15:留学生
「――カルア、大丈夫か?」
車の窓から父が顔を出したので、少女は手綱を緩めてそこに並んだ。
「なあに、お父様?」
「オネの村まではまだしばらくかかるぞ。いい加減疲れも溜まってきたんじゃないか?」
「いいえ、大丈夫ですわ」
「そうか?」
「領都ヤードを発って三日、こうして文句一つ言わず歩き続けてくれている隷魔の背を、その主がどうして己の楽のために離れられましょう。ねえ、ミゲール?」
彼女がぽんっと首筋を叩くと、隷魔は「グルル……」と小さく唸り、うなずくように頭を小刻みに動かした。
「これが隷魔とその主の正しいありかた、ですわよね? ジン先生」
「……ああ、そうだな」
少女の呼びかけに、父親の隣に座るエフ族の魔法使いは、気だるげにそう応えた。
***
『起きろ』
「……うん……起きる……ちょ、待って……」
今日も肉球によるほっぺたぺちぺちから一日が始まる。
僕が顔を洗って歯を磨いている間、サクラも顔を洗って毛づくろいをする。それが済んだら朝食だ。
「おはよう、父さん、母さん」
「おはよう、今日も寝坊しなかったな」
「おはよう、ポン、サクラちゃん。ごはんにするわね」
この二年で父も母もすっかりサクラの世話に慣れている。お椀をぺしぺし叩くサクラの『はよ、はよ』という僕にしか聞こえない催促が鳴り止まない。
今日の朝ごはんは、乾燥豆と鶏肉と少量の小麦粉を混ぜて焼いたお手製クッキーだ。サクラの好物トップ3に入るそれを綺麗にたいらげてお椀の底まで舐め尽くしてようやく満足すると、そこからお昼頃まではまったりタイムに移行する。
部屋に引き上げると「今の気分にぴったりな寛ぎポジション」を模索して徘徊。それが見つかるとくるんっとへそ天して僕のほうを見る。
『もふもふ』
「御意」
彼女が満足するまでお腹を中心に撫で回す。これはむしろ僕にとってのご褒美タイムであり、脳内幸福物質が耳から漏れそうなほど垂れ流される。三十分ほどかけて喉のゴロゴロが最高潮にまで到達すると、今度は緩やかに収まっていき、やがて安らかな寝息へと変わる。
至福のお昼寝から目覚めると、昼のおやつ(トワウ産煮干し)を経て今度は暴君タイムのスタートだ。溜めに溜めて有り余ったエネルギーを適切に発散させるために存分に遊ぶ。高ぶった彼女の動作は逐一激しく、お手製猫じゃらしは一日でダメになることもしばしばだ。
こちらが息切れするまで付き合わされた挙げ句、突如にわか雨が止むかのごとく「スン」と一切に興味をなくして香箱座りになる。
『かいかい』
「御意」
彼女が満足するまで頭や背中などを中心に掻いてやる。そうしていると時間が飛ぶ。本当に飛ぶ。
「さて、今日の夕飯はなにかにゃー?」
「ニャー」
夕食後もいちゃいちゃしたりツンされて遠くから眺めたりしているうちに、
「ああ、もう寝る時間か」
「ニャー」
「ふあー、今日も一日充実してたなあ。明日もたくさん遊ぼうな、サクラ」
「じゃねえよ」
ゴッと鈍い音。重たいもので後頭部を殴られると人間は目から星が出る。
「ぐおお……先生……」
ジン先生が腕組をして立っている。半年ぶりの再会でもその美貌と色気は相変わらず。
「レイとメウから聞いたぞ。私が留守の間、勉強も修行もそっちのけで毎日隷魔とイチャついてすごしてたってな」
「そんな……もはや本物の兄妹みたいだなんて……」
「照れてんじゃねえよ」
先生はサクラをひょいとだっこして「サクラー、相変わらず可愛いなお前はー」と顎下を撫でる。熟達したその手つきはサクラを喜ばせるのにじゅうぶんであり、先生に慣れたサクラもご満悦の喉鳴らし。
「帰ってたなら……挨拶に伺ったのに……」
「つい先ほどな。お客さんを連れてきたんで、さっきまで村長といろいろ相談してたところだ」
「お客さん?」
サクラの極上の肉球を揉みながら、しかし先生はなんだか浮かない顔だ。
「……明日から学校を再開する。お前も必ず来い、会わせたい人がいる」
「……うおお……」
思わず声が出てしまった。
久しぶりの教室(先生の家の客間)で、いつもはサクラと顔を合わせるたびにきゃいきゃいはしゃぐチビっこたちが、今は背筋を伸ばして神妙にお口チャックしている。
「というわけで、我が校始まって以来の留学生を紹介する」
先生の隣には、僕と同年代くらいの女の子が立っている。
さらりと長い黒髪にカチューシャ。月並みな表現だけど、まるで人形みたいに整った顔立ちをしている。透き通るように白い肌に、目元のホクロがアクセントになっている。
「お初にお目にかかります。カルア・アラビカと申します」
(アラビカ?)
「すげー」
「ヒュムにもこんな綺麗な人いるんだねー」
「気の毒そうな目で僕を見んなチビども」
そう、耳が尖っていない。ヒュムの少女だ。それに、フリルつきのシャツも藍染のスカートもひと目で高級品とわかる。間違いなくいいとこのお嬢様だ。
「アラビカの姓でわかるとおり――」と先生。「カルアは現ヤーディア領主、辺境伯アラビカ氏のご息女だ。エフ族――我らオネの村の民との交流を自ら望み、しばらくこの村に滞在することになった。その間、お前たちと一緒にここで学び、あるいは魔法の特訓をすることになる」
マジか。
「なお、カルアは貴族令嬢ではあるが腫れ物のように扱われることを望んでいない。またヒュムであることも我々エフとなんら隔たるものではない。最低限の礼節は忘れず、あとは村の皆と同様、普通に接してやってくれ」
つまり「みんな仲よくしてあげてねー」ということで、まあジン先生の言い回しにはチビっこたちも慣れている、「はーい」とお行儀よく返事。
「よろしくお願い……じゃなかった。みんな、よろしくね?」
精いっぱいという風に、にっこりフレンドリーに微笑むカルア嬢。思ったよりもいい子そうだけど、、ちらちらと僕のほうを見ているのは同じヒュムだからだろうか。
それはいい。それはともかくとして。
「あのー……」
気になってしかたない点が一つ。
「なんだ、ポン?」
「それはいいんですけど……その、そっちの……」
指をさすのもおっかないので、ちらっちらっと目線で示す。
犬がいる。
いや、正確には犬的なナニカが。
彼女の隣に行儀よくおすわりしている。そしてその姿勢で頭の位置がジン先生と変わらない。「おまえのような犬がいるか」と言いたくなるくらいデカい。
「ああ、隷魔だ、彼女の」
「隷魔……」
カルア嬢がそっと手を伸ばすと、デカ犬は撫でやすい位置に頭を下げる。
「ロックガルムのミゲールです。ほら、みんなに挨拶して」
「ワウ、ワフッ」
デカ犬ことミゲールが短く鳴き、チビっこたちが「おおー」と歓声。
「ふふっ。おとなしくて優しい子だから、怖がらないであげてね?」
あくまで愛想のいいカルア嬢。そこでようやく、僕は気づいた。
彼女の視線は、僕ではなく、机の上で丸くなっているサクラへ向けられていることに。




