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3-5

 水煙の向こうで、炎が渦巻いている。家中が燃えていた。

 壁が、赤い舌に包まれて、パチパチと炎が弾けていた。

 恐怖に絶叫する彩子を、騎道は抱き寄せソファの中央に押し当てた。ふいにガックリと腕の力を失う。テーブルを蹴るようにして、ソファを滑り落ちる。

 グラスが割れる。一つ、二つ。

 結界が、外からの力に押し潰されてゆく。

「……騎道、しっかりして?」

 かろうじて騎道の体は、彩子の膝にもたれ止まった。金色の頭部を彩子は必死に抱き締めた。

「騎道、何か言って……。どうすればいい? ねえ?」

「……違う。これは幻だ。怖がらないで……。

 僕から離れるな。でないと、君を……」

 四つ、五つ目。砕けるグラスの音に、彩子は心の底から恐怖を感じた。一つ砕ける度に、騎道の体がびくんと跳ね上がる。苦しげに咳き込む。手を触れると、騎道の体が冷たくなっていくような気がする。ソファの縁でうろうろするティオも、騎道の様子を気遣っていた。

「騎道、眠らないで! 目を開けてよ!! 騎……」

 微かにうなずくだけが、騎道の精一杯だった。

 彩子は目を閉じた。耐えられない。堪えられなかった。

「……私が怖かったのは、君が亡くなることじゃないの。

 ……それよりも、もっと怖いこと」

 そっと、騎道の頬を両手で包んだ。

「騎道を好きになる自分が、怖かったの……。

 そうなったら、君を、志垣さんみたいな目に合わせてしまいそうで、自分が怖かったの……」

「……彩子さん? 泣いて……?」

 頬を伝う涙が、騎道の頬に落ちてゆく。

 唇を噛み締めて、彩子は誰に向ける気もなくうなずく。はらはらと騎道に滴が降り掛かる。溢れ出してくる。

「……君はいつも、僕の前では泣かなかったよね……?」

 掠れた声は、嬉しそうな響きを含んでいた。こんな時に。

 彩子の手を借りて、騎道は体を引き起こす。しがみつくようにして、彩子は、震える騎道の上体を支えた。

 騎道が右腕を外へ突き出す。掌に燃え立つ燐光。壊れたグラスの替わりに、無傷な一つが床を滑って移動する。

 突き上げる水は尽きない。なぜか、勢いを増していた。

「だって、泣いたらわかってしまうじゃない?

 あたしが、騎道を好きなことを、君にわかってしまうから……。

 あたしは君を、死なせたくないんだから……!」

 ぼんやりとした燐光が残る右手を、彩子の髪に押し当てる。手探りで頬を探す。涙を確かめて、騎道は微笑んだ。

 やっと、本当の心を手に入れた……。

 ……愛してる……。君を誰よりも。

「他のことは忘れて、僕のことだけを考えて欲しい。

 彼女は君の心の隙を突いて、君を取り込む。だから。

 いい? 彩子さんの体は君だけのものだ。二人で共有することは不可能だ。譲り渡すことは許さない」

「……うん」

「……約束……を……?」

 もう騎道の口調は、うわ言に変わっていた。

 彩子は腕を回し、騎道の耳に唇を近付けた。

「騎道が好き。離れないよ。……だから安心して?」

 新しい涙が溢れてくる。熱いものが込み上げてくる。

 彼を守れるのは自分だけ。

 愛されているから、守りたいの……。

 今の自分が、騎道にとってのたった一人の女神であることを、彩子は感じていた。それは拘束でも束縛でもなくて、ただ暖かい安心感。

 彼は彼女の体を守り、彼女は彼の心を守る。

 それぞれが互いの守護者。

 ゆるぎなく支えなければ、もろともに崩れる。

 窓の外を異形の影が舞う。嘲るのは呪いの歌。死者の側へと誘う呪詛であり、水の布陣を乱そうとする叫びだった。

『黙れ! お前たちは死したる者だ。

 生ある者に触れるな。その人生に迷いを与えるな。

 この人に触れることは許さない!』

 スパークする深蒼の光条。清々しい蒼が、家中を舐める紅い炎を消し飛ばす。襲い掛かろうとうろついていた悪霊たちも巻き込み、あたりは再び静けさを取り戻した。

 だが、騎道の緊張は解けない。完全に力尽きてゆく。

「……騎道……?」

 ティオも彩子の肩越しに、鳴き声を上げる。

「どうしよう、ティオ? ……ううん。騎道を信じるしかないわ。大丈夫だって、信じなきゃ……」

 胸に耳を押し当て、暖かさを確かめる。何かを呟く騎道の口元を、彩子は注視した。聞き漏らすまいと……。

「……姉さん……?」

 眉間に険しい皺を寄せ、あとは言葉にならなかった。

「嘘……」

 彩子の胸が冷えてゆく。自分の耳を疑った。

「どうして……? あの人の名前……?」

 騎道の、血縁の無い姉であり、彼にとっては最上の『女神』。……なら、さっきの言葉は何……?

