はこのときに知った。
六月十三日、重治は眠ったまま息絶えた。三十六歳という若さだった。
秀吉は重治を鄭重に葬った。死者に対する礼儀だとか、あるいは敬意だとかいうものは秀吉の中には無かったが、重治に対してはそうしたかった。自分の手から離れていくことを惜しんだからかもしれない。他人を信用しない捻くれ者の秀吉にとって、重治は最大の味方であり、唯一の朋輩だった。
(これで、おれはまた一人に戻った。そして二度と、誰かを友と呼ぶことも無えんだろう)
誰も信じるな、と重治は言った。全ての人間を疑え、とも言った。狡猾になれということだった。
重治が死んだ日の夜、秀吉は一人立ち尽くして夜空を見上げた。少し欠けた円い月が、黒い雲に霞んで輝いていた。
信じられる人間は、もういない。
(おれは変わったな)
かつては、それがこの上なく心地よかった。信じなければ裏切られない。昔の秀吉はそう思っていた。しかし、重治と共に過ごした幾多の日々は、秀吉のその信条を容易く覆した。互いに信頼していれば、裏切られない。重治は背を預けられる人間だった。心の内を共有できる親友だった。同じ未来を志した戦友だった。
(おれは、お前の未来を背負ってやる。お前が生きるはずだった時代を、おれが余さず生きてやる)
秀吉は、こっそりくすねてきた酒を盃に注いだ。小さく波立つ水面に、琥珀の色をした月が映り込んでいた。
(そいつが、おれからお前への手向けだ。おれは必ず生き延びる)
三木城の包囲は未だ続いていた。兵糧を輸送する道は減っていたが、まだ幾つかの経路が動脈のように残っている。そのうちの一つが、村重の有岡城だった。摂津国は堺にほど近く、海に面した国である。村重は信長への謀叛を起こした。つまり、信長の敵である毛利と手を組んでいた。海路で輸送された兵糧は、村重の支配領域で水揚げされ、陸路で三木城に運び込まれている。それは城が囲まれていても機能していた。
「荒木殿をどうにかしねえと、城兵を餓えさせる作戦が完成しない」
有岡城は織田軍に囲まれていた。滝川一益や丹羽長秀、織田信忠といった錚々たる顔ぶれが、包囲軍を構成している。秀吉や光秀も、戦闘に加わった事もあった。それだけ有岡城攻略は重視されていたのだが、しかし、城はまだ落ちていない。
秀吉の担当する毛利攻略には、まず三木城を落とさねばならない。三木城を落とすには、別所長治を支援する村重を降さねばならない。兵糧攻めという方針を維持する限り、それは動かせなかったし、力押しで落ちるような三木城ではなかった。
秀吉は焦りを覚えていた。
このままでは、状況は変わらない。三木城を囲んでいても、城兵は細々と食い繋いで篭城を続けてしまう。毛利・荒木方の砦を落としたり、反織田共同戦線を切り崩して、長治を圧迫しているのに、城はまだ閉じたままだ。膠着した事態を打破する何かが必要だった。
そんな時、秀吉の下を訪れた人物があった。夜陰に紛れ、黒衣を纏ったその人物は名乗らなかったが、手首にかけた小さな十字架が夜光に鈍く輝いた。
「故あって素性は明かせませんが、私は貴方様に味方するものです。本日は、貴方様にとって有益な情報をお持ちいたしました」
黒衣の男は、うやうやしく頭を下げた。伴天連の使いか、と秀吉は内心で警戒したが、顔に出しては微笑を浮かべる。
「そいつはありがてえ。だが、見たところ内密の話のようだな。人気の無い場所に変えるか?」
「いえ、長い話ではありません。よろしければ、今、この場でお話いたします」
「そうか。じゃあ話してくれ」
男は目礼し、低い声で言った。
「有岡城の荒木様は、数日中に城をお出になられます」
「なんだと?」
「荒木様は、これまで幾度も、毛利様に援軍を要請してこられました。しかし、毛利様の援軍は有岡には届いておりません。ご家臣では交渉に埒が明かぬとみて、荒木様は、ご自身で毛利様に嘆願されるおつもりです」
「……だから、荒木殿は城から出るのか。有岡城は囲まれてる。ってことは、夜中にこっそり、少人数で、だろうな」
黒衣の男は頷いた。秀吉はその情報を頭の中で展開してみる。
今年の正月、村重は信忠の篭もる砦を強襲していた。夜襲だったという。突然の襲撃に、信忠は自身の首こそ無事だったものの、率いていた三千の兵も砦も失った。荒木強し、の報に接し、有岡城の包囲はさらに厳重になり、織田軍も警戒を厳しくしている。華々しい戦歴を誇る面々がいる軍だ。その警戒の程は、三木城を囲む秀吉の軍の比ではないだろう。
それ以来、村重はひたすら城に篭もっていたという。詳しい戦況は秀吉には知らされていなかったが、逆に考えれば、知らせるほど大した展開が無かっただけなのかもしれない。荒木強し、しかしそれは幾度も繰り返される強さではなかったのだ。地力が、あまりにも違いすぎた。
そんな中から、村重は脱出しようという。城と包囲軍との間には、ある程度の距離があるが、兵を出せば小勢でも見つかるだろう。だが、月の隠れた夜を選んで、濃い色の衣服に頭巾でも被ってしまえば、遠目には容易に見つけられない。現に、秀吉の目の前にいる男も、そうやって陣中まで入ってきた。不可能ではないのだ。
ならば、と秀吉は脳内の箱庭で駒を動かす。
有岡城を抜け出した村重は、どこへ向かうか。脱出の目的が毛利への援軍要請ならば、向かう先は西だ。道は陸路と海路がある。速度を重視すれば海路だが、織田の水軍は西へ向かう船を見逃すわけが無い。とすれば、必然的に選択肢は陸路に絞られる。有岡城より西で、未だ落とされていない城。村重が信頼できる人物の居る城へ、まずは向かうに違いない。
「行き先は、尼崎か」
秀吉は呟いた。
「はい、おそらく。尼崎城には、荒木様のご嫡男が入っておられますし、毛利方の武将として桂様がおられます。城の位置、規模からも、まずは尼崎城へ向かわれるでしょう。ですが、本題は有岡城です」
「ああ、分かったぞ。有岡城は、一時的にでも頭を失くす。攻略の足がかりには充分だろうな」
「荒木様不在が知れれば、攻城は容易くなるでしょう。こちらの三木城攻略も容易になるかと存じます」
黒衣の男は静かに言った。
秀吉は、いまの話を胸のうちで反復して、それが間違いなく有益だと判断する。だが、確認せねばならない事があった。
「今の話、大層おもしろかったが……出処はどこだ? お前は切支丹のようだが、有岡城内の切支丹に伝手でもあるのか?」
「いえ……」
男は口ごもる。言いづらい事のようだった。
「私が素性を明かせぬ故が、そこにございます。ですが、嘘や偽りは申しておりません。この情報を信じられるも退けられるも、貴方様のご判断にお任せいたします」
「ふうん、なるほどな……」
秀吉は腕を組み、素早く考えた。この情報が正確ならば、秀吉にとっては有り難い。有岡城が速やかに落ちれば、それだけ三木城を圧迫できる。
しかし、と秀吉は思い至る。同じ情報を、有岡城の包囲軍が持っていなければ、「荒木強し」と警戒している彼らは攻撃を仕掛けないだろう。
「ところで、この事は有岡を囲んでる奴らも知ってるのか?」
「今はまだご存じないでしょう。ですが、荒木様が城をお出になれば、すぐにも察知せられることになります」
「なぜそう言い切れる?」
「小寺様配下の方々が、絶え間なく有岡城を窺っておられます。密かに城内へ入られた事もございます。その動きは、他の方々も掴んでおられるでしょう」
小寺、と秀吉は繰り返した。
「小寺官兵衛か?」
「はい。官兵衛様の配下の方々ならば、城内の動きを掴む事も可能です。救出には混乱時が最適です。荒木様不在が知れれば、官兵衛様救出の為に攻撃を進言されるはずです」
小寺孝高が有岡城に捕らえられているのは、秀吉も知っていた。孝高が人質にと差し出した嫡男が、秀吉に預けられていたからだ。孝高が戻らないために、信長は孝高が裏切ったと考え、人質の息子を殺せ、と秀吉に命じた。それを重治が止め、自分が斬るからと場を取り繕って、少年を匿っていた。重治の病と死の後は、秀吉がそれとなく少年の面倒を見ている。
だから秀吉は孝高が虜囚となっているのは覚えていたが、しかし、孝高がそこから出てくるということは考えていなかった。
(そうか……有岡城が落ちれば、あいつも出てくるな。まだ生きていて、配下の奴らが本気で助け出そうとしているならば、だが)
その点については如何とも言いがたい。黒衣の男の言葉は、あくまで予測に過ぎないのだ。
(奴が出てくるなら、それはそれで使い道もある。信用云々は後の話だ)
秀吉は低く唸った。ゆっくりと口を開く。
「お前の話の通りなら、三木城が落ちるのも遠くねえな。いい話を聞かせてもらった」
密談は終わった、と言外に言う。男は心得たように頷いて、ひそりと姿を消した。夜陰に紛れた黒衣は、もう見出すことは出来ない。
口に出す事をしなかった問いを飲み込んだまま、秀吉は男の消えた方角を眺めていた。
――あの計画に、毛利攻略が必要だってことか? それとも、毛利を落とすことよりも、織田の目を西に向ける事が重要なのか? 何のために? 目が西を向いていても、殿様は安土城にいるし、周りは側近が固めてる。じゃあ、必要なのは何だ?
