第一章 目覚めの朝
灰色の石畳に朝露が息づき、冷たくきらめく。薄紅の空がゆるやかに明るさを増し、遠くの城壁の上では衛兵がのろしの代わりに鐘を鳴らした。鐘の響きは深く、重厚で、異国の大地に初めて足を踏みしめた田中誠の胸にも微かな振動を残す。
彼が目を覚ましたのは、古びた木箱の中。箱の内部は暗く、ひんやりとしており、薄い麻布の感触が背中に心地よい。長年サラリーマンとして働き続け、慢性化した腰痛に悩まされていた身には、この硬い床さえも新鮮に感じられた。
「ここは……どこだ?」
誠はゆっくりと瞼を開き、指先で箱の縁をなぞりながら、脳裏うかぶ日本での記憶を断片的に思い出していた。深夜のオフィス、キーボードを叩く音、肩こりと腰の痛み、終電を逃してタクシーを飛ばした日々。だがその痛みも、いつの間にか消え去り、代わりに背筋がすっと伸びる感覚だけが残っている。
誠は大きく息を吸い、箱の蓋を押し開ける。軋む音が木箱の静寂を切り裂き、外の冷気が一気に流れ込んだ。肌を撫でる空気はひんやりとして、初夏の夜明けの涼しさが宿っている。そこは、街道から少し外れた城塞都市ローデンブルクの領内であったと知ったのは、もう少し後の話。しかし、その景色は絵画のように美しく荘厳だった。
かつてサラリーマンとして見たこともない規模の城壁。重厚な石積みが何重にも重なり、その上を飾る蔦やツタの緑が、時間の流れと自然の息吹を物語る。遠くにそびえる尖塔は、漆喰の白い壁に朝日を受けて紅く染まり、まるで生き物のように凛と立っていた。
誠はゆっくりと立ち上がり、木箱をそっと閉じると目を細めた。改めて自分の体を確認すると、身に付けていたのは着慣れない革製のチュニックに黒の野暮ったいズボン。頼りない錆びた剣が一振り。そしてなにより目を疑ったのは、手の甲に浮き出る紋章――三日月を抱く剣のモチーフが浮かんでいる。「刺青は俺の趣味じゃなかったはずだが…」
たくさんの疑問はあるが考えても仕方がないと割り切り、細心の注意を払いつつ、石畳の上を一歩、また一歩と進む。足裏に伝わる感触は、これまでの疲弊を一瞬にして忘れさせるほど心地よい。ひび割れた隙間にしみ込んだ朝露が、水玉となって足首へと伝わり、顔をしかめそうになるほど冷たい。
視線を上げれば、広場ではすでに兵士達が朝の演武がおこなっていた。甲冑を纏った下級兵士が、木製の人形に斬撃を打ち込む。鋼の剣が空気を切り裂く高い金属音が反響し、通りの奥まで聞こえてくる。そのリズムに誘われるように、誠は人混みの列に紛れてゆっくりと前へ歩を進めた。
剣戟の音の中には、兵士同士の掛け声や甲高い掛け声も混じり、見学人のざわめきが控えめに重なる。誠の瞳に映るのは、剣先が大地へと鋭く迫る瞬間、木人が大きく揺れ、木屑が舞い散る一瞬の美。何か得体の知れない高揚が彼の胸を満たし、長年感じたことのない鼓動の速さを覚えた。
「……不思議だな」
誠は息を飲み込みつつ、自分の手の平を握ったり開いたりして感覚を確かめる。革のチュニックが肌をかすめる感触、夜露に冷えた石畳の硬さ、剣戟の衝撃が空気を伝わる振動――どれもが現実を示す証拠だった。
俺のすぐ横を訓練を横目に見ながら歩みを進める見物人が通り抜けていく。プツ.....雑踏の音に紛れる微かに何かが切れた音…考えるよりも先に腰に刺していた錆びた脇差しを手に取る。金属の冷たさが指先に伝わり、まるで生き物のようにしなやかに重みを感じる。彼は構えこそせず、ただ刃先をそっと振るだけ――それが小さな偶然に過ぎないと自分に言い聞かせるように。
音が聞こえた場所まではたかだか数歩。
突如--
ギギィィ……バキン!
乾いた悲鳴のような音と共に、修繕の為に組まれたであろういかにもずさんな足場が崩れ、それにいち早く気づいた兵士も声を上げる。
カシュッ。
落下してきた足場の板を断ち切り、真下にいた見物人のすぐ横へと逸れて落ちた。
群衆の視線が一瞬にして誠へと集中し、ざわめきが波のように広がった。
誠は無意識に動いた自分の体に驚きにつつ、周囲からの注目に耐えかねて「で、では、これで……!」と慌ててその場を後にした。紋章は淡く光を帯び、脈打つように揺れている。それに彼は気づかない。その意味も、理由も、まだ彼にはわかっていない。
深呼吸を一つして、自らを落ち着かせた誠は、慌ただしく集まる群衆の隙間を縫うように現場を離れた。石畳の音が響き、金属音やざわめきが遠ざかる。その瞬間、彼はこの世界での「新しい日常」が静かに幕を開けたことを、まだ何も知らずに感じ取っていた。