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『少し付けた方が、顔色がよくなるわよ?
ワカトモ君、すっごく心配してるみたいじゃない?』
マサキが取り出したラズベリー・ピンクの口紅は、新品同然だった。念入りに唇に差してから、地味過ぎるからあげると、マサキは彩子の制服のポケットに滑り込ませた。
マニッシュな、黒にペンシル・ストライプのパンツ・スーツを、マサキは選び出した。
『男まさりなサイコちゃんには、オニアイ』
という皮肉付きで、警戒していた彩子には、意外なくらいシックな組み合わせに仕上がった。
アイボリー・ホワイトのシャツにはシンプルな濃紺のネクタイを合わせ、胸ポケットの派手なスカーフだけが唯一の華やかさを演出している。
変に女を強調していないことに、彩子はホッとした。
マサキはヘア・スタイルも変えたがったが、彩子はニコリともせずに断り続けた。許したのは、右サイドの頬にかかる髪を軽く持ち上げた、金の大型バレッタ一つ。
『つまんないわあ。ワカトモ君一筋なら、他の男はお呼びじゃないでしょうけど、女の子はキレイが一番なのよー?』
一々、ワカトモ君を引き合いに出すマサキだった。
『騎道とはそんなんじゃないって、何度も言ってます!』
……最後には、彩子は声を大きくしてしまった。
耳を押さえて、マサキは別れ際、彩子に耳打ちした。
『よし。オネーサンが君に思い知らせてくれるわよ。あたしが店に出てから三曲目にかかる曲を、よーく聞くこと。
それが、サイコちゃんの本心だから』
これで、二曲目……。
滝川にエスコートされ、店の長いバー・カウンターに彩子は移っていた。
比較的静かな、壁際のスツール付近は客も少なく、一階のダンス・フロア全体がよく見渡せる。
フロアの中央が大きな六角形に吹き抜け、二階からも下が見下ろせる。中地下の最低部から、すり鉢状に幅広の階段部分が広がり、一階のフロアに繋がっていた。
店内は以前来た時と、ほとんど変わりない。違っているのはお客の数だった。あの日は、びっしりと人で埋まっていた。亡くなったはずのクリオンのニセ者を待つ客で、異様な熱気に包まれていた。
彩子もその内の一人だった。四条と滝川の協力で、思った通りに『彼』を掴まえることができた。久瀬光輝の生きた足取りを辿っていた、クリオンに成り済ました騎道に。
あの時と騎道は、立場を違えている。姿を変えることもなく、気取る必要もない。一人のアルバイトでしかない。
「どうぞ。騎道君からのサービスだよ」
マネージャーの滝川自ら、トレイに乗せたスープとホット・サンドを手に戻ってきた。
「夕ご飯、まだなんだって? 元気の無いのは、そのせいかな?」
「……ちょっと、疲れてるだけです」
スープを見下ろして、彩子はスプーンを取り上げた。
心配顔のお目付け役を、安心させる為の芝居にかかる。
「騎道は、どの辺りに居るんですか?」
「さてね。受け持ちは下のフロアだけなんだが、あちこちで常連客に引きとめられるらしいから……。
あ、誤解しないでね? 彼はちゃんと一線を引いてるから、絶対に深入りすることはないんだよ。意志薄弱に見えても、女性の扱いには慣れてるっていうか……。
……これも、気に障る話題だったね……」
「全然。恋愛は自由でしょう? 騎道は騎道ですから。
何度も言いますけど、ただのクラスメートなんですよ?」
彩子は、ゆっくりとポタージュ・スープを口に運んだ。
始めに会った頃は、理性的でクールな男だと思っていたのに、今夜の滝川はひどく気を回す人間になっていた。
……騎道のせい? どうして騎道って、こんなふうに他人を引き付けて、巻き込んでしまうのかしら?
「……君は変わったね。以前は、もっと前を向いていたよ」
「滝川さん、その言い方はおかしいです」
彩子は顔を上げて、カウンターにもたれる滝川に向き直った。
「私を『人魚姫』だって、見破ったのは滝川さんですよ?
あの時と同じだったから、気付いてくれたんでしょう?
