第1章 2
2.
葉山君の家には何度か遊びに行ったことがあるけど、ここはその家ではないみたい。
結構築年数の経っていそうな、大きめの1戸建ての家屋。
ご家族とか出てきたらなんてご挨拶しよう…?
葉山君(ではなさそうだけれど、便宜的にこう呼ぶ)に促されて靴を脱ぎ、小さく「…お邪魔、します」と言って入ると、日当たりの良いリビングに通された。
なんというのか、イマドキではない、ほんのり昭和テイスト?のある「居間」って感じの部屋。
勧められるままにソファに腰かけて周りを見回していると「はい、どうぞ」と目の前に湯気の立つマグカップが差し出された。
「あ、ありがとう」と受け取り、濃いめのブラックコーヒーに口をつける。にがい。
自分もマグカップを持ってあたしの向かい側のソファに座り、コーヒーの苦さと熱さに顔をしかめるあたしをじっと見ていた葉山君は「ダッフルコート、暑くない?もう4月になるのに」と不思議そうに言った。
えっ??
あたしは思わず、カップを取り落としそうになった。
イヤ、今2月でしょ?
もうすぐバレンタインデーで、今年は葉山君にチョコレートと一緒に何を贈ろうかと一生懸命考えていたんだよ、あたし。
奈美ちゃんと今度の日曜日に一緒に買いに行く約束してるんだもん。
反論しようとして、しかし言われてみると暑いよな、とはっとする。
緊張しながらあちこち走り回ったからかなとも考えたけど、この部屋とくに暖房器具もついてなさそうなのに、マフラーをすぐ外したいと思うほど暑い。
まただ。
今朝から何度感じたか判らない、この得体の知れない不安。
足元に急にぽっかり穴が開いて、飲み込まれてしまうかのような不安定な感じ。
嫌な感じに心臓が脈打ち、胃のあたりがすっと冷たくなる感じ。
あたしは思い切って顔を上げて、今までの疑問をぶつけてみようと声をかけた。
「あの、葉山君…」
「んっ?」
あたしが呼びかけると葉山君は驚いたように口に含んでいたコーヒーを飲み下して
「葉山って俺?のこと?」と目を見張って、カップを持っていないほうの手で自分を指さした。
「ち、違うの?やっぱり」
そっくりなんだけど。他人の空似ってレベルじゃないよ。
「完全に人違いだね。俺はイサイ。イサイ・リョウレイ」
「い、いさい、りょうれい…」
なんだか舌噛みそうな名前だなぁ。外人か?
イサイさんは手近にあったメモ用紙に手早く何か書きつけて、1枚破ってあたしに寄越した。
メモには
『伊哉 遼玲』
と割と綺麗な文字で書いてあった。あ、日本人か。
「で?あなたの名前は?」
おや。先ほどの「お前」から「あなた」に変わった。
うむ。くるしゅうない。
ちょっと気を良くして、伊哉さんからメモとペンを受け取って自分の名前を書き、メモ帳を返した。
『川上 早葵』
「せんじょう、さき?」
「いやいや、かわかみ!」
『川上』を『せんじょう』ってアナタ。。。
「へえ…葉山もそうだけど、訓読みする名前って珍しいよね」と、伊哉さんはしげしげとメモを見ながら言う。
そう…かなぁ?どちらかと言えば、音読みする名字の方が珍しいと思うけど。
「それで?川上早葵さん」
と、伊哉さんは居住まいを正して、あたしをまっすぐに見つめながら口を開いた。
同じ顔だけど葉山君にはない迫力。うっ…ちょっと怖い。
あたし、何も悪いことしてないよぉ~
「あなたはどうしてあんなところにいたんだ?今日が何の日か、知らないわけじゃないんだろ?」
「えっ…今日は…?」
あたしは足元に置いていた鞄の中からスマホを取り出そうとする。
と、伊哉さんがとっさに身構え「動くな!」と鋭く制した。
その厳しい声に身体が硬直して動きが停まる。
「何をしようとした?」まるで詰問口調。怖い。涙が出そう。。
「あの…スマホを…」
と涙声で言うと「ああ、なんだ…出していいよ」と声が一瞬柔らかくなり「ちょっと待て、スマホ?」とまた声が尖った。
「貸せ!」とあたしの手からスマホをひったくると、あたしの制止の声も聞かずに電源を切った。
「何するの?!」
あたしが怖さも忘れてスマホを取り返そうと身を乗り出すと、伊哉さんはきっとあたしを睨み
「莫迦!服喪期間中は通信機器の使用は一切禁止だ!どうなってんだお前の行動は!軍に絶対追跡されてるぞ」と吐き捨てた。
なに??
服喪期間中?
軍に追跡?
