爪切り
ルールが消えたのはいつだったか、もう分からない。生きていくためのルール。自分を保つためのルール。
野良。それは人間にとって理性と言われるものに似ている気がする。
あの日から野良として生きてきた精神も考え方もなかったことにした。あたいは甘える膝を求めたし、言葉遣いもがらりと変わった。自分自身の変化がどんなに激しいものでもよかったの。あたいは、何も与えないあなたに寄り添い続けた。これって無償の愛と呼べるのかしら。動物的本能にも愛情があると思うと、その存在を感じちゃうと、恥ずかしくてくすぐったい。何も見なくなった目を封じ、走ることをやめた両手両足をあなたに差し出し、何を聞いても上の空な耳はあなたの声しか頭に運ばなくなった。時が、ただ流れる。
喉が鳴るとあなたは軽く笑った。それは肌寒い雨の日。
覚えてるかしら。あたいが雨宿りのつもりで座り込んだベランダのドアをあなたが開けたのよ。洗濯物を干すでもしまうでもなく、天気を確認するでもなく、外の様子を眺めるでもない。当たり前に、あたいがここにいることを知っていたかのように真っ直ぐにあたいを見つけた。一瞬だけ、普段なら何とも思わないアパートの二階の高さに足がすくんで逃げ場が失われ、どんよりとした曇り空がさらに低くなった。あたいから視線を反らさないあなたに釘付けになりながら、少しの間なら可愛い子の振りをしてえさを十分に補給するのも悪くない、なんて思った。これは生きていくために必要な猫かぶり。猫が猫をかぶってみせるんだから、人間のあなたには到底見抜けない動物的生存本能でしょう。野良の血に色濃く刻まれた崇高な精神と闘うある種の闘争本能。人間じゃなくたって、自分自身と闘う生き物がいるってものよ。
ある日、あなたを引っ掻いた。それは何でもない生活の一部。
あたいの爪は切られた。ぱちん、ぱちん、と音も立てることなく切られた。ペンチで柔らかいチューブを切るような静かな空気の中、それは儀式のように厳かだった。あなたに何度も傷をつけた罰なのかもしれない、そう思うと抵抗をする余地も選択も無かった。これでもう、あなたに爪痕を残すことなんてないし、あなたは傷を治すこともしなくていい。お互いがお互いを少しだけ離れることができるのね。
でも本当の気持ちを伝えさせて欲しいの。決してあなたが嫌いなわけじゃない。こんなサディスティックな愛し方しかできなかっただけ。それだけなのよ。今更だけど謝るわ、ごめんなさい。でも爪を切らないでなんて言ったりはしない。あたいはどこまでもあなたに従順でいることにしたの。いくらか睨んでみたり目を潤ませたりしたけれど、どれもあなたは笑って見下ろしていた。見上げた視界に映るあなたの顎のラインには目が乾くほど見惚れたわ。それを知らせたくって、伝えたくって目の前にあるあなたのふくらはぎを引っ掻いたの。ごめんなさい。急な攻撃にびっくりしたあなたは顔を歪ませていたけれど、その眉間に現れる皺も、大好きだったの。何度も、何度も手を出したくなるほど可愛らしい様子だったの。
爪を切られてからというものあたいは上手く生きていくことが困難になったみたい。走ることも塀に登ることも昔は難しいことなんて一つもなかったのに、今ではアスファルトを捉えられないから氷の上にいるように不安定。塀の上を歩くのもまるで素人の綱渡りみたいにハラハラどきどきものよ。だから自然と外に出掛けることが減っていったの。あなたが仕事に出掛けている間だって、大人しく丸まっていることが多くなったわ。部屋の隅で、真ん中で、ところどころに残るあなたの残像に酔いしれた。それでもやはり付き合いというもののために、あたいは時々部屋を出た。日付も時間も決まっていないけれど、仲間の声が響き渡ればそれが合図。各々の集めた情報を持ち寄る猫の定例議会が始まる。
首輪のついた猫たちもいくらか見える。野良である私たちが彼らを邪険にしないのは、この街をとても熟知していること、年上であること、それからこの会議が彼らによって受け継がれていることにある。猫の縦社会は絶対条件。生きていること、それ自体がすでに栄誉なことなの。
誰かれの縄張りに新参者が踏み入ったことから情報提供は始まり、やがてどこぞの立食パーティーのような雑談が開始される。大抵は人間の噂話や他の生き物に関する話で、そんなときは必ずといってもいいほどに人間は悪の標的になってしまう。私の場合も例外ではなく、仲間にはよくあなたの悪口を吹き込まれるものだけれど、そんな話には一応乗ってみるの。そうするとね、またあなたのこと愛したくなる。ああ、私はあなたのこと見ていたいんだって思っちゃうの。
