2-4
寒々とした路上を、彩子を抱え騎道は歩き出した。
足を早め道を急ぐ。飛鷹家までは数メートル。
ストーン・ベイからここまで、出来る限り近くに転移したつもりだった。御鷹姫からの今夜二度目の襲撃を、騎道は望んでいなかった。
凄雀のコートで、頭から彩子をすっぽりと覆い、その上からスエード・コートで包み込んだ。
ぐっすりと、今度こそ本当に、彩子は眠りについていた。
長い金髪は、気を取り直した彩子の望みで、騎道が鋏で裁ち落とした。床に落ちると、それは幻のように消え失せた。しかし、肩で切り揃えた髪には、何の変化も無かった。
落胆も見せず彩子は一人、マサキの個室へ服を着替えに戻った。自分も着替え直した騎道は、なかなか出て来ない彩子に、やむなくドアを開けた。
学生服をきちんと着て、騎道を待つように、彩子は古いソファにかけたまま、眠り込んでいた。それを幸いに、騎道は瞬間移動という手段を使った。
見慣れた門柱を潜る。家の中に明りはなかった。
玄関先のコンクリートに、彩子を下した。コートを分け、顔を覗き込む。騎道は、ほっと息をついた。
髪が、元通りの黒に変わっている。
やはり張り巡らせた結界は、御鷹姫の影響を完全に遮断する。予測していたことだが、騎道は心底安心した。
「彩子さん……?」
小声で呼びかけてみる。揺さぶり起こすのは酷だった。
引き戸を引いてみるが、鍵がかかってびくともしない。
仕方がない。騎道は、鍵穴に手をかざした。キリリと、金属のこすれる音が生まれる。
「おい?」
気を張り詰めていた騎道は、心臓が飛び上がりそうなくらい驚いた。振り返ると、飛鷹修造の姿があった。
彩子の横顔を一瞥し、飛鷹はコートのポケットから鍵を取り出した。騎道に投げるぞと仕草を向ける。
「……あの、開いてるんです……」
間の悪い愛想笑いを造りながら、騎道は戸を引き開けた。
「ふむ……。無用心な家だな……」
呟いて、道を開ける騎道の前を通り過ぎてゆく。指先で、上がれと示しながら。
飛鷹に譲られた形で、騎道は彩子を家の中に運び込んだ。
客間の奥にある部屋で、飛鷹は自分の布団を敷いていた。そこに彩子を横たえさせ、丁寧に布団を掛けた。
一度、寝顔を見下していた飛鷹が、立ち上がり、騎道にコートを手渡した。無論、凄雀のトレンチ・コートの方。 スエード・コートは勝司のものだと見覚えがあるのか、しっかりハンガーに吊るされてしまった。
……。仕方ない……。騎道は廊下に出た。
「僕は、これで」
「こんな時間だ。私は構わんから、その辺で眠っていけ」
時間といっても、まだ11時を回った程度。
それよりも、何も問わない飛鷹が、騎道は不思議だった。
飛鷹は、もう一度彩子を見下し、押入れに向いた。
力無い飛鷹の肩。不安を押し殺す、父親の背中だった。
「いえ。折角ですが。彩子さんは、もう大丈夫ですから。
明朝、迎えに来ます」
「また来るなら、同じことだろう? ほら」
毛布を一枚押し付け、飛鷹は隣の床の間のある客間に騎道を追いやった。襖を閉ざし、自分は奥の台所へ出ていった。
騎道は、借りて来た猫のように、部屋の隅でおとなしく座り込んだ。有無を言わせない飛鷹の態度に、完全に気圧されていた。
凄雀のコートを丸め枕代わりにする。ネクタイを緩め、ごそごそと毛布を被り、横になってみる。
台所を歩き回る、飛鷹の足音だけが聞こえる。微かな時計の運針。暗いこちらの部屋に差し込む、隣室からの明り。
手を伸ばし、騎道は襖の隙間を閉じた。瞼も閉じる。
彩子は何より安全な、騎道の結界の中に居る。
どんな夜よりも、騎道は安心して眠れる気がした。離れていると、例え強固な結界をほどこしていても不安だった。
彼女が悪夢にうなされてはいないか? 騎道の察知しえない手段で、御鷹姫が襲い掛かってはいないか?