脳裏に、ある光景が浮かんだ。稲光のように鋭く思考に入り込んだその光景は、秀吉を戦慄させた。否、武者震いに近いものかもしれない。
(有岡城を攻め始めた頃は、殿様は摂津に出て来てた。安土から出る事もあるんだ。麾下の兵を全部引っぺがして、更に援軍を要請すれば、殿様自身が動くしかねえ)
今は、毛利輝元が最大の敵である。村重や長治、本願寺といった敵もいたが、どれもが毛利に繋がっている。それらが緩衝材となって、毛利家にはまだ大きな痛手は与えられていない。だが、その緩衝材が無くなったならば、あるいは毛利との繋がりを絶てれば、信長は今以上に戦線を拡大するだろう。急進的な信長の事だ、東西南北全てを敵に回すことも、無いとは言えない。北陸には上杉、東には武田、北條、南に本願寺、伊賀、そして西の長曾我部、毛利。それらのうち幾つかと戦うならば、戦線は広く展開する。必要となる兵も多くなる。支配領域の中心で指揮を取る信長の下には、必定、兵が少なくなる。
(それが狙いか)
伴天連が囁いた計画の遂行には、それこそが必要となるのだ。
秀吉は、重治の領地であった菩提山を、そこに隠している少年の事を考えた。
松寿丸という少年は十を少しばかり越えた、大人しいこどもだった。愚鈍ではないが、知略に長けると言われる父には似ていない。飛び抜けて利発なところは見られなかった。しかし、物事を覚えるのは得意なようだった。
(あの子供は、おれや半兵衛に命を救われたことを知っている。官兵衛が息子からそれを聞けば、こっちに取り込むのも難しくねえな)
重治という頭脳を失った今、秀吉にはどうしても新しい「智慧」が必要だった。手の届く範囲に居るのは孝高だけだ。その頭脳を、秀吉のために使ってもらわなければならなかった。
孝高の主は、村重の謀叛に乗じて織田から離れた。孝高がその後を追わないとは言い切れない以上、松寿丸を利用して孝高を懐柔せねばならないだろう。
そして、孝高を完全に味方に引き入れるために、今の秀吉は己の知恵を最大限に使わなければならなかった。
幼い子供を利用する事に対する罪悪感は、驚くほど薄かった。
夏が過ぎ、秋の気配が深まった九月、秀吉は直家からの急報に接した。
『毛利と本願寺の兵が三木城を目指している』
毛利に対する障壁になっている直家は、美作を舞台に凄まじい攻防を繰り広げていた。城を取っては取られ、また取り返し、現在の美作は非常に複雑な状況になっている。
宇喜多との攻防の最中に、毛利の兵が三木城を目指すのは、一体どういう意図か。秀吉は思案する。
「三木城内の様子はどうなってる?」
城を監視する兵士に尋ねると、先ごろから妙にざわついているという。
秀吉も城内を眺めてみた。はっきりと見て取れるほどではないが、大勢が動いている様子が分かった。
「あれは城兵だな。避難してる非戦闘員じゃねえ」
「時折、武具らしきものが光って見えました」
「となると、打って出るつもりだな。なるほど……」
毛利・本願寺勢が三木城を目指すと同時に、三木城内の兵が動き出した。明らかに連動している。包囲の隙を縫って、密使か何かが入り込んだに違いない。
「奴ら、仕掛けてくるぞ。おい、戦闘態勢を取らせろ。どこから襲撃されても迎撃できるようにな」
三木城を囲む軍の全体に指示を出す。それから、秀吉は地図を広げて、じっと考え込んだ。
(……砦だ。平田砦が狙われる)
この来援の目的は何か。自分ならどうするか、と秀吉は考え、即座に答えを出した。三木城に兵糧を入れることだ。輸送には経路の安全確保が先決である。邪魔になるのは砦だった。
これはただの援軍ではない。文字通り、命を繋ぐ生命線だ。
「こいつを叩き潰せれば、状況は大きく動くぞ」
しかし、そこまで予測できていても、秀吉はまだ軍を動かせなかった。砦を守るためには兵を纏めて送らねばならず、そうすると三木城の包囲が甘くなる。ぎりぎりまで三木城を囲み続ければ、砦が危うくなる。うまく時機を読まなければならない場面だった。
(こんな時に、半兵衛がいてくれたら――)
秀吉はかぶりを振り、その考えを頭から追い出した。どんなに望んでも、重治はいない。無いものねだりをしても無駄である。秀吉は腹を括った。自分でやるしか、方法はないのだ。
毛利・本願寺勢が、ついに姿を現した。秀吉は、ようやく、この作戦における本当の相手を垣間見た。あれが、と感慨にも似た武者震いが背を駆ける。
援軍は、秀吉の予想通り、平田砦を目指した。守将はいるが、そう長い間は耐えられまい。どれだけの数を砦の応援に回すべきか、秀吉は逡巡した。砦の守兵とで挟撃すれば、動かす兵は少なくて済む。砦が奪われれば、多数の兵が必要になる。三木城内の部隊は、援軍の動きに応じて打って出てくるだろう。そちらも、どれほどの規模か分からなければ、抑えに回す兵を決めにくい。
秀吉は、まだ動けない。
(三木城の勢力がはっきりしねえと……いや、奴らは餓えきってる。思い切って、今、軍を分けて動くべきだ)
掌の内側に、じとりと汗が沸いた。握り締めた拳が震えた。判断基準が分からない、否、おのれの判断を信じきれない。秀吉は、自他共に認める無学な男だった。自分で自分の知恵を信用できない秀吉は、自分の判断というものに、いまひとつ自信が持てなかった。
(だめだ、おれが弱気になったら、それは全軍に伝染する。――そうだ、いつだって判断を下すのは、おれの役目だったじゃねえか。今ある情報から作戦を立てて、決断するのは、おれの役目だ。迷っちゃいけねえ)
秀吉は、ぐっと腹に力を込めた。迷ってはいけない、そんな暇はない。秀吉がすべきは、自軍に命令を下すことだった。
「軍を二つに分けろ! 一方は三木城の正面を抑え、もう一方は平田砦の救援に向かえ!」
意を決した大音声の叫びに、軍勢が素早く隊列を整える。ぱくりと二つに分かれた人の群れは、秀吉の采配の通りに動き出した。
敵の援軍は、早くも平田砦に攻撃を始めている。秀吉の予想よりも、その勢いは激しい。救援は間に合わないかもしれない、と秀吉は思った。砦は、おそらく落ちるだろう。だが、落として奪ってすぐの砦に、完全な機能は期待できない。ならばそこを叩く。秀吉は、自身がそれを指揮しなければならないことを直感した。三木城の方は、餓えて弱った兵が相手だ。油断が禁物なのは勿論だが、そちらは秀吉でなくとも対応できるだろう。
秀吉は立ち上がった。大声で弟を呼ぶ。
「小一郎、城兵の相手は任せた。おれは平田砦に行く」
言い捨てて踵を返した秀吉は、長秀が何も言わずに従った事に満足した。
秀吉率いる救援軍が駆けつける前に、平田砦は陥落した。守将は討死したようだった。秀吉は握りこんだ鞭をさっと振った。
「かかれ! 砦を落として、奴らは気が緩んでるぞ! 一気呵成に攻め貫け!」
ごう、と鯨波が応えた。機は一瞬だった。敵勢が砦を落として僅かに見せた安堵が、秀吉が攻撃すべき一瞬であり、腹心の参謀を欠いた秀吉はその機を確かに読みきった。
じわじわと熱い感覚が秀吉を満たし始めた。腹の底に火が点ったようだった。理屈でも感情でもなく、それはまさに、秀吉が己のちからを確かめたという感覚だった。
平田砦を足がかりにしようとしていた毛利・本願寺勢は、羽柴勢の苛烈な反撃に耐え切れず、崩れた。それは積み上げた小石が崩落する様に似ていた。
「追い散らせ。三木城を援けられるなんて夢を二度と見ねえくらい、徹底的に追っ払え!」
叫んだ己がひどく攻撃的になっていることに、秀吉は気付いた。
羽柴勢は、撤退する敵勢への追撃を開始していた。
(待て、落ち着け! あいつが言ってた事を思い出せ、木下藤吉郎――!)
繰り広げられる戦闘の有り様を眼に映しながら、秀吉はかつての重治の言葉を、心の内に唱えた。
(猛るな、昂ぶるな、おれが『木下藤吉郎』であることを忘れるな。油断や綻びを、誰にも見せちゃいけねえ。ひとつ息を吸って、吐いて、周りを見るんだ)
すう、と吸い込んだ空気は血の臭いがした。秀吉は頭をめぐらせ、長秀に任せてきた三木城を振り返る。
毛利・本願寺勢の来援に呼応して、三木城から別所勢も打って出ていた。長秀は、それを完璧に抑えたようだった。秀吉が振り返ったその刹那、城門はまさに残兵の最後の一人を飲み込んで閉じるところだった。長秀は、城からの矢玉が届かない距離から、門を警戒する態勢を取っていた。
この辺りが潮時だ、と秀吉の脳裏に囁く声があった。
(そうだな、潮時だ。敵の援軍は追い払ったし、城の兵力も叩いた。三木城に兵糧は入らなかった。おれの勝ちだ)
その声に従って、秀吉は采配代わりの鞭を鳴らす。ぱしん、と鋭い音が響いた。
傍らに控えていた伝令が、指示を聞く構えになる。
「よし、充分だ! 陣地に戻って、根比べの続きといこうじゃねえか!」
命令が伝えられ、平田砦救援軍は新たな守将と守備兵を置いて帰陣した。
平井山の本陣に戻った秀吉を、長秀が訪った。大人しい弟は、指示を受けてこの場所を出て行ったときと、ほとんど変わりない態度で「上首尾」を報告した。別所勢は手も無く敗れ去ったという。
「手ごたえはどうだった? 強いか弱いかってよりも、しぶといか軽いか、お前はどう思った?」
「そうですね……骨と皮ばかり、といいますか、皆痩せ細って力も弱い。押せばすぐに崩れました。けれど……」
「何だ?」
長秀は眉根を寄せて、暗い顔でかぶりを振った。
「鬼です。まるで、地獄絵図の餓鬼のよう……いえ、もっと恐ろしいものです、あれらは」
少し俯いた長秀は、すぐに顔を上げた。無理に平静を装った顔をして、もう一度、かぶりを振る。
秀吉はあやふやな記憶を引っ繰り返して、餓鬼は常に飢渇に苦しむという話を思い出した。兵糧を断たれた別所勢は、なるほどたしかに餓えている。彼らを苛むものは、干戈ではなく飢餓だった。それならまさしく餓鬼であろう。しかし、長秀は違うと言う。
「どこが違うんだ? 絵図の餓鬼と、あいつらと」
「昔、餓鬼は喰いたくても喰えない、と聞きました。餓鬼は「食べる事」を望んでいる。ですが、あれら……別所勢は、もはや何も望んでいないように、俺には見えました」
