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3-4 

 一陣の風が、彩子が告げる名に呼応した。鋭い矢となって、部屋に飛び込んでくる。

 彩子は目を閉じた。

 真っ直ぐ、喉元に狙い定めている。

 ティオの唸り声。女の哄笑。一つのグラスが砕ける音。

 それらが、一瞬に巻き起こる。

 体を堅くした彩子を、強靭な腕が突き飛ばす。

 押し殺した呻き声が頬にかかった。

「…………! 騎道……?」

 目を開けると、視界を輝く金のさざ波が覆っていた。

 揺れる金髪。怒りに満ちた青い瞳が、彩子に食い入る。

「……君の方こそ、無茶をするな。

 あの名前を口にするな。考えることもいけない。

 呼び寄せるだけだ。奴等を喜ばせるだけでしかない!」

 目を細めて、騎道は痛みを堪えた。飛び込んできた御鷹姫の触手から彩子を庇うには、自分の体を盾にするしかなかった。背中を抉られたような痛みは、彩子をここまで追い詰めた、自分への怒りでもある。

「よく考えろ!? 体を渡して、それで終わるのか?

 そんなのは、君の身勝手でしかない。

 これまで傷付けあってきた日々が、全部無駄になる。

 君のひいおばあさんや、他の女性たちの短い一生や、彼女に翻弄されて死んでいった人達。傷付いた人達。

 気付かないのか? 彼等は、待っていたんだ。

 この時が来る日を。彼女と向かい合える日を。

 僕がここに来る日を。ずっと……!」

『義務だ……』

 ……騎道は一人で、過去を背負おうとしているのよ……。

 そんなのは違う。違うんだから……。ねぇ……?

 彩子はゆっくりと視線を巡らし、騎道を見返した。

「これは、君の為だけの闘いじゃないんだ。

 ……勝手な真似は許さない。

 二度と、自分を手放そうなんて考えるんじゃない」

「……でも、嫌なの……。騎道の言うことなんて聞かない……」

 生気の無い顔立ちで彩子は平坦に呟いた。

 顔色を変えた騎道に、彩子は怯えるように身を引いた。逃げ場を探し視線を走らせ、ソファに囲う騎道の腕を払い、腕木に身を寄せた。触れられた傷の痛みに呻く騎道を、振り返る余裕も失っていた。

「どうして君は、わかってくれないんだ……!」

「! わからないわよ! 騎道の考えなんて!

 あなた、おかしいわ? 怖くないの? 死ぬのが怖くない? それも他人の為に。今だって、あたしみたいな人間の為に、また怪我をしたんでしょう?

 どうして責めないの? あたしのせいでこうなったって、どうしてそういう風に怒らないの? 見捨ててくれていいのよ! 騎道は関係ないんだから!」

 困惑と苛立ちで、騎道は言葉にならず頭を振った。

 近寄ろうとすると、彩子は恐ろしい他人でも見るように、怯える。逃げ出してしまいそうだった。

「義務なのよね……。騎道は、あの人に責任を感じているの。私には同情してるだけ。

 それでいいわよ。それで十分だから……」

 気持ちのやり場を見失って、彩子は自分の髪をかくようにして押さえ込んだ。

「だからもう、どこかへ行って! でなければ、あたしをどこかに閉じ込めて! ……君が怖いのよ……! 

 ……お願いだから、あたしの……」

 言いかけた言葉を、彩子は飲み込んだ。

 自分の中の何かがブレーキをかけた。昂りを凍らせ、飲み込んだ言葉を彩子から取り上げた。

「僕が怖いって……? 前にもそんなことを言ったね。

 でもそれは嘘だ」

 気付くと、青い瞳が刺すように真実を射抜いていた。

「君が恐れているのは、僕じゃないだろう? 

 ……僕が死ぬのが怖いんだ……。今、言いかけた。

 お願いだから、あたしの目の前で死なないで……」

 呆けたように、彩子は騎道から目が離せなくなった。

 ……そうなの? だから私、怖いの……?

