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盗み食いの味

 10歳のとき、最初の盗みを働いた。


 その年の春は、連日の雨で肌寒かった。作物の育ちが悪いと、近所のマシューさんが畑の前で零していたのを覚えている。ただ、マシューさんは毎年のように作物を枯らしていたから、あの人の話は当てにならない。作物の育ちが悪いのは、たぶんマシューさん個人の問題だ。


 でもそうだ。

 確かにあの日も、朝から小雨が降っていた。


 あの日、僕の当たり前が終わった日。

 まだ盗みを覚える前の僕は、生家の薄暗い寝室で母親に謝られていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 ベッドが1つきりしか入らない狭い寝室で、母は壊れたように繰り返す。

 謝りながら、彼女は僕を抱き締めた。

 あまりに強く抱き締められて、僕はちょっと息苦しかった。母の髪からは、羊の厩舎の匂いがする。その日も早くから、仕事の手伝いに出ていたんだ。働き者の母の匂い。背中に回された彼女の手には、包丁が握られていた。


「私の可愛いオーガスタス……ごめんなさい」


 息苦しさから逃れるように、僕は窓の方を向いた。

 四角く区切られた寝室の窓からは、貧しくも美しい北部高地の風景が見えるはずだった。岩がちで牧草に乏しいけれど、わずかな湧き水と薪を分け合い、険しい冬を乗り越えた自慢の故郷の風景が、そこにあるはずだった。

 顔見知りばかりの小さな村だ。早くに父親を亡くした僕たちを、家族同然に支えてくれた村だ。けれど今、窓から見える村は死病に(むしば)まれていた。

 黒煙のようなモヤが村全体を包んでいる。その黒いモヤの中心には、巨大なノミの怪物が居座っていた。


「フシュー、フシュー」


 怪物の身体は民家を押し潰せるほどに大きくて、その巨体からは煙突みたいな管が何本も生えていた。村を包んでいる黒いモヤは、その管から吐き出されていた。

 見たことも聞いたこともない怪物が、「フシュー」とモヤを吐く。

 モヤを吸った村人は、苦しみ抜いて死んでいった。村のあちこちに倒れている遺体は、黒く変色している。

 羊の解体を教えてくれたマールさんも、近所のマシューさんも、そんな風に死んでしまった。

 家に逃げ込めた人もいたけれど、怪物はそういった家を踏み潰して回った。人に対する悪意が、殺しを楽しんでいるみたいだった。

 じきにこの家も押し潰される。きっともう、誰も助からない。


「ごめんなさい。でも、この苦しみの中で死ぬよりは」


 母は泣いていた。その顔も半分くらい黒ずんでいた。

 母もモヤを吸い、黒い病に(さいな)まれていた。きっと体中が痛かったはずだ。母は抱き締めていた両腕を解くと、震える両手で包丁を振り上げた。


「オーガスタス。許して」


 包丁の切っ先が、僕に向かって振り下ろされる。

 そのとき、周りのものがゆっくり、とても細やかに見えた気がした。部屋に舞う埃や母の額に浮いた汗、それから、磨かれた包丁の刃に映る自分の姿。赤毛に碧眼、母が『美しい』と褒めてくれた自分の姿が、目前に迫る死を呆然と見つめていた。


 ああ、ここで死ぬんだ。そう思った。


 でも、誰かに助けて欲しいとは思わなかったんだ。

 理由はきっといろいろある。


 頼るべき母に殺されかけていたから、とか。

 祈る先を知らなかったから、とか。

 もしくは、もっと単純なことだったかもしれない。

 誰の助けも、要らなかったから。

 包丁が脳天に突き刺さる直前、頭の中で箱が開く音を聞いた気がした。


「————」


 気づくと、僕は家の外で小雨に打たれていた。

 母が持っていたはずの包丁はいつの間にか僕の手に握られていて、包丁は赤くぬらぬらと濡れていた。僕は手にしたその包丁で、2つの命を終わらせたようだ。

 1つは、家の中に転がる母の命を。

 もう1つは、村の真ん中に横たわる怪物ノミの命を。

 どうやったのかは覚えてない。ただ、自分がやったという実感だけがあった。


「……寒い」


 家の外は、春雨で冷たかった。そして、ひどく静かだった。

 村の真ん中に立ち尽くしていると、雨の「しとしと」という音だけが聞こえてくる。苦しんでいた村人たちは、みんな楽になれたようだ。そうして、村には僕だけが残された。


「ぐぎゅう~」


 お腹が鳴った。空腹だった。昼ご飯を食べそびれていたから。ひもじい気分になって、僕は近くの軒下にしゃがみ込んだ。

 空腹は辛い。

 僕はお腹を抱えて助けが来るのを待った。けれど、いつまで経っても助けは来なかった。お日様が沈んでまた昇っても、助けは来なかった。


「…………」


 僕は冷たい身体で立ち上がり、民家を1つずつ回った。4軒目で作りかけの冷めたスープを見つけた。盗みはダメだと教わっていたけど、我慢の限界だった。

 おそるおそる手を伸ばし、固くなった羊肉を摘まんで口に運ぶ。

 盗んで食べたその一口は、涙が出るほど美味しかった。

 それから何日か、村に残った食べ物を盗んで過ごした。その後で、知らない街の大人たちが村にやって来て、僕は知らない街の孤児院に預けられることになった。


オーガスタス:本作の主人公。

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