第3章 5(2)
5.(2)
あたしのパジャマの肩も伊哉さんの涙でひどく濡れてしまって、風邪をひくといけないと思い着替えた。
リビングのソファに座って、強いていろいろな思考は締め出して待っていると、看護師さんが襖を開けて出てきて「お呼びになっておられます」とそっと声をかけてくれた。
あたしは会釈して、看護師さんと入れ違いに和室に入った。
空気清浄機の設定が変えられたのか、シューというかすかな音が聞こえる。
柔らかい間接照明にベッドが浮かび上がる。
伊哉さんは着替えさせてもらって、新たに点滴やバイタルセンサーをつけられてベッドに横たわり、目を閉じていた。
「伊哉さん…寝た?」
とあたしが椅子に腰かけて小さな声で訊くと、伊哉さんはうっすら目を開けてあたしを見て、手を伸ばしてあたしの頬に触れた。
そのまま親指だけ動かして頬を優しく撫でる。
「あの日俺が変な正義感出して、崖の様子なんか見に行かなければ…ヤジョウは死ななかった。
センザキは、他の隊員はどうなっただろう。回復したのか、それとも…
俺のせいだ。俺が、あの気のいい奴らを殺したも同然だ」
あたしの頬を撫でていた手をぐっと握りしめて、伊哉さんは歯を食いしばる。
「そんなことない!伊哉さんと隊員の人たちが敵を発見してくれたから、そこから広がるかもしれなかった日本全土への甚大な被害を事前に食い止められたんだよ。
伊哉さん自身だって酷い攻撃を受けて生死の境をさまよった。安全なところにいて味方を見殺しにしたわけじゃない」
あたしが伊哉さんの手を両手で握って一生懸命話しかけると、伊哉さんは驚いたように目を見開いてあたしの顔を見た。
「それに、それを言ったら伊哉さんの上官である大佐はどうなるの?
わざわざ伊哉さんが警戒を呼び掛けたのに何もしなかった海軍は?
戦闘状況をよく確認もせずに空爆した空軍は?
一番悪いのは、敵だと思う。卑怯な手で上陸しようとして、見つかったからって生物兵器を…」
言いかけて伊哉さんに人差し指で唇を優しく抑えられ、あたしは言葉を止めた。
「ありがとう。
だけど皆、それぞれに思惑や立場があるんだ。一概には責められない。
一番悪いのは敵…果たして本当にそうなんだろうか…」
「え?」
伊哉さんはあたしの方を向いてあたしの手を取り、指を自分の頬に押しあてながら口を開いた。
「俺はね、早葵さんに出会って初めて、心から守りたい人ができた。
この人の為なら自分の身なんてどうなってもいい、そう思った。
きっと、敵と呼ぶ人たちにも、そういう大切な人がいるんだろう」
「ろくな装備も持たず貧しい漁船で敵地に乗り込むような、あんなゲリラ戦に参加せざるを得ない事情があったのかもしれない。
自分で投げつけた火炎瓶が割れて、自らに当たってた敵もいた。まともな訓練を受けているとは思えなかった。殲滅されなくても、発病して死んでしまっただろう」
「俺は今まで、あまりこういう地上戦というか接戦を経験したことがなかった。
階級のせいもあるし近衛でもあるから、作戦を立てて指揮を執る役目が多くて、戦場で実際に戦うことがなかったんだ。
今回、下士官たちと肌触れあうように近く接して、皆俺より年上だけどなんだ楽しくていい奴らじゃないか―――そう思っていた。
それが…あんなことに…」
伊哉さんは目を掌で覆った。そのまま、囁くように言う。
「俺は、戦争をしない国家を作りたい。そう思った。
早葵さんのいた国のように。戦争放棄、非核の国を。
新皇帝と一緒に」
「そうだね…」枕元に顔を近づけてあたしも囁いた。本当にあたしもそう思う。
「でもあたしは…身勝手な言い分かもしれないけど、こうやって伊哉さんが帰ってきてくれて本当に良かった。
いつ危篤になってもおかしくないって聞いた時には、胸が張り裂けそうに苦しかった。
もうあたしは元の世界に帰れなくてもいいから伊哉さんを助けてって神様に祈っ」
突然、伊哉さんがあたしの顎に手をかけ顔を傾けて近づけてきた。
唇が伊哉さんの唇に触れそうになって、あたしは慌てて「ダメダメっ!」と身を引いた。
それでドクターから言われたことを思い出したのか、伊哉さんははっとしたように手を離し「そうだ…ちくしょう…」と悔しそうに呟いてまた枕に頭をつけた。
そのまま気まずい沈黙が発生し、わざとらしく咳払いをして伊哉さんが言った。
「凛樹…ってあの毒舌医師、俺の高校時代のクラスメイト…っていっても俺はスキップで高校に1年しかいなかったから、あまり一緒に勉強したりはなかったんだけど、妙に馬が合う奴で。
あの…早葵さんのこと彼女彼女って呼んでたろう?
気を悪くしないで欲しいんだ。凛樹がそう言うのには訳があって…」
「ああ…婚約者ってことになってるんでしょう?」
とあたしが何気なく言うと、伊哉さんは目をむいて「なぜそれを?」と噛みつくように訊いてくる。
「えっと、あたしのスパイ容疑の話を多華さんから聞いたときに、話の流れで」
「多華のやつ…俺にはなにも言ってこなかったぞ」
「多華さんは、本当は伊哉さんが自分で言うべきなんだけどって言ってたから。あたしがスマホを軍に渡すのを嫌がったから、仕方なく教えてくれたんだよ」
「早葵さんの意思を無視して勝手なことをして悪かったと思ってる。
だけど俺はあの時、自分がそばにいてやれないことが本当に悔しくて、でも何とかあなたの身を守りたいと考えた結果、あのやり方が一番良いと思ったんだ」
「ちゃんとしっかり守ってくれたよ、『伊哉遼玲の婚約者』の肩書が。
聞いたときはすっごくびっくりしたけど…。
カードとか保険証とか、どうもありがとう」
自分が思っていたほどの拒否反応ではなかったのか、伊哉さんは拍子抜けしたような顔であたしを見た。
「そう、か…だけど、このままで良いか?
俺はもう帰還したし、傍にいられれば婚約者でなくても…」
「婚約解消ってこと?」あたしがわざと尋ねると、伊哉さんは拗ねたようにそっぽを向いた。
「できれば俺はそうはしたくない。でも…あなたの意思を尊重したいと」
「多華さんは、伊哉さんはあたしを娶るつもりでいるって言ってたよ?」
「・・・・・!!」
伊哉さんはがばっと起き上がり「そこまで聞いてんのかっ?!」と言って頭を抱えた。「アイツ…許さねえ」
ちょっとからかいすぎたかなあ…反省して「伊哉さん?」と声をかけると、伊哉さんは下を向いたまま
「遼玲」と言った。
「え?」
「…俺と、同じ苗字になってもいいと思うなら今『遼玲』って呼んで、早葵」
えーーっっ!
そ、それはちょっと展開が早すぎないか?
あなたもあたしもまだ10代だし…
いずれってことならまだしも、今って…
思わずあたしが黙り込むと、伊哉さんは「…判った」と低く言ってナースコールを押した。
急いで入ってきた看護師さんに「すみません、点滴外れちゃいました」と左腕を見せた。
あらあら、と看護師さんが駆け寄ってくる。
あたしは黙って席を立ち、自分の部屋に戻った。
怒らせちゃったかな…




