1-3
「男に用は無いわ。あたし、帰るの。……さよなら」
くるりとターンして、彩子は早足で店を出た。
ハウスウェアがとりどりに並ぶ、ヨーロッパ調のナチュラル志向な店だった。揃えてみたいと少女らしく心は揺れるが、飛鷹家の『台所』には不釣合。最初から、興味はほとんどなかったのだ。
ただ。様子を伺っていただけ。あとどの位、尾行ごっこを向こうが続けるつもりかと。
追い付く騎道が、彩子に並んで歩調を合わせた。
「なら、家まで送ります」
涼やかな顔立ちは、ストレートにナンパしてきた先程の顔とまったく同じ。一点の曇りもなかった。
高い天井の下。ショッピング・アーケードの広い歩行者通路は、人の波で埋まりつつあった。学生たちに、通勤帰りのサラリーマンも加わって、彩子は早足で流れに乗った。
巻いたと彩子が振り返っても、騎道の姿はすぐに彩子の視界に飛び込んでくる。わざと、女の子たちの集団の中を突っ切ってみても、なんなく彩子の傍らに現れる。
歩行者は一際増えていた。十字路は、中央駅の乗降客がここから三方に分かれる分岐点になっている。
中央の噴水はゴシック風の豪華さを模していた。周囲を、待ち合わせの若者たちがぼんやりと囲んでいる。
他人には無関心な顔。気の急いた顔。
今、声を上げたら、一体何人の人間が振り返るだろう。
「一人で居たいの……! 私から離れてよ」
突然足を止めた彩子は、騎道に向き直った。
「いいえ。離れません。日が暮れて、闇が騒ぎ出す時間だ。
何が起きるかわからない」
騎道は指先で、眼鏡を押さえた。
「……何を言ってるの? 独り言なんて聞きたくないわ」
呆れ顔で頭を振る彩子。と、道を急ぐ中年男性に肩を突かれて思わずよろめいた。
「触らないで! 大声を出すわよ……!」
差し伸べた手を、騎道は無言で引いた。
見返す彩子の目には、尋常ではない光が浮かんでいる。
傷付いた野獣のように高潔な意志だった。絶対の拒絶が、騎道に挑みかかってくる。
頬を堅くして、騎道は機械的に要点を告げた。
「どうぞ。どんなに叫んでも、君を本当に守れる人間は僕しか居ない。君は僕から離れられない……」
彩子は、最後まで聞こうとはしなかった。
遮ったのは、しなやかに繰り出した平手打ち。
騎道の左頬が鳴った。
「大した自信ね。ゾッとする。傲慢な男って大嫌いなの」
「ならば、凄雀遼然ならいいんですか? 彼なら受け入れられる? あの人の庇護なら受けられる?
答えて下さい!?」
語気を強めた騎道に、彩子は口を噤んだ。
視線の鋭さに目を逸らす彩子。初めて目の当たりにした、男性的な焦りだった。
ポケットから、騎道は携帯電話を取り出した。
「彼を選ぶなら、すぐに電話をかけて。
……迎えが来るまで、ここに居ます」
微かに、柔らかさを取り戻そうとしていた。
騎道は電話を差し出した。
「あの人なら、現状を変えることはできなくても、君を守ることは可能です。僕がその間、彼女を引き受ければ、彼の負担も軽くなるはずだ」
口を噤んだままの彩子に代わって、騎道は短縮ボタンを押した。受話器に耳を当てる騎道の表情が不審に変わる。
コール音は続いていた。応答の気配はない。
「まさか……。変だとは思ったけど、彼はここに居ないのか……?」
騎道の独り言に、彩子は反応した。
「午後一番に、急いで出ていったそうよ。彼はどこに行ったの?」
「……。可能性としては、向こうで何か起きたとしか」
「向こうって?」
口を滑らせていた事実に気付き、騎道は正直に断った。
「これ以上は秘密では。はっきりしているのは、彼はすぐに駆け付けられるほど近くにはいないということ。
帰りましょう。送りますから」
凄雀が居ないとわかった以上、選択の余地は無かった。
騎道しかいない。
彩子は、凄雀に切り捨てられたのではない事実に、ほっとしていた。足元が崩れたような心許無さから、救われた気分だった。
……けれど、だめ……。
無意識に騎道の手から、携帯電話を取り上げていた。
「……彩子さん、何を?」
カバンからアドレス帳を取り出し、たどたどしく電話番号を選ぶ。彩子は肩を寄せて、騎道に背を向けた。
彩子は応対に出た相手に、早口で言った。
「飛鷹彩子といいます。三橋翔之進さん、いますか?
