第2章 異世界とスパイ容疑
1.
明日からどうなるのか、不安と心配でなかなか寝付かれなかった。
大きなベッドで輾転反側し、明け方にようやくウトウトしたところで家のドアがバタン!と大きく締められる音で飛び起きた。
伊哉さんが慌てたように部屋を出ていく音がし、耳を澄ませていると誰かと会話する声が聞こえてきた。
伊哉さんが昨日言ってた、軍のお迎えの人かな?
あたしも急いで起きて身支度を始めた。
と、階下で伊哉さんが制止する声とともに階段を軽快に上がってくる足音がして、あたしの居る部屋の前で止まったと同時にドアが軽くノックされた。
「おはよー、もう起きてる~?」若い女性の明るい声。
「あ、はいっ!」
「着替えたら、階下に来てね~」
「はい!」
笑いを含んだような「よろしくね~」という言葉とともに足音がまた遠ざかっていった。
軍の、女の人…?
っていうか、この家の鍵を持ってるんだ。勝手に入ってきたっぽかった。
なんとなくモヤモヤした思いを抱えたまま、あたしは着替えて通学かばんを持つと階下に降りて行った。
「おはよう、悪いんだけどすぐ出発しなくちゃならない。体調はどう?」
顔を洗って洗面所から出ると、伊哉さんが慌ただしく声をかけてきた。
「大丈夫です」
「外に迎えの車が待ってるから、後部座席に乗って」
靴を履いて外へ出ると、家の前にでっかいリムジンのような車が停まっていた。
広いボンネットの先に小さな旭日旗がはためいている。
恐る恐る近づいて行くと、運転席が開いて軍服を着た背の高くて怖い顔の男の人がきびきびと降りてきて、いかにも軍人さんという所作でドアを開けてくれた。
「どーぞー♪乗って!」
中からあの、明るい声がした。なんか、音符がついてるような話し方。
あのー、皇帝の喪中じゃないのかい?
乗ると「悪い、ちょっと詰めて!」と伊哉さんが横から乗り込んでくる。
広い座席にぎゅっと詰まった感じになって、あたしは急いで奥へずれた。
運転手さんがドアを閉め、自分も運転席に乗り込むと「では出発します」と堅苦しく言って、車は滑るように走り出した。
「サキちゃんはじめましてぇ~。私、リョウの従姉妹のタカです~」
車が走り出すとすぐ、助手席に座っていた髪の長い女性が振り向いてにっこり笑った。
声で部屋をノックした人とわかる。
わぁ…きれいな人。あたしより、少し年上かな?
カッチリした軍服が似合ってる…で、胸が大きい。
あ!昨日の下着、この人のか…あたしには大きすぎたブラ。
な、なるほど~
「昨日、いきなりリョウから軍を経由して私に電話がかかってきて、ビックリしたわよ~
何かと思ったら、高校生女子の洋服を明日までに揃えて持ってこい、でしょ?
軍部内がざわついちゃって大変だったのよーホホホ」
「えっ!」
「うるさい、黙れタカ!」
「ケンジョウ准尉、今ここでそのような話は」
陽気に話すタカさんと、話の内容に呆然とするあたし、顔を真っ赤にして怒鳴る伊哉さん、冷静にタカさんを制する運転手さん。
車の中は騒然となっていたが、タカさんが「はーい。怖いなあ、曹長殿は~」と少し黙ったので、伊哉さんがおずおずと口を開いた。
「コゴウ曹長…タカまで連れてくることになっちゃったんだな。
タカにはちゃんと俺の家で待っているように伝えたんだが…済まなかった」
ああ、きっとタカさんが面白がって、曹長さんを押し切ってついてきちゃったんだ。
その様子が目に浮かぶようだ…とあたしは目を閉じた。
運転手さんだと思っていた人は曹長さんだったんだ。立派な軍人さんだ。
あたしは昨日伊哉さんに見せてもらった役職一覧表?のようなものを思い出しながら考えた。
タカさんが准尉。結構偉い人。
そういえば、伊哉さんはなんだろう。
「ショウコウ」と言ってたけど、そんな階級あったかな?