夜明けを待ちながら時を費やし、想いとは裏腹に肉体は疲労の海に沈んでしまう。そんな繰り返しだった。
隣り合っていると、彼女の安らかな吐息さえ聞こえる気がする。それを現実に確かめたい衝動が、騎道の頭を駆け巡る。もどかしさに、暗闇を見上げてしまう。
「!」
飛鷹が無言で、廊下側の障子戸を開け立っていた。
手にした缶ビールを騎道に放り「早く寝ろ」促した。
障子戸は閉じられて、飛鷹も隣の部屋に引き返したというのに。騎道は耳まで赤くなった。
「……すみません。やっぱり僕、帰ります。
本当に、今夜は彩子さん、大丈夫ですから」
目一杯慌てて、靴を履くのもそこそこに、騎道は玄関を飛び出した。
学生カバンとコートを抱え、夜の路地を駆ける。
ネクタイを引き抜き、逃げるように走る。
何から遠ざかろうとしているのか、騎道は痛いほど承知していた。わかっているから、あの家では眠れない。
「目が覚めたのか?」
「…………騎道は?」
ここがどこなのかを悟ると、ぱっちりと目を見開き、彩子は修造を見上げた。
「奴なら、今出ていった」
怠い体を引き起こし、彩子は父親の布団を抜け出した。
冷たい廊下をよろよろと歩き、靴下のまま外に出る。
「……騎道……?」
彩子は、門まできて足を止めた。
コンクリートの門柱によりかかり、道の左右を見透かした。吐く息が白く浮かんだ。寒い夜。人影は無い。
彩子は思い切って、一歩足を踏み出した。
目には見えない青い炎を、彩子は踏み越えていた。
すると。あの禍々しい気配が、皮膚を泡立たせる。路上の暗がりで、何かが蠢きはじめる。歪んだ喜びが招く。
「……よくぞ、参った……。さあ、手の内に……」
悪意が、微笑みながら囁いた。見えない触手を感じて、彩子は身を引こうとした。……動けない。あの女が来る!
「……来ないで。炎なんて見たくもないわ!」
叫び声に呼応して、誰かが彩子を引き戻した。
「お父さん、怖い!! ……怖いの……!
……火が……、あたしを連れて行こうとしてる……!」
胸にすがりつき呻く彩子を、修造は両腕で抱えてやった。
修造には、彩子の異様な怯えだけで十分だった。
予感が確信に否応無く切り換えられた嫌な衝撃は、これだけでもう沢山な気分だった。
「怖いの……」
彩子は、絶望しようとしていた。
『これ以上、何もできない……』
『……こんな所で、女と心中させる為ではない!』
二人の男の闘いを、彩子は見聞きしていた。銀が眩しくて、幻のようにも思えたけれど。
わざと眠ったふりをして……。聞いてしまったとは打ち明けられないような会話だった。
……彼等は特別な人間で、あたしは足手まといになっているだけじゃない……?
『……僕の義務だ……』
そうね……。義務だから、騎道は優しいんだよね。
「静磨君ですか? 篠屋です」
秋津静磨の自室に、直通電話が入る。穏やかな篠屋の言葉は、その響きとは裏腹に静磨の表情を一転させた。
「数磨が!? ……あなたの力で、押さえられないのですか?
あの女を呼び出したのはあなたでしょう? ああまで強力に力を付けさせたのもあなただ。その最高の布陣者が、手に負えないなどとおっしゃるのは笑止なこと」
苛立ちを、静磨は皮肉で返した。
受話器からは、愉快な笑い声が流れてくる。
「とはいえ、元々の性分までは操り兼ねます。あの激しい気性。生前のあの女がどのように振舞ったか、この目に見えるようで、怒らせては心底怖い女です。
……どうやら騎道君は、その逆鱗に触れたようですな。
すさまじい荒れようで、このままでは数磨君の体力が持つかどうか、気掛かりです」
ガラスの砕ける音が、篠屋の背後から聞こえる。静磨は、拳を堅く握り締めた。
思い通りに行かずに、篠屋宅に逃げ帰った白楼后が、その器である数磨の体を借り、その能力を振るい荒れ狂っているという。肉体に宿るだけでも、数磨を疲弊させるのに、このままでは……。
「私にどうしろと言うんです!?」
「どう、なさりたいですかな? あなたの大切な弟を苦しめる男を。このままには出来ますまい?」
静磨は、謎掛けに笑みを零した。ギラギラと、瞳が憎悪に満ちてゆく。
白楼后の要求は、静磨の強い欲求と同じものだった。
「殺しても、いいんですね?」
「やむを得ませんな。先々で、邪魔をされるのも困りますので」
『殺しておしまい。騎道を……』
「やって欲しければ数磨から離れろ。休ませてやれ」
『案ずるな。死なせはせぬよ、まだな』
まだ……。再び、受話器の向こうでほくそ笑む女に、憎しみが燃え上がる。それを押し殺し、静磨は言いつけた。
「手を貸せ。確実に、奴の息の根を止める」
『……いつでもお呼び。すぐに出向く。総力を挙げてな』
気の狂った哄笑。それは、受話器を置いても静磨の耳に残る。
脈打つ狂気を駆り立て、頭の芯がとろけそうなほど甘美な殺気を、とうとうと湧き出させる。
急速に自分が自分でなくなってゆく有様を、もう一人の秋津静磨が、遠くから眺め楽しんでさえいた。
……憑かれているのは、僕の方か……。