第4章 2
2.
お皿を洗って拭いてしまうと、なんかやることがなくなってしまった。
和室をこっそり覗くと伊哉さんは相変わらず通信機器のインカムを装着してPCのモニタを見つめている。
バイタルセンサーが外れた分、打鍵のスピードが上がってるみたい。
話しかけなければ大丈夫かな…
伊哉さんはコーヒーはブラックで飲むから、胃に良くなさそう。
あたしは緑茶を淹れて持って行った。
テーブルの端におずおずと茶托を置いて、引っ込めようとした手を伊哉さんがぱっとつかんだ。
「!」びっくりして強く引こうとすると、更に強く握って離してくれない。
「お願いだから」と伊哉さんはPC画面を見つめたまま、懇願の響きを声に込めて言う。
「お願いだからそんなに怯えないで。昨夜は悪かった。無理強いするつもりはないんだ。
どうしてもあなたを、一刻も早く俺のものにしたくて」
そこで言葉を切り、あたしの手をつかんでいるのとは反対の手でインカムを外してあたしの方へ向き直った。
「結婚が嫌なのは判った。
婚約者っていうのをそんなに嫌がってるふうじゃなかったから、つい調子に乗っちゃったんだ。
もう言わないから。
だからこのまま、婚約者という立場で早葵さんを守らせて欲しい」
そう言って、つかんでいるあたしの手を両手で握って「頼む」と頭を下げた。
「どうして…」とあたしは手を握られたまま、ベッドサイドに膝をついて伊哉さんを見上げた。
「どうして伊哉さんは、そんなにあたしのことを守ってくれるの?
あの日、出会ったのがあなたじゃなかったら、あたしは射殺されてただろうって。
婚約者っていう立場でなかったら、軍に連れていかれて酷い目に遭わされてたかもしれないって。」
「伊哉さんにとって、あたしはあの日たまたま通りがかった非国民な女子で、いえいっそ、関わり合いにならないほうが良いような頭のオカシイ人間だよね?
戒厳令の街をのこのこ出歩いて、しかも異世界とか天皇制とか突拍子もない話ばかりして。
そんなあたしを命がけで守ってくれようとするのは、何でなの?」
伊哉さんは、あたしを椅子に誘導してから手を離して、困ったように瞳を揺らし「うーん…何でかなあ」と呟いた。
「最初、皆川駅の線路からひょっこり出てきた早葵さんを見たとき、なんだか判らないけどあなたの姿がぼうっと光って見えたんだ。
あまりにもあなたが無防備で、俺にはただ射殺されるのを待ってるように見えたんだけど、それにしてはものすごく不安そうにしてるし、何か事情がありそうだったんでとにかく話をしてみようと」
「初めは、正直なところ厄介な人を連れてきちゃったなあと思ったんだけど。話が異常すぎる。
でも話してる本人はそれを疑いなく信じ切ってるようだし」
「だけど何でかな…、嘘を言っているようには見えなかった。不安は本当で、涙も本物だった。
肩を震わせて泣きじゃくってるあなたを見ているうちに、守らなくちゃと思った。
この人は、この世界で俺の他に頼る人間がいないんだと思ったら、無性に愛おしくなった。
そんな感情は初めてで、俺自身戸惑っちゃったけどね」
「話の裏付けを取ってからとか考えなかったわけじゃないけど、翌日から出征だったしその間にあなたが軍に連れていかれてしまったら二度と戻ってこられないのは明々白々だった。
二度とあなたに会えないかもと思ったら、自分でも驚くくらいの焦燥感に駆られた。
とにかく考え得るすべての手段を講じてから行こうと思った。
沖縄駐屯地でも魚釣島でもずっと、ちょっともうオカシイんじゃないかってくらい早葵さんのことばかり考えてて」
そこまで話して、伊哉さんはあたしの顔を見た。それからはっとしたように目をそらし
「あの…変なこと訊いていいかな」と言った。
「何?」
「俺が病院から脱走して帰ってきた日、俺、早葵さんを見て…抱きしめたよね?
脱走と運転に体力使い果たして朦朧としてたんだけど、あの時も早葵さんの姿が光って見えたんだ」
「で、その…
抱きしめちゃったとき、俺、何か言った?」
「!」
言ったよ!やっぱり忘れてるんだ。あれから何も言ってこないから、そうかなと思ってたけど。
「え…別に何も?」あたしはとぼけることにした。
「あ、あー…そう?なら、いいんだけど」と伊哉さんは不得要領という表情で言った。
何かを言った記憶はあるらしい。
ふふふ。教えてあげない。というか、恥ずかしくて言えない…
あたしは改めて、伊哉さんに言った。
「話してくれてありがとう。そんなふうに思っててくれてとても嬉しい。
でもやっぱり結婚はまだ…自信がないの。
勝手な話かもしれないけど。婚約は継続で…いい?」
「本当に?!もちろんそれで俺は充分だから」
すごく嬉しそうな伊哉さんの顔を見ていたら、なんだか申し訳なくなってしまう。
あたしは立ち上がって「お茶、冷めちゃったね。淹れ換えてくるね」と言って茶托を持った。
「あー、俺コーヒーが良いな。早葵さんのも持ってきて」と伊哉さん。
「ブラックで飲むでしょう。胃に悪いからダメ」
「…ミルク入れるから。」ぼそっと呟く。
「じゃあ、ミルクコーヒーね」とあたしは笑ってキッチンに向かった。
ミルクたっぷりのコーヒーをふたつ淹れて持っていくと、伊哉さんはベッドの上でインカムを弄んでいた。
「はいどうぞ」と渡すと「ありがとう」と言って受け取ってげっと顔をしかめる。
あたしも椅子に座って、ふたりでしばらく無言で飲んだ。
「あの…伊哉さんの体調が良くなったら、あたしも一緒に次期皇帝に拝謁?するんでしょ?」
「ああ。非公式だけどね。今回の件ではずいぶん世話かけたしなぁ」
うーん。やっぱり何というかずいぶんフレンドリーな感じ?
「早葵さんも、皆の言葉の端々から何となく推測してるだろうし、俺もいつか話さなきゃと思ってたんだけど。
いい機会だから、今話すか」と言って、伊哉さんはベッド用のテーブルにコーヒーカップを置いた。




