第八章 失われた記憶
夜明け前の薄闇の中、城塞都市リヒテンシュタインの北門裏は既に人影が慌ただしく動いていた。誠とセレナは邪教団「暁の鐘」の残党を追い払い、奇襲した倉庫から血塗れの古文書を携えたまま、衛兵に状況を引き継いでいた。石畳の隙間に灯るランタンの温かな光に照らされ、誠は倒れ伏した教団長──眉間に不気味な刻印を持つ老僧を見下ろす。
「教団長は危篤状態ですが、意識はあるようです」
衛兵の一言に、セレナは眉をひそめた。誠はそっと老僧の耳元に顔を寄せる。
「もし名乗るなら──誰がこの儀式を仕組んだ?」
老僧の唇は動いたが、声にはならない。額の刻印からほのかな蒼光が漏れ、誠の胸元の家紋と微かに呼応した。
「何か、見えるか?」
セレナが杖の先に小さな光玉を浮かべ、老僧の額にかざす。光玉は老僧の瞳孔に溶け込むように吸い込まれ、一瞬だけ世界が深い蒼に染まった。
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夢幻幻視
誠の意識は霞のような闇へと引き込まれ、やがて遠い記憶の断片が浮かび上がる。
――東京の夜、オフィスビルの蛍光灯がまぶしく、高層窓の外には煌めく街の灯。残業明けの夜食にと立ち寄ったコンビニで、誠はふと手に取った小説に目を留めた。表紙には戦神オーディンらしき兜のシンボル。
――大声で笑う居酒屋のカウンター。「俺なんかが異世界転生なんて、絶対嘘だよな」と語る自分の声。腰痛で立ち上がれずに引けを取った宴の情景が、胸に痛みを残す。
――黒い雲に覆われた戦場。誠は剣を握りしめ、背後から雷鳴のような咆哮を上げる声を聞く。剣先を高く掲げると、空を切り裂く稲妻のような光が紋章から迸り、周囲の死を生に変えるかのように燃え盛った。
――声が囁く。「汝は選ばれし者。戦神の血脈、オーディンの継承者……」
振り返ると、長く銀髪を靡かせる老人の姿。鋭くも慈愛に満ちた瞳が誠を見据え、「真の覚醒は、苦悩が試金石となる」と告げる。
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誠は暗澹たる闇の中で目を覚まし、荒い呼吸を繰り返した。目を開けると、セレナが額に光を当てた老僧を静かに抱えるように支えている。
「どうかしたか?」
誠の問いに、セレナは静かに首を振る。
「まだ本人は混乱している。幻視映像を無理に問い詰めても、記憶の断片が断片のままバラバラに溢れ出すだけ。だが、映像の一部で戦神オーディンの名がはっきりと聞こえました」
老僧は微かに呻き声を上げ、手足を痙攣させる。瞼の裏に残る映像の鮮烈さに、誠は全身を戦慄が駆け抜けるのを感じた。
(俺は──本当に、オーディンの末裔なのか……?)
胸の家紋が鈍く光り、まるで誠の心を覗き込むかのように脈打つ。その輝きの中で、稲妻に照らされた戦場の記憶が再び揺らめいた。
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かすかな手掛かり
ほどなくして、城内の医務所へと搬送された老僧は、深い眠りへと落ちていった。セレナは古文書と老僧の胸当てを厳かに抱え、誠に囁く。
「文書の『十二の印章』のうち、一つはこの教団が封印に使ったはず。教団長がその手掛かりを胸当てに記した可能性が高い」
誠は老僧の胸当てを外し、裾をめくって内部に縫い込まれた羊皮紙の断片を引き出した。そこには、古代ルーンと更に不可解な図形が混在し、まるで迷路のように絡み合っている。
「これは……? どこかで見覚えがある気がするが」
セレナの視線が十字を切り、細い唇をかすかに開く。
「戦神の紋章の文書で見た『黄昏の迷宮』の図形に似ています。あの試練場と、本質的に同じ構造かもしれません」
誠は胸当ての断片をしっかり握り、遠くに浮かぶ城壁の影を見据えた。
「黄昏の迷宮……あの恐怖と後悔の試練が、鍵のヒントになっているのか。次は何を探せばいいんだ?」
セレナは杖を掲げ、淡い光で壁に描かれた地図の一部を照らす。
「暁の鐘は、南方の古い聖域にも拠点を持っていたはず。そこには『深淵の鏡』という遺物が伝わり、迷宮の設計図が刻まれている。次の印章を探すには、まず聖域へ向かう必要があります」
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再び旅立つ覚悟
城門前の広場には朝の活気が戻りつつあった。市場に行き交う商人の声、鍛冶屋の槌音、遠く礼拝堂の鐘が時を告げる。誠はコートの裾を整え、鞘に収めた剣の柄に手を掛ける。
「よし。南方の遺跡へ旅立とう」
その言葉にセレナが微笑み、頷いた。
「山道は険しく、邪教の残党も追ってくるでしょう。でもあなたならきっと越えられる」
誠も微笑み返し、深く息を吸い込んだ。胸の紋章が淡い黄金色に輝き、まるで未来を照らす灯火となって揺れている。
(今度は、失われた記憶の断片を――確かな手掛かりに変えてみせる)
二人は城門を抜け、南へと続く大路を踏みしめた。遠方に雪を戴く山並みが淡く浮かび、その麓には深い森と廃れた神殿が待ち受けている。新たな印章を追う旅の先には、さらなる試練と幻影が巡り、誠の運命が徐々に全貌を現す――。