違いますか?」
「……。そういう論法も、できるね」
滝川は穏やかに認めた。
「私は私です……。少しも変わらない。
……私。変わってしまうの、嫌なんです……」
彩子が見せた、一瞬の気の強さは、すぐに気持ちの迷いの中に飲まれていった。
滝川は、つまらないこと言ったと謝って、カウンターの中に引き込んだ。少し彩子とは距離をおいて、見守ることにした。ぼんやりとスープの手を止めた彩子は、視線に気付く素振りはなかった。
「……変わらないから、人魚姫は海の泡になって消えたのか……。チーフにはなんて説明するべきかな……?」
思案する間もなく、アルバイトが一人、カウンターに駆け寄ってくる。銀色のトレイに使用済みのグラスやプレートを器用に積み上げ、仕事の飲み込みのいい男だった。
「似合ってるじゃないか? 騎道君?」
「…………」
泣きそうな不満顔を作って、騎道は滝川の目の前に立ち止まった。食器をトレイごと預かって、滝川は尋ねる。
「オーダーは?」
「キール・ロワイヤル2つ、メロン・ダイキリ1、モスコミュール3……」
次々に十数人分のカクテル・オーダーを唱え上げる騎道。
「相変わらず完璧な記憶力だね。それに営業もうまい。
ほんとに、君の顔に見込んだ甲斐があったよ」
「……顔でカクテルを勧めてるわけじゃありません……。
それより滝川さん、これ本当に水で落ちるんですか?」
疑いながら、指先で長い前髪を摘み上げる。はらりと散らす髪は銀色。店内を交錯するカクテル・ライトを浴びて、きらびやかな光沢が矢のように流れる。カラースプレーで造られた、完璧な銀髪だった。
髪を強調するために、服は漆黒の前ボタン無しのスーツ。ボトムとジャケットに、黒い刺繍の縁取りを巡らせた贅沢な仕立てだった。黒縁眼鏡の代わりに、黒いサングラスで目元を隠し、耳には大型の銀のピアス。
享楽の夜には絵になる、銀の貴公子だった。
「……そうしていると、騎道って日本人じゃないみたい」
口を開いた彩子を、騎道は驚いて見返した。
自分からは、ほとんど口を利かずにいた彩子だった。
騎道はためらいながら、ニコリと笑った。
「よく言われます。知ってました? 僕、学園では『第二王子』って呼ばれてるそうですよ?」
滝川が、思わず相槌を打った。
「プリンスは当たっているな。『第二』というのは、何?」
騎道はさあ? と、小首を傾げる。
笑い出すのは彩子一人だった。笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をこすって、きょとんとする男二人を見た。
「学園には二人、王子様が居るって思われてるの。騎道は後から来たから第二番目ね。『第一王子』は、……」
反射的に、彩子はその名前をためらった。
「……『第一』は、秋津会長なの」
「なるほど。騎道君より上が居るということか」
騎道は力を込めて相槌を打った。
「そーなんです。あの人、第一王位継承者に相応しく、全方位完璧に近い男で、なかなか手強いんですよ」
「そーかそーか。ならば、第一王子のイジメに喘いでいる虚弱な第二王子に、この魔術師が秘策を授けようかね?」
「そーですね。道端で難儀を救われたのも、何かの導きかもしれませんし」
「よろしい。これなるアマゾネスを、そちに預けよう……」
「…………。滝川さん。それって何か、違いませんか?」
「何? 誰? アマゾネスって……?」
と彩子が、かわいらしく尋ねる。
「二人して何やってるんですか? RPGかファミコン?
そーゆーの、場所を弁えてやって下さいよね。
はい。カクテル4人分。出来ましたよ」
若いバーテンが、シンと黙り込んだ三者に水を刺す。
一早く騎道は、カクテル・グラスのトレイを受け取った。
「心配ないよ、彩子さん。一人でも、僕は負けませんから」
軽くウィンクを残し、騎道は音楽が溢れるフロアに小走りで姿を消した。
わざとらしい大きな溜め息を滝川に見せ付けて、彩子はやっぱり、クスリと吹き出してしまった。
「……訂正。人魚姫だったね」
取り繕う滝川も、手が混んできたバーテンダーに引っ張られ、客のオーダーをこなしにその場を離れた。
壁一面に並べられた膨大な酒瓶とグラス。幅の狭いスペースで、滝川とバーテンが軽やかに位置を譲り合い、酒瓶が舞う。カラフルな液体が透明な瓶の中で跳ね、彼等の手によってグラスやシェーカーに注ぎ込まれる。
独特な、悪く言えばキザな仕草も織り込みながら、ここでも、音楽の波に乗った作業が繰り広げられる。
「……マネージャーが、こんな所に居ていいのかしら?」
