2-3
『やめて下さい、代行! 勝手な真似をしないで!』
『落ち着け、飛鷹。……私ではない……』
凄雀のもつ、冷淡だが大きな存在感が遠のいた。
『何も拒むことはない……。わらわと同じ顔を持つ娘よ。
人を慕うのは、人であるがゆえの運命。想いを退けては、人は長く生きられぬ。
……お前にも、恋しい者が居るであろう……?』
『来ないで……!』
手を替え、女は騎道の姿を彩子の脳裏に送り込んでくる。たった今。この瞬間の、不穏な気配に瞳を険しくした騎道を見せ付ける。
『わらわも幾星霜、この方をお待ちした……。隆都様とは想い違えども、愛しくお懐かしい方よ』
女の意識は正確に、捨て難い騎道への憎悪をも映し出す。
朱に消し流される騎道の姿。彩子は戦慄した。
唯一、自由になる唇を噛み締めた。
『……違う……。外れよ……。全然違うわ……。
……そうじゃない……』
『本心』と囁いたマサキ。滝川も、マサキと同じように考えていた。駿河も、三橋も……秋津静磨まで。
騎道は、誰にでも優しい。誰に対しても必死になる。
危険な生き方しかできない、たった一人を選ぶことのできない不器用な男。
「騎道じゃないの! ……ほんとに違うんだから……!
……騎道を巻き込むのは、もうやめて!!」
右手の甲に、何かがぶつかって床に落ちた。見下すと、マサキがつけてくれた金のバレッタ。留め金が弾け飛んでいた。
……な…に……? 頭、重い……。
意識が、なぜか遠のいた。首筋が強烈に冷える。
ふらりと、上体が後ろに引き倒される感覚。頭が重い。冷たくしっとりとしたものが、背中を撫で、腕に触れる。
支えきれなくて、彩子は重力に抱かれてゆく自分を許した。うっすらと開いた目の隅で、輝く金のさざ波を見たような気がした。長い長い、波打つ金髪のような。
『……おいで。わらわと同じ体をもつ娘。
お前の、誠の心を覗かせてもらったぞ。お前も哀れな者よ……。すべて捨てて、われに従うがいい。
真実、愛しい者を、手に入れるのじゃ。わらわにはそれができる。紛れもない力がある。
嬉しかろう? 今度こそ、愛しい者を手放さずに済む。
さあ、この手をお取り……?』
御鷹姫の声は、極上の甘美な誘いだった。
恐怖はない。同じ願いを分かち合う、深い同情が女の中に生まれていた。その優しさが彩子を慰める。
彩子の意識の中で、一番深みに眠らされてきたもう一人の、傷を癒せずにいた彼女を揺り起こしそうになる。
誰かが、転落してゆく彩子を抱き留めた。ぬくもりの残るコートを頭からすっぽりと被せ、広い胸に引き寄せてくれる。
「……そうよ……。わたし、たぶん恋してる。
騎道じゃない人……。……遠い所に居る人に」
くすりと、闇の中、彩子は口元で笑った。近くに居るだろう御鷹姫へ見せつけるように、もう一度妖しく笑った。
『……来ないで。あなたの手なんて借りない……!
あの人は私の中に居るの。それで、いいの……』
手探りで、男の背広に手をかけ、ぎゅっと握り締める。
頬をすり寄せて囁いた。
「忘れないって決めたの。わたし、絶対に忘れないよ?
誰よりも大好きだったこと。……ね?
これからもずっと、好きなの……」
彩子はガックリと肩を落とした。精神の均衡が破れ、無意識の自己防衛で、意識を自分から閉ざすことを選んだ。
「……大した自制心だ、飛鷹。
それは、褒めてやる……」
片腕で彩子を支える凄雀。ゆらりと揺らぐ淡い銀の燐光に、二人の体は包まれた。
「手を引け。……今日のところは、貴様に勝機は無い」
声に殺気が籠もった。
抗する手段は無いと言ったはずだった。だが、滲み出る闘志は、女を怯えさせた。
口惜しさに形相を老婆に変えて、女は消え失せた。
「だがそれも、最大の弱点になる」
コートごと彩子を抱え上げ、凄雀はその場を離れた。
銀の輝きだけが現実のものとして、暗がりの中で映える。
誰にも気付かれずに姿を消すはずだった二人は、その銀が目を引いて、たった一人に後姿を目撃された。
「……あの男……。驚くな、長身に銀髪…か……?
