入学準備①
オーガスタス:本作の主人公。ろくでなしの大人に蹴り倒された。
アラン:主人公を拉致したろくでなし。足癖がとても悪い。
(ここ、は……?)
目が覚めると、そこは暖かい寝台の上だった。
オーガスタスは清潔なシーツに包まれている。寝台の上から室内に視線を走らせると、部屋にはオーガスタスが使っている寝台の他にも2台の寝台があり、大きな窓が南側の壁に3つあった。
部屋全体が暖かいのは、壁際にある暖炉のおかげのようだったが、そもそも窓から入る日差しが、北方のドモルガンに比べてずっと暖かみのあるものだった。土地自体が暖かい場所なのだ。
(どこか遠くに、来たみたいだ……)
窓から快晴の空を眺める。太陽の位置からして早朝のようだ。室内に視線を戻すと、暖炉の近くに置いてある足の低い椅子に、誰かがいた。
大柄な男性が、椅子に座って高いびきを掻いている。
男性は結構な高齢だった。皺の刻まれた顔に、寂しい頭髪と白くモジャモジャなひげ、丸くて大きな鼻が特徴的で、太鼓腹に医者の白衣を着ている。疲れているのか、ぐっすり眠っているようだった。
(喉が、渇いた……)
オーガスタスは喉の渇きから、飲み物を求めて視線を動かす。
寝台から手を伸ばして届くか届かないかのところに小さな丸テーブルがあり、そのテーブルの上にガラスの水差しがあった。
オーガスタスは水差しを取ろうと腕を伸ばして、うっかり姿勢を崩した。咄嗟に腕で身体を支えようとしたけれど、上手く力が入らない。そのままズルズル寝台の下に転がり落ちる。
物音で起きたらしい医者が、椅子に座ったまま目を丸くして言った。
「おや、目が覚めているね。水を取ろうと思ったのかね?」
「…………」
「無理に動かん方がいい。どれ。わしが取ってやろう。だがその前に、お前さんをベッドに担ぎ上げた方が良さそうだ。どっこい、せ」
医者は身体を起こし、腰をさすりながら近づくと、オーガスタスを持ち上げた。オーガスタスは抵抗しようと思ったが、萎えた腕は思うように動かなかった。
医者はオーガスタスを寝台に移し終えると、水差しからコップに水を注いだ。
「ゆっくり飲むことだ。いきなり飲むと身体がビックリするからな」
「…………」
医者が落ち着いた様子で言い、コップをオーガスタスの口に添えた。
オーガスタスは口に付けられたコップを拒否し、萎えた腕で後退りする。医者は「ふむ」と顎ひげを触った後、コップを枕元に置いて下がった。
「…………」
オーガスタスは医者から目を離さず、警戒したまま枕元のコップを手に取った。萎えて震える手で口もとに運び、いつも通り飲もうとして「げほげほっ」とえづいた。その拍子にコップを取り落とし、ベッドに水の染みが広がる。
医者は「あー、あー」とコップを拾い上げ、水を入れ直して枕元に置いた。
「ゆっくり飲みなさい。誰も取ったりはせんよ」
「…………」
オーガスタスは慎重に両手でコップを持つと、今度は猫のように舌を出して、ちびちび舐めるように水を飲んだ。その間も、警戒の視線を医者に向けることは止めなかった。
医者は寝台の横に立ったまま、まじまじそれを眺める。
「自分で捕ったものしか口にしないとは、野生動物のように気位の高い子供だ」
「…………」
オーガスタスは喉の渇きを潤すと、今度は途端に空腹感を覚えた。大きく腹が鳴り、何とはなしに医者の太鼓腹を見る。医者は溜息を吐いた。
「飯を用意させないと、わしが食われてしまいそうだな」
医者はそう零して部屋のドアを開けると、近くを通り掛かった女性に「病人食を持ってくるように」と言伝していた。それから、医者は付け加えるように、こうも言い添えた。
「この子を蹴り飛ばした、あの人でなしを呼びつけてくれ」
◇◇◇◇
病室のドアが開いた。
「坊主、起きたんですって?」
そう言いながら、アランは新調した黒いマントを脱ぎつつ、病室の中に入った。アランを見るなり、医者は渋い顔で小言を零した。
「遅い。お前さんの取柄は、足が速いことじゃなかったのかね?」
「女性との約束なら遅れませんよ。それでウッドール先生、坊主は?」
アランは白いターバンを直しつつ、布団の小山を見る。小山はもぞもぞ動いている。記憶が正しければ、ドモルガンで拾った子供の寝台だ。アランは小山を指差し、「起きてます?」とウッドール医師に尋ねた。ウッドール医師は渋い顔で頷いた。
「3杯目の麦がゆを食べてるところだ。目覚めたばかりで大した食欲だよ」
どうやら麦がゆの器を寝台に持ち込んで食べているようだ。マナー云々を知らないのは予想通りだが、それにしたってなんでだ。テーブルで食べろ、テーブルで。