ホット・サンドをつまみながら、彩子は思い当たった。
騎道が自分の代わりにと、頼んだ……。きっと。
鮮やかなパフォーマンスで、ショー・タイムのように客たちの視線を引き付ける二人。タイミングを合わせ、一本のジンを背面キャッチ。指笛と拍手に、乱れた長髪を整えながら、滝川はにこやかに応え会釈した。
まんざらでもない彼の笑みに、彩子はすまなさを忘れた。
『飛鷹……?』
……聞き違い? 彩子は自分の耳を疑った。
声が聞こえた。耳元。いや、それよりももっと深い部分。
よく知った男の、落ち着き払った声が頭の中に広がった。
『……すまなかった。私にしか出来ない決済があったのでね。これでも急いで戻ったつもりだ』
彩子は、そっと辺りを見回してみた。胸の動悸が、速まるのを感じていた。これは、尋常な『呼び掛け』ではない。
彼の姿は、ここにはないのだから。
「代行……、ですか?」
『しゃべらなくていい。妙に思われるぞ』
柔らかく笑む、忠告の気配が彩子に伝わった。
『私のことは、騎道から聞いたはずだな? こちらの世界では、特殊なケースと考えられている能力のことを』
最初に、彩子は『知らない』と答えたはずだった。
見透かされていた以上、彩子は認めるしかない。
『言っておくが、心を読むことは苦手だ。答えは、身振りか強く念じればいい』
こくりと、彩子は小さくうなずいた。
『よろしい。これで、話しがしやすい。
君に、断っておかなければならないことがある』
彩子は耳に澄ました。
『この程度の心話は難しくない。だが、これ以上は無理だ。
わけあって、君を庇って連れ回す程度が、私の限界。
敵を打ち返すことはできない。
それを、承知しておいて貰いたい』
あの凄雀が。ひどく慎重で神経質な気遣いを見せた。
『では、帰るぞ』
彩子の沈黙を受けて、高圧的な口調が蘇る。彩子は微かに、苦笑をしかけた。
やっと凄雀が姿を現した。左端、カウンターのもっとも壁際は、ほとんど暗がりだった。その中で、スツールから立ち上がる長身の人影。コートの裾を揺らし、軽くサングラスを押さえながら向き直り、凄雀は彩子を待った。
『代行? 私、間違っていました。
もう少しで、自分を無くすところだった……。
私、あなたの手も借りてはいけなかったんです』
息を詰め、彩子は苦心して、そうイメージした。
心が言葉を作る。それがすんなりと想う相手に伝わる。
こんなことを試すのは初めてだった。
誰かに何かを伝えたくて、けれど言葉にはできなくて。ただ胸で叫ぶだけなら、何度でもあった。
……絶対に聞こえないとわかっていたから、ひどいことでも胸の内でなら言えた。隠しておきたかった言葉も、自分自身考えもしなかった言葉も、認めようとはしなかった想いも。隠しておくことができた。
彩子は目を閉じた。奔流となって、感情が込み上げてくる。選び出そうとする彩子の努力を、彼女自身が裏切った。
『誰かに守られて、自分を無くすことなんてできない……。
自分の体がどうなっても、それだけは嫌。
……二度と、できない……!』
大きく息を吸い込んで、カウンターに両肘をついた。
激しく打つ動悸が、彩子の喉を引きつらせた。なだめてくれたのは彼の『力』……。
『飛鷹。考え直すチャンスは一度しかない。
今すぐにその望みを捨てるか、望み通り命を捨てるか。
君の賭けの決着は、すぐにでもつく。
それほど『力』をもたない人間は弱い存在だ。
私や騎道が手を引いたなら、君には一瞬たりとも平安は来ない』
これで、三曲目に入る……。
彩子は黙り込んだ。曲を聞くつもりではなかった。けれど、ボリュームを上げた鋭い言葉は耳に飛び込んできた。
三度、繰り返される一つのフレーズ。
「……何……?」
YOU’RE IN LOVE…………?
〔あなたは 恋に落ちているの〕
同時に、踝から膝へと、冷気が生き物のように這い昇ってくる。
予感が、彩子の肩を震わせた。
チロリと、炎が視界の隅を走り抜けたような。
錯覚? ……それとも、あの人なの……?
全身が、透明な糸に絡み取られたように強張った。
〔彼に話しかけることもできないで
その理由も自分ではわからないなんて
そんなことはないかしら?
私には それがどういうことか よくわかるの
あなたは恋をしているのよ
そんな感覚 初めてじゃないでしょう?
自分自身をよく見るといいわ
想っていることは 全部 あなたの真実なの
そうよ 恋に落ちたから〕
矢のように、歌詞が突き刺さる。リアルなイメージを繰り広げながら、彩子を取り巻いてのしかかる。