ああまで目立つ男が、店に居たのか……?」
化粧室へ続く通路に入る男を見送り、滝川は呟いた。
「! そういえば『人魚姫』? まずいな。騎道君を……」
滝川は半ば絶望的な気持ちで、フロアを見渡した。
音楽と喧騒の中、騎道は完全に埋もれていた。
舌打ちをして、カウンターを潜り出た。
「すみません! 通して下さい、緊急で……!
滝川さん、彩子さんはどこへ……!?」
動物的な勘の良さだと、滝川は背筋が震えた。
騎道の瞳の中には、強い焦燥が滲んでいる。
白いドアの向こうで悲鳴が上がる。女性用化粧室から、二人の若い女性が我先にと飛び出してきた。
気が急いていながら、場所が場所だけに、ドアの前でためらっていた騎道だった。
彼女たちをやりすごし、騎道は中へ滑り込む。
「! ……代行……」
凄雀の背中と彩子を見比べ、騎道は自分の目を疑った。
呆然とした一瞬、無防備な騎道は、向き直った凄雀に襟首を鷲掴みにされる。
左頬へ、ストレートに繰り出された拳。
吹き飛んだ眼鏡に遅れて、二発目の右ストレートも顔面に食らい、騎道は床に殴り倒された。
呻き声も許さない。凄雀は騎道を引きずり起こした。
「大きな口を叩いてこの様か?
何を守っているつもりだ? この娘のどこを見ている?!
中途半端な態度では、白楼后の思う壷だ。たった今、貴様は手を引け!」
コンクリート・タイルの壁面に、ボロ切れを扱うように騎道は押し付けられた。
頭を振って、遠のきかけた意識を引き戻す。
「……僕に、何をしろというんですか。
僕はこれ以上、何もできない……」
凄雀の腕に手をかけた。
「これ以上、彩子さんに近付くことは……、できない!」
カッと目を見開いて、騎道は凄雀を見据えた。
「それとも。クリオンのように、すべて捨てて彼女を選べばいいんですか? 僕はそれでも構わない。
彼女をこんなにするくらいなら、もっと早く、そうするべきだった……!」
騎道の横腹を膝で蹴り上げる。力の抜けた騎道の手を払い、凄雀は右腕を騎道の顎の下に押し当て、力を込める。
「二度と同じ口を叩くな……。
死にたいなら、私が望み通りに殺してやる」
「……ゼ……」
もがいても凄雀の強靭な戒めは緩まない。
凄雀の影がのしかかる。
「貴様をここまでにしたのは私だ。長い時間とあらゆる手段を講じて、名実ともに、五指に入る高みにまで引き上げた。
……こんな所で、女と心中させるためではない!
お前は私に忠実な人間であるべきだ。それが意志をもち、反逆し、こうまで愚かだとは、……未練もない」
その凄雀が、ふいに腕を緩める。
肩で息を継いで、騎道は口を開いた。この場では、殺気を放つ凄雀より、騎道の方が冷たく冴えていた。
「ゼン。今のあなたには無理です。あなたの体は完全じゃないし、僕は今ここで、殺されるわけにはいかない。
僕が死んだら、彼女を守る人間がいなくなる。
あなたとは、闘うしかない」
「そういうことに、なるな」
うっすらと、凄雀が微笑んだ。ようやく騎道から望みの答えを引き出せた、満足の笑みだった。
「私も、貴様と相打ちになるわけにはいかない立場だ。
最も単純な手段を、選ぶしかあるまい?」
騎道を突き放し、凄雀は彩子に向き直った。
壁一杯の鏡にもたれ、彩子は低い化粧台に座っている。
彩子の全身が光輝いていた。長い金髪が肩を雪崩落ち、腰の周りで渦を巻いていた。先端は模造大理石の化粧台から零れ落ちている。
少し顎を上にあげ、左肩に頭をもたせ、彩子は目を閉じている。眠っていた。自分の姿の、変貌の事実を知らずに。
金に包まれた無垢な寝顔は、神々しくさえあった。
美しい黄金の彫刻が、微かに唇を開く。眉を寄せる。
駆け寄ろうとした騎道を、凄雀は右手で遮った。
「……お前の身代わりだ。一人の命ですべて終わらせる」
空いた左手に、銀の光が生まれ凝固した。
咄嗟に、騎道が凄雀に体当たりした。寸前で身を翻し、かわす凄雀。無防備な背後から、握り合わせた拳で後頭部を強打。容赦なく、がくりと膝をつく騎道を足蹴にする。
彩子の足元にあった椅子を倒して、床に転がる騎道。
両手を付き、彼は体を起こした。
呼吸一つ乱れない凄雀は、見下ろし、立ち上がるのを待った。ボタンの千切れ飛んだ襟首を掴む。
反撃に転じる騎道。腕を払い、拳を繰り出す。
右ストレートはかわされる。
逆に、内臓を抉るような、ボディ・ブローを食らった。
一発、二発。地獄の苦しみが、騎道の胸を駆け登る。
完全なダウン。唸り声を床に吐きながら、騎道は身をよじった。
「すこしは目が覚めたか」
凄雀を見上げる視線が、獰猛な光を帯びていた。
歯を食いしばり、騎道は凄雀と彩子の間へと転がった。
騎道と視線を絡めたまま、なぜか凄雀は一歩退いた。
「生憎、凄雀遼然である以上、生徒をこの手にかけるわけにもいかん。
でなければ、とうに学園もろとも、すべて灰にしている」
言い残し、ドアを押して、凄雀は立ち去った。
思いがけない凄雀の本心が、騎道の頭に冷水をかけた。
『凄雀遼然である以上、生徒を……』
……だから、僕に任せられない? こうまでして?
