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「すみません。彼女、気分が悪いそうなので……」

 一組の若い恋人たちに、騎道は頼んでみた。快くベンチの一角を譲ってもらい、肩を支えて彩子をそこに座らせた。

「?」

 騎道のコートの端をしっかりと握り締める、彩子の左手に気付いた。包み込むと、冷え切って強張ってさえいる。

 ためらいながら、騎道は彩子の左に腰掛けた。

 放心している彩子は、騎道に肩を抱えられて、ようやく座っていられるほど自分を見失っていた。

「……寒くないですか?」

 反応はない。緩んだ彩子のマフラーを、騎道は直した。

 彩子がコートを掴んでいなければ、ストールの代わりに着せかけることができた。帰宅ラッシュが一段落して、歩行者は屋外の冷たい風を連れてくるばかりだった。

 たぶん、刻々と時が流れているのだろう。

 アーケードの白い証明の下では、すべてが着々と動いていながら、実は通り過ぎるだけだった。

 人口の背景は一点として変わらない。無機質な街の、これはほんの一つの表情でしかないが。

 今は何よりも、停止した時間が騎道を慰める。

 これ以上の崩壊を、受け止めずに済むのなら。このまま、時間など止まってくれればいい。

 ……彼女を、壊したくない……。

 騎道の視界の中で、一人の若いサラリーマンが躓いた。障害になった路上の学生カバンをチラリと見返し、男は二歩よろめいただけで歩き去る。

 彩子と騎道のカバン。完全に失念していた。

 立ち上がろうとせず、彩子には見えない側に右手を下した。瞼を伏せる。手を軽く広げる。

 誰も気付かない。路上から二つのカバンが消えたのに。

 右手に支えられて、黒い物体がそこに現れた。

 騎道は細く息を吐いた。

 紛れもない『力』が、ここにはある。けれど、肩を触れ合わせる少女には、何の効力も持たない。

 別人だった。うつむいて、柔らかい髪に頬を隠し、うなだれている。

 ……彼女のようには、なるな……。

 心をバラバラに砕いて、暗い情熱だけを残すことは。御鷹姫と同じだ。

 こう姫の中から発散されていた、あの優しかった一部はどこへいったのか。

 三百年も昔に置き去りにされて、朽ち果てたのか?

 取り戻すことは、不可能なのか……?

「……ごめんなさい。……わたし、酷いことを言って……」

 前触れもなく、彩子が身動ろいだ。

「いえ……」

 短く、騎道は答えた。

 彩子は顔をしかめ、自分の頭を押さえた。

「自分でも理由がわからないの。どうしてなのか、何も考えられなくて、ただ怖くて。自分が押さえられなくなって」

「彩子さん、顔を上げて。僕は気にしてないよ」

「……なのに。騎道の姿が見えなくなるのも、あの人が襲ってくるんじゃないかって、体が震えるの」

 呟いて、彩子は拳を唇に押し当てた。

「あたしと、同じ顔のあの人。

 ……自分で確かめたわ。そっくり、なんですって。

 仕方ないわね、あの人の血が私にも流れているんだもの。

 そのせいで、ひいおばあちゃんは亡くなったんだもの……」

 彩子はもう一度、心から謝った。

「……ごめんね……。あたし、どうかしてる……。

 騎道はいつも助けてくれるのに。居て欲しいのに、怖いなんて……、身勝手で……」

「いいかな。今の君は、ショックを受けているだけなんだ。

 彩子さんには悪いけれど、僕は、君が彼女を認めてくれたことが、一番嬉しいよ。

 これでやっと、君を味方につけることができた」

『味方』という言葉に、彩子は複雑な表情を造った。

「騎道は、あの人をどうするつもりなの?」

「自分でも、彼女に何をしてあげればいいのかわからない。

 でもこの秋で、終わりにしたいんだ。

 これ以上、不幸な女性が現れないように。彼女の繰り返す怨念が静まり、安らいでほしい」

 こくりとうなずき、彩子は同意を示した。

「彼女と過ごした数日間は、とても幸福な時間だった。

 僕は両親を知らなかったから、彼女の優しさが実の母親のように思えて、嬉しくてたまらなかった。

 なのに僕は、彼女を裏切った。

 側に居ると口走ったのに、応えられなかった。

 それが、長い時間、多くの女性たちを苦しめた。

 彩子さんも、その一人」

「……平気よ。あたしはまだ、あの人の言いなりにはなってないもの」

 堅い影のある微笑みを彩子は見せた。

「君と会えたことは、償うチャンスを与えられたようなものだ。この機会を、逃したくはない」

 静かな、まだ疲労のうかがえる声で、彩子は囁いた。

「手伝うわ。彼女に会いたいのなら。あの人は私が欲しいんでしょう? 囮になれば、すぐに出てくるはずよ」

「そんな必要はないよ。会いたくなったら、いつでも僕の方が出向く。今は、君が心配でたまらない」

「わかった……。邪魔にならないようにするわ」

 小首を傾げ、彩子は呟いた。

「早く、彼女が楽になるといいわね……」

 騎道は、彩子が路上に落とした暖かい視線に胸を突かれた。

 高鳴る動悸に急かされて、騎道はためらいを捨てた。

「もう少し、僕に付き合ってくれませんか?

