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◇とある少年の独白 その3

 ある日のことだった。少年が薬の材料が入った瓶を整理していると、老婆はそれを見て思い出したように手を打った。


「ああ、いけない。人間から、注文が入っているんだったねえ。材料は……人魚の涙だったか。こいつは金になるから外せない仕事だねえ」

「人魚の……涙?」


 彼は怪訝に瞬きをした。これまで数々の薬の材料を覚えてきたが、人魚の涙というのは初めてだ。何を作るのか全くもって見当もつかないが、相当貴重な代物であることは間違いないだろう。


「おい、ぼけっとしてないで早くもらっておいで。あたしゃあいつらには嫌われちまってるから、殺しでもしない限り取れないが……あんたならまあ、何とかなるだろう。子供の人魚でも狙ったらいいさ」

「……え? そんなの、やったことないよ……」


 どうやら、彼自身で調達してこなければならないらしい。迷っている暇などなかった。老婆は彼を扉の前まで押しやると、顔をしかめたまま言い渡した。


「納期が迫ってるんだ。今日はもらってくるまで帰ってくるんじゃないよ」


 そう告げられるやいなや、少年は住処から締め出されてしまった。扉に手をかざしてみるが、開かない。厳重な魔法をかけられてしまったようだ。働かざる者食うべからず、という老婆の口癖を思い出して彼はため息をつくと、ひと働きしようと人魚の国グレーネの近くまで行くことにした。





 案の定、少年が魔女に関わりのある者だということは、人魚たちの間にも知れ渡っているようだった。彼らは当然彼に近づこうとはせず、遠巻きにひそひそと何か話し合ってはすぐに泳ぎ去っていってしまう。それ以上はどうすればいいのかもわからずに、彼は岩場に腰かけたまま、魚の群れが泳ぎ去っていくのを見るともなしに眺めていた。

 どうやって人魚に頼めばいいのか、何も浮かばない。第一、声をかけたところですぐに逃げていってしまうのだ。このまま帰る場所もなくなるのだろうか、と彼が途方に暮れていると、いつの間にかすぐ近くに一人の人魚が泳いできていた。


「こんにちは。なんでここにいるの?」


 にっこりと笑いかけてくる小さな少女の人魚。年の頃は、7歳くらいといったところだろうか。背中までの赤みがかった金髪が、ゆらゆらと水の中で揺らめている。少年はわけもわからずに、その顔をまじまじと穴のあくほど見つめた。


「……どうして、僕に話しかけるの?」

「どうしてって……うーん、えっとね」


 彼女は舌足らずな拙い声でうんうんとうなった後、ぱっとひらめいたように続けた。


「寂しそうに見えたから!」


 長い睫毛に縁どられた、濃い紫の瞳は宝石のように燦然と輝いている。汚れを知らない無垢な瞳だ。少年は思わず、その目に釘付けになった。彼女は、今まで出会った他のどんな存在とも違う。直感的に、そうわかった。


「ねえ。泣いてたの?」

「泣いて……なんかない!」


 少年は慌てて目をこすりながら首を振ったが、人魚は優しくその手を取った。思わずびくりと身がすくむ。小さな柔らい手から、温もりが伝わってくる。少年に関わろうとする者など、陸でも海でもいなかった。初めてのことに彼はどぎまぎして、気恥ずかしさのあまり目をそらしたが、好奇心に胸を高鳴らせた少女はそれを許さなかった。


「ねえ、教えて? 私でよければ力になるから」


 期待が込められたまなざしを見ると、少年はあきらめたようにため息をついて白状した。


「魔女のおばあさんが……人魚の涙を貰うまでは帰ってくるな、っていうんだ……」

「人魚の、涙?」

「……お薬を作るのにいるんだって。でも、みんな僕のことを無視する……」


 老婆にもらった細い瓶を見せると、少女は興味深そうにのぞき込んできた。彼女が何か口を開きかけた時、上の方から別の人魚の声が降ってきた。


「ローネ、ローネ! 何してるの! 海の魔女に関わったらダメなのよ! 早く戻ってきなさい!!」

「あ。姉さまが呼んでる。……ごめん、またあとでね。」


 彼女は慌てたようにヒレを動かして向きを変えると、彼に向ってゆらゆらと手を振った。


「今日はちょっとあっちの方に行ってみるんだ。船が沈んでいるから、人間のものが落ちてるかも」 


 人間。そう聞いた瞬間に、少年の背筋が凍り付いた。

 力を得た今なら、彼らに対抗することもかなうだろうが、過去の自分にはどうすることもできなかった存在だ。今だからわかるが、彼が魔法を使えるとわかったあの日、きっと人間たちは家に火をつけて、母は死んだのだろう。彼は今でも、あの氷水に漬けられているような冷たい感覚とやりきれなさを思い返すと、人間に対する不安と恐れで身体中がむずがゆくなる。


「人間……嫌じゃないの?」

「どうして? 面白いじゃない」


 そう言い切る少女は未知のものへの好奇心に輝いていた。彼女が眩しく見えたのは、水面から差し込んでくる日光のせいだけではなかっただろう。少女はまたあとで来るね、と言い残すと、すうっと小さな体で水を切り、岩陰の向こうへと泳いでいった。


「ローネ……か。」


 呟くように彼女の名を口にすると、何か神聖で、大切な響きのように思えてきた。

 少年は手のひらを広げると、脳裏に大きな水の球を思い浮かべた。身体中の血のめぐりが指先まで行くように集中させ、血を送り出すように力を籠めると、彼の手のひらに小さな水泡がぽっと浮かび上がった。先ほどの人魚を見たいと強く願うと、おぼろげながらもそれらしき姿がぼんやりと映った 。霞んでしまってはっきりとは見えないが、彼女は何人かの人魚たちとともに海を泳いでいるようだった。


 それ以上は彼の力が持たずに、すぐにぱちんと水泡がはじけた。まだまだだな、と少年は自分の非力さに歯がゆくなった。

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