第1話 見習い勇者の初仕事
聖剣を抜き、魔王を討ち果たし、民衆の歓声を一身に浴びる――。
そんな子供じみた夢を抱いて勇者学校の門を叩いた少年は、いま、薄汚れたクリップボードを胸に抱えて埃っぽい木造倉庫の前に立っていた。
「……様式第4号、よし。現場現況届出書、よし。支給品のブロンズソード……先端に1ミリの刃こぼれあり、特記事項へ記入。よし」
レオン・アーチャーは深く、長くため息をついた。
今年度、アストリア王国勇者管理機構・第9管区エルム支部に配属された正真正銘の『見習い勇者』である。国家勇者認定試験の合格順位は120人中120位。文字通りのビリ合格だった。
アストリア王国において、勇者とは伝説の英雄ではなく、税金で給与が支払われる国家公務員である。魔物を倒せば報酬が出るが、そのためには寸分の狂いもない書類の提出と、査定課による厳格な審査を通過しなければならない。
「おい、見習い! 書類の点検なんか後にして、さっさと中に入ってくれよ! 奥の小麦袋が全部スライムの粘液でベトベトになっちまう!」
倉庫の主であるボリスが、油じみたエプロンで手を拭きながら血相を変えて怒鳴り声を上げる。
「わかりましたって! ですがボリスさん、服務規程第12条です! 『討伐前の立会確認と受納サイン』をもらっておかないと、後で査定課のアルヴィン主任に僕が殺されるんです!」
「チッ、これだからお役所勇者は融通が利かねえ……! ほらよ、ここにサインすりゃいいんだろ!」
3枚複写のカーボン用紙に乱暴なサインをもらい、レオンは控用紙を丁寧にバインダーへ挟み込んだ。
腰の革ベルトを締め直し、支給品のブロンズソードの柄に手をかける。刀身は安物の青銅製で、刃先には歴代の見習いたちが残した無数の傷がついている。支給された防具も、肩と胸当てだけの簡素な革鎧。
――要するに、使い捨ての装備である。
「じゃあ、行ってきます。危険ですからボリスさんは外でお待ちください」
「頼むぜ、坊主! 小麦を台無しにされたら今月の支払いが焦げ付くんだからな!」
「僕だって書類に不備が出たら今月の基本給が焦げ付きます! お互い命がけですね!」
ぎぎぎ、と軋む重い両開き扉を押し開け、レオンは倉庫の薄暗がりの中へと足を踏み入れた。
外の陽光が遮られた途端、ひんやりとした冷気と、古びた穀物の埃っぽい匂いが鼻を突く。積み上げられた麻袋の山が、天井の高い空間にそびえ立つ壁のように影を落としていた。
だが、その空間に漂っていたのは、埃の匂いだけではなかった。
「……ん? なんだこれ」
レオンは小さく鼻を鳴らした。
通常、下級モンスターであるスライムの体臭は、ドブ川や生魚のような青臭い悪臭と相場が決まっている。勇者学校の野外演習でも散々嗅がされた嫌な臭いだ。
しかし、この倉庫の奥から漂ってくるのは、鼻腔の奥にねっとりと絡みつくような『甘ったるい薬品の匂い』だった。どこか果実の発酵臭にも似た、不自然な人工臭である。
「スライムが倉庫の砂糖樽でも破いたのか……? いや、ボリスさんの話じゃここは穀物専用のはずだ」
レオンは眉をひそめ、右手に軽く意識を集中させた。
彼の唯一の取り柄であり、学校時代に叩き込まれた数少ない特技――最下級補助魔法『簡易鑑定』を発動する。
レオンの瞳に淡い青色の光が灯り、視界のコントラストが一段階引き上げられた。空気中に漂う微細な魔力の粒子が、淡い軌跡となって視覚化される。
「……魔力反応、あり。だけど、波長がやけに乱れているな」
足元に目を落とすと、板張りの床にぬらぬらとした粘液の跡が点々と続いていた。
レオンは腰を落とし、足音を殺しながら麻袋の迷路を奥へと進む。
倉庫の最深部、壁際に積まれた小麦袋の影に辿り着いた瞬間、その『塊』は姿を現した。
「ギチ……ギチギチ……ッ!」
粘りつくような異音とともに、麻袋の隙間から這い出してきたのは、大人の胴体ほどもある巨大なスライムだった。
だが、その体色は異常だった。
通常のスライムが持つ澄んだ淡青色ではなく、毒々しく濁った深い紫色をしている。ゼリー状の体表は波打ち、内部には無数の気泡が沸騰するように湧き上がっていた。
「うわ、でかい……! それに、なんだあの色!?」
スライムの中心部には、鶏卵ほどの大きさの『紫色の核』がギラギラと不気味に明滅している。
スライムがレオンの姿を捉えた瞬間、その半透明の体表が一気に硬化し、表面に無数のトゲのような突起が隆起した。
「グルルルルッ!」
「鳴き声まで狂暴化してるじゃないか!」
紫色のスライムは床を弾き、通常種からは考えられないスピードでレオンの顔面めがけて飛びかかってきた。
レオンはとっさに身を低くし、ブロンズソードを一閃させる。
――キンッ!
