30:〝獣狩りの凶獣〟
人と獣がガチの素手喧嘩をしたら、人が勝てるのはせいぜい仔猫までだ――という説を、前世の世間話で耳にしたことがある。
さすがに話盛りすぎな気もするけど、現実として人間と動物の身体能力にはそれだけ差があるということだ。
――では、この世界の人間はどうか。
(……マジかよ……!)
「ニャッ! ニャッ!」
「ひゃはははっ! いいですねえ、楽しいですねえっ!」
目にも留まらぬというのはこういうことだろうか。
僕の目の前で縦横無尽に疾駆する二つの影。大きいのはヴォカとかいう謎の戦闘狂男、小さいのはうちのサクラだ。
戦闘が開始されてかれこれ五分以上は経っていると思う。僕の目には二人がなにをしているのか断片的にしか見えない。
「シャーッ!」
サクラが地を蹴る。弾丸のように跳躍した空中でヴォカと交錯する。火花のような一瞬の光が爆ぜ、両者は着地した先で同時に踵を返す――それが目まぐるしく繰り返されている、まるで忍者同士の決闘だ。
「ははっ、すごいっ! 黒燐鋼のナイフが爪切りにもならないなんてっ!」
こちらからすればサクラの【ザシュザシュ】で折れないナイフがすごい。そこらの刃物なら今頃キュウリみたいに輪切りになっているのに。たぶん白紋鋼級の超硬金属だ。
「しっ!」
ヴォカの指先からなにかが放たれる。僕の目にはそれが見えない、けれどサクラが躱した直後にズガガッ! と手裏剣のようになにかが突き刺さる音だけがする。おそらくなにかの魔法だ。
「ニャニャニャニャッ!」
おかえしとばかりにサクラの口から無数の光弾が発射される。【ニャン弾】、一撃必殺の【ニャン砲】よりも威力は控えめながら、速射性と連射性の高い攻撃魔法だ。
「はっ! ふっ!」
長駆がよじれて光弾を避け、手にしたナイフが光弾を切り払う。
「なら、これはどうですか? ――【爆雫】」
パパパパァッ!
「――――!」
サクラのそばで爆竹が弾けるような音。パッと飛び散るのは――水滴だ。
気をとられた一瞬の隙に、ヴォカが間合いを詰める。
「しゃあっ!」
ボォンッ! とサッカーのフリーキックのように振り上げたつま先が、サクラの小さな身体を思いきり蹴り上げる。
「サっ――」
――いや、直撃はくらっていない。つま先に前脚をかけて自分から跳んだ。空中でくるりと身を翻すサクラ。
そこへヴォカが腕を振るう。透明の手裏剣が放たれる、しかしサクラも【バリア】で防御。そのまま後ろに着地して体勢を立て直す。
「ふふっ、素晴らしいですね。ここまで楽しませてくれるとは」
ヴォカのほうもバックステップで距離をとる。軽く足踏みしただけでこの男何メートル跳んでいるのか。
「サクラ、だいじょ――……!」
思わず背筋がぞわりとする。
サクラのこの世で最も愛らしいお手々から、この世で最も快楽的な弾力を誇る肉球から、ぽたぽたと血が滴っている。
「やれやれ……これだけやり合って、ようやくかすり傷一つですか」
なんて言いながらドヤ顔でナイフを舐めるヴォカ、の顔面を僕はバールかなにかで殴りつけてやりたい。よくもうちのサクラを傷づけてくれたなインテリゴリラ。
前世なら速攻でキャリーバッグに入れて動物病院に猛ダッシュだが――動じることなくペロペロと肉球を舐めるサクラ。彼女の【ペロペロ】は医者要らずのチート回復魔法、その舌使いの前で大抵の傷はあっという間に治ってしまう。
「……つーかなんで、サクラの動きについてこれるんですか?」
この世界の人間は――エフ族にせよヒュム族にせよ、身体のつくりや大きさは地球人類とそう変わらない。けれど身体能力は地球人類よりも高いっぽい。マナが筋細胞を強化したり神経の働きを活性化しているからだ。
魔法が使えなくても、才能と努力次第では優れた戦士や冒険者になれる。加護なしでランク3に到達したボガードがいい例だし、うちの村の狩人衆にも強い人は何人かいたりする。
