苗木学級④
ブキミ:師範の仮面は変だと思ってる。
ハヌケ:師範の仮面はダサいと思ってる。
ギロメ:師範の仮面はカッコいい派。
タレマユ:師範の仮面は見ない振り。
剣術の授業が始まって5日が経った。
「日没だ。今日はここまでとする。年寄りは早く眠りたいのでな」
師範がそう言ったので、ブキミはヘロヘロとその場に腰を下ろす。そのまま仰向けに倒れ込んだ。日が沈み、紫色の空にはすでに星の光が見え始めている。
掌も、腕も肩も、何日も前からとっくに限界が来ていた。
今日の午前中なんて、両手の豆がつぶれて、ろくに板書も取れなかった。肩は鉛のように重くなっていて、棒切れを振りかぶるだけのことに鈍痛が伴う。日常の生活にすら支障が及んでいた。
ブキミは、恨みがましい視線を師範に向ける。
師範はものともせずに答えた。
「被害者は、貴様の怠慢に付き合わされる私の方だ。なぜ真剣にやらない?」
「……真面目に、やってる」
「では、今後もそうやって惨めったらしく這いつくばることだ」
師範はそう吐き捨てて踵を返す。
そのままいつものように、ブキミを置いてさっさと校舎の方に戻るかに思われたが、師範はそこで足を止めた。ブキミは訝しがって首を持ち上げる。見るとそこには、第五班の担任ラブレスがいた。彼女は救急箱を持ち、怒った顔で師範を見つめている。授業中は、何があっても怒ることなどなかったのに。
「少し、いいでしょうか?」
ラブレスは明確に怒気をはらんだ声で言った。
師範は今その存在に気づいたように、わざとらしく反応してみせた。
「これはこれは。ラブレス先生、私に何か御用ですかな?」
「先生の指導方針について、お尋ねしたいことがございます」
「奇遇ですな。私も先生の指導方針には、大変興味がございました」
「彼への指導、いささか度が過ぎていませんか?」
ラブレスは言いながら、倒れているブキミの方に近づいてくる。用意していた救急箱から包帯を取り出すと、ラブレスは血のにじむブキミの手を見て、辛そうに顔を歪ませた。一方の師範は、殊更わざとらしく顎に手を当てる。
「ほう、私の指導にご不満がおありと?」
「ペンすら握れないほどの鍛錬は、身体を壊すばかりです。無駄なしごきが、指導と言えるのでしょうか?」
ラブレスが、睨み上げて師範に言い返す。
師範はつまらないものを見るような態度で、傲然と答えた。
「見解の相違ですな。ソレをこのまま放置することは、優れた才をみすみす死なせるようなものだ。個人の資質を殺すがごとき指示が、指導と呼べるものか否か」
「指示、一体なんの——」
「先生はあの者に、いかな目的で、あのような枷を課しておられるのか?」
ラブレスが眉を顰める。この男は何を言っているんだと、訝しんでいる顔だ。ブキミもそう思う。あの人はきっと、頭がどうかしている。そもそもあの仮面のセンスが終わってる。センスとか常識とか、そういうのが欠如していないと被れない。シンプルにダサい。
「枷とは、何のことを仰っているんですか?」
「自覚がない、もしくは気づいておられない? いやまさか。先生ほど優秀な方がそのようなはずがない。何か意図がおありなのでしょう。ぜひお教え願いたい、その意図を」
今度は師範が、ラブレスを見定めようと一歩前に出る。
何を言っているのか全然わからないが、仮面越しの冷めた双眸には、有無を言わせない圧力がある。傲岸不遜な眼差し。ラブレスは一歩たじろいだ。
それで師範は、見損なったかのように鼻を鳴らす。
「貴女のやられていることは、駿馬をロバとして育てるがごとき所業だ」
師範は意味深な言葉を残すと、踵を返して校舎の中に消えた。
◇◇◇◇
剣術の授業の後、校庭でラブレスの手当てを受けてから、ブキミは身体を引きずるように学び舎に戻った。ラブレスが心配そうに話しかけてきたが、会話に応じる気力もない。空席だらけの食堂で遅い夕食を取り、第五班の部屋に向かう。
「あ、おっ、おかえり、ブキミ」
部屋に入ると、ベッドの下の段からハヌケが顔を出した。