手首に激しい衝撃が走り、金属と岩がぶつかり合ったような甲高い音が響いた。
スライムの体表はゴムのように弾性を持ち、青銅の刃先を易々と弾き返したのだ。
「嘘だろ、刃が通らない!? スライムの粘液が変質して硬化してるのか!」
着地したスライムが即座に方向転換し、鞭のように伸ばした触手を叩きつけてくる。
レオンは転がるようにして間一髪で回避した。触手が叩きつけられた床板が、バキリと音を立てて砕け散る。
「くそっ、力任せに切ってもラチが明かない……! どうする? ブロンズソードじゃ核まで刃が届かないぞ」
レオンは息を整えながら、素早く周囲の状況へ目を走らせた。
戦士のような剛力も、一級勇者のような派手な攻撃魔法もレオンにはない。だが、彼には観察眼と、泥臭い知識があった。
視界の端に、破れた麻袋からこぼれ落ちている白い山が映る。
「……あれは、岩塩の粗塩か! 穀物の防腐・乾燥用に置いてあるやつだ!」
スライムの本質は、高濃度の魔力を帯びた水分と粘液の集合体である。
通常種であれば剣で核を突けば終わるが、体表が硬化しているなら、生物としての弱点を突くしかない。
「ギシャアアッ!」
再び飛びかかってくる紫色スライムに対し、レオンは逃げるのではなく、粗塩の山へと誘導するように後退した。
スライムが飛び上がった刹那、レオンは足元の乾燥草の束を蹴り上げ、スライムの視界を塞ぐ。
目くらましに怯んだスライムの真上から、レオンは麻袋ごと抱え上げた大量の粗塩を、全力でぶちまけた。
「マニュアル外の現場判断だ。――干からびろ!」
バサァッと降り注いだ大量の塩が、スライムの体表を包み込む。
「ギエエエエエッ――!?」
激しい脱水反応が起き、紫色の粘液がブクブクと泡を立てて急速に縮んでいく。
硬化していた体表がひび割れ、内部の核が剥き出しになった。
「そこだっ!」
レオンは踏み込み、ブロンズソードの切っ先を紫色の核めがけて真っ直ぐに突き立てた。
――パリィン!
ガラスが割れるような澄んだ音が響き、核に亀裂が走る。
スライムは断末魔の痙攣を起こしたあと、急速に水分を失って崩壊し、床に紫色の結晶化した核だけが転がり落ちた。
「はぁ……はぁ……っ! た、倒した……」
レオンはその場にへたり込み、荒い息を吐いた。
刃こぼれした剣を鞘に収め、床に落ちた紫色の核を布で包んで拾い上げる。
結晶化してもなお、その核からはあの甘ったるい薬品の匂いが強く漂っていた。
「……やっぱりおかしい。スライムが突然変異するなんて、下水道に危険な魔導薬品でも流さない限りあり得ないはずだ」
レオンは床に散らばった紫色の粘液の跡をじっと見つめた。
壁の隙間、排水溝へと続くわずかな隙間に、紫色に変色した液体の跡が外から流れ込んできているのが見えた。
「誰かが外から薬品を捨てた……? いや、まずは報告書だ。アルヴィン主任に提出して、査定を受けなきゃ」
レオンはクリップボードを取り出し、震える手で『討伐完了時刻』と『成果物:変異核1個』を記入し始めた。
床に散らばった大量の塩を見下ろし、「……ボリスさんの粗塩、勝手に使っちゃったけど不問にしてくれるよな」と小さく祈りながら。
この紫色の核と塩の山が、翌朝の査定課でどれほど理不尽な嵐を巻き起こすかも知らずに――。
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次回【第2話 理不尽な査定】に続きます。
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