とはいえ、それにも限界はある。先生曰く「死ぬほど鍛えた天才でも、生身では討伐レート5相当を狩れるかどうか」とのこと。結局人間は力では獣や魔物には敵わない、魔法使いや隷魔契約者がどこの業界でも重宝されるのはそのためだ。
だからこそ――ありえない。今のサクラと互角か、あるいはそれ以上の人間なんて。
「見ればわかるでしょう? 昔から言うじゃないですか、『筋肉は裏切らない』と」
「剣と魔法の世界でそれを聞くとは」
ムキッとサイドチェストするヴォカ。羨ましいほどの大胸筋、はともかく。
もちろんそれだけではないはずだ。考えられる可能性は一つ。
「そういう魔法、なんでしょ?」
「ふふっ、ご明察です。幼いわりに目端が利くようですね」
たぶん僕のが年上です、などと言えるはずもなく。
「あんた、水の加護持ちだよね?」
「それも正解」
この男が使っていた透明な手裏剣のような投擲攻撃。最初は光魔法かと疑ったものの、刺さった地面がわずかに濡れていた。それに先ほどの破裂音の魔法、水風船が割れたみたいに水しぶきが飛んでいた。
「この濃霧は私のような水使いには実に気持ちがいい。水場がなくても【水針】や【爆雫】が使い放題ですからね」
「カエルみたいなことを言いやがって」
「とはいえ私の場合、攻撃系の魔法は小手先の虚仮威しレベルしか使えないんですけどね。水魔法はどうしても火力不足がつきまといます」
それでも僕的には羨ましいけど、隣の芝生というやつか。
「まあそっちはオマケですし。君の言うとおり、私の真骨頂はこの肉体強化の魔法です。一応私のオリジナルでね、【血巡】と名づけました」
「ちめぐり?」
「知ってますか、人間の身体は半分以上水でできてるんですよ。血液に髄液にリンパ液、我々の中には多様な水分がめぐりめぐっている。水魔法はね、その水流を調整したり活性化したり、マナもどんどん流し込んだりして、肉体の機能を高めることができるんですよ」
魔法ドーピングとでもいうべきか。なんかちょっとヤバそうなアレだ。目がずっとガンギマっている感じなのもそのせいではなかろうか。
「似たようなことは他の水属性使いもやっていますが、私のこれは心臓バクバクで血液もガンガン巡らせたりして、効能が段違いなんですよね。おかげで帝都じゃ多少は名も知られていまして、〝獣狩りの凶獣〟なんて物騒な二つ名もいただいちゃいまして」
なんか正義の味方的なネーミングではない気がする。この男の扱われようの一端を垣間見た感じだ。
「ポン=シュ氏……君は君の隷魔を誇っていいですよ。ここまで私と張り合える獣は、今までいませんでしたから」
ヴォカが上着を脱ぎ捨てる。ビキッ、となにかが軋むような音がする。
「さて……休憩もそろそろ終わりにしましょうか。せっかく熱が冷めてしまってはつまらないですから」
ビキッ、ビキッ。
全身に血管が太く浮き上がっている。ぎひっ、と歪んだ口元から引きつった声が漏れる。
「ぎひっ、ぎひっ……さあ、続きをやりましょうか! もっともっと楽しませてくれるんでしょう!? ぎひっ!」
(こいつ……)
【血巡】とかいう魔法で、身体をさらに強化している。この男、まだ本気を出していなかったのか。
全身の血管が隆起し、目は赤々と血走り、もはや人間から一歩離れたガンギマリ状態。あのときのマ族なんかよりよっぽど恐ろしい、見ているだけで肌が粟立ってくる。
「……サクラ……」
僕とヴォカの会話中ずっとペロペロ毛並みを整えていたサクラが、再び低く身構えて臨戦態勢に入っている。全身の毛がボワボワと逆立っている、ここまで警戒している姿は見たことがない。
「……いや」
僕はぎゅっと目をつぶり、
「――もういい」
ため息と一緒にそう言った。
「…………は?」
「ここまでだ。これ以上、サクラをあんたと戦わせない」
ヴォカは一瞬呆ける。その顔から笑みが消える。
「冗談でしょう? ……この身体の火照りを、駆けめぐる情熱を、どうしてくれるというんです!?」
僕は唇をぎゅっと結んで、サクラの前に出る。
「僕がやる」
「……冗談、ですよね?」