ブキミは返事もそこそこに自分のベッドに上がる。身体を投げ出すように倒れ込む。さすがに疲れていた。疲れすぎて食事が喉を通らなかったほどだ。そのことが、ブキミには屈辱的だった。美味しいご飯を残すだなんて最悪だ。
(これ以上の屈辱があるか……)
あまりのショックにブキミが打ちひしがれていると、ハヌケがベッド脇に顔を覗かせる。ハヌケはこちらの様子を伺いながら、相変わらずビクビクした態度で言った。
「ギロメとタレマユ、先にお風呂、行っちゃった……」
「…………」
「あっ……ズボンのすそ」
「んっ?」
「糸、解れてるよ?」
ハヌケに言われて、ブキミは視線を足元に向ける。確かに糸が解れかけていた。素振りの最中に踏んづけでもしたのだろう。延々とやっていれば、足がもつれることもある。
「そうだね」
「ブ、ブキミ?」
「別にいい、これくらい」
「あ、えっと、良くないよ? そこから、もっと、破れちゃうかも」
「別にいい」
「せっかく、その、綺麗な生地使ってるし。それに……」
ハヌケが珍しく食い下がる。ブキミは『今日に限って面倒だ』と閉口した。今日はさすがに疲れ切っていて、会話に応じるのすら億劫だ。すでに2回返答している。もう1回だ。もう1回返事をして、それ以上食い下がるなら暴力で黙らせる。後のことは知らない。
ブキミはそんな捨て鉢な気持ちでいた。
何だか全部、馬鹿らしくなってきた。毎日の食事のために王子を目指しているのに、その食事が満足に取れない現状はおかしい。これ以上、師範や周囲の言うことを聞く必要があるんだろうか。
何もかも面倒だ。そう思いながら、「話しかけないで」と3回目の言葉を返す。
「じゃあ……ぼ、僕が、縫ったげようか?」
「えっ?」
ブキミは、ハヌケの顔をまじまじと見た。意外だった。その提案が。ハヌケの口からそんな提案が出てくることが。気付くと無駄な質問を投げていた。
「ハヌケ、裁縫できるの?」
ハヌケは自信なさそうに目を泳がせた後、生えかけた永久歯を見せて頷いた。
◇◇◇◇
「僕の家、織物屋さんだったから……」
ハヌケはそう言いながら、自分のベッドから裁縫箱を取り出した。針と糸を用意して、慣れた手つきで針孔に糸を通す。ブキミは目をぱちくりさせて、その手際を見ていた。ハヌケの手際の良さは、授業中や掃除中のぎこちなさが嘘のようだった。
ハヌケが、こちらに向かって小さな手を広げる。
「ほら、早くズボン出して」
「あ、うん」
ブキミは呆気に取られながら、ズボンを脱いで差し出した。ハヌケはズボンを受け取って、すぐ作業に取りかかる。解れた部分を切りつつ、丁寧に縫い直していく。
「昔から、針仕事の手伝い、やってたから。こういうの、得意なんだ……」
小さな声で喋りつつも、ハヌケの手は淀みなく動いた。月明かりしかない部屋の中、ハヌケの手もとに迷いはない。彼の手の中で、解れは瞬く間に縫い直されていく。
「はい、おしまい」
そう言って、ハヌケがズボンを返してよこす。受け取って、縫い目を見る。知らぬ間に「すごい」と口にしていた。
それを聞いたハヌケは、口もとを隠して照れた。
「す、すごくは……ないよ。取柄っていったら、これくらいだし」
「これくらい?」
「ブキミは、知ってるでしょ。僕って、手際が悪くて、グズだし……」
「うん」
「えヘヘっ、昔からそうなんだ。だから、家が借金で困ったときも、う、売られちゃって。僕は……両親に売られて、ここに来たんだ。他の兄弟じゃなくて、僕が。グズで、ダメな子だから。真面目なんかじゃ、ないんだ。僕は、手際が悪いだけ。あのときもここでも……」
言いながら、ハヌケの目もとに涙が浮かんだ。
一度溢れると涙はとめどなく湧き出た。
ハヌケの白い頬の上を、小さな滴がハラハラ滑り落ちていく。
ブキミはどうすればいいか考えた。理由はわからないが、何とかした方がいい気がする。けれど、特にいい案は思い浮かばなかった。だから、ひとまず謝ることにした。
