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錆びついた扉に手を掛け、開けようと試みる。
「あれ、ここも開かない」
侵入者を阻む関門となっていた扉も、最後にはギギギと悲鳴を上げ、抵抗しながら開いてしまった。
奥歯を噛みしめ「んーー」と奇怪な鳴き声を上げながら侵入してくるモノが一体何なのか、わざわざ頭を上げて確認することはない。
その代わりにぼくの感覚は、やって来たそれに総動員される。ぼくが望んでやっているわけじゃない。これもヴァンパイアとしての性というものなのだ。
ヴァンパイアの嗅覚は、辺り一面に充満するかび臭い空気に紛れている異臭をよりわける。足音の主は鼻孔をくすぐり、忘れかけていた食欲を引きずり出してくるような強烈な匂いを身に纏っていた。
何度息を吸い込んでも紛れこんでくるその匂いは、あっと言う間にぼくの無意識を支配して、口内に涎を湧かす。湧き水のように止めどなく溢れてきたそれは、やがて溜め込むことが困難になり、透明な雫となって外に飛び出す。
重力に従って落ちていく雫は、差し込む月の光を身に纏い分不相応にも煌めきながら、放り投げた脚の間にポトリと落ちていく。
一滴、また一滴。列をなして落ちていく彼らは待ち望んでいたかのように床で小さな音を立て、儚く散っていった。やがて忙しない彼らの性格がそう決断させたのか、まとめて落ちることにしたらしい。
だらりと先頭が地面に手を届かせ――
「ほんとにいた!」
久しぶりに嗅いだ血の匂いと大量に湧かせた涎に意識を割いてしまったせいで、それが距離を詰めてきていることに全く気づかなかった。
顔を伏せたままでも足元が見えるくらいすぐ先にいるそれは、軽快な足音に似つかわしい、弾んだ女声を持っていた。もちろん声も足音同様に、ぼくの耳に無断で入ってくる。
それどころか、声の方は足音よりもさらに悪質。高く溌剌とした声は、明確な意思を持って、ぼくに狙いを定め何度も攻撃を仕掛けてきた。
「ねぇねぇ」「聞いてる?」「もしかして死んでる?」「せっかくここまで来たのにー」「悪魔さーん」「おーい、生きてますかー」等々。
それは執拗に言葉を仕掛けてきた。対してぼくも自分は壊れた人形であると言い聞かせ、決して反応をしない。
「あ、息してるってことは生きてるよね?」
顔の前に手を翳し、生物であることの確認をすると、口を耳の真横につけ一層大きく喚き続けた。
「起きてるのは知ってるんだぞ!」
「起きなさーい」
「おーーーーい」
「起きるまでここで言い続けるからね」
「おーい、いいのかなー? 本当にずっといるよ?」
うるさい。
こればかりは血に飢え、感覚が研ぎ澄まされているヴァンパイアでなくとも、同じ感想を持つと思う。
反応を示さないことにしびれを切らした彼女は、ぼくの両脚の隙間に入りこみ膝を折る。そしてあろうことか首の座っていないぼくの頭を両の手で持ちあげる。
その瞬間、視界は一変した。突然、暴力的なまでの光が眼に浴びせられたのだ。
せっかく月の光の死角に入っているというのに、こいつは人工の光をぼくに浴びせ、先ほど同様何度も言葉を掛けてくる。急に曖昧な発音で聞こえてきたのは、光の先でかすかに見えるこいつが懐中電灯を口に咥えているのを見て納得した。
それでもしばらく無視を決め込んでいたが食欲を振るいたたせるような強烈な香りが目と鼻の先まで近づいてくると、ヴァンパイアとしての本能がどうしても反応せざるを得ない。さっきよりも遥かに勢いを増していく涎は、頭を上げられたことで、直接床に行くことは許されず、口から顎を伝い、ぼくの頭を支える手へと侵食していった。
涎が手と顎の隙間で広がる感覚に少しだけ気持ち悪く感じるが、それはすぐに意識の外へと放りだされた。なぜなら明るさに順応したぼくの視界に、それよりも遥かに気味の悪いものが映っていたから。
ヴァンパイアとしての視覚は、目の前にあるものを良くも悪くも鮮明に映し出してくれる。今視界を支配しているのは、もう暴力的な懐中電灯の光ではない。
懐中電灯を咥えたままニッコリと不気味な笑顔を張り付けた少女だった。
夜闇のように深い黒を無色透明の水晶の中に閉じ込めた眼は、ぼくの背後から差し込む月の光を反射させ輝いていた。その切れ長の目を見つめてしまうと、引き込まれてしまいそうな不思議な感覚に陥ってしまう。
自然の魔力というのはやはりあるのだろうか。厭わしい声の主だというのに、月に照らされた姿に魅了されてしまいそうになっていた。
ぼくは慌てて交錯した視線を外す。
黒のセーラー服に胸元の大きな赤いリボン。明らかにどこかの学校の制服を着ていた彼女は、廃墟には相応しくない。
全く大きさの合っていない薄紅色のワイシャツを着ているぼくの方が、まだこの場に相応しいと言えるだろう。
得体の知れない何かを観察するように視線を彷徨わせていると、地面に届く長い黒髪で止まった。
手入れがされていないのか、はたまた手入れが下手なのか、ボサボサの髪が床を撫で、埃を毛先で絡め取っている。
「ほきは? ほはよ(おきた? おはよ)」
グイっと顔を前に向けさせられ、少女はぼくと無理やり視線を合わせた。
それでも話すことはしない。だが彼女を意識しているということは、直接言葉を話すよりもヴァンパイアとしての習性が雄弁に語っている。
ヴァンパイアのことを知っていてわざわざこの匂いをさせてきているのなら、なんて性格の悪い人間だろうか。
「もひもーひ、ひいへる?(もしもーし、聞いてる?)」
返事をしなかったおかげで彼女の興味がなくなった。なんて、都合の良い展開はない。きっと洪水の被害がぼくの頭を支える彼女の白い袖口にまで伸びていなければ、まだチャンスはあったのだろうけど。
「ふわーふふぉいひょうはね(うわーすごい量だね)」
彼女はぼくの頭を倒れないようにバランスを取りながら壁に立てかけた。お役御免となった青白い両手はゆっくりと彼女の元へと戻っていく。
自由になった右手で、左のカフスボタンを外し、袖を捲る。現れたのは彼女の肌ではなく、少し赤みがかった包帯だった。濡れた 包帯を少しずつ丁寧に解いていく。地面へと降りていく包帯は白から赤へと鮮やかなグラデーションをつけながら徐々に赤みを増していった。
小説を読んでくださり、ありがとうございます。
今後ともご愛読頂けますと幸いです。




