採用担当官②
オーガスタス:故郷を追われて盗人中。
アラン:王室付歌劇団の採用担当官。
「はっ、はっ、はっ……」
オーガスタスは、ドモルガンの路地を走っている。
伸び放題の赤い髪は泥に塗れ、孤児院から逃げ出して以来、まともに身体を洗えていなかった。食事もろくに取れず、ボロ布から覗く手足はひどく痩せている。そして、降りしきる雪の中、履くものすらない有り様だ。裸足で一歩踏み出すごとに、石畳の冷たさが肌を裂くように痛い。
「はっ、はっ……」
オーガスタスのポケットから、盗んだパンが落っこちかける。咄嗟にパンを詰め直し、同時に速度は緩めず走り続けた。足は止めるわけにはいかない。というのも、警吏の声がしつこく追いかけてくるからだ。少しでも足を緩めたら、すぐに追いつかれる。
「ガキがいたぞ!」
「お前は先回りしろ! 行け!」
そんな声を聞きながら、オーガスタスは入り組んだ路地を進み、通りに置かれたバケツや梯子をひっくり返した。即席の障害物だ。何事も小さなことの積み重ねが肝心だ。
障害物に足を取られたのか、ずっと後ろの方から、派手に転んだ音や乱暴に障害物を退かす苛立った声が聞こえてくる。効果てきめんのようだ。
警吏たちの声は次第に遠くなり、遂には聞こえなくなった。
オーガスタスは足を緩めて振り返り、邪魔な前髪の隙間から路地を睨む。追手の姿は見えない。逃げ切れたようだ。大きく息を吐き、肺の空気を入れ替える。唇を舐めると、寒さで切れていたのか血の味がした。
「おい、止まれッ!!」
その声で振り返る。前方の曲がり角から飛び出した警吏が、こちらを睨んでいた。待ち伏せされていたか、もしくは回り込まれていたのか。厚い毛皮の下に革鎧を着た警吏は、短剣を引き抜いて警告してくる。
「止まらんと斬るッ!!」
オーガスタスはその警告を無視した。止まったところで、斬られるに決まっている。だったらむしろ、姿勢を低くして加速する。真っ直ぐに、警吏に向かって。
「なっ!」
警吏は目を見開いた。丸腰の子供が剣を握った自分に突っ込んでくるとは、予想してなかったようだ。考えが甘い。警吏が二の足を踏んでいる間に一気に距離を詰める。
「くそっ、本当に斬るぞ!」
動揺した警吏が慌てて短剣を振り抜く。だが、その一振りは子供のオーガスタスから見てもお粗末な出来だった。慌てたせいで腰が浮つき、腕だけで振っている。オーガスタスは軽やかに短剣を透かすと、警吏の袖口を掴んだ。
「なっ、うお!?」
体重を掛けて袖口を引っ張る。警吏は思わずつんのめった。姿勢が崩れたのを見計らい、オーガスタスは左手で警吏の顔をさっと一撫でする。
警吏は「ぐわっ」と悲鳴を上げた。
両手で顔を覆い、石畳の上に倒れ込む。
オーガスタスは、左手の指先で錆びた釘をくるりと回した。顔を撫でたとき、その釘で警吏の眼球を引っ掻いたのだ。釘は逃げている途中で拾った。
(見えなきゃ、追ってこれないでしょ……)
オーガスタスは倒れた警吏を一瞥し、その場から走り去ろうとする。命まで取るつもりはなかった。単純に『邪魔をするなら、邪魔できなくする』というだけだ。追いかけてさえこなければ、こっちだって揉めごとは避けて通る。
「ま、待でっ……」
「んっ?」
倒れていた警吏が、オーガスタスの足首を掴んだ。目を潰したはずだけれど、伸ばした手が偶然足を捕らえたようだ。ろくに戦える状態ではないが、時間稼ぎのつもりか。実際、今の騒ぎで他の警吏に位置を掴まれた可能性がある。ここに釘付けにされるのはマズい。
見逃すことはできなくなった。
どうしてだと思いながら、同時に、仕方ないと割り切った。
「——邪魔」
オーガスタスは釘を持った手を振り上げ、警吏の首筋にその釘を突き立てる。続けて、掴まれてない方の足で、その釘の頭を踏みつけた。食い込んだ釘が頚椎を折ると、警吏は今度こそ動かなくなった。
「はぁ……」
結局こうなってしまった。ため息を吐きながら、オーガスタスは足首に掛かっている手を蹴り払う。その直後、路地の前後を挟むように、新手の警吏たちがやって来た。