『それでよく、わかったであろう?』

 ……誰? うろたえて、声の主を探す彩子は、テーブルの写真立てに視線が釘付けになった。

 微笑んでいる少女。同じ17歳くらいに見える。無意識の瀬戸際の中で騎道が名前を呼ぶほど、心を占めている人。

『わらわの元へお出で。その男の愛など偽りぞ。

 この者たちは、いずれこの地を離れる。

 どんなに愛そうとも、どれほど心を砕いても、手を切り、裏切り、逃げるようにお前の前から姿を消す』

 女が執拗に囁く。甘く哀しく、熱を込めて。

『お前は真実、愛しい者を手に入れるのじゃ。

 わらわも……。わらわとなればそれが出来る。共に、永久の命を得ることが出来るのじゃ』

 ……息が、止まってしまいそう……。

 大きく、震えながら呼吸して、彩子は手を伸ばした。

『いずれ捨てられる! わらわと同じように! お出で!』

 窓ガラスに張り付く、惨めな女。彼女には、青い結界に突き入る力はもう無かった。

 魅入られたように、彩子は写真の少女を見つめていた。

 唇を噛み締める。悲しみと怒りがないまぜになって、今自分が何を望んでいるのかも、彩子の頭には無かった。

 届かない。……騎道に回した腕を引き抜く。精一杯、伸ばす。

「……嫌よっ!」

 乾いた音を立てて、写真の中央、放射状にヒビが入る。

 指先が一瞬触れる。身を乗り出し、バランスを崩す彩子。

 写真立ての落下と彩子の転落は、まったく同時だった。

「!」

 テーブルに手をついて、彩子は上体を起こした。ひどく重い頭を上げて、向こう側に投げ出された写真立てを確かめる。

 くすりと、微笑んだ。

 無邪気な手の仕草で、込み上げてくる笑いをそっと押えた。その細い肩を、長く波打つ金髪が覆っていた。

『譲らないわ……、この人は、私だけのものなの……』

 気高く顎を上げて、彼女は噛み締めるように呟いた。

『彼女』には、自分が誰なのかは無関係だった。

『彼』さえ居れば。『彼』が何者であるかも構わないほど、正気には無かった。

 重い髪を引き摺って、女は騎道に向き直った。

『誰にも……、渡さない……』

「……手を引け。白楼后」

 ダイニングを抜けて姿を現すのは、凄雀だった。

「何の力も持たない娘の中で、貴様がどこまで耐えられるか、見物だな……」

 コートのポケットから抜き出した左手は、銀色に輝いていた。静かに、女の背中に向ける。

 だが凄雀の気迫を、押し止める男がもう一人現れた。

「よせよ。体調絶不調の人間が、無茶するんじゃないの。

 ……ここは任せろ」

 険悪な視線を投げ、久瀬光輝に譲り、凄雀は身を引いた。

「おい。本気でやるぜ? 今のうちにその女の中から出てくれば、逃げ戻る力くらいは残るんじゃないのか?」

 上を向けた掌から、淡く金に発光する球体を生み出した。

 彩子の肩が震え出す。と、金色の髪だけがふわりと立ち上がる。振り返るのは、鬼女の形相をした老婆の顔。

『……おのれ……! この恨み、覚えておおき!!』

 血の色の打ち掛けを翻し、白楼后は逃げ去っていった。

 凄雀と光輝の視線は、凍り付いたような彩子の後姿に当てられた。

 ゆっくりと、彼女の体は、騎道の方へと倒れ込んでゆく。

 二人の男は内心で深く安堵した。ひとまず、白楼后を追い払うことには成功した。だが一度、わずかな時間とはいえ、彩子は同化を許してしまった。肉体の表面だけではなく、心の中までも入り込まれた事実は、ある意味では、これからの闘いに重要な汚点を残す可能性もある。

「こんなものを、後生大事にしているからだ……」

 壊れた写真立てを凄雀は拾い上げた。騎道が、彩子とともに眠っていなければ、殴り倒しても飽き足らなかった。

「何言ってるのかね。そっちだって似たようなものだろ?

