疑念(下)
お待たせしましたー。
「何の用かね、ニコルソン君」
フォスターは勤めて平静を装いジャックに入るように促す。
だが、視線は宙を泳いだままで完全には隠しきれてはいなかった。まだあの事についてジャックに負い目を感じているのだろう。
ジャックが大学を去る切っ掛けを作ったのは彼だった。いくら脅されていたとは言えその事実は心にいつまでも重く圧し掛かる。
「落ち着いてください教授」
ジャックもそんなフォスターの心境を読み取って明るく振舞う。
「しかし私は君の・・・」
だがそんなジャックの応対に耐え切れなくなったのかフォスターは震え出し言葉には嗚咽が混じる。
「実は教授には感謝してるんです」
「何・・・?」
ジャックはその一言でフォスターの言葉を遮る。
「まあ確かに色々ありました。でも大学を出たおかげで得たものが多いのも事実です。それに在学中に教授から学んだ事も役に立っています。だから教授には感謝しても仕切れませんよ」
フォスターは自分の不手際で去っていったあの青年にこの半年近くで何があったかは知る術が無いが格段に成長しているのを感じ取った。
「だから何時までも気にしないで下さい」
「ニコルソン君、ありがとう・・・」
湧き上がる感情を押さえつけフォスターは深々と頭を下げる。
しばらく部屋の中にフォスターの押し殺した嗚咽が響いた。
「どうぞ」
落ち着いたフォスターは来客用カップに注いだ紅茶を差し出す。
「あ、ありがとうございます。わざわざお茶なんか」
「いいんですよ。君は今れっきとした私の来客なんですからこの部屋の主として当然の礼儀です」
自分のカップに口をつけながら微笑むフォスターは実に絵になっていた。
その後二人は近況などの雑談に興じた。
「実は教授、今日は少し頼み事があってここに来たんです」
ジャックを在学中からよく知るフォスターは彼の珍しい用件に「頼み事?」とフォスターは首を傾げる。
「実はビリーについての学生情報です。それも詳細に家族構成や経歴に至るまで」
ビリーはジャックとは違いまだ大学に在籍していた。今回ジャックは大学に保管されているビリーの個人情報を調べに来たのだ。
途端、フォスターは険しい顔になる。
「ダメです。個人のプライバシーを侵害する事は法律でも禁止されています」
先程とは打って変わった固い口調でフォスターは答える。
無理も無い、どこの世界に学生の個人情報を漏らす教職者が居るのだろう。
これはジャックも当初から予想していた事だったが改めて面と言われると少々きつい。だがジャックもここで引く訳にはいかなかった。
「はい、それは重々承知しています。ですが、僕にはどうしてもそれが必要なんです」
ジャックは真剣な面持ちで力強い口調で食い下がる。
中々諦めようとはしないジャックにフォスターは何故彼がそこまでする理由が分からなかった。
フォスターはそのジャックの強硬な姿勢に少々興味が沸いた。
「君がそこまで強情なのは珍しいですね。すみませんが訳だけでも教えてくれませんか?」
ジャックもこのままズルズルと平行線を辿るよりも良いと判断し、フォスターに大学を辞めてからの出来事について包み隠さず話す事にした。
「なるほど、それでニコルソン君はマグワイヤ君について私に調べてほしいと」
「はい、最初は本人にも聞こうかと思ったのですがオロモさんの事もありますし慎重に言った方が良いかと思って」
「しかし、あのマグワイヤ君がねえ」
顎に手を当て考え込む。
フォスターの見識ではビリーは癖こそ強いが学部の成績は常にトップクラスと優秀で特に問題を起こすような学生ではなかった。
それにジャックの私的見解が入っているとは言えにわかに信じ難かった。
「どうでしょうか? 協力していただきませんか?」
しきりに頭を捻るフォスターを見てジャックも段々不安げになってくる。
正直言ってフォスターの協力しかあては無いのだ。
このまま話はご破算にになるかと思われたがフォスターはここで妥協案を出す事にした。
「ではこうしましょう。この件、私が預かります」
フォスターが提示した案は対面上は調べられないジャックの代わりにフォスターが調べその結果をジャックの伝えるという物だった。
その情報はジャックに伝えられる前にフォスターが取捨選択するというものであったが。
しかしそのネックを除いてもこの提案にはそれなりの旨みがあった。
何より切羽詰ったジャックはこの提案を吞む事にした。
「分かりましたその案で行きましょう。ですが良いんですか拒否も出来たのに、娘さんもそろそろ結婚を控えてるんでしょう?」
それを聞いた瞬間フォスターは「今更何を・・・」と苦笑する。
「もう既に片足を突っ込んだ状態です。行ける所まで付き合いますよ、それにたまにはこんなスリリングな体験もしてみたかったんです」
語る様子は冒険小説を読んで興奮する子供のようだった。
その言動にはジャックは内心「実は教授の方が乗り気?」と思うほどであった。
「ではお願いします」
「ええ、何か分かったら直ぐに電話しますよ」
その後ジャックはフォスターと幾つかの確認事項を交らし大学を後にした。
フォスターを巻き込んでしまったのは些か不本意ではあったがこの時点でのフォスターの協力はありがたかった。
再び高速列車に乗り込んだジャックはその日の夕方にニューヨークへとんぼ返りした。
残る問題はビリー本人だけだった。
その時、駅からの夕暮れの帰り道にジャックは彼に出会った。
「よう、ジャック」
「ビリー・・・」
ビリーはいつもの調子で陽気に声を掛けて来た。ジャックは自分に疑いを掛けているとは知らずに。
「どこか行っていたのか?」
聞く限りごくありふれた質問に思える。しかし今のジャックには心の中の疑念を膨らませるものでしかない。
ビリーは自分の行動を探っているのではないか?
