1 ここは踊り場、私はだれ?
(私、只今宙に浮いていますわ。今は夜。一人きりです。眠くもないですし、暇を潰す物もありません。長い夜になりそうです。今日は満月で、月明かりが踊り場にある鏡を照らしていますわ。私、その鏡に映りませんでした。)
広めの階段の踊り場で少女は一人ふよふよと浮いていた。踊り場には大きな姿見があった。
(ですから自分がどんな状態か見る事ができません。頭や顔を触った感じ、何か変わった様子は無いとは思いますけど、なにせ見えませんから。でも、もっと重大な問題がございますの。私、自分が誰なのか思い出せないんです。名前が分からないし、なぜここでこうしているのかも分かりません。それにまるで箱に入れられたみたいに踊り場から離れられなくて、困っています。ここは踊り場、一体全体私はだれ?)
空が明るくなってきた。どんどん色が変わり朝になる。どうやらここは学園の階段だったようで、制服を着た人がたくさん階段を通った。しかし誰にも少女の姿は見えず、なんなら体をすり抜けた者も居て、少女は衝撃的な感覚を味わった。
(なぜ私と目が合いませんの?あ!ぶつかったと思ったのになんともありませんでしたわ……あら?あの方素敵!なんなの?この恋焦がれる方に出会ったような、往年のライバルに出会ったような、今までの退屈が嘘のような興奮!え?今目が合いませんでした?この方私が見えているんじゃありませんこと?どなたかこの方のお名前を呼ばないかしら。)
「ジュリア様、ミシュリーヌ様の事驚きましたわ。」
「そうね。私は教室に居たから詳しくは分かりませんけど、お父様によると今は安全に家で休まれているようですわ。王太子殿下が心配してクリスタルのネックレスを下賜されたそうよ。なんなら今そこで浮いてるし。」
(ジュリア様とおっしゃるのね?その呟き、聞き漏らしませんでしたわ。)
「早くお元気になっていただきたいですわね。ミシュリーヌ様、ここに倒れていらしたんでしょう?」
見知らぬ女性が指差した場所はまさに昨夜から何度も見た階段の踊り場だった。
『ジュリア様、私、ミシュリーヌで合っていますか?私、どうしてここにいるんでしょうか?ジュリア様は私のお友達ですか?』
ジュリアの周りをふよふよと飛びながら話しかけるうちに、ミシュリーヌは階段から離れられた事に気づいた。階段の踊り場から離れられなかったのに、ジュリアにくっついて行けばどこへでも行けそうな気がした。
「ミシュリーヌ様、こんなとこで何してるんですか?早く体に戻ってくださいよ!それになぜ私なんですか!」
ジュリアは苛々した様子で口をあまり開かないで答えた。
『分かりませんわ。気づいたら踊り場から出られなかったんです。』
「出てるじゃありませんか。もしかして私に取り憑いた?嫌過ぎる。」
『自分の体を見に行きたいの。お願い!』
「ミシュリーヌ様と私、犬猿の仲だったんですけど?」
『こんなにかわいくて素敵な人と仲良くなれなかったなんて、不思議な事だわ。』
「ジュリア様どうされました?何かおっしゃいました?」
「シモーヌ様、今日学んだ事を口に出して復習していましたの。怖がらせてごめんなさいね。」
「さすがファビエン侯爵家のご令嬢!勉学への情熱は流石ですわ。では私はこれで。」
シモーヌはさりげなく急いでジュリアから離れて行った。
「あーあ。怖がられましたわ。派閥に関係なくお付き合いくださった方なのに。ミシュリーヌ様のせいですわ。」
『そんな事言われましても、私には今ジュリア様しかおりませんのよ。』
「あなたにそんな風に言われるなんて、違和感しかありませんわ。」
『お願いです。ジュリア様、私の家に行ってくださいまし。』
「はあ。分かりましたわ。このまま付き纏われても嫌ですし、仕方ありません。まず執事に会いに行きますから、とにかく大人しくしていてください。」
ジュリアが周りを見渡すと、周囲の人には訝しげな顔で見られている。
「最悪ですわ。」
『何かおっしゃいました?』
ミシュリーヌを無視してジュリアは家人の控室に向かった。
「セバスチャン、今日の帰りにミシュリーヌ様のお見舞いに行きたいわ。手配してちょうだい。」
「かしこまりました。が、ミシュリーヌ様というと、グレンヴィル侯爵家のご令嬢ですよね?」
「そうよ。」
「犬猿の仲だったのでは?」
「そ、んん、別にそんな事ないわ。たまにお話ししていただけよ。いずれお茶会にはお誘いするつもりだったわ。」
「かしこまりました。先触れを出しておきます。お見舞いの品はどうされますか?」
セバスチャンはメモを書く。
「そうね。お花を何か見繕っておいて。花言葉が良さそうで綺麗な。」
「かしこまりました。」
「お願いね。」
ジュリアは人気のないところまで来た。
「ミシュリーヌ様、よろしいですわね?これ以降は話しかけられても返事はしませんからね。」
「ジュリア、こんなところでどうしたんだ?一人きりなんて珍しい。」
「王太子殿下。」
ジュリアはサッとカーテシーで答えた。
「考え事をしておりました。」
俯いたまま返事をした。
「人気のない所は危ないよ?バーナード、ジュリア嬢を教室にお送りして。」
「承知しました。」
王太子、ユージーン王子は自身の側近、バーナード・マックマーン伯爵令息に指示を出した。バーナードは服の上から見ても筋肉が鍛えられているのが分かる体つきだった。ミシュリーヌはジュリアがバーナードの筋肉に関心を持ったのが分かった。バーナードが一瞬ミシュリーヌを見たような気もしたが、ミシュリーヌの関心はジュリアにあった。
「ファビエン侯爵令嬢、お手をどうぞ。」
バーナードはジュリアをエスコートしてくれるようだ。ジュリアにはディラン・カーティス公爵令息という婚約者がいるのだが、王太子殿下に言われては従う他ない。バーナードにもアリソン・コリン伯爵令嬢という婚約者がいて、今王太子の後ろに控えている。なんなら王太子がジュリアを送った方が無難?いや、やはりそういうワケにはいかないのだろう。
「ユージーン様、騎士から離れ過ぎないようにお気をつけください。」
「分かった。バーナード、ジュリア嬢の事を頼むよ。」
「かしこまりました。」
バーナードはジュリアの手を取ったまま王太子に返事をした。ジュリアは俯いたまま軽く王太子にカーテシーをしてバーナードにエスコートされ、教室に戻って行った。
ミシュリーヌは王太子の顔を見ていた。どこかで見た事があるような気がする。見た目はかっこいいと思う。なぜか湧き上がる嫌悪感。不思議だ。ユージーンは緊張から解放されたように息を吐き出した。
「ユージーン様、なぜバーナード様に?」
「アリソン、しーっ。」
ユージーンは自身の人差し指でアリソンの口を塞いだ。
「何も言わないで。」
(お二人はどういう関係なの?)
ミシュリーヌは興味津々だった。