「どうして爪なんか切るんだろう。僕らにとっては唯一の武器なのにそれを取り上げるなんてひどいなあ。君のところの人間は独占欲がすごいというか独裁的というか、僕らの最も苦手な種類なんじゃないか?そろそろあの家を出たらどうだろう」
「そうね。いくらあたいが引っ掻くからといっても爪を切ることはないわよね。だいたい爪を引っ掻くには理由があるのよ、ちゃんとした理由が・・・・」
「どうしたんだい、顔が少し赤いみたいじゃないか」
やだわ、あたいったら。あたいが爪を立てる理由はそう、あなたに見惚れたことを表現する手段なのよ。あなたの悪口を言いながらそんなこと考えていると突然あの顎のラインが頭をよぎる。頬を染めて黙ってしまうには充分なの。
「ああ、今日はなんだか天気が悪くて全部がぼやけてる感じがするな」
「夜はどうする?まだ冷えるけれど家に帰れば今日はもう出れなくなるぞ」
「あいつらすぐに鍵しめるんだよなあ」
「まったくだよ。別にお前に会いたい訳じゃねえっての」
「撫でるときさ、手加減してくんないと若干痛いんだよね」
「それ分かる。それにあいつらってさ、無駄にお腹の方を触りたがるだろ?あれ何故か知ってる?」
「何で?何で?」
「ほら、犬がお腹見せるとさ、心開いてる証拠なんだって。だから俺たちもお腹を見せると甘えてるって思われてるんだ」
「やんなっちゃうなあ、その勘違い」
「別に可愛いなんて思われたくねえっての」
「ほんと、ほんと」
そんな輪の中であたいはずっと思ってた。可愛いと言われたい。撫でられたい。お腹でも頭でも顎でも足でも耳でも顔でもどこでもいい。触れてもらって、寄り添って、あなたに宿る体温をもっともっと感じていたい。雨に濡れることだって夜中の街を散歩することだって、こんな風に仲間と集まってやいやい言い合うのだって大好きよ。だけどあなたの寝顔を見ることもあなたの体に乗ることもあたいにとっては冒険なの。野良である時代の生きがいだった「冒険」なの。体の芯から感じていた「自由」なの。
静かに脈打つお腹の中の音はこの家に来て初めて知った。前の家ではこんなにも人に近づくことはしなかったから何だか不思議な生き物に出会ったような気分なの。
毎日違う顔をする。それは日々を生きている人間だけができることなんだと知った。ただ頭でっかちなだけじゃなくって、ただ道具が使えるだけじゃないんだって分かったら単純に尊敬しちゃったわ。
煙草の煙は必ず上に向かって吐き出す人間に初めて出会った。例えあなたがうずくまっても私はそんなあなたよりももっと小さいから、煙が目に染みることがないの。気遣いって言ったら大袈裟かもしれないけれど、あたいが見た人はみんな溜め息と一緒に煙を吐き出していたの。煙が目に染みるし、それはあたいも下を向いてしまうほど悲しくて寂しい姿だった。でもあなたは違うってはっきりしたら・・・・出られなくなっちゃった。
「おいで」そう言って膝の上に招くものだから、あなたはあたいにとって唯一の居場所なんだと思った。首輪もなければ決まった食事の時間だってない。トイレの場所も決めつけなければ名前だって与えない。
でもあなたは、あたいのもの。ただ、時が流れた。
「わあ、可愛い。この子いつから飼ってるの?」
「別に飼ってないよ、うちペット禁止だし。野良のわりに懐くから自由に出入りさせてるだけ。でも急に引っ掻いたりするから気をつけろよ」
「名前もつけてないの?」
「うん。必要ないじゃん」
「引っ越したらさ、この子飼おうよ。あのマンションはペット大丈夫だよ。ほら、おいで」
差し出された細くて白い腕には近寄らなかった。本能とでも言うべきだろうか、それとも性格とでも言うのだろうか。これまで培ってきた意地を思いっきり張ってやった。野良の血が、この先のあなたに寄り添うことを拒んだの。あなたの大切にしているものに自由も冒険も感じなかったから、あたいは彼女の腕を無視してあなたを睨んだ。あなたは知っているのかしら。あたいがメス猫だってこと・・・・・・。
窓が開いている。外は明るくてきっと希望に満ちているだろう。野良は、やはり野良なのだ。薄暗い一つの部屋で丸まっているなんて元から不似合いだったのだ。
あたいはいつものように外に出た。爪はやがて伸びてくるだろう。もう二度と人間にうつつを抜かしたりしない。爪を切る隙など、死ぬまで与えてあげない。
さようならスウェット姿のあなた。
さようなら膝枕の上手なあなた。
さようならヘビースモーカーなあなた。
さようなら、わたしの爪を切ったあなた。
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