「…意味わかんない」と呆然と呟くあたしを見て、伊哉さんは少し慌てたように
「知らない?!もしかしてつい最近日本に来た?帰国子女?」と訊き「いやでも…昨日からもう飛行機やその他の移動手段は動いていないしなあ…まともな環境で知らないってことはないよな」と考え込んだ。
そして腕を伸ばして背後のサイドボードの上にあった新聞を取り、あたしに差しだした。
あたしは何が何だか判らないまま、新聞を受け取って無意識に記事に目を落とした。
『皇帝崩御』
『全国民10日間の服喪 政府と軍の決定』
一面のトップにでかでかと書かれた文字。
日付は…2017年(帝歴148年)3月30日となってる。
読めるけど、意味が全く理解できない。
詳細は読む気にならず、あたしはバサッと新聞を膝に置いて伊哉さんを見た。
「ここは…どこ?」
「どこって…」と戸惑ったように伊哉さんが答える。
「大日本帝国の、、、」
「えっっ?!」
大日本帝国ぅ?!いつの時代の話よっ!
あたしは驚きすぎて絶句した。言葉が出てこない。
伊哉さんも訳が判らないといったように目を見開いている。
「日本国、ではないの?」
「まあ、対国外的にはそういう呼称を使うこともあるけど。でも殆ど聞いたことないな」
「…この、皇帝とか軍とかって何?ロシアかどこかの話?」
「はあ??」
今度は伊哉さんがあんぐりと口を開ける。
「この国の、大日本帝国の、話だけど?!」
「日本は天皇制で、戦争放棄してて軍隊なんて持ってないでしょ!」
ついこの間歴史の授業でやったから間違いない。…まあ最近、憲法9条の改正論議とかお隣の北国問題でちょっと危うい感じではあるけれど。
「日本が?戦争放棄したの?いつ?」信じられないというように伊哉さん。
「いつって、第2次大戦で無条件降伏したとき…」
話しながらも、どうしようもない徒労感に苛まれていた。
言葉は通じるし新聞の文字も読める。西暦2017年と新聞に書いてあったから間違いなく現代(3月の終わりってことは1ヶ月ほど未来?)。
なのに。
まったく話がかみ合わない。どういうことなんだろう。
黙り込んだあたしを見て伊哉さんはため息をつき「コーヒー、淹れ直してくる。砂糖とミルクがあった方がいいよね」と言うと、あたしの返事を待たずにマグカップを二つ持ってキッチンと思しき方向へ去っていった。
あたしも大きくため息をついてソファに寄りかかり、天井を見上げた。
今朝から目まぐるしく起こった出来事を思い返してみる。
電車から降りて駅の階段を登っているところまでは、確かに今まであたしのいた世界だった。
階段の途中で眩暈を起こしたとき。
あの時世界が反転したような気がした。
目を開けたら、今いる、皇帝がいて軍隊がある大日本帝国だった…
今のあたしの状況、を表す言葉は。
「パラレルワールド…」
思わず呟くと「そう、それなんだよなきっと」と伊哉さんの声がして、次に本人が姿を現した。
今度はお盆にマグカップと砂糖やミルクを載せて危なっかしく運んでくる。
あたしは慌ててソファから身を起こすと立ち上がってお盆を受け取った。
「砂糖とミルクはセルフサービスでどーぞ。コートやマフラーも脱いでさ」
「あ、ありがとうございます」とお礼を言って、有り難くマフラーを外してコートも脱いだ。
実は結構暑くて辛かった。この部屋日差しがたっぷり入って暖かい。
でもいつ「出ていけ」と追い出されるかわからないし、初対面の人の家に上がりこんでコートまで脱いだら図々しいかなとも思ったし。
そう考えて、あたしはまた胸がギュッとつかまれるような不安を覚えた。
あたしは葉山君にそっくりな伊哉さんに初対面という感じがなくて、何が何だか判らないままにのこのこついてきてしまったけど、伊哉さんにとってはただの通りすがりのはた迷惑な女子でしかない。
あたしの言っていることだって、伊哉さんには気の触れた人間の戯言に聞こえても無理はないし、まして信じてくれなんて言えやしない。
だけどあたし、あたしの方は、伊哉さんに見放されて追い出されたらどうしよう。
この世界にもパパやママはいるのかな?そしたらこの世界のあたしもいるの?
不安と恐怖で身がすくみ、コートとマフラーを握りしめて立ち尽くしたあたしに、伊哉さんは
「どうした?寒い?」と心配そうに声をかけてくれた。
「あの、、伊哉さん。。」
「何?」
「あたしが言ってること、信じてくれますか?」
「ああ…うーん…」
伊哉さんは前髪をかきあげ口に掌を当てて、少し考え込む。
やがて顔を上げてまっすぐにあたしを見た。その瞳にはさっきまでのような訝しげな光はなく、優しい光を宿しているように見えた。
「正直なところ、まだ全面的に信じているとは言えない。けど、あなたのあまりに常識外れな言動や、その不安そうな表情を見ていると、もしかしたらあなたの言っていることは真実なのかもしれないと思う気持ちもあるよ」
だからもっとよく話し合ってみよう、と伊哉さんは少し笑って、コーヒー冷めちゃうよと言った。
今のあたしは、この人に縋るしかない。
あたしは浮かんでくる様々な感情や思考を押し殺して、伊哉さんの言葉を待った。