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◇黒に滲む赤 その2

「――危ないっ!」


 ユリウスの叫び声ではっと我に返る。このままここでもたもたしていたら、あっというまにマストの下敷きになってしまうだろう。頭ではそうわかっているのに、私の足は甲板にべったりと張り付いたように微動だにしない。

 それもそのはず。久しく忘れていたような、足全体が一体化したような感覚が宿っているのに気付く。まるで袋に詰められているかのように両足の自由が全く利かないのだ。焦りの中視線を下げると、月に照らされて輝いているのは白い生足を覆う……銀の鱗だった。


「……え?」


 水中で幾度も見下ろしてきたはずの、自分の尾ひれと鱗に近い。何度瞬きを繰り返しても変わらないことに、驚きのあまり愕然とする。いや、これが本来の姿ではあるが……ユリウスに人間の足にしてもらい、また満月の夜に、人間のままにしてもらえたのだ。その魔法が解けることは無い、と勝手に思っていた。


「どういう……こと?」


 混乱したままの私の頭上にいよいよマストが降りかかろうとする。すでにぱらぱらといくつかの木片が降ってきていた。そんな狼狽する私の腕を、何かが強い力で引き寄せる。


「何をしている! はやく、こっちへ!」


 もはや歩くことも立つこともできなくなった私を包み込むように、水泡が取り囲む。私の身体はふわりと船の縁の上に浮いた。ちょうど眼下には船と海の境界が広がっている。


「――なっ?!」


 レオナルドの驚いたような翡翠の瞳と目が合う。あんな呆けた顔は初めて見た。それが少しだけおかしくて、こんな時だというのにくすりと笑いたくなってしまう。


「これで終わりだと思った? ……ほら、早く逃げないと。船に大穴が開いちゃう、かもよ……?」


 ユリウスの手は私の水泡を操るかのごとく、上がったままだ。彼は唇を歪めて不敵に笑いながら、もう片方の手をレオナルドに向かって差し伸べる。だが、そこで私は彼の強がりに気づいた。一見余裕そうにはしているが、どこかその呼吸は苦しそうで、肩で息をしている。黒いローブに滲んだ血は、心なしか徐々に広がりを見せているようだ。黒と赤がおどろおどろしく混ざり合う。私は見ていられなくなり、思わず叫んだ。


「もう、やめて。これ以上は、あなたが……!」


 案の定、私がそう口にするかしないかのうちに、重力に引きずられるような嫌な予感がした。瞬間、ぱちんと泡がはじけるような不吉な音とともに、ふわり、と肝の浮くような不快感が襲う。


「ユリウス!!」


 慌てて彼の方に手を伸ばす。必死に前へ前へと体重をかけて、その腕を手繰り寄せる。これで海に落ちずにすむ。そう安堵したのもつかの間、ユリウスの身体はなぜか私に腕を引かれるがままに、ぐらりと力ない様子で傾いていた。当然、私にかかっている重力はたやすく彼の方にも働く。そのまま私が彼を船の外に引きずり込むように、私たちは海に向って真っ逆さまに落ちていく。すさまじい速度で目前の景色が早送りに上へ上へとさかのぼり、風圧に目を開けていることができなくなる。


「――ひえっ?!」


 必死にユリウスにしがみつくものの、間近にある彼の顔すら見ようにも見られないほどだ。来るべき衝撃を想像すると、身のすくむような恐怖に襲われる。以前海に落ちた時は、彼の意図的なもので、魔法があったから大丈夫だったが……今回もきっと何とかしてくれるはず、と必死に恐怖心を押し殺し、悲鳴を飲み込む。

 しかしそんな淡い期待は、水面にたたきつけられる衝撃で見事に裏切られた。


「――っ?!」


 どういうことかと思いユリウスを見上げようとするが、今の私は彼にしがみついたような状態のため、その黒いローブを凝視するしかない。

 水中にぶくぶくと沈んでいく。思わず息を止めてしまっていたが、足元を見下ろすともはや完全に人魚に戻っていた。私はおそるおそる息を吸っては吐き、深呼吸してみる。どうやら呼吸は問題なくできているようだ。


「そっか。私、人魚に戻ったんだ……」


 久々の水中に懐かしいような、不思議な気分になる。ずっとずっと帰りたかったのに……もう二度と人間に戻れないのかと思うと、あんなに散々な目に遭ったはずなのに、どこか寂しさを感じてしまう。


 いったいどうしてこのタイミングで元に戻ってしまったのだろうか。確かにここ数日の一連の騒ぎからすれば、人魚に戻りたいと願ったことには違いなかった。だが、そう思っただけで簡単に戻れるようなものなのだろうか。大体、ユリウスがどうして満月の夜に「愛の告白」をしたのか……肝心の真意がまだ聞けていないのだ。


「ねえ……どうしたのよ?」


 いい加減、この状態に羞恥を感じて腕を離すと、彼の身体は思いのほか力なく水中に漂った。何か言うのかと思ったが、待てど暮らせどいつまでたっても口を開かない。さすがに怪訝に思うと共に、胸がざわつく。


「ユリウス……ねえ、ユリウス! いったい、どうしちゃったの?」


 慌ててうつむいたままの彼の頬を両手で挟むと、海の魔法使いは長い睫毛を伏せて目を閉じていた。突然寝落ちた……とかなんだろうか。それにしては様子がおかしいと思いはたと視線を上げると、海中に赤いものが広がっていることに気付く。これは……血? 

 なら、先ほど苦しそうだったのはやはり見間違いではなかったようだ。おそらく、無理をして魔法を使ったせいなのか、撃たれたところの傷が開いてしまったのだろう。


「しっかりして! ねえってば!」


 私がいくら揺さぶっても、頬を叩いても一向に目を開けない。


 ふと、私が突然人魚に戻った理由を考える。魔法が解けるのは……どういう時だった?  

 ――術者が死んだ、時……?


 そう思い当たった瞬間、すうっと背筋が寒くなる。私は気が動転しながらも、彼のローブの胸辺りに耳を押し付け、全神経を集中させた。


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