「こいつ、何で隠れて食ってるんですか?」
「野生のルールだな、人目に付かないところで食べるのは。この子の面倒を見ていると、決して懐かない山猫を預かった気分がする。本気で『役者』にする気かね?」
「ええ。春には苗木学級に入れます」
アランはそう言った。『役者』というのは、アランとウッドール医師が使う『影武者』を意味する符牒だ。苗木学級は『役者』を育てるための教育機関だった。
「…………」
2人が話している間に、オーガスタスも麦がゆを食べ終えたようだ。布団の隙間から、警戒心の強い山猫のような目で、会話する2人を注視している。アランがちょっかいを掛けようと手を伸ばすと、威嚇するような唸り声を上げた。
ウッドール医師は、アランの方を向いて尋ねた。
「まるきり心を許されておらんようだが、この子に確認は取ったのかね?」
「取りましたよ。究極の二択って感じでしたけど」
「わしにはどうも、説明が足りておらんように見えるがね」
「道すがら説明するつもりだったんですよ。でも、あの状態でしたからね。目も覚めたようなので、説明と準備を兼ねてこれから坊主を連れ歩きたいんですが、いいですか?」
「いいわけがあるかね。もう2、3日は様子見だよ」
アランは「なら3日後に来ますよ」と言って回れ右をする。けれど、アランが部屋を出るよりも、オーガスタスが毛布を脱ぐ方が早かった。
「…………」
立ち上がったオーガスタスは、随分と顔色が良くなっていた。着ている物は、医者に貸し出されたブカブカの古着だったが、それすら前に着ていたボロ布に比べれば上等な部類だ。
そして、子供にあるまじき剣呑な目は、アランに説明を求めていた。
「これこれ、まだ安静にしときなさい」
ウッドール医師は渋面を作り、急に立ち上がったオーガスタスを諫める。その一方でアランは笑い、正面に向き直ってドアを開けた。
「まっ、お前さんの判断でついてこい」
アランがそう言って部屋を出ると、オーガスタスはウッドール医師の手をすり抜けて付いてきた。
◇◇◇◇
表通りに出たオーガスタスは、眩しい日差しに目を細め、やせこけた手を太陽にかざす。寒気を含んだ風が頬を撫でたが、ドモルガンの風に比べればずっと優しい冷たさだった。
「……んっ?」
風の匂いに、オーガスタスは顔をしかめる。
嗅ぎ慣れない変な匂いがするのだ。何だこれは。
「潮の香りってヤツだ。オールコックは港町だからな」
こちらの表情を読んだのか、アランがそう説明した。
アランは顎をしゃくって歩き出す。
オーガスタスはアランを追いつつ、港町の景色を観察した。
通りに並ぶ建物の多くは、赤茶けたレンガと白塗りの壁で出来ていた。お日様の光を白い壁が反射するからか、町全体がどこか陽気な雰囲気に包まれている。各家々が色鮮やかな旗を掲げているのも、陽気さの演出に一役買っていた。
大きな通りの左右には露店や商店がびっしり並び、客を集めようとする露天商の声と、ここで暮らす人々の会話が、朝から往来を賑わせている。
こんなに活気づいた街は、それまでに見たことがなかった。
「余所見して迷子になるなよ」
アランが振り返って注意したとき、オーガスタスはあることを思いついた。けれどすぐ、アランに釘を刺された。
「おい、逃げようなんて思うなよ。俺との追い駆けっこなんて不毛だろ?」
「…………」
図星だった。アランは『お前の考えなんてお見通しだ』と言わんばかりに笑っている。にやけ面が気に食わないので、オーガスタスはそっぽを向いた。
しばらく歩いた後、アランはとある露店の前で足を止めた。
そこは小さな土産物屋だった。
簡単なガラス細工やアクセサリーから、木彫りの騎士や真鍮製の竜など、この辺りの民芸品を扱っている店のようだ。
アランは店先に並んでいる商品の一つを手に取る。それは木彫りの人形だった。人形は髭を生やした男性で、王冠を被って立派な宝剣を携えている。何だか偉そうな人形だ。
「そういや、ナンバー王についてはどれくらい知ってる?」
アランはそう言って、手にした人形を見せてきた。
オーガスタスは首を横に振る。まったく知らなかった。
ドモルガンでは人に何かを教われる環境ではなかったし、荒地では日々の暮らしに追われるばかりで歴史を学ぶ余裕はなかった。そんな暇があったら、羊の解体法や、肉の保存法なんかの方を教え込まれる。
こっちの返事を受けて、アランは意外に丁寧な説明を始めた。
「アイザック・ベル・ナンバー。『大災害の主』たちを『箱』に封じ、サウザンディア旧六か国を併合した、俺たちの国の初代国王。んで、ナンバー王が封じた『大災害の主』ってのが、こいつらだ」