「僕は大丈夫なんだ。信じてほしい。

 絶対に、死んだりしないから」

 騎道が手を差し出した。お出でと、招く。

 優しい騎道……。彩子は眉間を寄せて、騎道を睨んだ。

「……そんなの嘘! 義務で、君が傷付くなんて馬鹿馬鹿しいって言ってるのよ。だから男は単純って思われるの。

 もっと利口になったら? あなたが死んだら、騎道の女神様が悲しむじゃない!?」

「あの人はあの人だ。君とは違う。比べられない!」

 彩子は滅茶苦茶に毛布を投げ付けた。

「馬鹿っ!!」

 毛布を丸め、騎道はソファの右端に体を投げ出すように座り込んだ。顔をしかめる。空回りしてきた努力を、手放す気になっていた。すり替えても、彼女には逆効果なのだ。

 弾き合うプラスとマイナスの磁力みたいに、想いが募るほど遠ざかる。

「大馬鹿で、単純で、無節操。その通りだと思うね……。

 ……どんなに押さえようとしても、無理なんだから。

 子供や獣みたいに、手に入れるためには何だってする。

 親友を裏切ったり、自分の立場を忘れたり。

 歴史だって、変えてしまうかもしれない感情なのに。

 ……苦しめるだけでしかないって、わかっていても」

 騎道は、膝を抱え身を縮める彩子を見た。

「けれどどうしても、手に入れたい。……嫌われたくない。

 君を……」

「あたしは志垣さんが好きなの! これからも、ずっと」

 彩子は大声を上げて遮った。

「……この世には、居ない人間なのに?」

 皮肉な笑いを込めて、騎道が言い返す。

「そうよ! あたしはひどい女なの。ずるくて最低な女で。自分のことしか考えてなかった……!」

 叫び声は、他人のもののようだった。体中がバラバラになりそうなくらい、疲労してゆく。疲れて、ソファの背に持たれた。それでも、胸の奥で渦巻く熱い塊を吐き出してしまいたかった。でないと騎道にはわからない……!

「だから、志垣さんを死なせてしまったの!

 大好きだったのに……」



 スコッチを一本手土産に、凄雀は尾上の診察室を訪ねた。

 呼び出したのは尾上の方だった。

 待ち人は険しい顔立ちで、凄雀を迎え入れた。夜の巨大病院に漂う不気味な気配以上に、暗く陰っていた。

「勿体つけてどうした? 聞かせてもらおうか。

 飛鷹彩子の秘密を」

 確信犯だ。そう謎掛ければ、凄雀なら嫌でも現れると信じていた。読みが的中しても、精神科医は嬉しくはない。

 逆に、自らの汚点を脱ぎ捨てるかのように、白衣を丸めて執務椅子に放り投げた。

 いささかセンチメンタルな仕草の尾上に、眉を寄せて凄雀はスコッチの封を切った。

「……僕の患者は意思の強い子でね。決して認めようとはしなかった。けれど真実なんだ。

 彼女の中には、死んだはずの人間が生きている」

 手に負えなかった。診察の途中で、偶然その話題に触れた瞬間、患者はひどく怯えた。カウンセリングの常で、問い質そうとすると、一転して完全に否定しはじめた。

『そんなことありません……。婚約者が居た人なんですよ?』

 良識を盾に首を振る。体を異様に震わせながら。

 核心に触れた確信はあったが、尾上は、その部分から手を引いた。時間が必要だと、諦めるしかなかった。

「……彼女が自分で作り上げた、理想の恋人が居るんだ。

 年も取らない、彼女に笑いかけもしない男を、一生忘れまいとしていた。……不幸だね」

 思春期の一番揺れやすい感情を、頭ごなしに否定するわけにもいかない。彼女にとって、それは生きる支えでもあると診た。奪うことは、危険すぎた。

「知っていた」

 穏やかに呟く凄雀を、尾上はまじまじと見た。

 我に返った尾上に向け、スコッチの瓶を掲げる。

 差し出された酒瓶を尾上は受け取り、凄雀と隣り合う椅子に掛けた。二人は互いに、違う方向を向き合った。

「身代わりになってみようかとも考えたが、どうにも、私の柄ではないのでね。すぐに降りた」

 肩をすくめた凄雀。顔色を変えて、尾上が怒鳴りつける。

「当たり前だ! ……年を考えろ、自分の年を……!」

 腹立ちまぎれに、スコッチをあおった。

「無粋だな。恋愛に、年齢など無関係だ」

 ……思いっ切り、むせる。

 目を剥き出す尾上から、凄雀は瓶を取り上げた。

「お前の口から、そーゆー台詞が出てくるとはな……」

「これが普通だ。貴様こそ、好きな女が居ないのか?