『姉さん、この人を守る力を僕に与えて下さい』

 こんなかわいいお願いじゃないの? 許してやりなよ?」

 まあさ、聞かれたタイミングが最悪だったけどな。と、光輝はぼやいた。

「……こいつがいつになく弱音を吐いたから、俺たちが聞きつけて、こうやって駆け付けられたことだしさ……」

 でなければ。あの執念深い女に彩子を奪われていたかもしれない……。光輝自身、そうまで傷め付けられた騎道に、内心、唖然としてしまう。

 それほど、敵は強い力をつけている。三百年前とは違う。

 ……お前、本気で惚れてるんだな……。

 光輝は、騎道の顔色を覗き込んだ。死んだように見える仮死状態は、体力を消耗しないための最も効率的な手段だった。このまま、眠らせておけばいい。

「女神様が心配してい

た通りだな。最後の挨拶に行ったら、頼み事されちまったぜ。

 二人揃って、究極の無茶するから気にかけてくれって。

 ……あの人の頼みじゃ、無視できないしな。これで、約束は守ったからな」

 余計なお世話だと言わんばかりに、凄雀は背を向けた。

 引き上げようとした凄雀の足が止まる。気配を察した光輝は、顔を見られぬよう戸口に背を向けた。

 姿を現したのは、飛鷹修造だった。常人の修造でも感じられる狂気の残り香に、顔を引きつらせ部屋を見渡した。

「これは……?」

 凄雀と、ソファに折り重なる二人を修造は見比べた。

「申し訳ありません。後見人として監督不行き届きで」

 目を凝らし、修造はその場から彩子の横顔を確かめた。

「……いえ。いい若者ですよ。私では、ずっと側に居てやるわけにいきませんから」

 含みのある言い訳を、修造は選んだ。

「この場は、私に一任させていただけませんか?

 ご心配でしょうが」

 申し入れる凄雀を、修造は真っ直ぐ見返した。

「お任せします。私は、これで」

 修造をその場で見送り、凄雀は、そっと振り返る光輝を指先で呼び寄せた。

「……まだ、こき使おうってわけ?」

 不満を漏らす光輝に、無言でソファの二人を指し示す。

 死んだように眠り続ける恋人たち。

 それが束の間だと知る二人の男は、息を詰めて彼等を見守り、静かに部屋を後にした。



「目が覚めたー?」

 快活な笑顔の次は、ニャオンと胸にのしかかるティオ。

「! うっ、ぐっ。……苦し、痛い、ティオぉ……!」

「こらこら。降りてティオ。騎道は体中怪我をしていて、身動きできないのよ? そっとして上げましょうね?」

 言い聞かせながら、白い手が、子猫の輝くような白い体を抱き上げてくれる。まぶしくて、騎道は目を細めた。

 庭から差し込む朝日。陽射しよりも、目に痛い人影。

 ウェーブのかかった柔らかい髪、意志の強さをうかがわせるくっきりとした眉、大きめの瞳。

 小首を傾げ、黒縁眼鏡を鼻先にかけて騎道に見せる。

「……似合う。彩子さん。すっごく、似合ってる」

「おバカっ……」

 ぎゅっと肩をつねられて、騎道は仰け反った。

「……あいたたたっ……!」

 体中一斉にギシギシと音を立ててくれる。けれど、幸せな悲鳴だ。肩で息を喘がせても、この幸福感は拭えない。

 彩子が、そっと傍らにしゃがみこんだ。騎道はソファの上で、毛布と布団でぐるぐる巻きにされていた。

 少し怒ったように、彩子は頬を膨らませている。

「何が要るものはある? 尾上先生に、来てもらおうか?」

「いや。いいよ。これ以上、迷惑をかけたくない。

 何も要らないから」

 予測していたらしく、彩子はさらに怖い顔をした。

「ほんっとに、なんにも?」

 騎道は、昨夜の涙の跡の無い、桜色の彩子の頬を眺めた。

「……君が無事なら、それでいい」

 照れるように、彩子は目を伏せた。仕方なく切り出した。

「あたし、行くわ。外に迎えが待っているみたいなの……」

「……そう。代行かな?」

「たぶん……」

 すぐに、元気良く彩子は顔を上げた。

「おとなしくしていてね。授業が終わったら、真っ直ぐに戻ってくるから」

「平気だよ。一日休めば、元通りになる。そういう力も、僕はあるから」

「……信じてるわ。じゃ」

 後退りながら、見詰め合う視線を、彩子は引き離した。

「ティオ? 騎道にキスしてあげて?」

「!? !? !? サイコサンっ??」

 真っ赤になった騎道。

 悪戯っぽい顔で、彩子は言ってのけた。

「だって、してほしそうな顔してる」

「……!? ティオ? よせよぉ……」

 精一杯身を引く騎道に、ティオはプイっと顔を背けた。

『僕だってイヤだ……』

 一人爆笑しながら、彩子は出ていった。





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