第四章 冥界(めいかい)の門前で
月明かりは樹間をすり抜け、湿った地面を銀色に染める。戦いの余韻に酔いながら眠りについたはずの誠だが、深い森の中で目覚めたかのように身体が疼き、紋章が鈍く脈打っていた。酒場《月虹亭》での騒乱、闇牙との死闘――そのすべてが夢のようだが、紋章の囁きは確かに存在を主張している。
「――来い」
突然聞こえた怪しげな声に誘われるように、誠は剣を手に宿舎を抜け出し、城壁の外れに続く細道へと足を踏み入れた。不気味に語りかけてくる声に従う必要もありはしないが、どうしても行かねばならないと本能が語りかけてくる。夏草が膝をかすめる暗がりでは、夜露がしっとりと葉を濡らし、腐葉土の匂いが鼻腔をくすぐる。遠くでフクロウが一声鳴き、闇が深まるほどに空気はひんやりと冷たくなった。
樹影の迷路を進むこと数分。足元の苔むした石版に、見覚えのある紋様が薄く浮かび上がる。――あの祠だ。
誠は剣を慎重に収め、両手を合わせて小さく頭を下げる。祠の前に立つ古い石板は、苔に覆われながらも手の甲に刻まれた紋章と同じ三日月と剣の刻印をはっきりと示していた。紋章はきらりと輝き、ほんのりと暖かさを放つ。
「そなたを待っていた……」
石板から漏れた微かな光が、誠の背筋をぞくりと震わせる。木製の扉はなく、張り出した屋根の下には小さな祭壇。祭壇にはひび割れた剣の柄のような石製の祭具が置かれ、その先端には淡い蒼い輝きが残っている。
次の瞬間、地中深くから低いうねりが立ち上り、周囲の樹木が揺れる。霧がみるみるうちに立ち上がり、誠を包み込むように渦を巻き始めた。冷たい金属音と、遠くで響くような鐘の音が同時に鳴り渡り、空間の歪みを告げる。
「あれが――門輪か」
紋章が激しく鼓動し、誠は警戒心を強めて剣を抜き放つ。月光を受けて刃が白く輝き、その刃面に映るのは渦巻く霧の中に浮かぶ、巨大な円環だった。直径二丈(約6メートル)はあろうかという厚い輪郭には、古代ルーン文字が刻まれ、刻ごとに青白い光が波打っている。
足元の草が一陣の風で倒れ、円環の中心からはほのかな冷気とともに、黒い闇が漏れだしていた。闇の質量は重く、たぎる血潮のように粘りつく。その中から、ひとりの人影がゆっくりと歩み出る。
黒いローブに身を包み、顔を漆黒の仮面で覆った暗殺者。剣や短剣の鞘を腰に帯び、細い手首には鎖が絡みつく。足取りはまるで夜の影そのもので、地面を踏みしめずに滑るように近づいてくる。
誠と暗殺者は、月明かりに照らされた二人だけの舞台で相対した。静寂は一瞬で疾風のように切り裂かれ、暗殺者の声が低く、冷たく響く。
「ようこそ、冥界の門前へ。そなたを狩る者は私――《氷牙》。言い残すことはないか?」
誠は唇をかむ。問いかけられたその瞬間、紋章が燃えるように赤く発光し――無言のまま剣を構える。銀色の刃先は暗闇を裂き、氷牙もまた手首の鎖を弾き、短剣を投擲した。
刹那、鋼の軋む音と共に短剣が誠の肩口をかすめる。冷たい痛みが皮膚を引き裂き、刃先には血の雫。その音が森にこだまし、落下する雫が草の葉を赤く染める。
「はっ……!」
だが誠は呻き声ひとつ上げず、鋭く踏み込みながら剣をひと振り――。その一閃は闇を切り裂き、氷牙の投擲短剣を弾き返すほどの鋭さだ。銀の風圧が霧を吹き払い、氷牙はひらりと身を翻す。
「……なるほど。だが、そなたの力はまだ序に過ぎぬ」
そう言い残し、氷牙は剣を握りしめた。次の瞬間、両手に握った二振りの短剣が静かに光を帯び、氷の細片をまとって飛んできた。交錯する刃は一瞬、世界が止まったかのような緊張をはらみつつ――誠は体を捻りながら几帳面に受け流し、反撃に転じる。
剣身が振り下ろされると、紋章が熱を放ち、炎のような朱色に染まった。刃先から炎の紋様が散り、氷牙のローブを焼き切る。氷牙は驚きに眉をひそめながらも、氷の結界を展開し、炎の一部を凍らせて弾き返す。
「無駄だ。炎だけでは、私を屈せさせることはできぬ」
闘気が静寂を震わせ、二人の間に無言の応酬が続く。誠は剣技だけでなく、己の内に眠る力の波動を感じ、紋章に刻まれた文字が浮かび上がるのを視界の隅で捉えた。
“裁きの炎、覚醒せし者を断つ”
紋章から溢れた熱が一瞬だけ世界を白く染め、誠は思い切り踏み込んで必殺の跳躍斬りを放った。その刃は氷牙の剣を受け止めるかのように真っ向から衝突し、互いの力が激突して轟音が轟く。
氷牙は苦澄みに顔をゆがめ、片膝をついて呻いた。その隙を逃さず、誠は剣を立て、炎の刃先を氷牙の胸当てへと突き立てる。鋼と鎖の音が乾いた弾ける破裂音を立て、氷牙のローブは裂け、中から漆黒の仮面が地面へと転がった。
氷牙は血潮を吐くように呻き、微かに笑みを浮かべた。
「いいだろう。だが、真の主は――私ではない。次は、あの者が…動く番だ……」
言い終えぬまま、氷牙は闇の渦に呑まれ、痕跡もなく消え去った。残されたのは剣に滴る血と、揺れる門輪だけだった。
誠は震える呼吸を整え、剣を静かに納める。胸の家紋は再び銀色の光を帯び、悠々と脈を打っている。月明かりが円環を照らし、古代ルーン文字が波紋のように揺らめく。
「……行くしかない」
静かに呟くと、誠は深く一礼し、冥界の門輪へと歩を進めた。重厚な冷気と闇の誘惑が入り混じる中、剣の柄を強く握り締める。その先に何が待ち受けようとも、紋章が示す運命を――誠は己の意志で受け入れようとしていた。