第4章 謁見
1.
何となく眠れなくて、でも起きていって伊哉さんと顔を合わせるのもすごく気まずくて、あたしは翌朝部屋でかなりぐずぐずと時間をつぶしていた。
婚約を解消してもいい、という伊哉さんの言葉を聞いて、たとえそれがあたしの意思を尊重したいという伊哉さんの思いやりから出たものであっても、あたしはとてもショックだったんだ…
だから多華さんからちょこっと聞いた結婚の話まで持ち出して、伊哉さんの気持ちを試しあたしのことが好きだという言葉を引き出したいという思いに駆られた。
そのくせに、いざとなると躊躇って伊哉さんを傷つけた。
プロポーズ(だよね?)、すごく嬉しかったのに。
あーあ。あたしってダメだなあ。
あの時、一瞬、葉山君が意識をかすめたんだ。
葉山君に未練があるということではなくて。
葉山君だって、将来は一緒になりたいというようなことを話してくれてた。
それなのに、急に、本当に急に心変わりしてしまった。
伊哉さんは絶対にそんなことないって、言えるの?
ベッドに腰かけたままグダグダと考えていると、玄関の扉が開く音がして「おっはよーさん!」というドクターの賑やかな声が聞こえてきた。
慌てて立ち上がって部屋のドアを開けると「おっ?お寝坊さんか?昨夜は眠れなかっただろ」と声に気遣いの色をにじませて訊いてくる。
思わずドキッとしてドクターを見上げるとドクターはうん、と頷いて「PTSDによるフラッシュバック。思ったより早く出たな。君の力も借りて皆でサポートしていこう」と言い、「おーい、リョウ。今日から飯食っていいぞ~」と言いながらリビングに入っていった。
ああなんだ。ビックリした。プロポーズのことかと思った。
PTSD…
過酷な体験をして精神的に多大なショックを受けて、眠れなくなったりすること…だったっけ?
6年前の震災後、被災地の人たちにそういう症状が出たって聞いたような。
うーん。スマホがないとすぐに検索できなくて不便だなあ。
早く返してもらいたい。
「来たな、ゲス医師」PCにかじりつきながら伊哉さんは言う。
「おお、なんだ、機嫌悪いな」
「承諾もなく点滴に眠剤なんか混ぜられてみろ。機嫌悪くなるに決まってるだろう」
進めておきたい仕事が山積みだってのに、と吐き捨てる。
「そう言うなよ。うなされて飛び起きたと報告受けたら、対処しないわけにいかないだろう」
「大丈夫だ。俺には彼女がいるからな」
「…いやまあ、そうだろうけど…それとこれとはちょっと違うような」
「キスしていいのか?」
「は?」
「もうキスはしていいのかって訊いてんだよ!」
「やる気まんまんだなあ…眩しいよ青春が。彼女も大変だね?」ドクターは嘆息して振り向き、リビングにいるあたしに言った。
「!!」
伊哉さんは、ばっと顔を上げてあたしを見て何か言いそうになり、結局何も言わずにPCに向き直った。
「まだウィルスが体内にいる可能性がある。解熱後そうだな、1週間くらいは止めておいた方が良い」
「そんなに待てるかよ」
「だ・か・ら!お前は!未知の!新型の!感染力の強い!ウィルスに感染してるの!」
ドクターは一言一言区切って言い「あー、こんなワガママ少年が大佐かよ。世も末だな」と嘆いた。
なに?大佐?