「絶望してるってことか?」
「そうかもしれません。毛利・本願寺の来援は、別所にとって希望には違いなかったはずです。けれど、仮に兵糧が届けられたとしても、また苦しい篭城が続いたでしょう」
織田と毛利なら、その力が拮抗しているから勝利を信じる事もできる。だが、孤立してしまった別所に、織田に抗い続ける地力は無い。勝てる見込みは、もう無いのだ。よく頑張っても足止め、時間稼ぎのための捨石だ。それで毛利が勝利しても、別所は滅びる。
自分たちに未来が無いことを、城内の彼らは覚悟してしまったのだ。
「……まずいな、死兵じゃねえか。一番厄介な相手だ」
「はい。直接戦うのは避けたほうがいいと思います。俺にも言えますが、先ほど別所勢と最前線でぶつかった者の中には、あれらの不気味さや恐ろしさを重く感じている者もいます」
「それが他のやつらに広がる前に、どうにかして揉み消せ。あれは人間だ。腹を減らした痩せっぽちの人間だ。それ以外の何でもねえ。大丈夫だな?」
畳み掛けるような秀吉の言葉に、長秀は躊躇いがちに頷いた。己の中の恐怖心と嫌悪を押し殺せるか、不安に思っているのだろう。
秀吉は弟に笑いかけた。
「安心しろよ、小一郎。これは戦で、戦は必ず終わるんだ。地獄みたいに、永劫続くもんじゃねえ」
「……はい」
「さあ、行って兵を安心させて来い。またしばらくは我慢比べだからな」
長秀は頷いて、おそらくは精一杯の「平然とした顔」を作って、秀吉の陣所を後にした。
弟が去ると、秀吉は伝令を呼び寄せ、三木城の包囲を今まで以上に厳しくする旨を全軍に伝えさせた。
(こんどの戦いは、別所と毛利が接触できたから起こったことだ。今までどおりの包囲じゃあ、ぬるい。奴らの息が繋がっちまうようじゃあ、ぬるすぎるんだ)
今まで、別所勢は飢餓に苦しみながらも、まだ呼吸をしていた。だから今度は、その息を封じてしまおうということだ。外部とのつながりを完全に遮断してしまえば、兵糧はもちろん情報も入らなくなる。そして、秀吉が操作した情報を与えることも出来る。真綿で首を絞めるように、刃物を使わずに別所勢を殺せるのだ。
包囲網を厳重にしてから数日後、夜陰に紛れて秀吉を訪った人物がいた。
「よう、また来たかい」
「はい。本日は吉報をお持ち致しました」
「有岡の件だな。ああ、安心しろ。お前が来るだろうと思って、人払いしておいた」
「お気遣い、痛み入ります」
黒衣の男は、前回と同じようにうやうやしく頭を下げた。
「気にするな。おれとしても、お前との接触は知られたくねえ。ってわけで、手短に頼む」
「かしこまりました。では、結果のみ」
男はそう前置きすると、声を低めて語った。
「荒木様は有岡城を脱されました。貴方様の御予想の通り、尼崎城へと向かわれた所まで確認致しました」
「そうか」
秀吉は短く答えた。どうやってその情報を知り得たのか、とは尋かなかった。どうせ答えないだろう、と分かっていた。
「荒木殿が有岡を出たなら、戦況は大きく動くな。まったく、情報が早くて助かるよ」
「また状況が動きましたら、ご報告致します。貴方様の下へは、私が情報をお届けする手筈になっておりますので」
「ああ、分かった。手間をかけてすまねえが、よろしく頼むぜ」
「かしこまりました」
では、と言い残して、黒衣の男は姿を消した。秀吉は心中で臍を噛んだ。
(重要な情報を、伴天連に頼ってる……生命線を握られてるってことだ。こいつは拙い)
重治が遺した諜報の網の目は、まだ伴天連のそれには遠く及ばない。現に、有岡を探らせている者たちからは、まだ何の報せも無いのだ。
諜報機関の強化は、三木城攻略と並んで、最優先で行われなければならない。秀吉はそう痛感した。
(それから……そうだ、おれがやってるように、他の奴らも情報を求めてる。おれの所から大事な情報を抜き取られねえように、防禦も考えなきゃならねえな)
すべきことは幾らでもあった。諜報と防諜の強化を急ぐのは勿論、長期にわたる包囲戦で、秀吉の金蔵も大きな打撃を受けている。膠着した戦線とは別に、与えられた領国の面倒も見なければならない。すべきことは、山のようにあった。そして、秀吉ひとりでそれらに対処するのは、実質的に不可能であった。
今はまだ、弟の長秀や、蜂須賀や坪内といった部下たちが踏ん張って支えているが、それがこの先ずっと続けられるとは限らないのである。
(やっぱり、どうでも官兵衛が必要だ。頭の切れる奴がいねえと、おれの行動は制限される一方だ)
あと少し、有岡城から小寺孝高が出てくるまでの間、どうにか持ちこたえてくれ、と秀吉は強く思った。
情報が入ったのは十月十六日だった。せっせと整えた蜂須賀正勝以下の諜報部隊から、有岡城攻撃の報せが届いたのだ。
「よし、一手動いた」
伴天連の筋からの報は、まだ届いていない。迅速かつ綿密だった黒衣の男よりも、自分が整備した自分の諜報網のほうが早かったと知って、秀吉は快哉を叫びたい気持ちになった。
部下からの報告では、攻城は続いているという。攻囲軍の内部まで潜り込む事は叶わなかったため、詳細までは掴めなかったが、滝川一益の調略が大きく影響したらしい。
「いいぞ、よく探り出してきた」
更に二十日、続報が届いた。織田連合軍、有岡城を接収。秀吉は今度こそ、快哉を叫んだ。戦況の進展もだが、諜報能力が思った以上に充実している。それが嬉しかった。
「おい、小寺官兵衛の消息は分かるか」
「直接確認したわけではありませんが、配下の栗山殿らに救出されたようです。城を接収した際に、病人が運び出されたと噂が流れておりました。おそらく、それが官兵衛殿でしょう」
「病人?」
「なんでも、ひどく痩せ細っていて、自力で立ち上がることもままならない様子だそうです。官兵衛殿は土牢に閉じ込められていたようですし、囚われてから随分と経っていますから、足が萎えてしまったと考えてもおかしくはありません」
「そうか……」
腕を組み、秀吉は唸った。捕虜になったとは聞いていた。まさか客分とは扱われないだろう、とも思っていた。しかし、生きているのと無事とは違う。枕も上がらないような重病人では、とても参謀の席を与える事は出来ない。戦場に生きる秀吉の参謀は、秀吉と同じく戦場にあらねばならない。すべては戦場に帰結するのだ。その場に出られないのでは、生きていても意味が無い。
「他に報告はあるか?」
「以上で全てです。有岡城周辺で、引き続き様子を探っていますが、その連絡は明日以降です」
「分かった。ご苦労だったな。小六にも報告して、お前は休んでいいぞ」
部下は深々と頭を下げて退出して行った。
床几に腰掛け、秀吉は地図を眺める。有岡城と三木城を繋いでいた線に、朱の墨で大きく罰点を書いた。兵糧を運ぶ輸送路が、その大動脈が、ひとつ消えたのだ。
(ここらで、一度降伏勧告をしておくか。いや、すぐじゃだめだ。城内の奴らは、まだ有岡城が落ちたことを知らねえ。まず有岡城が接収されたこと、兵糧が届かねえことを、奴らに掴ませねえと……)
むう、と唸り声が洩れた。
(三木城は孤立した空間だ。中にいる奴らは、全員が顔見知りだと考えたほうがいい。となると、人を紛れ込ませるのは巧くねえな。外の人間だと分かったら意味がねえ。じゃあ、どうする……どうやって、情報を掴ませる)
はっ、と秀吉は顔を上げた。
(そうだ。情報が欲しいのはおれだけじゃねえ、別所勢も同じだ。だからこそ、先の毛利の援軍があったんじゃねえか。奴らは、どこかで外の情報を探ってる。それはおれが締め付けてて、状況なんざこれっぽっちも分からねえ。――だったら、それを利用すればいい)
城のどこかに、物見がいる。普通の篭城ではない、完全包囲だから、見張るのは当然羽柴勢の陣営になる。別所勢にとって、事態が動くのは必ず羽柴勢の陣営からだからだ。
物見の居場所と、彼らの察知できる範囲を探らせる。そして、その範囲を中心に、有岡城が接収されたという雑談をさせる。幸か不幸か、羽柴勢は長期化した包囲戦に倦み始めていて、下層の兵士たちは退屈しのぎの雑談をしきりに交わしていた。
そうだ、それがいい。秀吉は膝を打った。
生命線の一つが絶たれたことを別所長治が知る。その頃合を見計らって、降伏勧告を出す。まずは断られるだろう。別所勢のしぶとさは折り紙つきだ。だが、彼らは決して一枚岩ではない。
(降伏しなくても、おれの勧告が奴らに動揺を生んでくれればいい)
方針が決まった。秀吉は、防諜を担当させている坪内長泰を呼んだ。情報を流す方策を聞かせると、長泰は得たりと頷いて引き受けた。防諜と言う、陽の目を浴びぬ役目でも、状況を動かす要になることはできる。その実感を得られたのだろう。秀吉は、長泰の表情を見て満足した。坪内隊も蜂須賀隊も、うまく機能しているようだった。
それからしばらく経った頃、有岡城から救出され、後方で療養していた小寺孝高が、秀吉の下へやって来た。何のつもりか、孝高は輿に乗っていた。
「小寺官兵衛だな、その輿の中身は」
「……はい」
掠れた声が答えた。若々しい顔つきの部下に支えられて、痩せ細った男が姿を現した。
「無礼にも輿を使った事はお詫び申し上げます。けれど、お恥ずかしながら、私は馬に乗れませんので……」
「前口上はいい。歩けるか?」
「今はまだ。もうしばらく養生して体力を取り戻せば、杖を支えに歩く事は出来ると、医師が申しておりました」
「分かった。まずは、生きていて良かった。無事だとは贔屓目にも見えねえが、頭も口もちゃんと動くようだな」
「……はい」
「官兵衛、話がある。奥へ来てくれ」
秀吉は、本陣の中枢である自分の陣所を指した。踵を返した秀吉の後を、脇を部下に支えられた孝高が、慎重な足取りで追いかけた。
秀吉の陣所は雑然としていた。地図やら書簡やらを広げたまま、散らかしっぱなしになっている。参謀を欠いた秀吉が、ここで一人、情報に囲まれて考え事をしているからだ。秀吉が命じない限り、片付ける事は許されていない。
自分の床几を引っ張り起こして、秀吉は腰掛けた。孝高が座るぶんの床几もあったが、悪環境で衰えた体では座りが悪いから、と言って、孝高は己の羽織を敷いた上に座り込んだ。仮にも一城の主だった男が、地べたに腰を下ろしたのだ。秀吉は顔をしかめた。
