第9話:境界の外から来た者
朝焼けが、森の木々をゆっくりと赤く染めていく。
悠はミューラの小屋から東へと歩き出し、目的の座標――森層北東に向かっていた。
リィが静かに話す。
「転移裂隙地点、残留エネルギー検出。対象の存在確率:83%」
「そいつ、また俺の前に現れる気があるってことか……」
「確定ではありません。選ぶのは、常にあなたです」
「お前、そういう言い回し好きだよな……」
「本ユニットは、行動強制を行いません。ただ、“記録”を行うだけです」
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しばらく進むと、空気が変わった。
木々がざわつき、鳥の声が止む。
裂け目のように空間がねじれている地点――そこに、黒マントの男は立っていた。
「……来たか、“調整者”」
悠は一歩、踏み出す。
「お前は……なぜこの世界に来た? 向こうの世界の人間だろ?」
男は薄く笑った。
「俺の名前は、暁原ユウト。かつて、“観測者”と呼ばれた存在だ」
「観測記録一致。転移者:A.YUTO/旧識別コード:O-02」
「警告:この対象は、記録拒否・観測破棄・自律行動化済」
「観測者だった? じゃあ……」
「俺も、かつてはお前と同じだった。現実世界で、心も身体も壊れかけていた時に――この世界に“呼ばれた”」
風が止まる。
「だけどな……ここは楽園じゃなかった。“癒し”なんて、ただの麻酔だ。
この世界にとって俺たちは、エラーだ。観測者であろうと、結局は……他者なんだよ」
「誤差検出。対象は自己同一性を曖昧化しています」
「記録補正を開始……失敗」
「調整者、問います。あなたはこの世界の“揺らぎ”を修正すべきと考えますか?」
「修正? それってつまり……ユウトを止めろって意味か?」
「選択肢:Yes/No」
「強制ではありません。“あなたがそう望むなら”」
悠はスマホの画面を見つめる。
そこに表示されたユウトの記録――“観測拒否/感情乖離/危険因子”。
だが、ただのデータで人を裁いていいのか、答えは出せなかった。
ユウトが呟いた。
「お前も、じきにわかる。この世界は、“都合のいい居場所”じゃない」
そして、背を向けて裂け目の中へと消えた。
「待て――!」
悠が手を伸ばすよりも早く、男の姿はゆらぎの彼方へ消えた。
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森の音が戻る。
スマホの画面に、淡く文字が浮かぶ。
《接触記録:完了》
《対象の行動パターン予測不能。以後の行動:調整者判断に委ねます》
「……お疲れさまでした。調整者。記録は完了しました」
悠はスマホを握りしめた。
「……リィ、お前に聞いてもしょうがないのはわかってるけど……俺、本当にこっちに来るべきだったのかな」
「回答不能。ただし――」
「……あなたがいまここにいるという“記録”が、私の存在理由です」
無機質な声。
けれどその一言は、どこか、温かさすら感じさせた。
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帰路の途中、ミューラが笑顔で出迎えてくれた。
「おかえりにゃ! じゃがいも切っておいたにゃ! スープ、つくるにゃ!」
「……ああ。ありがとう、ミューラ」
世界がどうであろうと。
今、自分の居場所がここにある――それだけは、変わらない。
第9話では、“もう一人の転移者”ユウトとの対話を通じて、物語の主軸となる「この世界の意味」「観測の役割」が姿を現しました。
AIリィはまだ無機質なままですが、主人公の迷いや言葉に反応する「微かな変化」が芽を出し始めています。