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街灯も少ないこの町で、夜の山へ入っていくにはそれなりに理由がある。鮮血が漏れ出さないようにぐるぐると包帯を巻いている人間であれば、理由は一層あってしかるべき。
これから私は、悪魔に会いにいく。
もし誰かに聞かれてしまえば「頭おかしいんじゃないの?」とでも言われると思う。事実、私の頭はおかしい。ふと手にとった古い本の見返し。そこに書かれた誰かの独白を根拠に「悪魔に会いにいく」なんて宣うのだから。
独白には、この町には悪魔がいると書かれていた。
妄想か、はたまた年月を重ねた悪戯か。十中八九、ほぼ確実に、百パーセントと言っていいほどそうなんだろうけど、でも万が一にも本当だったら? どうせ最期であるならば案外分が悪い賭けでもないのかもしれない。
悪魔の住処へ行くのは金曜日の夜と決めていた。誰もいない日に家を抜け出して悪魔に会いに行くんだ。考えるだけでワクワクしてきた。まるで劇的な展開が広げられていく物語の冒頭みたいだ。
せっかくなら身綺麗にしたほうが良いのかも。もしかしたら晩餐として迎えられるかもしれない。
それとも魂かな。悪魔と言えば、魂を奪う代わりに願いを叶えてくれるイメージ。もしもそうだったら一体何をお願いしよう。今のうちに考えておかないと。
不確かな根拠から派生した妄想は、金曜の夜への時間をずっと早めてくれた。
そして決行の夜。
私は高校の制服に身を包む。元は海軍の軍服であるならば、正装と言っても過言ではないと思う。
手には懐中電灯を持ち、ポケットにはカッターナイフを忍ばせる。
「よし、いこ」
玄関の扉を開け、急いた足取りで階段を下り、細道に出る。夜の住宅街はひたすらに静かで不気味。でも不思議と怖くはなかった。
街灯のない細道を駆け抜けると、呼吸が慌ただしくなる頃に大通りへ出た。膝に手をつき、肺に詰まった息を吐く。そして顔を上げて夜の空気を全身で吸った。
スゥと鼻を通る独特な夜の匂い、ひんやりと肌に触れる空気、目に映る光景は太陽の下とはまるで違う。それら全てが日中とは乖離していて非日常へ解放された気分。
夜へ悠然とした一歩を踏み出し、闊歩する。時折、道路の真ん中を歩いてみたり、意味もなく横断してみたり。
するとなんだか無性に楽しくなってきた。
今度は腕を大きく開き、片腕を街灯にわざとぶつけて反動で体をくるくると回転してみたり、辺りを入念に確認してから歩道でくるんと前転もしてみたり。
狂っていた。しかしそれすらもこの言い難い気持ちに拍車をかけた。
そうこうしていると悪魔の住む山の麓に着いた。有刺鉄線が過剰なまでに巻かれた背よりも高いフェンスがぐるりと山を取り囲み、入る隙がない。切先鋭い有刺鉄線を乗り越えるには、少し覚悟がいる。
仕方なくフェンスに沿って歩く。空き家や寂れた公園を横目にしばらくすると、
「ヤクザ」や「気狂い」などと噂される屋敷に行き当たった。
山に入れそうなところは、屋敷に隣接する門しか見当たらない。しかも監視カメラ付き。
バッチリ映っているだろうけれど、私は出来うる限り気配を消して門に近づく。門とフェンスの繋ぎ部分に頑張れば通り抜けられそうな隙間を見つけ、なるべく音を立てないようにと慎重に通り抜けた。
先は木々の隙間が少し広く、風化してはいるもののかろうじて道の名残が残っていた。
「すっごー」
廃洋館に着くと、思わず幼稚な言葉が口を衝いて出てしまう。
以前遠目で際にかろうじて見えたのは屋根の一部だけで、その全貌は初めて見た。
近くで見る廃洋館はおどろおどろしい雰囲気を纏っていて、なんだか本当に悪魔がいる気さえしてくる。でも私の胸中は根拠のない楽しさで溢れているのだ。
仮に何かあっても、本来の目的を考えてしまえば別段怖いものなんて何もない。最低が決まっていれば、その他全ては良い結果であると言える。
私は非日常気分に赴くまま、玄関の庇を支える蔦の巻き付いた柱をペタペタと触り、重厚な扉へと手を掛けた。
小説を読んでくださり、ありがとうございます。
今後ともご愛読頂けますと幸いです。