「ごめん」
自分の何が悪かったのか、なんてわかってない。ただ、『泣いている子には謝る』という知識をなぞってみただけだ。
ハヌケはビックリしたように首を横にブンブン振る。涙を拭い、少女のような顔で笑った。
「ブキミは悪くないよ。それに……『すごい』のは、みんなの方だよ」
「みんな?」
そう聞き返すと、ハヌケはタレマユのベッドの方を見る。
「タレマユはね……どこか良家の生まれなんだと思う。どんな事情でここに来たのかは、聞いてないけど。でも、文字やマナーは、最初から詳しかったし。紋章の付いたハンカチ、枕の下に隠してるんだ。それなのに偉ぶったところがなくて……すごいよね」
ハヌケはそう言いながら、視線を少し上げる。
視線の先にあるのは、今度はギロメのベッドだ。
「ギロメはね……努力家なんだ。タレマユをライバルだって思っててね、追いつくために頑張ってるの。ギロメの偉いところはね、苦手な勉強を教えてもらうためなら、タレマユにだって頭を下げられるところ、かな。ただの意地っ張りとも違う……やっぱり、すごい」
ブキミは目を丸くして聞いていた。
驚いていた。語られる内容にではなく、それを語るハヌケの観察力に。
ハヌケには周りがよく見えているのだ。ブキミが『興味ない』と割り切って、切り捨ててしまうようなことを、しっかり見ている。そして意外にも、ハヌケの口から『すごい』と言われると、ブキミにもそんな気がしてくるのだ。
「それと……ブキミはね」
ハヌケが、今度はブキミの顔を見る。ブキミは、ハヌケの話に興味を引かれ始めていた。ハヌケの目に自分がどう映っていたのか、それを聞いてみたいと。
「ブキミは……本当は誰より先に、答えがわかるんだよね?」
ハヌケの口ぶりは残念そうだった。それから口惜しそうでもあった。
ハヌケはいつになく確信に満ちた声で続けた。
「ブキミは正解とか、どうすれば効率がいいとか、ちゃんとわかってるよね。説明しないだけで。言葉にしないだけで。手を抜いてるんじゃ、ないよね? ブキミはいつも『最短』で答えを出してるだけなんだ」
「…………」
「他の人はね、ブキミが何を考えてるのかわからないんだ。だから、手抜きって感じたり、真面目にやってないって思うの。中身のわからない黒い箱って怖いから。でもね——」
ハヌケに言われて、ブキミは自分の感覚の正体を知った。
手抜きの自覚がない理由。
他の人の感覚とズレてしまう理由。
ハヌケはそれをこう例えた。答えだけ吐き出す『黒い箱』だと。
「それでも、ブキミは僕みたいな『グズ』になっちゃダメだよ」
その上でハヌケは、自分のことを『グズ』だと言い切った。
真面目とは、全然違うものなのだと。
ハヌケはわかっていたのだ。こちらが彼の真似をしていたことを。
ハヌケは言いながら、苦笑して泣いていた。
自分で言っていて、やっぱり辛いのだ。自分のダメなところを晒すことは、彼にとって古傷に自分で爪を立てるようなものだった。だってそれは、彼が家族に捨てられた理由なのだ。自分自身を傷つける言葉だ。自分が傷つくのも構わないで、ブキミのためを思って伝えられた言葉だった。
(どうしてこの子は、自分が傷つくのに……)
ブキミは理解できなかった。自分が傷ついてまで、他人に関わろうとするその心が、不思議でたまらなかった。けれど、同時に思い出す。ドモルガンで会った少女の言葉を。
『助けたいって思うことって、そんなに難しいもの!?』
知らない感情だった。
もしくは、忘れてしまったのかもしれない。
ドモルガンにいたころの、まだオーガスタスだったころの自分には、少女の言葉を受け取る余裕がなかった。一度でも騙されたら致命傷になってしまうような環境では、優しい言葉を受け取ることすら難しい。疑り深くなければ、あの街で生きていけなかった。
猜疑心は、自分を守るための鎧だった。
けれど、今は違った。
仕立てられた制服に袖を通したときに感じた、不思議な違和感。
自分が自分でないような、産まれ直した感覚。