あたしは驚いて和室のベッドサイドにいるドクターを見た。伊哉さんも目を見開いてドクターを見上げている。
「え?あれ?知らんかった?陸軍病院内はこの話で持ちきりだぞ」
「何だそれ…」
ドクターは椅子に座って、伊哉さんを眺めた。
「お前、今回の功績が認められて大佐に2階級特進だってさ」
「ヤジョウは?!」
「ヤジョウ伍長も戦死じゃなくて殉死扱いになったから、2階級特進だ。曹長だよ。
お前がその身体で歎願して勝ち取った殉職だよ」
「俺は死んでねーぞ。何で俺まで…」
「まあ、そこは大人の事情があるんだろ。降格人事は一切ないし」とドクターが言うと
「ふうん…」と途端に興味を失くしたように呟いた。
病室に無理矢理機器を持ち込んで昨日からやってた仕事って、ヤジョウ伍長の特進歎願だったんだ…
そりゃ、多華さんも止めろとは言えなかったわけだわ。
「即位式と同時に昇任伝達式もあるんじゃないか?
それまでにはきちんと体力回復させて参列できるように整えないと」
とドクターが言うと、タイミングを計ったように看護師さんが来た。
「先生、患者さんのお食事の準備ができましたけど…運んでよろしいですか?」
ドクターは「おう。持ってきてくれ」と振り向いて言った。
ワゴンに載せられてホカホカと湯気を立てた食事が運ばれてくる。いいにおい。
「管理栄養士のチェックは?」「画像送信して受けました」「よし」
「なんだこれ、ドロドロじゃないかっ」伊哉さんが、食事を見るなり文句を言う。
「文句言うな。急に固形物なんて入れたら胃に穴が開くぞ」
「どちらか外せないのかよ、食べにくいったらない」
両腕に点滴とバイタルセンサーを付けられたままの伊哉さんはブーブー言う。
「そうだな…バイタルは外してもいいだろう。チェックの時だけつければ」とドクターが看護師さんに指示した。
ああ、あたしもお腹空いたな。と伊哉さんが食べるのを見ていると。
「早葵さんもお食事まだですよね?ここにお持ちしましょうか?」
とバイタルセンサーを外しながら看護師さんが声をかけてくれた。
「あっ…あたしはダイニングでいただきます」
とあたしは急いで言った。一緒に…なんてドクターがいても気まずすぎる。
あたしの即答に、スプーンを持った伊哉さんの手が一瞬止まった、ような気がしたけどまたすぐに口に運んだ。
あたしはダイニングに行ってハウスキーパーさんに用意してもらった朝食を食べる。
そろそろあたしも自分でご飯を作れるようにならねば。
でも多華さんが言うには、あたしが自分でやるとハウスキーパーさんの仕事がそれだけ減ってしまって、お給料にも響いてくるからあまり手出ししない方が良いとのことで。
うーん。難しいなあ。
伊哉さんが無事に全部食べ終わると、ドクターは「よしっ」と嬉しそうに言って「仕事もあるだろうけど無理すんなよ。復帰したらまた馬車馬のように働かされるんだからな」と釘を刺した。
「殿下もご心配なさっておられるらしい。お前の2階級特進も、殿下の意向だろ。
お前の掌中の珠にも早く会いたいって、側近に仰せられたみたいだし」
「うるせ。シュンにはそう簡単には会わせないさ。まだいろんな条件引き出してからだな」
「かーっ性格悪いねえ。次期皇帝相手に」
ドクターは大笑いする。「また明日来る。今晩もうなされるようだったら眠剤処方するから。それから精神科の医師も紹介する」
「俺には大事な彼女がいるから大丈夫だって言ってるだろ」
「キスは禁止だぞ」
「それはどうかな」
はーっと大仰にため息をついて、和室から出てきたドクターはダイニングにいるあたしに言った。
「彼女、コイツが襲ってきてもちゃんと拒否るんだぞ。感染しちゃったら更にお預けだからな」
あたしは、何と言っていいか判らず、ただ頷いた。
ドクターが帰ってしまうと、部屋の中がしんとしてしまった。
あたしは洗い物をしながら先ほどのドクターの言葉を思い出す。
『次期皇帝相手に』
確かにそう言った。
今までのスパイ容疑や婚約者の件も、なぜか皇帝の影が見え隠れしている気がしていた。
「シュン」という名前、多華さんからの口からも聞いたことがある。
どういうことだろう。




