1-87 春の宴 その23 二人の距離 舞と柱基①
柱基と舞は、連れ立って階段を下りると、東山公園でも比較的小さめの広場へやってくる。
その広場は規模こそ小さいが、他の広場では見かけない花壇があった。
花壇の横には木のベンチもあるが、どちらもずいぶん古い物で、経年劣化が激しい。
花壇の縁にはひび割れや欠けた所があり、ベンチも雨や湿気で腐食したのか、割れたり折れたりした所があった。
それでも、花壇があったからなのか、隅の方の地面に埋込み型の水道の栓があり、蛇口の先には水を撒くためのホースが付いていたので、二人はそのそばまで歩いて行く。
こうした公園の水道は、水飲み場のものと違い無断使用防止のため、普段は栓の取手を付けていない所もあるが、ここの水道には運良く付いたままになっていた。
柱基はホースの先を持ち上げ、人のいない方へ向けて、水道の栓をひねってみる。すると、ホースの先からはちゃんと水が出たので、ホッとした笑顔を浮かべた。
「水流園さん、水が出るよ。これで膝のケガを洗って」
言われた舞も笑顔を見せるが、普通の水道の蛇口と違うので、膝のケガを洗うのは、一人では難しい。少し考えた後に、ウン、とひとつうなずく。
「よっちゃん、そのホースを持って花壇の中へ水を入れながら、その場でしゃがんでくれる?」
「エ?と、こう、かな?」
柱基は水道がある方の花壇の縁から、花壇の中、今は何も植えられておらず砂場のようになっている、その中へジャバジャバと水を流しながら、その場でゆっくりとしゃがみ込んだ。
それを見た舞は、柱基のしゃがんだ花壇の縁とは直角の縁に、ケガをした方の足を乗せると、その足の膝、ケガの患部に当たる、膝頭を突き出すように、自身もゆっくりしゃがみ込んでいく。
「よっちゃん、そのケガの所に水をかけてよ」
「あーなるほど。こうかな?」
突き出された舞の膝頭の、いまだに血がにじみ、砂や木っ端クズがこびり付いた患部を、水道の水で横から洗い流すようにかけていった。
「つッ」
「だ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっと染みただけ」
「思ったより深く切れてる?」
膝を曲げて、膝頭を突き出すようにすると、膝を伸ばした時には見えなかったスリキズの深い部分が露わになる。そんな深いキズ口の中の方まで入ってしまった砂や汚れを、水道の水で丁寧に洗い流した。洗い残すと、そこから化膿するかもしれないからだ。
「どう?水流園さん、キズの汚れは落ちた?」
「そうね。だいぶ落ちたけど、よっちゃんは、もう少しこうしていたいんじゃない?」
「え?どうして?」
「そこからだと、私のスカートの中がよく見えるから」
舞がいたずらっぽくそう言うと、柱基は顔を赤くして目を逸らす。
「み、見えないしッ、見てないしッ」
「アハハハハハ、ジョーダンよ、よっちゃん。でも……」
そこで一旦言葉を切って、少しだけ顔を柱基の方へ寄せると、舞は口元へ手を添えて、少し恥ずかしそうにささやいた。
「よっちゃんが見たいなら、いつでも言ってよ」
言いながら、スカートの裾を、少しつまんで持ち上げる。
言われた柱基は、先ほどより顔を真っ赤にすると、ホースをぎこちなく手元へ戻した。
「かッ、からかわないでよ、水流園さん」
「別にィ~からかってないわよ~本当にそう思ってるんだから~」
悪びれもせず、あっけらかんとそんなことを言う舞に、柱基はガックリと疲れた顔をする。しかし、それもつかの間のことで、舞の膝からまだ血がにじんでるのを見て、あわてて声をかけた。
「水流園さん、そこのベンチの壊れてないところに座って」
あっけらかんとしていた舞が、一転、柱基の方からそう声をかけられ、逆に顔を赤くしてドギマギし出す。私をベンチに座らせて、何をするのだろう?と、ひとり妄想をふくらませてしまうからだ。
オズオズとベンチに腰掛ける舞。
柱基はその正面に歩み寄ると、ポケットからハンカチを取り出して、しゃがみ込む。そして、ケガをしている膝頭に、包帯代わりに結びつけた。
何かを期待してドキドキしていた舞は、ポカンとした顔でその様子を見ていたが、すぐにそんな自分自身を滑稽に感じて、ひとりクスクスと笑みを浮かべてしまう。
「まァったく、よっちゃんはズルいよねェ」
「え?なに?」
「ううん、なんでもないよ」
苦笑しながらそう言うと、柱基は一瞬、不思議そうな顔をする。だが、ハンカチを結び終えると、少し満足げな笑みを見せた。
「とりあえず、こうしておくよ。本当は広場の方へ戻っておばさんに言えば、救急セットぐらいは持ってきてると思うから、そこで手当してもらう方がいいと思うんだけど……まだ戻りたくないんだよね?」
「うん、ゴメン。もうちょっとだけ、こうしてたい、かな。でも……」
うつむいていた舞が顔を上げると、ジッと柱基を見つめた。
「よっちゃんはどうして、私のことを追いかけて来てくれたの?」
問われた柱基は、少し困ったような顔で答える。
「前に、水流園さんが、花見はあまり好きじゃない、って話してたのを思い出して。特に桜とアレが一緒にあると、ダメって言ってたでしょ?そのアレって、もしかしたら、甘い卵焼きだったんじゃないかと思って……」
自信がないのか、ポツリ、ポツリと話す柱基を、舞は最初は少しおどろいた顔で見つめ、そして、すぐに赤らめてうつむいた。
(そんなささいな事を覚えてくれてたんだ……)
そう考えたとたん、再び胸の奥がギューーッと縮むような、甘い痛みが走る。