誰かの誠意、誰かの好意を身に付けたあの瞬間に、猜疑心ではない鎧を、すでに与えられていた。自分自身も気づかぬうちに。あとは『開く』だけで良かったのだ。開け方を忘れてしまっていた、その心の扉を。
「——うん」
ブキミはぎこちなく頷いた。
すっかり錆びついて滑りの悪くなった扉を開けるように。
「そうする。ありがとう、ハヌケ」
ブキミがそう言うと、ハヌケはビックリして両目を丸くした。その後で恥ずかしそうに、安堵したように笑った。そのハヌケの顔は、少し誇らしげに見えた。
「うん、どういたしまして」
そう頷き返した後で、ハヌケは頬を赤らめて恥ずかしげに指摘する。
「それよりね。そろそろズボン履かない?」
ブキミは自分の下半身を見下ろす。まだズボンを脱いだままだったのだ。
ブキミとハヌケは、顔を見合わせて笑い声をあげた。
◇◇◇◇
翌日の剣術の時間。場所はいつもの校庭。
温かくなり始めた日差しの中、芝生の緑がブキミの碧い目に染みた。大きく息を吸うと、温かい葉の匂いがする。夏が近いのだ。
24人の子供たちが、師範の前に整列していた。
「五感で覚えろ」
そう言って、師範は毎日一度だけお手本を見せた。
老人と思えぬ機敏さで棒切れがひらめく。
師範が振るうその一瞬だけ、ただの棒切れは『鋼の剣』の重さと鋭さをまとった。途方もない技術が、まるで棒切れの材質を自在に変えるかのようだ。それは技術の極致。言葉では語りえない高みだ。言葉で説明できないものは五感で感じ取れと、師範は言外に語る。
「素振り10回、始め」
その声に従い、校庭に集まった子供たちが一斉に棒切れを振り始めた。
日差しの下、少年たちの額にはすぐに汗が湧き出る。
ハヌケの額にも汗が浮かぶ。
ギロメが一生懸命に棒を振っている。タレマユだって、他の子供たちだって、真剣に棒切れを振る。けれど、師範の太刀筋には到底及ばない。
速度。緩急。重さ。子供たちの素振りは、そのどれも持ち合わせていなかった。
師範が見せたあの『鋼の剣』には遠く及ばない。
ブキミは痛む両手を見下ろした。掌中に血豆ができている。
「…………」
わかっていた。正しく握って振ったなら、掌はこうならない。間違った力の掛け方、握り方、振り方、それらが自分に跳ね返った結果だ。
「…………」
ブキミはイメージする。師範が見せた手本を思い浮かべる。
考える。どうすれば、あれと同じことができるか。
きっといくつかの要点がある。けれど、それら1つ1つを分解して理解はできない。そんなことをする必要もない。というよりは、頭で理解して動いていたのでは噛み合わない。
そうではなくて、全体としての輪郭を掴む。
ブキミ自身にも『そこ』に至る過程は説明できない。
黒い箱の感覚。
そう言われたことで、何かが噛み合ったように思った。頭の奥に四角い小さな箱がある。その箱に五感で知りえたすべてを投げ入れる。
計算式は必要ない。
あとはもう曖昧なまま掴み取るのだ。正しい答えを。
「……おい、何ボサッと立ってんだ」
ギロメがそう注意した。タレマユもブキミの方を一瞥する。その目が語る「真面目にやりなさい」と。ハヌケが心配そうな顔でこちらを見た。ブキミはそれに視線を返す。
(ハヌケの言葉に、応えてみせる……)
優しさと弱さ、真面目さと愚鈍さ。それらをもう取り違えない。
息を吐き、吸い、構えて振り被る。
大丈夫だ。
答えはすでに、この手の中にある。
ブキミは棒切れを振り下ろした。
振り切るその刹那、手の中で棒切れは『鋼の剣』と化した。
「よし」
師範が、その日最初の『よし』を言った。そのとき、その場の誰もが、ブキミの太刀筋に目を奪われていた。その場の誰もが、違いを理解していた。
鶏群の一鶴——誰の目にも、それは明らかだった。
視界の端でハヌケが誇らしげに笑っている。
そしてその日から、素振りを終わらせるのは決まってブキミが一番になった。
感想やいいね、ありがとうございます。
まだまだ続きます




