第3章 3
3.
その夜は、多華さんとリビングのソファでまんじりともせずに過ごした。
多華さんのお母さんが作ってくれたお弁当はすごく美味しそうで、実際こんな状況でなければとても美味しいのだろうけど、何を口に入れても味がまるで感じられなかった。
たくさん作ってくれたのに、ほとんど食べられず冷蔵庫にしまった。
ソファに寄りかかって、電話がいつ鳴るかと耳を澄ませながらただ時間の過ぎるのを待つ夜はとてもとても長く感じられた。
多華さんも同じ思いだったろう。
時折、涙をぬぐいながら黙って悲しみを堪えている様子だった。
あたしは、この世界に来る前の晩、葉山君に別れを告げられた日の夜のことを思い出していた。
あの日もあたしは眠れず、葉山君の言葉を何度も思い返して傷ついて、失恋の意味について考えていた。
こんなに苦しい思いをすることは、人生で2度とないだろうと思っていた。
だけど、、、まだあったんだ。
その時以上の苦しい気持ち。
葉山君にもしかしたらもう会えないかもしれない。そう思うと悲しい。
でも、伊哉さんを失うかもしれない今の状態は、筆舌に尽くしがたい心を引き裂かれるような苦しさが胸と喉を押しつぶす。
さっき、多華さんがお母さんに電話してお弁当のお礼を言っていた。
あたしはそれを見ながら、ママのことを思った。
ママ…あたしが失恋したと気づかずに、ダイエットだと思い込んでた能天気なママ。最後に作ってくれたお弁当、伊哉さんの実家で綺麗に食べたよ。すごく美味しかった。
ママに会いたい。急にあたしがいなくなって、心配してるだろうな。
帰りたい。元の世界へ。
白々と夜が明けるころ、多華さんのスマホに電話がかかってきた。
多華さんは飛び起きて「はい!」と応答した。
そして「えっ!本当に?…良かった…」と涙を流して、あたしに「リョウ、助かったって」と言った。
あたしは心からホッとして…多華さんの姿がだんだんぼやけて…気を失った。
目を覚ますと、いつも使っている部屋のベッドに寝かされていた。
ベッドサイドに点滴をひっかける棒が立っていて、右腕を見ると点滴を処置した跡の小さな絆創膏。
伊哉さんはどうなっただろう?
あたしは急いでベッドから起き上がろうとして、ふらついて倒れてしまった。
這うようにして部屋から出て、リビングのドアを開ける。
「早葵ちゃん!大丈夫?」と多華さんが駆け寄ってくる。
「伊哉さんは…」とあたしは多華さんが差し出してくれた腕につかまってなんとか立ち上がった。
部屋の中には、藤堂准尉ともう一人女性の軍人さんがいた。
女性は胸に赤十字のような記章を付けている。
「この方は陸軍病院の看護師さんで、リョウの病状を報告に来てくれたの。
あなたの点滴もついでにしてくれたんだけど。
すみません、もう一度この子に話してくれますか?」と多華さんは看護師さんに言い、看護師さんは頷いた。
「川上早葵さんでいらっしゃいますね。ご心痛、お察しします。
伊哉少佐は、ワクチンが効いて今朝方に解熱しました。お若いので、回復も早そうです。
点滴をしながらですが、今日の昼食から召し上がっておられます。
ただ、使用された生物兵器がどのように感染するのかまだ判明していないので、退院はまだ先になりそうです」
「お見舞いも、感染経路が判るまではダメみたい」と多華さんが残念そうに言った。
と、その時、多華さんと藤堂准尉、看護師さんの電話が揃って鳴った。
「はい!」と皆が揃って出て「…はあ?!」とまた声を揃えた。
「リョウ〔少佐〕が…病院から脱走した?!」
「こちらへ向かうだろうって…いやちょっと待ってください。今朝解熱したばかりでしょ?!」
藤堂准尉の声は悲鳴に近い。
「軍の公用車を乗っ取ったぁ?!…どんだけ莫迦なのアイツ」多華さんはなんだか脱力している。
はい、はい、と比較的冷静に相手の話を聞いていた看護師さんは、手早く電話を切ってきびきびと言った。
「5分後にここに救急車が到着します。ドクターと衛生班が乗って参りますので、この隣の部屋を臨時の病室に致します。
伊哉少佐がここへ着き次第、担架に乗せて運んで参ります。
皆様も感染予防などご協力ください」
多華さんが以前に言ってた「日ごろの素行の悪さが原因」ってこういうことかぁ。納得。
あたしはまだ立ち上がれなかったのでソファに座り込んだまま、バタバタと準備する皆を眺めていた。
リビングの続きに襖で仕切られた和室があって、そこを臨時の病室にするらしい。
衛生班という腕章をつけた白衣の人たちが慌ただしく部屋を消毒して伊哉さんのベッドを運び込み、点滴の棒をあたしの部屋から持ってきて設置し、リネンを真っ白いものに綺麗に換えて、ベッドの周りに金属の棒を組んでビニールテントのようなもので覆い、大型の空気清浄機をつけた。
あたしたちにもガスマスクみたいなごっついマスクが配られてこの部屋に入るときには必ずマスクを着用するようにものすごい念押しされた。
あと、ディスポのグローブも置かれ、それも必ず着用するように言われて捨て方も細かく指示されて、あたしと多華さんがうへぇ~となったところに、玄関のドアが開いた。
伊哉さん…!
ドクターに付き添われ、救急隊員が運ぶ担架に乗せられた伊哉さんが、立ち上がったあたしを認めるなり担架から飛び降りてまっすぐにリビングに飛び込んできて、あたしはきつくきつく抱きしめられた。
そしてそのままズルズルと二人して床に倒れた。
「リョウ!お前ふざけんな!」
ドクターが慌てて部屋に入ってきて、部屋の中にいる人たちに「マスクして!」と叫んだ。
あたしの上から伊哉さんを引きはがしながら「結核みたいに空気感染するかも知れないって言ったろ!
彼女が感染したらどーすんだ!」と怒りまくって、伊哉さんを引きずってにわか病室となった和室に入っていった。
あたしは起き上がり、伊哉さんがさっきあたしを抱きしめながら耳元で囁いた「早葵、愛してる」という言葉を思い出して、泣いてしまった。
マスクをした多華さんが心配そうにあたしの肩を抱いてくれたけど、あたしはなんとか「大丈夫。生きて帰ってきてくれて嬉しくって」と笑うことができた。