厳しい表情で運転するコゴウ曹長はすごく怒っているように見えたけど、話す口調は意外に柔らかく声は低音でよく響いた。
「いえ、少佐。どのみち今日はあらゆる交通手段が使えませんから、准尉殿を一緒にお連れするつもりでおりましたので。お気になさらず」
少佐?!
あたしは驚いて、隣の伊哉さんを見つめた。
18歳で大学卒業してて陸軍少佐って!
いったいこの人は何をやらかしたんだ?!
あたしの視線に気づいたのか、伊哉さんは薄く笑ってあたしを見て唇に人差し指を当てた。
まあ、おいおいね。
瞳がそう言っているようで、あたしは言葉を飲み込んだ。
「しかし少佐。今回の件は、軍の内部でもかなり問題になっています。
相応の覚悟をなさっておられた方がよろしいかと」
言葉とは裏腹に心配の色を声ににじませて伊哉さんより年上の曹長は言う。
伊哉さんは「解ってる。処分は甘んじて受ける」と緊張した声音で答えた。
「シュンも大分、頑張ってかばってたんだけど限界ね。
大体があんたって日ごろの素行が悪すぎんのよ。ただでさえ、お偉いさんには目をつけられてるんだから、もうちょっと気を付けないと~」
「うるさい、お前が言うな」
「あはは、それもそうね~」
なんだかタカさんって緊張感がないっていうか、まあ、良く言えば場を和ませるキャラ?
それからは皆黙り込み、あたしも窓の外の景色を眺めていた。
といってもこの車、ウインドーすべてにかなり濃い色のスモークが張ってあって殆ど見えなかったんだけど。
きっと軍の内部で問題になってるというのは、あたしのことだ。
あたしはこのまま軍に引き渡されちゃうんだろうか。
そしたらどうなるんだろう。
あたしはにわかに恐怖を感じ、隣でシートに深く寄りかかって目を閉じている伊哉さんを見た。
逃げた方が良いのかな。
でもどこに?
その時伊哉さんが、ぱっと目を開けて身を起こし、あたしの両手を自分の両手で包んだ。
そしてあたしの耳元に口を寄せて「大丈夫。俺が必ず守る」と囁いた。
本当、に…?
あたしは縋る思いで伊哉さんを見た。
前髪をさらっと揺らしてあたしの目をのぞき込み、伊哉さんは優しく微笑む。
この暖かい掌を、微笑みを信じていいの?
「コラ後ろの若者達。この状況でイチャコラしてんじゃないわよ~」
突然助手席のタカさんが振り返り、あたしと伊哉さんはがばっと手を放して互いに顔を背けた。
タカさんはそれを見て爆笑し、厳しいお顔の曹長の口元も少し緩んでいる。
「サキちゃん、心配しなくても大丈夫よ~。リョウには敵も多いけど味方も多いから。
リョウの大事なサキちゃんのことは、このタカが責任もって面倒見るし~」
「タ、カっ!」
顔をまた真っ赤にして怒鳴る伊哉さんを見ながら、あたしは思っていた。
この人は、葉山君ではない。
葉山君は伊哉さんみたいにあたしを守るなんて言ってくれなかった。
「君は強いから、ひとりでも大丈夫だよ」と突き放して他の女の子の許へ行ってしまった。
でもだからと言って、伊哉さんを好きになるというのは違うよな…
あたしは自分の心を戒める。
あの状況で拾ってくれたことに感謝する気持ちは持っても、葉山君にそっくりだからって、しかも葉山君より優しいからって好きになっちゃダメだ。
伊哉さんだって迷惑だよね…
ただでさえ、あたしを拾ったせいで処分を受けるなんて恐ろしいことになってるんだし、いつ気が変わってあたしを軍に突き出すなんてことになってもおかしくないんだから。
そうこうしているうちに、景色は田舎から都会へと変わり、高層マンションの前で車はすーっと静かに停まった。
「着きました。わたくしはここで待機しております。
なるべくお早くお戻りください」
「ありがとう。すぐ戻る」
曹長と伊哉さんは短いやり取りをすると、曹長はまた運転席から車を出て伊哉さん側のドアを開けた。
タカさんはあたしに「サキちゃん、降りるよ~」と言って助手席のドアを開けて車の外に出、あたしも急いでドアを開けてまだ朝もやの残る広い道路に降りた。