 32にもなって、そっちの方が異常だぞ」

「……。32歳、現役バリバリの医者が、どれほど忙しいか貴様にわかるか!? その上、次から次へと難題を持ち込んでくれて……!」

「友達甲斐のある親友で嬉しいだろう?」

 笑って、凄雀は一枚の名刺を尾上の顔面に突き付けた。

「お前一人に背負わせたりはしない。この次は。

 一度、早いうちに、ここと連絡を取っておけ。飛鷹の診察記録も送っておけば話は早いはずだ」

「FIS・ラボ 主任? R・オルソン……。本気か?」

「万が一だ。無駄にしても構わん。最善を計りたい」

 凄雀の手配の素早さに疑問が湧いた。

「……お前、どうしてここまで? 一生徒に対する……」

 気の遣いようじゃない……。

「飛鷹は、最後の砦になる。……渡すわけにはいかない。

 私は、私の部下のミスを償っているつもりだ。凄雀遼一としてではない。お前にはすまないと思ってはいるが……」

 スコッチの瓶に封をし直して、尾上に放った。

「だが、私に手を貸せよ。いいな?」

 慌てて受け止める尾上に、凄雀は指を突き付け言い放つ。

 唖然とする尾上。操られたようにコックリすると、会見に満足した凄雀は、意気揚々と引き上げていった。

「自分の部下だの、遼一じゃないとか言ってくれて……! だからって全然変わってないじゃないか?」

 あの野郎……! また殴り損ねた……!

 脱力して、いつか悔しさは引き付けたような笑い声に変わった。笑い転げて、奴の親友を続ける覚悟を尾上は決めた。



 去年の春。一人の若い刑事が殉職した事件は、たった一人の、若い凶悪な連続殺人犯が最後に犯した殺人だった。

 この街に潜伏しているという情報を得た捜査一課。飛鷹修造も、その部下である志垣も懸命な操作活動を続けていたある日。彩子は志垣に耳打ちした。

『犯人らしき不審者を、見掛けた人が居るの』

 耶崎中の四神と呼ばれ、探偵ごっこには自信をもっていた彩子だった。稜明学園への入試合格を決めて、まず興味が向いたのが、修造が追いかけていた殺人犯。巧妙に人を殺すことに喜びを見出す、危険な青年だった。

 全力をあげで探し回った結果、有力な情報を手に入れた。

 あの日、出払っていた修造に置き手紙を残し、二人で確認に出向いた。そう。確かめるだけのつもりだったのに。

 犯人にとっては、残酷な楽しみに飛び込む獲物に映った。

 わざと姿を現し、二人を広大な廃工場におびき出した。

 その罠に気付いた時には遅かった。炎が三人を取り巻いていた。互いに拳銃を手にした二人の男、そして彩子。

「三ヵ月後に結婚するってわかってたけど、好きだった。

 あの日。あたし言ったの。……そうして、キスしてもらったのよ? ……ほんの一瞬だけ。なのに……!」

「もういい。彩子さん……」

「聞いて! 騎道にしか言えない。騎道にだけ、知っていてほしいの。私は、今でも志垣さんのことが好きなの。

 最後の瞬間、あの人は私のことだけを想って亡くなったの。命をかけてくれた人だもの、忘れられるわけない」

「……どうして、そんなことが言える?」

「聞こえたの。耳元で」

『真っ直ぐ、振り返らずに走るんだ。……ちゃんと、僕も後を追い掛けるから。あの光に向かって走るんだ』

「はっきりと聞こえたのよ? 吐く息だって感じた。撃たれた右足を庇う足音だって、私の後をついてきてた……。

 真っ黒な煙と炎の中を潜って、工場の外に出たわ。なのにね。助かったよって振り返ったら……誰も居なかった。

 後ろに居るって聞こえてたのに、あたし一人だった。

 一人だったのに、側に居るよってまだ聞こえていたわ。

 なのに工場が崩れ始めて……、銃声も一発聞こえて……。

 ……中にはまだ居たのに……! 崩れて……!!」

「もういいから」

 彩子の瞳の奥には、幻の炎が燃え始めていた。

『……嫌よ! 志垣さん、戻って! 一緒にって言ったじゃない!?