「お前に負い目があるのは分かるつもりだが、それは卑屈すぎるんじゃねえのか?」
「いいえ、叶うならば床几をお借りしたいのですが、自分で思うよりも体が弱くなっているのです。途中で転げ落ちかねませんので、私はここでお話をお聞き致します」
「そうか……だったらいい」
拍子抜けするな、と秀吉は思った。孝高の弱々しい姿のせいか、と首を捻って、むしろ姿よりも雰囲気のほうだと思い至った。
以前――有岡城を訪れる前に見た孝高は、ぎらぎらとした生々しい殺気を纏っていた。それは成り上がろうという野心であったかもしれないし、生き残ろうという欲望であったかもしれない。どちらにせよ、あるいは別のものであったにせよ、かつての孝高は、暗がりに潜む刃を思わせる、黒く鋭い雰囲気を持っていた。
それが、いま秀吉の目の前につくねんと座っている男には、まったく感じられなかった。ひどくやつれ、一重の三白眼の下には濃い隈ができていた。自らの力を恃むような強い眼光は、無かった。
秀吉は孝高の目を見返してみた。どこか遠慮するような静かさがあった。
「牢暮らしは、しんどかっただろう。罪科も無く押し込められたんじゃあな」
「始めのうちは、たいそう苦しく思いました。そのうちに、自分は土牢の片隅で朽ち果てるのだと思うようになると、こんどは寂しく思いました。それが、少しずつ諦めてきて、誰知らぬまま死んで行くのも、己の業のうちだと分かりました」
「業、か」
「色々なことを考えました。自分がしてきた事、阻んできた事、壊してきた事、殺してきた事、すべてが業です。だから、私は己の安逸など望む資格は無い。私は苛まれなければならない。私は咎められなければならない。そういうことを思いながら、小さい窓から空を見ていました」
細い、ひとつながりの鎖を引きずるような口調だった。孝高はそこで言葉を区切ると、溜息と共に呟いた。
「……藤が、きれいでした」
ぽつりと吐き出されたその言葉が、孝高の心中をそっくり表しているように、秀吉には聞こえた。
「それで、お前はまだおれの下で働こうと思うのか?」
「…………」
「ここに顔を出したって事は、その意志があるってことなんだろ?」
「……はい。私には、こういう生き方しか出来ません」
「だめだな」
秀吉は突き放す調子で言った。孝高が、はっと顔を上げた。
「だめ、ですか……?」
「ああ。そうやって考えてるうちは信用できねえ」
秀吉は、意識してひとつ瞬きをした。ここからだ。ここから、孝高を抱き込むために、どんな言葉を選ぶか。
組んでいた腕を解いて、秀吉は顎に手を当てる。慎重に言葉を探し、そしてその思惑を気取らせないように、自然な口調で続けた。
「これしかできねえ、じゃなくて、これならできる、そう思え」
「…………」
「前を見ろ、官兵衛。歩くにも生きるにも、必要なのは前だ」
「そう、ですね。諦めたまま生きるには、まだ早い」
言葉は激励の形をしていた。孝高は、秀吉の言葉に乗ってきた。
「ああ、そうだろうよ。松寿丸も、弱気な親父なんざ見たくねえだろうしな」
「松寿丸……そうだ、息子は、どうなったのです? 部下からは、処刑されたと聞きましたが……」
「生きてるよ」
秀吉は目を細めた。そうすると、表情は微笑に近くなる。
「殿様は、お前が戻らねえのを裏切りだと思い込んで、松寿丸を殺せと言ってきた。それを、半兵衛が止めた。今は菩提山の辺りにいるよ」
「竹中殿が……何という。すぐにでもお礼を申し上げねば」
「半兵衛は死んだ。今年の六月にな。肺の病だった」
孝高の三白眼が見開かれた。少しの間、呼吸も忘れて硬直していたが、じきに重い溜息と共に、孝高は肩を落とした。
嫡男の命を救ってくれた恩人が、既に亡いことを悲しんだようだった。
「……そう……ですか」
やがて絞り出されたのは、嗚咽に似た震え声だった。
「随分疲れてるみたいだな。今日はもう休め。ゆっくり休んで、よく考えて、それでもおれに仕えようと思ったら、またここに来い」
秀吉は言った。
孝高は、地面に両腕をついて俯いていたが、それを聞いて秀吉を見上げた。ひび割れた唇が、嗄れた声を発した。
「……私を、罰されないのですか? 軽率な行動から敵方の手に落ち、足萎えになり、主家である小寺様は離反したというのに」
「おれはな、自分で言うのも何だが、そんなに賢くねえんだ。頭を使うのは半兵衛の仕事だった。半兵衛がいねえ今、おれには賢い奴が必要だ」
一拍置いて、秀吉は真正面から言った。
「お前が必要なんだよ、官兵衛」
「…………」
「荒木殿に捕らえられて、足が不自由になって、小寺殿が敵になっても、お前は生きてここに来てくれた。それが、おれには嬉しいんだ」
秀吉は微笑する。腹の中では、自分の言葉がどう影響するかを入念に計算しているが、道化の演技で鍛えた面の皮は、そんな心中を完璧に覆い隠していた。衰弱し、動揺した孝高に、その仮面を看破する冷静さは無かった。
「分かったら、もう休め」
静かな、優しげな口調でそう言って、秀吉は孝高の肩を叩いた。
部下に支えられて孝高が出て行くと、秀吉は目を閉じて深い溜息を吐いた。心にも無いことを、平気な顔で言う事に、抵抗は無い。しかし、気疲れした。
孝高を篭絡するための布石と分かっていても、こういう回りくどいやり方は、あまりいい気分ではない。だが、秀吉が生き延びるために必要なことだった。
(おれは、もっと上に行く。目指すところは天辺だ)
駆け上がる足を止めてはいけない。それはすでに、生きることと等しかった。
翌日、孝高が秀吉の下に現れた。
「私は羽柴様に従います。貴方は、私を必要だと言って下さいました。私は、貴方のお役に立ちたい」
「そうか、分かった。じゃあ早速、今の状況だが……」
秀吉は頷いて、三木城包囲の戦況を話した。
「少し前に城兵とぶつかったが、あの様子からすると、兵糧不足はかなり深刻だな。ろくに食ってねえんだろうに、それでも出て来た。それだけ、向こうが厳しいってことだ」
「では、このまま包囲を続ける方針ですか?」
「ああ。毛利の援軍も叩いたし、城方は半分以上、諦めてるだろう。それに、これから冬になる」
痩せて弱った者にとって、冬の寒さは辛いだろう。辛ければそれだけ、希望も気力も削がれる。
「今考えてるのはな、年明け頃まで何もせずに放っておく。寒さと餓えに辛抱しきれなくなる頃を見計らって、一気に攻撃して城内に入る。時間も金もかかるが、兵の損失は少ねえ作戦だ」
孝高は腕を組み、黙って考えていたが、控えめに口を開いた。
「しかし、織田様からは早急に落とせというご命令があったのでは?」
「あったな。でも、兵が死ぬのは好きじゃねえんだ。おれは、あそこで並んでるところから出て来た。軍の末端の気持ちってのは、よく分かる。だから、あいつらが死なずに済むなら、おれはできるだけ、死なせない作戦を立てるんだよ」
秀吉の嘘は巧妙だった。本当の事の中に、少しずつの嘘を混ぜる。そうすれば、嘘には真実味が増すのだ。
孝高はその言葉を疑わなかった。作戦や話の整合性は吟味しても、織り込まれた嘘を見抜くのは苦手らしい。
「まあ、今のところはガッチリ固めてりゃいいってことだ。力押しで落とせねえ以上、長期戦になるのは仕方ねえ。殿様だって、それをきちんと説明すりゃ分かって下さるよ」
「分かりました」
「それでな、ここからがお前の仕事だ」
秀吉は孝高に向き直る。こけた頬と落ち窪んだ目が、秀吉を見つめ返した。
「情報を集めろ。蜂須賀・坪内が実働部隊、お前はあいつらから情報を受け取って整理する。順序とか、場所ごとって風にな。で、それをおれに渡す。おれはその情報を使って作戦を立てる。分かるな?」
「はい。竹中殿が担っていた役割ですね」
「半兵衛からは、何か聞いてるか?」
「いえ、それほど深い話はしませんでした。ゆっくり話す機会も多くありませんでしたし」
重治が孝高に重要なことを話さなかったのは、秀吉も知っていた。似た型の人間だからか、重治は孝高を警戒していた。重治の夢は秀吉と共にあった。秀吉にとって不利益になることを、重治が話すはずもなかった。秀吉が信用しない人間は、重治もまた、信用しなかったからだ。
「じゃあ、おれから言うかな。情報を任せるに当たっての注意だ。一つ、受け取った情報は全ておれに渡せ。どんな小さなこと、くだらないと思えることでもだ。一つ、情報を改変するな。見たまま、聞いたまま、おれに伝えろ。一つ、決してお前だけで判断するな。全ての判断は、おれが下す。この三つだけ、守れればいい。違反に対する罰が何かは、自分で考えておけよ」
「……心得ました」
孝高は硬い表情で頷いた。秀吉が新たな「智慧」を手に入れるのは、一度目よりも簡単だった。
それから年の終わりが近付くまで、大きな動きは無かった。秀吉はひたすら三木城を囲み続け、別所勢は沈黙の中に耐え続けた。
動いたのは別のところ――有岡城のその後だった。
「羽柴様、有岡城で捕らえられた荒木方の人質ですが……」
「おう、どうした」
「……全員、処刑されたそうです」
「…………」
秀吉は目を丸くして息を呑んだが、これは半ば以上は演技だった。
「この情報を持ってきた者は、口頭で伝えるには己の感情が邪魔をする、といって、詳細を文にしてきました。こちらです」
「そうか。お前はもう読んだのか?」
「はい。私も同意見です。これは、文書でなければ正確さを欠いてしまうと思います」
そう言って孝高が差し出した紙片を、秀吉は慎重に開いた。薄紙に極細の筆で、びっしりと文字が書き込まれている。
「参るね、こいつぁ……おれは真名は苦手なんだよ」
「文字でしたらお教えできます」
「それじゃあ、分からねえ字があったら聞くかな」
しかし、幸いにも、と言うべきか、この細密な報告書を書いた者は、さほど難しい漢字は使っていなかった。おかげで秀吉にも、報告書の「ひどい」内容が容易に理解できた。
「なるほど……こいつは、確かに書面のほうが“向き”だな。持ってきた奴は、憤ってたか? それとも」