「ちょっと買い物に・・・」
口から咄嗟に嘘が出る。
「そう言えば最近フォスター教授と会ってるか? 教授心配していたぞ?」
「そ、そうなんだ。また連絡しなきゃね・・・」
教授の名前が出て一瞬心臓が縮み上がり、答えた声も上擦った。
もしかして今日教授と会ったことを言っているのか?
「どうした? 何かいつもと様子が変だが?」
異変を感じ取ったのかビリーがジャックの顔を覗き込む。心配そうな顔をしているがその瞳は全てを見透かしているような光の無いものでジャックを心のそこから震え上がらせる。
『俺は全てを知っているぞ』と・・・。
もうジャックに耐えられる力は残っていなかった。
今まで溜まりに溜まったジャックの中の負の心が一斉に噴出した。
「ウ、ウワアアァァァーーー!!」
悲鳴を上げて走り去るジャック。
それに驚いて追い掛けるのが数瞬遅れたビリー。
「おい! ジャック待て!」
足が動いた時にはジャックの姿は路地に消えていた。
遠くから聞こえてくるのはビリーが自分を探す声。
気が付いた時にはジャックは路地裏で震えていた。
恐怖ではない。そんな物は走り出した瞬間に吹き飛んでいた。
今あるのはその代わりに出てきた強烈な自己嫌悪。
自分に恐れていたのだ。一瞬であろうと親友にあんなに悪意を抱いた自分に。
ワシントンの大学に入って田舎から出てきた自分に最初に友達になろうと声を掛けてくれたのはビリーだった。
自分が潜水艦の話を持って来た時に一番に賛意を示してくれたのもビリーだった。
イントレビットとのめぐり合わせに協力してくれたのもビリーだった。
そんな無二の親友に疑念を抱いてしまった自分が嫌になる。
だがしかしそれが初めからビリーの予想の内だったとしたら?
どうするか迷っていたところで不意に携帯が鳴った。
着信音が誰かに聞こえるのを防ぐため慌てて切ろうとするが着信はマナーモードになっており杞憂に終わる。
受信画面を見たら相手はフォスターだった。
近くのビリーに聞かれる恐れもあったが意を決し通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『おお、ニコルソン君ですか。調べ物についてだが幾つか分かったのですが早い方がいいと思いましてね』
フォスターは意外にも早く調べてくれたらしい。
「ええ、ありがとうございます。それで結果は?」
状況の逼迫しているジャックは結果を早く聞きたかった。ビリーへの疑念が自分の思い込みだと確認するために。
しかし現実は残酷だった。
『まず結果だけ言いましょう。マグワイヤ君・・・いえ、ビリー・マグワイヤは三年前に故郷のシアトルで死んでいます』
「なッ!」
ビリーは既に死んでいる。
その事実にジャックは驚愕する。
無理も無い、今さっき会ったばかりの人間がもうこの世には居ない事になっているのだ。
フォスターの話はこうだった。
まず個人経歴を辿って実家の電話番号を調べ出した。早速ビリーの実家に電話を掛けて両親の確認を取るとビリーは三年前に交通事故でこの世を去っていると言う。
既にこの世に居ない人間が大学に入れるのはおかしい、至極当然の事だった。
今度は役所の出生記録を調べると何故かビリーはまだ存命しているというおかしな記録になっていた。
だが大学では少なくとも数回は担当者と保護者と連絡を取る機会がある。その担当者に聞いてみると確かに両親と話した事があると言う。
矛盾が矛盾を呼ぶ結果になってしまった。
しかし、フォスターはここで興味深い事をその両親と離した担当者から聞き出せた。
その担当者はビリーの両親を電話口でしか知らないと言うのだ。正規の書類がちゃんと揃っていたせいもあり、担当者はそのビリーの両親と名乗る人物を疑わなかったらしい。
「今居るビリーがその死んだビリーの名前を騙っている?」
「はい、私もそう思います」
だが何故ビリーの偽者が自分の前に現れたかがジャックには分からなかった。
ジャックが潜水艦の件に係わったのは約半年前でビリーと初めて会ったのが二年前である。
半年前の事が何故二年前に予測出来たのかが分からない。
自分があの潜水艦に係わる事を予め知っていた?
そんな予知みたいな事が可能なのか?
それとも他の何かが?。
「おーいジャック! どこに居る?」
思考の海に沈んでいたジャックをその一声が引き揚げた。
「教授ありがとうございます」
ジャックはそれだけ言うと携帯を切る。
気が付けばビリーは直ぐ近くまで来ており、もう二十メートルも無かった。
発見を恐れたジャックはさらに隠れようとその場を離れようとした。
だが体は石のように動かなかった。
恐怖に震えて足が竦んだ訳が無い。
誰かに押さえ付けられてもいない。
しかしなぜ自分の体はこの場から動こうとはしないのか?
「ジャックー? 何処だー?」
もうビリーは寸前まで迫っている。
もしかして自分は答えを得ようとしているのではないか?
最も身近な答えに。
ジャックは緊張で渇いた喉を唾を飲み込んでささやかに潤す。
出来る保障は何処にも無い。
相手は武装しているのかも知れない。
逆に自分は丸腰で格闘技の心得も無い。
蟻と像以上も離れた優劣。
もし相手が自分を殺す気だったら。
だったら逃げてしまえばいい、まだ気付かれてはいないのだから。
でも自分は知りたい。
「・・・クッ! 畜生ォ・・・」
押し殺した声が口から漏れる。
ジャックは動いた。
そしてジャックはその自分がした行動を後にまで後悔する事となった。
次回、用事で少々遅れるかもしれません。ご了承下さい。
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