 すぐ側に行くから。あたしの後について来て!!』

 引き返そうとした彩子を抱き留めたのは修造だった。

 彩子の中で、炎を見る度繰り返される過去。飛び込んで行きたがる衝動は、あの瞬間から、心の中に刷り込まれた。

 あの日に時間を戻したい強い欲求。あの時の中で、燃え尽きてしまいたい想いが、彩子を動かし、狂わせる。

「聞こえたのよ……。最後まで、あたしのこと……」

「……だから、今でも好き……?」

 聞き返す騎道の言葉に、彩子はパチリと瞬きをした。

 耳に心地良く響く、優しい声。彩子は頭を振った。

「……信じられなかった。病院に運ばれても、志垣さんはきっと別の所から脱出したんだって思ってた。

 だって、ほんとにはっきりとした声だったんだもの。

 あの時はまだ、志垣さん、生きてたのよ?

 最後の銃声は志垣さんの拳銃だったの。犯人は撃たれて死んでいたわ」

 最後まで刑事魂を貫いた男の意志が、彩子の誇りだった。

 薄く微笑みかけた頬が、うらめしさに引きつってゆく。

「誰も教えてくれなかったわ、最初。無理やり聞き出したの。……そうじゃないってわかって、私、どうしたらいいのかわからなくなった。……生きていることが嫌になって、何もかも忘れたくなったのよ」

「そうして、君はすべての思考を停止して、生きた人形になってしまった。

 でも君は、目を覚ましただろう?」

「……そうね。ずっと眠っていたかったけど、帰ってきちゃった。だって、忘れろなんて言うから。いつか忘れられるなんて。みんなが言うんだもの……!」

 堅く拳を握り締めた。

「……あたしは忘れたくないの、あの日のままで居たかったのに! ……みんなが忘れても、あたしは大丈夫」

 落ち着きを取り戻して、彩子は言った。

「私、一生、彼のことが好きよ」

「それじゃ、御鷹姫と同じじゃないか? 君はそうやって少しずつ自分を狂わせていくのか?」

 覗き込む騎道をぼんやりと見返した。

「……もう狂ってるわ。

 あの人が居なかったら、あたしはあの日に死んでいるの!

 ここに居るのは、抜け殻みたいなものよ……!」

 身を乗り出して、騎道が彩子の腕を掴む。雷鳴の一撃のように、騎道は声を荒げた。

「そんなだから御鷹姫に付け入られるんだ!

 忘れてしまえ! 全部忘れて、僕だけを見ろ!」

「…………」

 瞳を一杯に見張って、彩子は騎道を凝視した。

「……好きだよ。もうずっと、君のことばかり考えてた。どうしたら君を君のままで守れるのか、考えてた。

 ……対等な友達のままで、乗り切るつもりだった。押さえてきたけど。……もういい!

 一瞬だって、君を放したくない。君がそんなにも悲しい想いでいるなら、どんな手を使ってでも忘れさせたい」

「聞きたくないよ、騎道……」

 震える声が囁く。

「信じて欲しいんだ。同情でも義務でもない。

 僕には、彩子さんが必要だ」

 目を閉じ、視線を逸らしたくても、騎道が放つ全てが彩子を放さない。腕を握り締める手が熱い。

「……君を守りたい。そうすることで、僕は僕で居られる」

 祈るように、騎道は微かに首をうなだれた。

「わからない? 男は単純な生き物だから、守りたい人が居てくれないと、ダメになってしまうんだ」

 フーッ、とティオが全身の毛を逆立てる。騎道が頬を引き締める。窓を振り向く。

 一斉に、水柱が立ち昇った。部屋中のコップが、火を噴くように天井まで水を噴き上げる。

「イヤァ……!!」





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