「よっちゃんは、そんな小さな会話まで覚えててくれたんだね」
「うん。アレっていうのがずっと気になってたから。まさか甘い卵焼きとは思わなかったけど」
柱基はなるべく軽い口調を意識して言ったが、舞は笑みを消してうつむくと、何かを思い返すように黙り込んだ。
柱基が気遣わしげな視線を向けると、気づいた舞は苦笑を返す。
「亡くなったウチのお母さんがね、甘い卵焼きをつくる人で、子供の頃はお母さんの料理の中で一番好きだったんだよ」
古いベンチに座って、ポツリ、ポツリと話し出す舞に、柱基も立ったまま静かに耳を傾ける。
「でも、幼稚園の頃に初めて親子三人で、それまで親子三人で出掛けたことなんてなかったのに、初めて三人でお花見に行ったの」
ふと、公園の中を、ゆるい風が流れ、園内に植えられた様々な木々の枝葉が、カサカサと鳴った。
柱基は一瞬、辺りを見上げてから、再び視線を舞に戻す。
「楽しかったし、うれしかったんだよ。お父さんと、お母さんと、私の三人で、初めてお出掛けして、桜も綺麗で、玉子焼きもおいしくて、本当に、本当に、幸せだったのに……」
舞の膝の上に、ポタリ、ポタリと雫が落ちた。
それを見た柱基は、舞が泣いていることに気がついたが、どう声をかけていいかわからず、ただその姿を見つめる。こんな時は、本当に自分の未熟を感じた。特に今はそばに父の十八がいるので、音が聞こえない。聞こえることに慣れてはいけないと思っていたが、思っていたより慣れてしまっていることに危機感を覚えた。
花見が始まる前に、公園の入口で起こった騒動で、泣きじゃくる茜を、父は見事に諭し、泣き顔を笑顔に変えた。自分ではとても真似できないと思う。
そんな事で少し反省する柱基をよそに、舞はさらに苦しそうに胸の内を吐露する。
「そんな幸せなお花見の最中に祖母が来て、お父さんを連れて行ったんだ。その日からお父さんは家に帰ってこなくなって、そのせいでお母さんも仕事を増やして、でも、仕事を増やしたせいで、体を…壊して……みんな、あの日の、お花見の日から、何もかもおかしくなって、崩れだしたんだと思うと……今でもお花見は好きになれなくて、特に甘い卵焼きを食べたら、あんなに好きだったのに…お母さんのこと思い出して……なんで、親子三人でお花見に行っただけなのに、こんな目に、って思うと、悲しくて、悔しくて……」
うつむいたまま、両手で顔を覆い、あふれてくる涙を押し戻すように押し当てる。その押し当てられた指の隙間から、押し殺したような泣き声が漏れ出ていた。その声は、聞くものの胸を締め付けるように切ない。
そばで聞いていた柱基も、当然、舞の悲しみに共感し、それを少しでも取り除きたいと思うのだが、父ほどうまく出来ない自分に、ためらいを感じていた。
だが、うまくやろうとするから、いつまでも踏み出せないことに気づくと、ただ、思うことを、思う通りの言葉で伝えようと考える。
柱基は空いている舞の隣りに腰を下ろすと、考え、考えの、ぎこちない言葉で語りかけた。
「つ、水流園さんは、お花見に嫌な思い出があるから、お花見を好きじゃないのは、スゴく残念だけど、全部が全部、悪いことではなかったと、僕は思うんだよ」
この柱基の言葉で、舞は両手から顔を上げると、まだ涙の溜まった目を向ける。
音が聞こえない柱基は、舞が自分の方を見たことに緊張しながらも、言葉を慎重に選んで話し続けた。
「そ、その…もし、そのお花見がなかったら、水流園さんは、ここに居なかった、わけだよね?」
「……うん、そう、でしょうね」
「なら、僕らは全然、知り合うこともなく、別々の場所で生きてたかもしれない。そう思ったら、こうしてみんなと出会えたことも、そのお花見があったから、と言えるんじゃない?」
考え、考え、苦しそうに話す柱基の言葉を聞いていた舞は、そのいささか強引な発想の転換に、やや苦しいものを感じて、内心で苦笑を禁じ得なかった。
しかし、それでも、いや、だからこそ、時折り、見事なほど周到に自分たちをサポートしてくれる柱基が、今は不器用ながら、自分を慰めようとしてくれることが、とても心暖かかった。
「そう、だね。嫌な思い出だけど、あのお花見がなければ、よっちゃんたちにも会えなかったんだね」
周到な時もあれば、今のように不器用な時もあるけれど、柱基はいつも困ってる人がいると、いつの間にか助けに入ってくれている。
赤ん坊の頃から柱基と一緒にいるという凛も、やり方は違うが、困ってる人や、他人に迷惑をかけるような人がいると、見過ごせないようなところがあった。
舞は、自分にとって宝物のような二人が、ただの友達から、仲間になった頃のことを懐かしく思い出す。それも、初めて出会った頃から少し経った一年生の頃だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし、この作品を気に入ってくださった方は、ブックマークや星☆の評価などよろしくお願いいたします。
さて、更新を1回お休みさせていただきましての投稿ですが、どうも構成がいまだに甘い気がします。年度末には終わらせたいと言っていた第1章も、やや遅れてはいますが、着実に終了に近づいております。しかし、この構成の甘さを見ていると、第1章が終了したあとに、もう一度作品の構成を練り直して、再構成版みたいなものを投稿し直したい気分ですよ~まあ、実行するかどうかはわかりませんが~
なお、次回更新は四月八日・金曜日の八時を予定しております。
どうぞよろしくお願いします。
ではでは~(^^)