そう言いつつ、アランは店先に置かれた真鍮製の像を手に取る。
アランが手に取ったその像は、オーガスタスには『翼の生えた珍しいトカゲ』にしか見えなかった。
アランは落ち着いた教師のような口ぶりで説明を続ける。
「大災害の主は、1つ1つが世界を震撼させる力を持った古の存在たちだ。今じゃすべて封印されてるが、こいつらの子供である『災害の眷属』ってのが、何年かおきに現れては、世界中のあちこちで無茶苦茶しやがる」
「……じゃあ、こっちの人形は?」
オーガスタスは、鎧をまとった騎士の木彫りを見る。
アランは真鍮製の竜を置き、騎士の木彫りを指差して答えた。
「歴代の王子だ。サウザンディアの王子は代々、世界を守るために災害の眷属と戦う。それが王子に求められる役割だ。偉大な祖王から受け継いだ『聖なる力』を持つ王子だけが、災害を鎮めることができる」
アランは騎士の人形をぶつけて、竜の置物を横倒しにした。「ここまではいいか?」とこちらを見る。
そのとき、土産物屋の太っちょな店主が、わざとらしく咳払いした。『買う気がないなら売り物に触るな』という警告らしい。
アランはペコペコ頭を下げつつ、オーガスタスに「何か選べ」と言った。
「何かって?」
「何でもいいんだよ。テキトーに目に付いたので」
アランは店主に作り笑いを向けつつ、「早くしろ」と急かしてくる。
仕方なく、オーガスタスは店先に置いてある人形を見た。
話に出てきたのは、ナンバー王、その血を引く王子たち、災害と呼ばれる怪物たち。それらの人形が並ぶ中に、目を引くものが1つあった。手のひらサイズの白い石膏人形だ。王子でも王様でもなく、優しげな面影の女性だった。人形の女性は、見慣れないとんがり帽子を被っている。
「これ」
オーガスタスがその石膏人形を指差すと、アランは「おいくら?」と店主に尋ねる。店主は打って変わって笑顔で答えた。アランはその石膏人形を買った。
アランは革袋の財布をしまうと、人形はオーガスタスに投げて寄越す。オーガスタスは咄嗟にキャッチして、手の中の人形を見下ろした。アランが言った。
「魔女モルガンとは、変わり種を選んだな」
「魔女?」
「ナンバー王に『大災害の主』を封じる『箱』の作り方を教えた女だ。そういや、お前さんの出身地に縁のある人物だな。知ってたのか?」
オーガスタスは首を横に振る。
全然知らなかった。その人形が目を引いたのは、ただ少しだけ、記憶の中の母に似ていたからだった。
◇◇◇◇
魔女の人形を買った後、アランは次の店を目指して歩き出した。表通りから海の方向に足を向け、通りを行き交う人々に紛れる。アランは淡々と説明を続けた。
「王子たちの話はこの辺にして、ここからが本題だ」
「本題?」
「お前さんがこれから目指すものについてだ。『役者』と呼ばれる王子の影武者。その役割は単純明快だ。王子に代わって『災害の眷属』と戦い、勝つことだ」
どう考えても機密っぽい内容を、アランは往来の真ん中で口にしていた。
ただ、あまりに堂々と喋っているので、道行く人たちはかえって気に留めていない様子だ。傍からは『子供に与太話を吹き込んでいる怪しい男』にしか見えないようだ。
オーガスタスは石膏人形をポケットにしまい、その怪しい男に聞いた。
「災害退治、王子の役割じゃなかった?」
「本物の王子様を災害退治に出せないからな。葬式代で国庫が傾くし、王妃様は鶏舎の雌鶏並みにガキを産まなきゃならなくなる。だから、代役を立てる」
「でも、それは変だ」
オーガスタスは端的に指摘した。「さっきの話と違う」と。
アランは「中々聡いじゃないか」と笑った。
「本来的に、災害を鎮められるのは王家が継いだ『聖なる力』だけだ。だが、役者は王家の血を引いていない。だから聖なる力の代わりの力を与えられる。お前さんはもう見たろ?」
「……魔法?」
「正解だ。役者は魔法を使って災害の眷属と戦う。お前さんが通うのは、そのための準備をする学校だ。そして今はちょうど、その学校に行くための準備をしている」
そう言って、アランは一軒の店の前で立ち止まる。
オーガスタスはその建物を見上げた。
白い壁には植物のツタが這い、日に焼けたレンガの色が歴史の長さを思わせる。入口のドアは重厚感ある黒塗りの木戸で、ドアの横にガラス張りのショーウィンドウがあった。ショーウィンドウの中には、服が飾ってある。
服を作る店なのだろうか。
アランが店のドアに手をかけて言った。
「まずは制服だ。役者に一番大事なもんは、何と言っても衣装だからな」