急用なんです。迎えに来て欲しいんです。
今すぐに来て欲しいんです……!」
彩子の右手首を、騎道が掴んだ。
「どういうつもりで? 本気で言ってるんですか?
あいつを利用するような真似は……」
「三橋とは、もう友達以上にはならないの。
私がはっきり言ったの。何もして上げられないって」
騎道の方が、形の良い眉を歪めた。彩子の手から電話を取り上げる。受話器から、老婦人の問い直す声が聞こえてくる。騎道はすぐに通話を切った。
「……いいわよ。他の電話を使うから。
三橋は優しいから、すぐに飛んできてくれるわ。君は帰ってよ! 顔も見たくないのよ……!」
周囲の注意を引かないように、努めて声を押さえていたが、間近の何人かが二人を振り返った。
騎道は一度目を伏せて、電話をポケットに滑り込ませた。
引き締めた唇だけが、動揺を伺わせる。
「どこかへ行って……。私から離れてよ!」
彩子は畳み掛けた。込み上げてくるものに、唇が支配されていた。NO。目の前の少年を突き放し、どこかに逃げ込むことも、今は選びたくない。
揺らぐ騎道の自負を砕いてしまいたいと、彩子の中の何かが囁いていた。それは悪魔的な存在。止められない。
「君は卑怯よ。三橋と顔を合わせないように逃げてるわ。
三橋に話したの? 私が秋津会長に何をされようとしたか。何が起きてるか!?
私に言えて、三橋に言えないなんておかしいじゃない!」
「……彩子さん……」
常に穏やかだった騎道の、はっきりとした狼狽が、彩子の胸を一瞬刺す。悪意が中和されても、心の底から這い上がってくる震えは、ますます強く心臓を締め付ける。
「近寄らないで……。ほんとに、大声を出すわよ……。
……来ないで……!」
騎道は、彩子の追い詰められた表情に息を飲んだ。
怯えきった視線で。本気で、叫び出す寸前なのだ。
叫び声を上げて、それで彼女が安らぐとは思えなかった。
その瞬間に、彩子の中でまだ残る、最後の理性が弾け飛び、取り返しのつかない事態が起きる。
恐ろしい直感が、騎道の脳裏を貫いた。
「……や……!」
足元に学生カバンを捨てた騎道。突風のように彩子を抱きかかえ、完全に自由を奪った。
腕の中で、拳を固めて暴れる柔らかい生き物。ふわりとしたウェーブの髪に手をやり、肩に頭を押し当てる。
彩子の抵抗は衰えない。騎道は顔を伏せ、耳元に囁いた。
「……そんなに。そんなふうに、怒らないで下さい。
あの人を、見ているようだ……」
絞り出された騎道の言葉。困惑の中にいた騎道は、手の内の暖かい獣が息を潜めたことに気付かなかった。
「よく、わかったから。僕はすぐに姿を消します。
でも離れるわけにはいかない。遠くで、君を見てるから」
炎のように、感情を吐き出して狂っていった一人の女性。
彩子と同じ顔をもつ彼女を、騎道は今の彩子に重ねて見てしまっていた。鮮やかな生気がどす黒い妄執に染まって、狂気に陥る錯覚が、騎道を突き動かしていた。
「彩子さんの望む通りにするよ。
だから落ち着いて。……君の心が、壊れてしまう」
まるで体の大きな子供だった。騎道は、彩子にすがって頼むしかなかった。彼女のようには、なるなと。
うなだれた彩子を、腕を緩め騎道は支えた。
ストールで彩子の肩を覆い、黙り込む。
二人はしばらく、お互いの背後の風景を肩越しに眺め合った。行き過ぎる人々は、誰もが他人。知らない顔。
名前を知り合っていても、心が遠く離れた二人もいた。
彩子が、騎道のコートに額を押し当てた。強く、自分を痛め付けるかのように。
「……。……私……、怖いの……」
くぐもった声を、騎道は落ち着いて聞き返した。騎道は、すでに自分の混乱を制御し終えていた。
「何が、ですか?」
強張った拳の、指を一本ずつ開いて、彩子はその手で騎道のコートを握り締めた。
「私……。騎道が、怖いの…………」
震える声が、騎道の視界からすべての色彩を奪った。