「私には、恐れながら怒っているように見えました」
「それで書いたんだな。必死だ。選んだ言葉も、文字も、必死だ」
「…………」
「用が済んだら、そいつを呼んで来てくれ。これを抱え込むには、人間ひとりは小さくて弱すぎる」
孝高は頷いた。頬が震えているようだった。
「どうした、官兵衛」
「……織田様は、このようにむごい事をされる方だったのですね……読み誤りました」
「違う。お前には、殿様が好きで殺してるように見えるかもしれねえが、そうじゃねえ。荒木殿も、その家臣も、先の約定に背いた。だから殿様は罰した。こういう派手な虐殺は、殿様の趣味じゃねえよ」
秀吉は淡々と言ったが、孝高は蒼白な顔で頭を振った。長い、麻糸のような髪が、動きに従って揺れた。
「しかし、だからといって何百人も、生きたまま焼き殺すなど……!」
「謀叛に加えて約定違反、さらに言うなら、長期にわたる想定外の出兵とその戦費。どれだけでかいかは、お前にだって分かるはずだ。並みの罰じゃあ、他に示しがつかねえ。同じ事をしようって奴が現れねえように、ことさら厳しい罰を選んだ。感情じゃねえ、理屈だ。そう割り切って考えろ」
「…………」
「上に立つ者ってのはな、いちいち感情に構ってたら、じきに行き詰まる。おれや、お前だってそうだ。長柄の兵士が『怖いから戦は嫌だ』と言ったら、お前はそれを可哀想だと思って戦を止めるのか? その結果、相手に殺しつくされるとしても? 殿様は、おれたちより、ずっと多くの感情と向き合わなきゃならねえ。だから、それぞれいちいち聞いてたら、殿様は何一つ出来なくなっちまう。だから、感情は切り離して理屈を使う。それが良いとか、悪いとか、そういう問題じゃねえぞ。そうしなけりゃならねえから、殿様はそうしてるんだ。そこンところは理解しておけ」
孝高は項垂れた。
「……貴方も……羽柴様も、感情を切り離して理屈を用いる人間だと、仰りたいのですか。ならば、兵を死なせたくないという、貴方の言葉は、嘘だったのですか?」
「嘘じゃねえさ。あのな、官兵衛。人間がそんな簡単に説明できるモンだと、まさか思ってるわけじゃねえだろう? 攻城よりも包囲を選んだのは、確かに、兵を死なせたくねえってのも理由の一つだ。そして、自軍の損失を抑えておけば、後で使える兵力はでかくなる。時間も金も失うが、作戦次第で時間は取り戻せるし、金はまた稼げばいい。命は失ったら戻らねえからな、無闇に血を流して取り返しのつかねえ損をするよりも、取り返せる損をするべきだ。おれの言ってる事は分かるか? 一つの言葉で、人間を説明できるわけねえんだ。一つの顔しか持ってねえ人間がいねえのと、同じことだ。お前は人の親で、人の夫で、部下の主で、おれの部下で、ほらな。これだけで四つだ。おれも同じ。殿様だって同じだ」
「……はい」
重苦しい溜息を吐いた孝高を見つめながら、秀吉は、自分が何故この男を信用できないのか、気付いた。孝高は、心を大事にしすぎるのだ。
(普通の人間なら、それでいいのかもしれねえ。だが、おれの参謀として戦場に住むには、心は後回しにしなけりゃならねえんだ。こいつの心は温かい、にんげんの温度だ。もっと冷えて、もっと凍えるくらい、半兵衛くらい冷たく鋭くならねえ限りは……)
重治は氷だった。怜悧で冷徹、一貫して論理的で、しかしその核は野心という生々しい感情だった。それが、冷たくて熱い、竹中重治という男を形作る温度だった。秀吉には、その温度が心地よかった。
けれど、孝高は感情が強い。情に揺れやすい。それが理性や理屈を鈍らせることが、ままあった。
一分の隙も、一寸の間違いも許されない、厳しい枳殻の道を選ぶには、孝高では危ないかもしれない。秀吉はそう思った。
(荒木殿に捕まる前の、ぎらぎらしてた官兵衛だったら、もしかしたら信用できたかもしれねえが……牢暮らしが、こいつを変えたんだろうな)
重治と何度も話し合った「あの計画」に、秀吉は加わることを決めていた。関わり合った以上、もう知らぬふりは出来ない。それに、「計画」の主眼は革命だった。ひとつめの掃滅の革命を起こすのが織田信長。破壊を終わらせるのがふたつめの革命。秀吉の役割は、このままいけば、ふたつめの弑逆の革命を浄化し、新たな政権の基礎を「正義」の名の下に固める、みっつめの討伐の革命だった。
(破壊を終わらせる。つまり、殿様はもうじき、用済みになるってことだ。そして、殿様を討てるだけの人間を、おれが討つ。邪魔なものがなくなる。おれが織田政権の頂点になれる)
否、と秀吉は己の考えを打ち消した。信長が消え、政権の頂点の座が替わるならば、それはもはや「織田政権」ではない。秀吉は、信長の息子たちにその座を渡す気など、微塵も無かった。織田政権は一代で終わる。そして次に来るのは、秀吉の「羽柴政権」の時代でなければならなかった。
目標地点が見えてきた。秀吉は思う。目指してきた「天辺」は、じきに、手の届く所にくるのだ。
年が明けて、天正八年一月六日。秀吉は軍を動かした。包囲は充分な効果をもたらした、と判断したのだ。
三木城で最も高所にあるのが、宮ノ上砦である。秀吉は、この砦を急襲して手の内に収めた。高所を取れば、戦闘を有利に進められる。宮ノ上砦から、城内へ一気に攻撃を仕掛けた。
飢餓の限界にあった三木城は、瞬く間に制圧された。城主・別所長治をはじめとする中核の人々は、逃げ込んだ本丸に閉じ込められた。三木城の中で、本丸だけが孤立した状態になったのだ。今度こそ、本当に、どこにも逃げ場は無くなった。
一月十五日、ついに長治は降伏条件を提示した。抗い続けても、もはや勝機などなく、ただ死者が増えるだけだと判断したのだろう。長治と、弟・友之、叔父・吉親の三名が切腹するのと引き換えに、本丸に残った城兵・非戦闘員全員を助命してくれ、というのが、城側の条件だった。
「文句の付け所のねえ言い分だな。あるとすれば、言い出すのが遅すぎたってくらいか」
「自身の命と引き換えに部下を救う……武家の鑑と称されるでしょう」
冷静に言った秀吉と対照的に、孝高は喉に絡んだ声でそう言った。何らかの感情に震えているようだった。
秀吉は、その言葉に頷きはしたものの、内心では理解できないと思っていた。城内ではとっくに餓死者も出ている。部下の命を救うと言うなら、降伏の申し出はもっと早くなければならなかった。餓死者、そして前年九月の戦闘での死者。これらは、長治が篭城を続けたが為に死んだ者たちだった。
(どこが褒められる? 意地張って閉じこもって、餓えて苦しんで部下を死なせておいて、本丸ひとつまで追い詰められねえと、降伏さえ言い出せねえような、そんな男だぞ。むしろ、ただ時機を逸してただけじゃねえか。力の差は明白、早々に降伏して生き延びればいいものを、ここまで長引かせて何になる。長治を助けるだけの力は、毛利にはもう無えってのに)
しかし、それは秀吉の視点である。城内でどういった遣り取りが交わされたのか、そもそも命令系統がどうなっているのかさえ、秀吉は知らない。知らなくても戦は出来るからだ。
(別所長治と弟と叔父、か。まあ“良心的”に解釈すりゃあ、有力者二人と意見が別れた、ってところか。人間ってのは、きれいなものだけで出来てるわけじゃねえんだ。欲とか野心とか立場とか体面とか、そういうものに動かされる生き物だ)
秀吉は、そういう「きたないもの」に動かされる人間を、信用することなどできなかった。何をするか分からないからだ。出世欲と野心のために秀吉が駆けて来たように、名誉欲と野望のために重治が燃え尽きたように、それらは人間に力を与える。そして、秀吉を利用しようとした人々が失敗したように、それらに動かされる人間は予測不可能な行動をする。
(きたないものを否定はしねえ。だけど、厄介だってのは事実だ。そのために、理想だとか大義だとか信念だとかいう、きれいなもので取り繕わなきゃならねえ)
それはそのまま、秀吉にも当てはまった。出世欲と己の野心のために、秀吉は生きてきた。しかし、人を従え治めるには、きれいな理想が必要である。秀吉は巧妙な嘘で、上辺の理想を人々に信じさせてきた。
(きたないものと、取り繕うきれいなもの。それから、誰もが持ってる欲を満たしてやること。上に立つ者には、それが必要だ)
欲を満たすことは、秀吉がずっと神経を配ってきたことだ。弟の長秀には「補佐役としての功名」を、諜報部隊の蜂須賀正勝や坪内長泰には「目に見えない功績に対する賞賛と労い」を、新たな参謀である孝高には「必要とされること」を、秀吉は与えてきた。それは信用とは別のもの――報酬である。単なる報酬を「信用」と偽って、嘘の衣に包んで、秀吉は部下に与える。部下はそれを享受して働く。秀吉の軍は、そうやって成り立っていた。
秀吉は、埒の明かない思考を切り上げ、現実に立ち返る。
「……三木城は、これでおれたちのものになる。三人の切腹と、城の受け渡しの支度をさせろ。接収が済んだら、すぐに兵を動かすぞ」
「残る別所方の城を攻めるのですね」
「ああ。展開が見えた以上、のんびりしてる理由はねえからな」
十七日、長治・友之・吉親の三人が切腹した。ちらりと見えた長治の目には、深い絶望の色があった。
秀吉は三木城を占領し、城兵や非戦闘員に食べ物を与えた。さぞ貪り付くだろうと予想していた羽柴軍の思いとは違い、解放された人々は無気力にもそもそと食事をしていた。絶望、諦念、何も無い苦しみの底からは、すぐには帰って来れないのだろう、と秀吉は思った。
そして、先の言葉通りすぐに軍を動かし、秀吉は長水城・英賀城を落とした。
長引いた三木合戦は、ここに完全に終結した。
天正八年、秀吉は播磨から因幡へと攻略の矛先を向けた。
五月、因幡守護・山名豊国の居城である鳥取城を攻めた。三ヶ月の篭城戦の末、豊国は降伏し、信長に忠誠を誓った。秀吉は、上首尾に終わった鳥取城攻めにひとまず安堵し、城はそのまま豊国に任せて兵を退いた。