倒れた警吏は、時間稼ぎに成功したようだ。
新たにやって来た警吏たちは、横たわる仲間を前にして殺気立っている。
オーガスタスは、面倒だなと思った。2対1、それも大人と子供だ。加えてあちらは帯剣して革鎧まで着込んでいる。対してこちらは靴すら履いていない。
何というか、あまりに大人気がない。
パン1つで、どうしてここまで追い回されないといけないんだ。このパン1つが、命を懸けるに値するのだろうか。そんなに高価なパンだとは知らなかったな。
オーガスタスは嘆息して、警吏たちに尋ねた。
「退いてくれない?」
「クソったれ。ふざけるなよ」
「刻んでカラスどもの餌にしてやる」
「じゃあいい。自分で退かす」
オーガスタスは、それ以上は何も言わなかった。故郷で母親に殺されかけた時や、孤児院で食事を横取りされた時と同じだ。もう、誰かに頼むこともなければ、何かに祈ることもない。
誰の助けも、必要なかった。
オーガスタスは倒した警吏の短剣を拾うと、散歩でもするように敵の間合いに入る。惨劇の幕が上がり、その幕はひどく呆気なく下ろされた。
◇◇◇◇
採用担当官のアランが現場に着いたときには、すべてが終わっていた。
白雪で化粧された路地に、血飛沫の大輪が咲き誇っている。血痕のすぐ近くには、3人の警吏が横たわっていた。
アランが手近な警吏の1人を確認すると、正確に急所だけ斬られていることが分かった。まるで手練れの暗殺者の仕事だ。これほどの正確さは、訓練された兵士でも難しい。
アランは驚きを禁じ得なかった。
「これが、十歳の子供にできることかよ……」
けれど、雪上に残された小さな足跡が、犯人が未発達な少年であることを物語っている。アランは暗澹たる気持ちでその足跡を見つめた。そのとき、離れた場所に倒れている男から、微かな呼気が聞こえてきた。
「……ぁ、ぐっ」
瀕死の警吏が、必死に声を振り絞っている。
アランはすぐに駆け寄り、傷を確認した。警吏は目を潰され、首筋に釘を突き立てられているが、奇跡的に即死を免れたようだ。ただ、奇跡的に運が良かったのか、悪かったのかはわからない。見方を変えれば、即死できた方が苦しみは少なく済んだかもしれない。
アランは外傷の程度を確かめ終えると、その警吏を素早く背負い上げた。
「気をしっかり持てよ。今医者に連れて行く」
「……ぉむ」
「何言ってるのかサッパリ分からんが、とにかく安心しろ。俺は足が速い。駆けっこなら世界チャンプが取れる。この点に関しちゃサウザンディア王室のお墨付きだ」
「……た、ぉむ」
「頼むか? 頼まれなくたってやってやる。俺はこう見えてお節介なんだ」
アランは走りながら喋った。負傷者の命の灯火が消えてしまわないように、何でも良いから言葉を返す。生と死の境で最後に行き先を分かつのは『まだ生きている』という実感だ。アランは会話を繋ぐことで、警吏の『生の実感』を繋ぎとめようと試みた。
「……ぃ、伝え、れ」
「伝えてくれ? 大事なことなら自分の口で伝えろよ」
「生ま、れ、子供の、名前お……」
「何だ。ガキが出来るのか。めでたいじゃないか。よし、医者の看板が見えたぞ」
「…………」
「おい、肝心なトコが聞こえないぞ。名前は何だ。おい急患だ! 開けてくれ!」
「…………」
「おい黙るなよ、黙るなって! 名前は何だ!? クソさっさと開けろ、ぶっ壊すぞ!!」
アランは、診療所のドアを蹴破る勢いで鳴らす。
鬼気迫る勢いに、夕食中だった医者は食事の匙を持ったまますっ飛んできた。気の弱そうな細身の医者は、ドアを開け、アランたちを診察室に招き入れる。
「おい、コイツを助けてやってくれ」
アランは寝台に警吏を下ろし、医者を急かす。医者は脈を確認すると、手にしていた匙をそっと投げた。アランは近くにあった椅子を蹴っ飛ばし、「くそっ」と悪態を吐く。
「誰になんて名前を伝えりゃいいんだよ、俺は!」
アランの苦り切った言葉を聞き、医者は迷惑そうに首を横に振った。