第三章 闇牙(あんが)の襲撃
深い闇が城壁の街を包む頃、酒場《月虹亭》の暖かな明かりが通りの先まで漏れ出していた。木製の梁が軋み、鉄張りの扉を叩く笑い声と喧騒が混ざり合う。切り取られた豚の燻製や煮込み料理の湯気が、樽から溢れたビールの泡とともに鼻腔をくすぐり、夜の喧騒に身を浸す者たちの頬を赤く染めている。
田中誠は奥まった小卓に腰掛け、皿に盛られた煮卵と香ばしいパンを前に、静かにワインを傾けていた。中年の貫禄としてはまだ若い酒場の常連が陽気に語り合い、灰色の髪をした老女が隣で柔らかな声で孫を宥めている。かつての残業地獄を思えば、これほど心休まる時間はなかった。
しかし、その夜の安寧は長く続かなかった。酒場の入口が一気に開き、黒いマントを翻した男女十数名が乱入してきた。彼らの胸には「闇牙」――牙のように鋭い黒い紋様がペイントされている。槍や斧、短剣を手にした一団は、手早く中空に篝火を放ち、歓談に興じる客の顔を赤く照らし出した。
「金は置け、人質は連れてゆけ! 抵抗するなら、血祭りだ!」
頭目らしき大柄な男が、ぶ厚い革の手袋越しに鉄の棍棒を振り上げて叫ぶ。歓声は悲鳴に変わり、酒具が割れる音、子供が泣き叫ぶ声、侍女の悲痛な呼び声が追い打ちをかける。
誠の目の前で、猶予なく盗賊の一人が若い母親から抱える幼子を奪い取った。棍棒で母親の脇腹を殴打し、しがみつく幼児を人質に取りながら金品を要求する。母親の唇はひくつき、頬に涙がひとしずくこぼれ落ちた。
(――これは、放っておけない)
静寂のようだった誠の胸の奥で、突如鼓動が高鳴る。すると、紋章は鈍い光を宿し、まるで彼の手足に命令を下すかのように脈打った。無意識のうちに立ち上がった彼の背中には、かつて感じたことのない重厚な気配が纏わりつく。
誠は低く声を絞り出すように呟いた。「――そこまでだ」
酒場のざわめきが一瞬だけ止み、盗賊たちの視線が一斉に誠に向かった。頭目は眉をひそめ、棍棒をゆっくり構え直す。
「おい、そこの旅人。口を出すな。黙って通行料でも払ってくれや」
だが誠の目には迷いの欠片もない。彼は剣を腰の鞘から素早く引き抜き、鋼の刃先を盗賊の群れへと向けた。その動きは刃を構える以前の、身体そのものが武器になるような圧倒的な存在感を放っている。
「人質を解放しろ。さもなくば――」
言いかけた瞬間、最初の一閃が闇を切り裂いた。鋭い風切り音と共に、誠の剣は闇牙随一の斥候を襲い、木造の柱にがっしりと打ち込まれた。剣先から跳ね返った木片が飛び散り、猟犬のように身構えていた他の盗賊を一瞬動揺させる。
「なんだ、こいつ……!」
若手の盗賊二人が同時に突撃してきたが、誠はまるで時間がゆっくり流れるかのような反応速度で二刀流の斬撃を受け流し、自らの刃先を交錯させたまま互いの腕を切り裂く。甲高い刃音が耳を食い裂き、遠く酒場の隅で怯えていた老婆が手すりを強く握りしめている。
人質に迫りそうになった長柄の槍を、誠は構えた剣ごと弾き飛ばし、そのまま捨て身の体勢から跳び込んで腰のすぐ下を深くえぐる一撃を繰り出した。血煙が一瞬にして立ち上がり、槍使いは地面へと崩れ落ちる。
酒場の床に転がる盗賊たちの悲鳴と鎧が砕ける音。誠の瞳に映るのは、怒りとも呼べぬ静かな眼光だった。
頭目は青ざめ、棍棒を引き寄せる手が震えている。誠はゆっくりと一歩距離を詰めた。紋章が熱を帯び、背後の空気が揺らいで見えるほどの威圧感に包まれている。
一歩。また一歩と距離を詰める。
「よ、よせ!俺に刃を向けるのはやめろ!」
そんな声はまるでただのノイズかのように一蹴する。
恐怖で震える頭目は咆哮と共に棍棒を振り下ろしたが、誠は躊躇なく横に身を躱し、棍棒を鞘ごと打ち払い、反動を利用して頭目を地面へ投げ飛ばした。砂埃が舞い、頭目は天井を見上げて呻いた。
「くそっ……撤退だ! 撤退しろ、闇牙の連中!」
盗賊たちは残党を引き連れ、血まみれの足取りで混乱する酒場から飛び出していった。遠ざかる足音、鉄の鎖が擦れる音がやがて夜風に消えると、酒場は再び静寂に包まれた。
誠はゆっくりと剣を収め、倒れた母親と幼子を見つめる。母親の震える腕が幼子をしっかりと抱きしめ、誠に向かってか細くも深い礼をした。誠は肩越しに酒場の奥に目をやり、瓦礫の隙間から差し込む月明かりに、紋章が穏やかな脈動に戻るのを感じた。
「大丈夫か?」
優しい問いかけに、母親はかすかな笑顔を返し、幼子を胸に押し付ける。周囲の常連客や侍女たちも、恐怖から解放された安堵の表情を誠へと向けていた。
その夜、誠は《月虹亭》の奥で簡素な夕餉を振る舞われた。町長代理の黒衣商人がワインを注ぎながら言う。「あなたはまさしく我らの守り神だ。恩は忘れぬ。どうか今しばらく、この街に留まってほしい」
誠は微かに首を振り、窓の外に視線を移した。城壁の影が月明かりの下で静かに横たわり、遠く森の方角からは夜の息吹が聞こえてくる。紋章は穏やかな余韻を宿しているが、その中にはまだ解き明かされぬ謎が重く秘められていた。
(――闇牙は、ただの山賊集団ではない。もっと深い闇が動いている)
泥まみれの手でグラスを拭い、誠はゆっくりとワインを口に含む。酒の渋みが喉を落ちるたびに、決意が静かに燃え上がる。この街の平和を守るために、そして己が手に刻まれた紋章の意味を探るために――誠の新たな戦いは、まだ始まったばかりだった。