しかし、城内には毛利方に靡く者が多くいた。豊国の家臣――森下吉途と中村春続がその中心であった。織田方に人質を出している豊国は、いくら二人が説得しても、毛利方に鞍替えする事は承知できなかった。次第に、親毛利派からの風当たりが強くなり、九月二十一日、豊国は十人余りの小姓だけを連れて、鳥取城を出奔した。
『それで行き先が“おれ”ってのは、偶然か、それとも狙ってたのか。まあ、どのみち他に適任もいねえことですし、任せてもらいますよ』
豊国は秀吉を頼り、秀吉は再びの鳥取城攻めを決めた。
『先に鳥取城を攻めた時は、篭城を決め込まれて長引いた。今回もそうなるだろうな。勢いのついたおれを相手に、山名は三ヶ月粘った。前例があるなら、真似したくもなるだろうよ』
三木合戦という長丁場を経て、秀吉は兵糧攻めの機微というものを学んでいた。ただ囲むだけでは意味が無い。食い物は商品である。商売ならば、金を出した者に売るのが筋である。だから、鳥取城の人々が食い物を買えないように、秀吉は米を買い占めて米価を高騰させた。
一方の鳥取城では、もともとの城主であった豊国を追い出してしまったものの、他に城主にふさわしい人物がいない。そこで、毛利両川のひとり吉川元春に、適当な人物の派遣を願った。そうして送り込まれたのが吉川経家である。
年が変わって、天正九年三月十八日。新たな鳥取城主として経家が入城した。
鳥取城を巡るこの戦いの鍵が、一度目の鳥取合戦や、あるいは三木合戦と同じように兵糧にあることを、秀吉だけでなく経家もまた予測し、理解していた。経家は兵糧米の調達に励んだが、秀吉の米価高騰の手回しのほうが幾許か早かった。大金を積んでも、経家の手許に集まる米は僅かだった。
秀吉は二度目の鳥取城攻めの計画を立てた。本格的な攻城は七月からとした。秋に入れば稲刈りが始まり、兵糧米が出来てしまう。その前に城を包囲し、冬になって雪で身動きが取れなくなる前に決着をつける、という筋書きだった。米価高騰を主とする下準備は、一年以上前から入念におこなっていた。すでに、因幡と、鳥取城の補給源・伯耆の米は、粗方秀吉の下に買い入れられていた。
そして七月、計画通り秀吉は鳥取本城を囲み、ふたつの出城には部隊を配置した。兵糧補給路になる千代川は、河口に砦を築き、海上には警備の船を置く。完璧な布陣だった。
包囲が終わると、秀吉は手を出さない。ただひたすら、城内の飢餓を待った。
九月には城内の食糧は底をつき、餓死者が出始めた。食える物はことごとく人々の胃袋に飲み込まれ、挙句、倒れた仲間の肉を喰らう者まで現れた。
経家は、これ以上の抵抗は不可能と判断し、自身の切腹および開城と引き換えに、城兵の助命を求めて、降伏を申し入れた。
(ここでも切腹だ。城主は――吉川経家は、これじゃあまるで、腹を切るために送り込まれたみたいじゃねえか)
部下の不始末の責任は上の者が取る。それは分かる。上に立つ者には、部下を監督する義務があるからだ。しかし、たいした縁も無い名ばかりの「部下」のために、経家は自身の命を捨てようという。秀吉にはそれが理解できなかった。
(この戦は経家が起こしたものじゃねえ。だったら、責任を取るのは戦を起こした張本人でなけりゃならねえ。それは誰か――山名の家臣たちだ。腹を切るべきは、森下と中村の二人であって、担ぎ出された経家じゃねえはずだ)
秀吉は、敵には容赦しない。合戦でぶつかれば斬り殺し、城を囲んでは干し殺す。だが、そもそも秀吉は、人を殺す事が好きではないのだ。
同情や憐れみではない。出世の邪魔になるのなら排除せねばならないし、秀吉を害そうとする者は抹殺せねばならない。だから問題はそういうことではなかった。
単純に、気分が悪いからだ。
殺すべき敵は殺す。しかし、そうでない人間は、できるなら殺したくない。秀吉は、今までも、そしてこれからも、そうしていくのだろうと思っていた。
『この降伏条件は受け入れられねえ。戦の責任を取ると経家が言うのならば、森下道誉と中村対馬守を処断して責任としろ。二人の処断と引き換えに、経家と城兵は助命する』
秀吉は経家の条件を突っ撥ねて、そう言い返した。おまえはここで死ぬべき人間ではない、そう言ったつもりだった。
しかし、経家は頑として頷かなかった。戦の発端が二人にあるのは分かっている。だが、彼らは今は経家の部下であり、経家自身が関知しないことでも、共に過ごした時間が短くても、部下のしたことの責任は自分が取る。経家はついに主張を撤回せず、根負けした秀吉が折れて、降伏の条件は吉川経家の切腹と鳥取本城開城、と決まった。
十月も終わりに近付いた二十五日、経家は切腹した。秀吉の目の前に端座した、痩せこけた男は、濃い隈に縁取られた目を細め、わずかに微笑んで死んだ。その顔を見た途端、秀吉は理解した。懐かしい微笑だった。
(そうか……城主とか責任とかいうのは、確かにこいつが死ぬ理由の一つだった。城主の取るべき責任を果たして死んだ、って評価が欲しかったんだ。こいつは、それを“計算”して、自分に一番都合のいい末期を弾き出した。あの降伏条件は、こいつの“賭け”だったんだな)
死の間際に経家が浮かべたのは、秀吉にとって最も心地よい温度の、竹中重治と同じ微笑だった。熱情を計算に委ねた、冷たくて熱い表情。それに気付いて、秀吉は経家の死を惜しいと思った。
(毛利家に、こんな男がいたとはな……だけどもう遅い。経家は死んだし、死ななくても経家がおれに賭けることは決して無かったんだろう)
心中の思いを振り払って、秀吉は城内をあらためさせた。保護するべき城兵の数を把握するためだったが、その作業の途中で、二人の男の死が報告された。
ことの発端となった森下吉途と中村春続は、それぞれの持ち場で、前夜のうちに腹を切って果てていたらしい。
報告を聞いた秀吉は、経家がそれを知っていただろうか、と考えて、すぐに止めた。死んでしまった人間について、いつまでも考えているのはよくない。悔いが残るだけで、時間の無駄だからだ。
鳥取城は再び落ちた。必要な情報はそれだけでよかった。
鳥取城を手に入れた秀吉は、次に備中東部を標的とした。備中と備前の国境は、美作と同じく、宇喜多と毛利による争奪戦の舞台であった。
秀吉は宇喜多直家とともに争奪戦に臨んだが、年の瀬が迫る頃、病で臥していた直家が死んだ。訃報は公には伏せられ、秀吉の手元に預けられていた八郎が跡目とされた。
八郎は直家の次男である。長男が夭逝したうえに、直家の晩年に生まれた子であったため、殊更可愛がられて育った後継者だった。
「公認の後継者とはいえ、八郎はまだ幼い。叔父に当たる七郎兵衛(忠家)を筆頭に、一門衆みなで八郎を支えてやるといい」
秀吉は、あくまで穏やかにそう言った。強制していると思われてはいけなかった。
宇喜多直家は、秀吉にではなく、織田信長に従ったのだ。秀吉が信長の配下であり、中国方面軍の司令官であっても、直家に命令するのは信長でなければならなかった。秀吉がしていいのは、中国方面軍に加わった宇喜多軍に対する、戦の指示だけであって、家中の諸事には迂闊に触れられなかった。それはたとえ、秀吉の言葉が信長の代弁だと受け取られていても、である。信長が出していない命令を、秀吉が出す事は、許されていなかった。
まして、家督の相続ともなれば一大事である。肩書きだけの問題ではない。一家の主には本領というものがあるからだ。宇喜多直家の本領を安堵し、息子八郎の相続を認める、と信長が言わなければ、八郎は宇喜多家当主を名乗れないのだ。
しかし、ここは備前岡山で、信長は近江の安土城にいる。直家の死と八郎の家督継承を報じ、信長からの返事が来るまでは、どうしても時間がかかる。
「殿様からの命令があるまでは、勝手に物事を動かしちゃいけねえんだがな。だが、こっちの状況は逼迫してて、相手に隙を気取られちゃあ堪らねえ。だから、殿様の命令が届くまで、暫定って形で、おれの指示で動いてもらえねえかな。仮に殿様に怒られたとしても、宇喜多の独断だと思われるより、おれの独断ってことにしといたほうが、後々面倒も危険も少ない」
秀吉の申し出に、忠家以下の宇喜多一門は、複雑な表情ながら頷いた。発言の真意が読めなかったせいだろう、と秀吉は思った。我ながらお節介な台詞だったな、と胸中で苦笑する。
秀吉としては、そう簡単に宇喜多を失うわけにはいかないのだ。東から来た秀吉と違って、宇喜多の人々には土地勘というものがある。戦をする上で、土地勘はかなり重要だった。それに、宇喜多軍は決して弱くない。どころか、毛利の足止めをする障壁として、非常に役立っている。まず足場を固めねばならない秀吉には、宇喜多という障壁がどうしても必要だったのだ。
ともあれ、「暫定的に」忠家を八郎の補佐役とした状態で、天正九年は暮れた。
年が明けて、信長からの命令が届いた。宇喜多直家の本領を安堵し、宇喜多八郎の家督継承を認める。上奏したとおりの文言で許可が出され、秀吉はほっとした。秀吉の独断という扱いにした暫定措置に関しては、まったくありがたいことに「お咎め無し」であった。
天正十年一月九日。宇喜多八郎は正式に宇喜多家の継承を公表した。宇喜多軍は今までどおり、中国方面軍に組み込まれ、秀吉は実質的に備前も傘下に収めることとなった。
寒気が和らぎ始めた三月、秀吉は姫路城を出立しようと支度していた。そこへ、伴天連からの使いが密かに現れた。
今までも、状況が動くたびに、夜陰に紛れた黒衣の男が、秀吉の下を訪れていた。だが、まだ陽もある明るいうちに現れるのは、異国の伴天連と最初に会話したとき以来だった。
「よう、どうした? こんな昼日中から、珍しいじゃねえか」
「はい。此度は急ぎのご連絡で参りました」
「……急ぎ、か。“計画”のことだな」
「ご明察、恐れ入ります。本題ですが……機は、熟しつつあります。貴方様は、織田様から一兵でも多くの援軍を受け取れるよう、計らって下さい」
「そして、誰が実行役だ?」
黒衣の男は、わずかに首を振った。ここでは、名を明かす事は出来ないらしい。
「最後まで京に残られる方です。貴方様は、その方を“主殺しの謀反人”として討伐して下さい。計画の総仕上げは、貴方様の手に委ねられております」
「日時は? それも未定なんだな?」