 もう遅刻なんだけど、僕のバイト先に。彩子さんも知っている人が居るんです。きっと、気晴らしになる」

 このまま、打ちひしがれた後姿を見送りたくはない。

 密かに息を飲む騎道へ、彩子はこっくりとうなずいた。



 騎道のアルバイト先は、彩子もよく知った店だった。

 久瀬光輝とも縁の深い、『ストーン・ベイ』。

 バイト先が見つからずに弱っていた騎道は、マネージャーの滝川に声を掛けられた。路上でのスカウトは、その場で交渉成立した。一笑に伏されてきた給料の前借を、滝川は笑ってOKしてくれたのだ。

 騎道が、久瀬光輝の『弟』である為に。なぜか滝川は、路上を擦れ違う一瞬で、騎道をそうだと看破していた。

 騎道は彩子を、裏の従業員入り口から二階のマネージャー室へと連れて行った。

「君は……? 『人魚姫』?」

 二人を見て、開口一番、滝川は確かめるように言った。かなり確信のある表情で、騎道の方をうかがった。

 驚いた彩子も、戸惑いながら騎道を見た。

「マネージャーには、すぐに見破られたんだ。僕がニセ者の『クリオン』だったことを。すごい眼力の持ち主だ」

「客商売には不可欠な能力だよ。それに、私は人間を眺めるのが好きなんだ」

 騎道は、疲れている彩子を客用のソファに座らせた。

「派手に動いた僕はともかく、ほんの少ししか顔を合わせてないのに、よく彼女がわかりましたね?」

 執務卓からわざわざ立ち上がって、滝川は彩子の為にコーヒーをカップに注いだ。

「君もそうだったが、彼女は君以上に印象的だったからね。

 忘れようがない」

 コーヒーをテーブルに置いて、彩子をのぞきこんだ。

 上等のスーツと身のこなしが、あでやかな男だった。

「僕とは別の意味で、上司も君のことが忘れられないらしいよ。また見掛けたら連絡をよこせとうるさくてね」

 滝川の上司、エリア・チーフ・マネージャー四条の執心は、騎道も聞かされていた。とぼけ通してきた騎道だ。

 彩子は堅い表情を崩せずに、肩をすくめて答えにした。

 今はどんな言葉にも、心はほぐれそうになかった。

 四条は悪い人ではない。それは、諦め顔を作った滝川も同じだ。誰一人、彩子にとって抜きん出た男にはならないというだけ。

「滝川さん。お願いがあるんです。今夜、彼女をここに置いてもらえませんか?」

「? 店じゃなく、この部屋へ?」

 彩子が素早く、騎道を振り仰いだ。

 騎道は頭を下げた。

「すみません。彼女、かなり疲れていて」

 ソファの腕をしっかり握り締め、彩子は騎道を見つめた。

「心配ないよ、彩子さん」

「……名字は、何んて?」

 二人を見比べた滝川が、尋ねた。

「飛鷹です。飛鷹彩子。……私からも、お願いします」

 気乗りしない顔の彩子から目を逸らして、滝川はこくんとうなずいた。

「飛鷹君? 気を使わずにここでゆっくりしているといいよ。

 騎道君は僕が預かるから、ご心配なく」

 大幅遅刻は、飛鷹君に免じて大目に見てやろう。

 とは、経営者の有り難いお言葉だった。

 慌てて戸口に引き返す騎道の目前で、ドアが開いた。

「滝川さ~ん。ワカトモ君まだなのー?

 あ、居ったー。

 遅いじゃない、他の女の子とデートでも……フニ?」

 目敏く、彼女は騎道を避けて、振り返る彩子を見付けた。

 おやおやと、焦る騎道と彩子を見比べる。

 二十歳半ばの若い女。ストレートのロングヘアを鮮やかなオレンジに染め、長いつけ睫毛は、バービー人形みたいに彫りの深い顔立ちに似合っていた。

 コケティシュな口調同様に、男なら目のやり場に困るほど、レザーの上下はコンパクトなボディにぴったりとしている。ホット・パンツの裾からのぞく太腿には、唇にルージュを引いた天使のインスタント・タトゥが。

 女は、天使と同じ色の唇をチロリと舐めた。

「コンニチワー。ワカトモ君のカノジョかな?」

「違いますってば、マサキさん。着替えますから僕の服を」

「マサキちゃん、そろそろ出番じゃないの?」

 滝川も、マサキを遮る騎道の肩を持った。

「違うの違うの? ホントに違うの? やーん、だったらマサキが貰い!」

 ダーッッ。男二人はそろって頭を抱えた。

「何やってるのワカトモ君。さっさと着替えてお店出て。

 今夜もステキにコーディネートしたわよー?

 ワカトモ君、超ハンサムだから楽しいわぁ」

 女の子はこっちね。

 マサキは彩子に擦り寄って、腕を取った。

「アタシ、この店のDJのマサキね。

 お店の子たちの服を、時々コーディネートしたりもするの。野郎ばっかりで、最近退屈してたのよねー」

 見掛けによらない腕力で、マサキは意気揚々と、戸惑う彩子を連れ出していった。

「マサキさんっ。着せ替え人形は僕だけで……!」

「……諦めろ、騎道君。女の子なら取って食われる心配はない」

 野郎なら取って食われる……。言外にマサキの危険性を説いて、滝川は騎道の肩を叩いた。








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