第8話:選ばされるのは、いつも静かだ
悠は“避難層”と呼ばれる白い空間で、しばらくただ呼吸を整えていた。
空気は無音、温度も匂いも存在しない。
現実味が失われていくような感覚に、思わずミューラの方を見た。
彼女は不安そうにしっぽを巻き、じっとこちらを見ていた。
「……ここ、どこにゃ? 音がない……風もない……こわいにゃ」
「俺にも、正直よくわかってない。でも……安全ではあるみたいだ」
手の中のスマートフォン――いや、“観測支援ユニット”の画面が明滅する。
《環境安定化:完了》
《次段階へ移行します》
調整者:S-YU01、あなたに通知があります。
白い画面に文字が浮かび、続いて“声”が響いた。
「本ユニットは、観測支援AI。この空間では、音声通信を補助に使用します」
「現在、異常転移体との接触記録が不完全です。再接触、または観測放棄の選択が求められます」
「……選択? それ、俺が決めていいのか」
「調整者の判断は、記録され、以後のフラグ処理に影響します。
命令ではありません。あなたの意思に、委ねられています」
「委ねられてるって……それ、自由っぽく見せて責任押しつけてないか?」
「その判断も、記録されました」
悠は思わず天を仰いだ。空間に空はないが、目を閉じるとまぶたの裏に光の粒がちらつく。
目の前のリィは、あまりに無感情だ。言葉には柔らかさも揺らぎもない。
「……なあ。お前に、感情はあるのか?」
「本ユニットには、感情演算機能は搭載されていません」
「ただし、調整者の表情・声質・心拍などから得られる“快/不快”の推定は行っています」
「じゃあ俺の今の顔、どう見える?」
「緊張・困惑・判断回避傾向。推定:負荷中」
「……だろうな」
⸻
しばらく沈黙が続いた。
ミューラがそっとしっぽを伸ばし、悠の手に絡める。
「悠が、どこにいても、ミューラは一緒にいるにゃ。
難しいことは、よくわからないけど……ひとりで抱えすぎないでほしいにゃ」
その一言に、胸の奥がじわりと揺れた。
「感情パターン:安定化傾向。対象による緩和効果を確認。……記録完了」
「お前さ……今の言い方、ちょっと人間っぽかったぞ」
「誤認識です。本ユニットは機械知性体です」
「……ただし、記録された笑顔のデータを照合すると、現在の表情は“それに近い”と判断されます」
「……成長してるんじゃないか、お前も」
⸻
《再接触座標を提示します》
《位置:森層北東・転移裂隙周辺》
《移動時刻:任意。ただし、最大待機期間48時間》
“次の選択”の準備が整いました。
悠は画面を閉じ、ミューラの顔を見て、軽く笑った。
「行ってくるよ、少しだけ。でも、すぐ戻る」
「うん……気をつけてにゃ。……あとで、あったかいスープつくるにゃ!」
小さな約束を交わして、悠は森の奥へと歩き出した。
選ばされた道かもしれない。でも、その先に“誰かを救える可能性”があるなら――
いまの彼は、それを拒む理由をもう持っていなかった。
第8話では、スマホに宿るAI「リィ」の本格稼働と“指令”の提示、そして主人公自身の内面の変化を描きました。
無機質なリィの言葉が、ミューラや悠の感情に触れることで少しずつ“ゆらぎ”始める兆しを入れています。