「そこはさすがに、調整が難しく……」
「いいさ、分かった。それならそれで、おれにも手はある」
「くれぐれも、段取りをお忘れになられませぬよう……」
念を押す男に、秀吉は酷薄な笑みを浮かべて答えた。
「ああ、大丈夫だ。この計画の“三つ目の革命”、必ず成就させてみせる」
三月十五日、秀吉は姫路城から備中へ向けて出陣した。一月後の四月十五日には、宇喜多勢一万を先鋒に、三万近い大軍で高松城を包囲した。
「こんどは、兵糧攻めは使えねえ。高松城はそれくらいじゃあ落ちねえし、あれは時間がかかりすぎる」
そして、今はもう、残り時間が少なくなっているのだ。悠長に飢えを待つ余裕は無い。
秀吉は二度、城を攻めた。しかし、地形の難も有り、二度ともあえなく敗退する。
「正攻法であの城は抜けねえな。干し殺しも却下。とすると、どんな策を取るか……」
思案しているところへ、毛利輝元自らが四万近い援軍を率いて接近している、という報告が入った。
ここだ、と秀吉は直感した。
「援軍を要請する。少しくらい法螺吹いてでも、できるだけ多く援軍を送るよう、殿様に使いを出せ」
秀吉は、口先の交渉に長けた小寺孝高に、そう命じた。「計画」の段取りの一つ、信長への援軍要請である。これはどうしても必要だった。
同時に、それが「計画」の一端であることを誰にも悟られぬよう、徹底して根回しをした。頼れる人間――計画を知る人間がいない以上、これは秀吉一人でしてのけねばならなかった。
「三木城、鳥取城と、おれは兵糧攻めの長期戦をして勝った。当然のこと、毛利もそれは熟知してる。この高松城は同じ手が通じねえ。しかも堅城、地形も防禦に適してるときた。おまけに城主は、それと知られた清水長左衛門だ。三万で囲んでも攻略は厳しい。そこへ持って来て、毛利右馬頭が援軍四万を連れて来る。これは、おれたちだけじゃあ、到底勝ち目が無えってことだ。どうでも援軍が必要なんだ。形だけの、旗持っただけの烏合の衆だって構わねえ。大事なのは“織田の援軍”って事実だ」
真剣な表情で、歯を食いしばるようにして、秀吉は説いた。交渉役の孝高は、黙して聞いている。
「おれの後ろには殿様がいる。殿様が毛利を倒すために大軍を派遣した、そういう形が欲しい。援軍の大将だけは大物を担いでもらわなきゃならねえが、いいか官兵衛。形だけ、数だけでいいんだ。くどいようだが、織田の木瓜の旗印を掲げた軍勢が来てくれさえすれば、それでいいんだ」
「では、中将様を大将に可能な限りの大軍でお越し頂くよう、お願いして参ればよろしいのですね」
「そうだな……どうせなら殿様自らのご出馬を切望する、とでも言ってみるか。おれは殿様に泣きつかなきゃならねえほど、高松城攻略に手こずってる。そういうことにしよう。ああ、だけど泣き落としは駄目だぞ。殿様は嘘泣きも空涙も見慣れてるから、一発で法螺がばれる。やるなら本気で泣くか、それが駄目なら必死で食い下がるか、どっちかだな」
「……分かりました。必ず、援軍を派遣していただけるよう努めます」
武者震いに似た緊張が、孝高を襲ったようだった。硬い顔で頷き、退去しようとしたところを、秀吉は慌てて呼び止めた。
肝心な事をまだ話していなかったのだ。
「早速出かけるのはいいんだが、その前に知恵を貸してくれ」
「あ、はい、つい慌ててしまいまして……」
「殿様に援軍をねだるのは、これは作戦だ。困ってるのは本当だがな」
「はい」
「だが、いざ援軍が来たって時に、おれが真剣に攻めてねえと思われるのも困る。そこでだ。高松城を攻めつつ、毛利の援軍を牽制できるような方法が欲しい。官兵衛、お前、何かいい案はねえかな」
尋ねた口調は淡々としたものだったが、秀吉の内心の苦境は、充分に滲み出ていた。こればかりは演技ではない。本当に、秀吉は心底困っていたのだ。
兵糧攻めは使えない。直接攻撃は通用しない。ただ囲むだけでは輝元率いる援軍に崩される。高松城と輝元、双方を抑え、この戦場を膠着させる方法が必要だったが、いかんせん秀吉には知識が足りない。孝高の頭脳に頼るしかなかった。
孝高は腕を組んで、じっと考え込んだ。焦点の合っていない目は、高松城を俯瞰する図を浮かべているのだろう。やがて、眉間に皺を寄せて孝高は顔を上げ、躊躇いがちに秀吉の顔を見上げた。
「策は……有ると言えば、有ります」
「なんだ、はっきりしねえな」
「必要になる費用と人手が、半端ではない。失敗すればこちらに甚大な被害が出ます」
「どんな策だ」
「水攻めです」
青白い、不健康そうな顔で、孝高は断言した。
「高松城は低地に建つ城です。この周りに、城をぐるりと囲むように堤を作り、足守川の水を堰き止めて――城を沈めます」
「沈めるったって……堤の高さが、それこそ半端じゃなくなるぞ」
「屋根まで沈めずとも、人馬が行き来できない程度の水が溜められれば、それで随分士気を殺げると思います」
「なるほど……よく思い付いたな。さすがに切れ者だ」
孝高の思い切った奇策に、秀吉は驚きはしたが、素直に褒めてやった。
しかし、孝高の顔色は晴れない。長い間の牢暮らしから帰って以来、健康そうな様子はすっかりなくなっていたが、それにしても褒められたなりの反応があっていいはずだった。
秀吉は、そんな孝高の様子を怪訝に思った。
「どうした、官兵衛」
「……いいえ。私が考えた策ではありませんので……」
「兵法か何かにあるのか?」
「大陸の故事です。はるか昔、春秋の時代に、晋の智伯なる将が晋陽という城を水攻めにした逸話があります」
秀吉は首を傾げ、さして多くない知識を漁ったが、ぴんとくる記憶はなかった。
「ふうん……おれは聞いたことのねえ話だな。有名なのか?」
「さて……春秋を読んだ者なら知っているかもしれません。智伯は強引な領土拡大が仇となって、味方に離反されて敗死しましたから、武勇伝として好まれる類の話ではないと思います」
「…………そうかい」
内心に、ちりっと苛立ちの火花が散った。秀吉は思った。
(言わなくてもいいことを、わざわざ言う。こいつの悪い所だ)
智伯とかいう武将がどう死んだか、そんなことは言わなくてもいいのだ。まして、それが自滅だの裏切りだのの場合は言うべきでない、とさえ、秀吉は思った。孝高の言い方では、まるで水攻めの策を採用したら秀吉も味方に裏切られて死ぬ、と言っているようなものだった。
確かに秀吉は、知恵を貸してくれとは言ったが、秀吉の機嫌を取れとは言っていない。だが、だからといって秀吉の機嫌を損ねろとも、言った覚えはないのだ。
(こいつは――わざとやってんのか? それとも、こういう癖があるってだけなのか?)
秀吉は短く息を吐いた。どちらでもいいことだった。
(どっちでも同じだ。余計なことを言う奴は、おれの他の奴にも余計なことを言うかもしれねえ。それじゃあ信用できねえな)
腕を組み、目元を険しくして、秀吉は孝高を睨んだ。
「そういうことは言わなくていい。おれは験を担ぐほうじゃねえが、気分は悪くなる」
「はっ……?」
「分からねえならよく思い返しとけ。……お前が安土に着く頃には、こっちは堤防の工事を始められる。人足と資金を用意する時間が要るからな。お前は、殿様から援軍を出すって約束を、何が何でも取り付けろ。いいな?」
「は、はい」
強張った表情で頷いて、孝高は逃げるように退出した。
五月八日、秀吉は堤防工事に着手した。思い切って莫大な報酬を提示し、駆り集めた男たちを急き立てて、目が回るほどの速度で工事を進めさせた。永年残る堤防ではない。高松城が落ちるまで機能すればいいだけのものだったから、治水や灌漑に秀でた者が集まって知恵を出し合い、早々に完成させられるよう簡素な設計図を作った。
九日後の五月十七日、孝高から毛利軍の接近を報じられた信長は、ただちに明智光秀・長岡忠興・池田恒興・高山重友・中川清秀らに出陣を命じた。烏合の衆でも雑兵でもいい、と言い含められていた孝高が驚いたことに、この錚々たる顔触れは「先鋒」に過ぎなかった。とりあえず光秀らの救援軍を先行させておいて、信長自身が軍勢を率いた「本隊」として出陣するつもりだと言う。
孝高はこの朗報を持って戻った。援軍は独行の孝高のようには進めない。徒歩の兵が落伍しない速度でしか進軍できないからだ。
結果として、その時差が秀吉に味方した。
(明智……あいつだ。間違いねえ)
孝高の語った先鋒の構成を聞いて、秀吉は直感した。いつか、伴天連の描いた計画の意図が脳裏に閃いたように、今度もまた、「ふたつめの革命」の実行者が誰なのか、秀吉は直感によって気付いたと言っていい。
(あの冷徹な野心家なら、うまいこと焚き付けりゃあ、殿様を弑すって計画に加担してもおかしくねえ。おれと同じに、あいつも殿様の上を見てるし、殿様に忠誠なんざ誓ってねえ)
しかし、気付くと同時に、伴天連の周到さに舌を巻いた。ひとつめの「掃滅」の革命に信長を起用する、これはいい。他に適任は居なかっただろう。だが、ふたつめの「弑逆」の革命に光秀を、みっつめの「討伐」の革命に秀吉を起用する。これが何を意味するか。
(……何もかも、伴天連どもには筒抜けってことかよ。畜生め)
明智光秀は有能な男であり、鉄砲という優れた特技の他に文治の才もある。ただし、峻険すぎる性格が災いして、同輩や朋輩には不人気である。
羽柴秀吉は低層の出身ながら要領がよく、人を取り込むのが上手い。文武とも抜群というのではないが、人心を掌握し操作するという特筆すべき才覚がある。
なぜ、それを伴天連が正確に把握し、理解しているのか。答えは簡単だった。切支丹の教えのうちにある「懺悔」が、すべてを告白してしまうのだ。
(おれも、駒の一つか。伴天連どもは……つまるところ、南蛮の酋長が日ノ本を手に入れようと送り込んだ草じゃねえか)
秀吉の中に怒りが湧いた。渡してなるものか、好き勝手に蹂躙させてたまるものか。秀吉は、伴天連への嫌悪を滾らせるのと同時に、何としても日ノ本の天辺を手に入れようと奮い立った。