破裂しそうな腹を抱え、騎道は床に横たわった。
薄汚れてしまった銀の前髪をかきあげる。
凄雀も、髪を銀に変えていた。彼本来の色は『力』を使った証拠だ。禁じられているのに。その身を確実に傷めるというのに、凄雀は回避しなかった。
打撲の疼きをこらえて、騎道は化粧台を伝い、立ち上がった。彩子の肩に手をかけようとして、ためらう。
迷いながら、指を輝く髪に差し伸べる。柔らかい、しっとりとした生身の感触に、騎道は眉をしかめた。
間違いなく彩子の髪。変質していても、彼女自身だ。
幻でなく、御鷹姫と同じ姿がここにある。
無言の艶やかさが、御鷹姫自身のように騎道を責める。彼の拳を震わせる。
騎道の目の前で、彩子がゆっくりと頭を降った。
「……騎道……? ここは? 何……!?」
手の中に一房握り締めて、彩子は目を見張った。
「……何なの……、この髪……」
「すぐに元に戻るよ。心配しなくていいんだ」
鏡を振り返る彩子。髪の重みに、体が揺れた。
自分の痛みを無視して、騎道は凄雀のコートに包まれる彩子の両肩を支えた。
「彼女が、ほんの少しだけ彩子さんの体に侵入したんだ。
でも大丈夫。意識や体を支配されたわけじゃない。
うまくいかなかったから、腹癒せに痕跡を残したんだ」
「どうして……? こんな」
鏡の中の騎道を、彩子は大きな瞳で見返した。
「同化、という状態だ。たぶんね。
御鷹姫は、君を自分に近付けて、手に入れるつもりだ」
「何が起きたの? 同化? どうして? 教えて」
「よく、わからないんだ。僕にも」
彩子は食い入るような瞳で、言い放った。
「嘘! 教えてよ。誤魔化さないで!」
目を伏せ、騎道はしばらく思案した。
「はっきりとはわからない。可能性としてなら。
同化は、二人の人間が同じ感情をもった時に起きやすい。同じ目的や、同じ願い、同じ欲求。それを強烈に抱くことで、自分で望む好ましい同化も、望まない悪意の同化も起きる。悪いことだけじゃないんだ。
テレパシーに近いね。ごく近い血縁関係や、恋愛感情の中で、よく見られることだよ。
離れた場所で、お互いのことを考えた時、意思が通じたりするのはメンタルな同化のよるものだ。
彩子さんの場合、御鷹姫と類似点が多い為に、精神レベル以上の同化が起きる可能性が高い」
「私……、何をしたの……? 何を考えたの?
わからない。あの人と同じことを考えるなんて、何なの」
「彩子さん、落ち着いて。怖がらなくてもいいんだ。
これは御鷹姫の手だよ。君を脅かしているだけだ。
君の心の隙を突くという、姑息な手段でね。
いい? 忘れないでほしいんだ。君が望まない限り、彼女は君を手に入れることは不可能だ。
君が委ねると、言わない限りはね」
彩子はこくりとうなずく。半信半疑の瞳は揺れ続けたまま。渦巻く金髪を怖々と見下した。
「怖がらないで。恐れが、彼女を助長させる」
もう一度、しっかりとうなずく彩子。
「僕がかならず、君を守るから。
……それが、僕の義務だ……」