まずは計画に乗ってやるのが良い。伴天連の計画は、信長に代わる新たな支配者として、秀吉を頂点に座らせることを目的としている。まずはその手に乗ってやって、秀吉が権力を得る。得てしまえば、秀吉は誰の目にも明らかな「英雄」になる。覇者ではない、英雄なのだ。覇者を消すのは容易いが、英雄を消すのは難しい。
(天辺を掴んだら、おれに逆らえる奴はいなくなる。刃向かうより頭下げるほうがいいって思わせりゃあいいんだ。そうすれば、伴天連だっておれの邪魔は出来なくなる)
煮え立った油に似て、透明な憤怒は秀吉の脳髄の隅々までを覆っていった。
(お前らの計画を逆手に取ってやる。最後に勝つのはおれだ。おれの倒すべき最大の敵は、お前ら南蛮だ)
だが、まずは信長と光秀を排除することだ。秀吉は、光秀が「ふたつめの革命」を実行するまでに、なんとしても高松城を降さねばならない。
五月二十日、ひたすらに急がせた堤防の工事が完了した。途方もない厚みと全長を持った堤防は、その全容を捉えるにも苦心するほどの規模であった。折りしも梅雨時、豪雨が瞬く間に水を張り、広大な湖が出現した。高松城はもはや、透明な盤上に置かれた小さな置物のようだった。
これで清水宗治は動けない。秀吉は、ひとまず安堵の息を吐いた。
陣中深くに設えた部屋に籠り、蜂須賀隊に集めさせた織田軍の各戦線の情報を確認する。着いて来ようとした孝高には用事を言いつけて下がらせ、秀吉は一人で思索を巡らせた。
「ふたつめの革命」の実行者が秀吉の推測どおり光秀であるならば、「みっつめの革命」で光秀を排除した後に秀吉の最大の競争相手となりうるのは、北陸に派遣されている柴田勝家だ。今は越中辺りで上杉と対峙しているという。漆黒の鷹を思わせる勝家ならば、彼の前に立ち塞がるものを引き裂き、信長の敵討ちという目的の為に飛翔するだろう。勝家のほかには滝川一益や丹羽長秀などが、警戒すべき実力者だったが、一益は関東管領の役を与えられて上野に引っ掛かっている。小田原の北條と睨み合っていて、迅速に動く事はまず出来まい。一方の長秀は、事が起きたときには最も近い堺にいる。だが、四国の長曾我部元親討伐の為に神戸信孝のお守りを任されているから、変事を察知しても、信孝と意見が噛み合わなければ動きは鈍くなる。
「丹羽殿のほうには、少し小細工が必要だな」
どんな細工が良いか。秀吉は眉根を寄せて考えた。「ふたつめの革命」は大混乱を巻き起こすだろう。誰もが、早く正確な情報を欲しがり、情報の獲得の為に血眼になるはずだ。
(そこだ)
どんなことにも言えるが、急げば急ぐほど粗が目立つ。迅速さを重視すれば情報量は減り、確実さを求めれば時間が掛かる。変事の勃発が予定されているから、情報収集部隊の引き上げる頃合はおおよそ見当がつく。そこへ、秀吉の十八番の「嘘」を混ぜてやればいい。長秀と信孝が食い違った情報を手にすれば、それを整合する間は足止めになる。
競争相手への対策は、今のところはこれで良いだろう。秀吉は別の問題に頭を切り替えた。
「ふたつめの革命」の実行場所は京である。京周辺は光秀の支配圏だ。伴天連が言うには、切支丹や朝廷への根回しは出来ているという。京周辺の実力者たちも、多くは中立か、秀吉に味方する手筈になっている。こればかりは確認できなかった。秘められた事実を探り出す諜報部隊は、そもそも、秀吉が計画に加担することどころか、計画の存在すら知らされていないのだ。不安は拭い去れないが、伴天連の言葉を当てにするしかなかった。
「……まあいい。今は、一日も早く高松城を落とすのが重要だな」
翌日、秀吉は堤防の上から城内を眺めてみた。遠目にも、落ち着かない雰囲気が見て取れた。補給路は既に断たれ、高松表まで来た援軍も湖を前に手が出せない。毛利方の士気は、否応もなく下がっていた。
さらに駄目を押すべく、秀吉は毛利勢の陣営に、信長来援の噂を流した。嘘の情報ではなく、真実信長は出陣の意志を表明しているから、毛利方で探った中にも同じ情報が入った。信長来援が事実だという裏付けを得て、形勢不利と見た輝元は講和を決意する。
安国寺恵瓊を使者に立て、輝元と秀吉と高松城主・清水宗治の三者の間で、降伏条件の相談が行われた。宗治は、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を求めた。その願いが縷々と綴られた嘆願書を読んで、秀吉はひそりと溜息を吐いた。じきに日も変わろうという刻限、自陣の中枢である自分の床几の上だった。また切腹だ、と思う気持ちも、無いわけではなかった。
(だが、こいつにゃ悪いが、腹を切るも切らねえも大したことじゃねえ。大事は、別の所で起こってるんだ)
この日、六月三日。深更に近い夜分に、京からの急報が届いていた。
『明智殿、御謀叛。右大臣様、中将様ともに消息不明』
きわめて簡潔な文言でも、秀吉には充分すぎた。これは、何年も前から計画されていた、予定された兵乱なのだ。信長も信忠も、生き残れはしまい。
(ついに来たか。ちょうどいい時機だ)
しかし、毛利との講和は、まだ成立していない。輝元が講和に踏み切った理由が信長来援にある以上、講和および高松城の開城が成立するまで、何としてもこの変事を秘匿しなければならない。
秀吉は、孝高を通して緘口令を布かせた。自陣営の武将たちに対しては、宗治の嘆願書を理由に和睦をもぎ取り、すぐさま京へ引き返すことを通達した。緊急事態の名の下に、指揮官である秀吉は一方的な決定を下すことができた。
翌、六月四日。秀吉は輝元との交渉で揉めていた割地条件を河辺川・八幡川以東とし、清水宗治の切腹を講和条件として提示した。宗治の強い要望もあり、輝元はこれを受け入れ、和睦が成立した。
秀吉が用意した舟に乗り、兄や家臣らと共に現れた宗治は、毅然とした態度を微塵も崩さなかった。秀吉を映したふたつの瞳には、恨みも憎しみも無く、ただ真っ直ぐな強さがあった。
屹と顔を上げ、隅々まで神経の通った所作で、宗治は腹を切った。
(……なんて奴だ)
忠誠や、あるいは信義というものに懐疑的な秀吉も、この態度にはさすがに衝撃を受けた。
(人は、あれほどにも凛然と死ねるものなのか)
宗治の真っ直ぐな眼差しは、秀吉に冬の天を想起させた。冷たく、凍てて硬質な、澄み切った空気。宗治の佇まいは、そういう美しさを持っていた。
いままでに秀吉が見てきた人々とは、あまりに異質であった。
秀吉は宗治の態度を称賛した。どろどろに澱んだ生臭い世の中に、いいものをみた。そんな気分だった。
五日から六日にかけて秀吉は包囲軍を纏めた。六日のうちに高松城の明け渡しは済み、仮の城主として配下の中から杉原家次を置いて出立した。
そこからの秀吉の進軍速度は凄まじかった。山陽道を東へ向かう羽柴の軍勢は、同日中に岡山城、七日に姫路、十一日には尼崎を通過。常識を頭から無視した疾駆だった。
途中、小休止した時に、息を切らせた孝高が足を引きながら秀吉に近付いてきた。
「織田様が亡くなられたのならば、その後の天下を差配するのは羽柴様ですね」
細い声でそう言い、孝高は秀吉を見た。探るような、警戒の色を映した瞳だった。
秀吉は鋭く舌打ちをして、きつい声を出した。
「この一大事に、お前は何を考えてるんだ。天下の差配なんざどうでもいい。今大事なのは、一刻も早く謀反人を討ち取って、殿様の敵討ちをすることだ」
下の者に聞かれないよう抑えた声だったが、厳しい叱責だった。少なくとも、秀吉はそれを演じたつもりだった。
いつもの孝高ならば、秀吉に叱責されると蒼白になり、顔を伏せていた。だが、この時は違った。動きの無い表情でじっと秀吉を窺い、ややあって深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。出過ぎた事を申しました」
静かに答えて、孝高は踵を返した。休息を切り上げ、行軍の再開を指示している。
秀吉は、その細い背をじっと睨んだ。
(……こいつ、勘付いたか)
光秀が信長を討つ事。その光秀を秀吉が討つ事。そして、秀吉が信長と同じ位置に座ること。これらは全て、完璧な計画の下に描かれた長大な芝居だった。しかし、その事実を知るのはごく少数でなければならない。どのような少数か――英雄となるべき秀吉に「逆らわない」人間だ。
孝高は秀吉の欺瞞に気付いた。どこまでを知っているのか、どこまでを疑っているのか。少し前までの孝高には無かった猜疑の表情が、いつか孝高が秀吉に叛くことを克明に物語っていた。
(こいつには話せねえ。こいつがおれに賭ける事も、おれがこいつを信用することも、絶対に有り得ねえんだ)
心のどこかで、孝高が重治の代わりになると思っていた。知恵が欲しいと思ったのも確かだが、重治と二人で、同じ道を同じ歩調で進んだことが、未だに忘れられなかったのかも知れない。秀吉は、ごく短い時間で、その未練をすぱりと断ち切った。重治は死んだ。もういない。そして、重治の代わりになる人間など、どこにも存在しない。
京へ向かう疾走が再開された。もうじき、明智軍との衝突が予測される。
秀吉は、馬上から行く手の空を見上げた。日ノ本の心臓の方角の空は、暗く、重く曇っている。そこに君臨していた信長は、もう亡い。
ずっと、恐ろしいと思っていた。強靭な意志に怯え、奇抜な思考を怖がり、ただ機嫌を損ねないよう、ひたすらに震えてきた。信長は、秀吉にとって恐怖そのものだった。
(だけど、おれはアンタから色々もらったよ。生き残る手段や、地位や富、数え切れねえくらいのものを。殿様、アンタのやり方は継がねえ。おれはもう、誰にも従わねえ)
どれだけ恐ろしくても、今の秀吉を形成したのは織田家での年月だった。
(おれは必ず生き残って、天辺に辿り着いてみせる。アンタは今、おれの踏み台になる。だから、さよならは言わねえ)
いっぴきの鼠が、灰色の獣になる時が来た。大志は無い。理想も無い。正義だの信念だのも無い。あるのはただ、「天辺」という目標地点だけだった。清濁の両方を、嘲笑と共に突き放す異形の獣。その咆哮もまた、黒でも白でもない色をしているのだろう。
秀吉は馬に鞭を当てた。
(ありがとうよ、織田信長)
終
参考:立花京子「信長と十字架」