3-3
まだ、中へは入ったことがない。
騎道の新しい家は真っ暗だった。彩子は吸い寄せられるように鉄門を押し開けた。夜の静けさが不吉に思えて、彩子は気を紛らせるために深呼吸をしてみた。
……騎道に、何か起きたの……?
ふいに胸が騒ぎ、彩子は息苦しくなった。騎道が造ってくれた、安全な家に居ることがいたたまれなくなっていた。
自宅を出ても、あの嫌な感触はなかった。逆に、その静けさが彩子の予感の真実味を増した。
マフラーだけを握り締め、全力で彩子は駆けてきた。
玄関の狭いコンクリート・ポーチに猫が居た。ほっそりとした前足を上品に揃える、利口そうな瞳の子猫。
抱き上げても、逃げ出しはしなかった。思い切って、彩子は玄関を開けた。騎道のスニーカーが無い。
家の中は、外から街灯の光がぼんやりと射していた。ダイニングを眺め、キッチンの右手にある浴室と洗面所を確かめ、居間をのぞく。新品のソファが、弱い光に照らされている。居間の奥は襖で仕切られた畳の部屋。
「ほんとに、一人暮らしに慣れてるのね。男の子の家じゃないみたい」
彩子はさっきまでの不安を忘れて、苦笑してしまった。
きちんと整理整頓されていた。夕食の食器も洗って片付けてあった。女らしい世話を焼きたくても、騎道にはそんな隙もない。完全に一人で生きていける男だ。
彩子はソファに座り込んだ。子猫は膝に乗ったまま。
照明をつける気にはなれなかった。木立越しの屋外からの明りは、この殺風景な部屋を水底のように思わせる。不思議な柔らかさをもっていた。
目が慣れた彩子は、テーブル上の伏せられた写真立てを取り上げた。膝の上で丸くなる子猫に、尋ねてみた。
「ねえ? この人が、騎道の女神様なの?」
知らぬ顔だ。彩子は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「きれいな人……。とっても素敵な人みたいね」
柔らかく微笑む、人懐こい瞳をもった美少女のスナップだった。ストレートの長い黒髪、黒い瞳。純粋な日本人。
今にも話しかけてきそうなほど、溌剌とした一瞬だった。
「……思った通りだった。騎道も、ほんとは真っ直ぐな髪の人が好きなんじゃない。……男の子って、どうしてつまらない嘘をつきたがるのかしらね……」
彩子は写真立てを立てたまま、テーブルを戻した。
目を閉じ、ソファに持たれる。眠ってしまいたかった。
「……嘘つき……。……一度だって、本当のことは言わないんだから」
騎道はいつも何かを隠してる。男ってみんなそう。隠し事をするのがステイタスだと信じてる。『弱い女』に知られないことが、彼等には重要で、最大のプライド……。
共有、できない……。高い壁がある。越えられない……。
でも……、女だって隠しておきたいことはあるの。
「?」
彩子は異様な物音に目を開けた。ダイニングの床を、何か重いものが引き摺られてゆく不気味な気配。
誰か、居るの……。
彩子より先に察知していた子猫が、しなやかに彩子の膝を飛び降りた。小走りで、ダイニングの暗闇に消えた。
ニャオンと、ねだる鳴き声に、彩子は緊張を解いた。
「……ああ。ティオ、ごめん……。遅くなって……。
すぐに、御飯出すから……。つっ」
彩子はそろりと立ち上がった。
苦労して缶を開ける音。浴室のドアが軋み、シャワーの水音が盛大に起きる。同時に、苦痛を堪える呻き声が。
子猫が、もう一度長く鳴いた。
「大丈夫。少しあちこち痛むだけ。いいから、お食べ……」
浴室の壁にこだまする騎道の細い声。シャツを引き裂く音と共に、殺し切れない悲鳴が上がった。
半開きの浴室のドア。子猫は、その前に座り込んでいる。すがるような目で、近付く彩子を見上げた。
彩子は息を飲み込んだ。ドアの隙間からは暖かい蒸気が感じられない。まさか冷たい水を浴びて……?
言葉にならない騎道の呟きが、激しい水音に紛れる。
「……騎道……?」
ぴたりと、人の気配が止んだ。
「私よ。彩子。勝手に上がり込んでごめんなさい。
騎道、怪我をしているの? 何か、要るものがあったら言って。場所を教えてくれれば……!」
彩子の目前で、浴室のドアがピシリと閉じた。
「……騎道!?」
咄嗟に、ノブに取り付いた。動かない。
「どうしてここに!? こんな無茶な真似をして……!
君が彼女の手に落ちたら、全部終わりなんですよ!?
三百年分の犠牲がみんな無駄になる……!」
厳しい口調で、叩き付けるように騎道は言い立てた。
「帰って下さい……!」
戸惑う彩子は、最後の一言で冷静さを取り戻した。
「怪我の手当ての方が先よ。ここを開けて」
「一人で出来ます。いいから、帰るんだ!」
「失礼ね。こんな真夜中に女を一人で追い出す気なの?」
「……。一人でここへ来たのは、一体誰なんですか?」
強気な彩子の口を、騎道は一言で封じ込めた。
「テーブルの上に、携帯電話があります。短縮の02。代行に来てもらって下さい。ここは危険だ。
奴等が襲ってくる可能性がある。急いで!」
「……嫌よ。だったら騎道も来て。一人じゃ嫌よ!」
ドアのノブを掴み、彩子は揺すった。セーターの下、両腕に鳥肌が立っていた。強く頭を振る。
……それじゃ嫌なの!
「いいから! 君は自分のことだけ考えればいいんです」
「あたしなんてどうだっていいの! そっちこそ馬鹿な真似しないで! ここが危ないなら、逃げたらいいじゃない。
閉じ籠ってるなんて間違ってるわ。
速く出て来て服を着替えて! 一人で立てないなら、あたしが肩を貸すから!」
浴室のドアは、ぴくりともしない。拳を打ち当てる。
「騎道!!」
反応はない。彩子は唇を噛み締めた。
「…………。いいわよ。帰るわ。一人で帰る……!」
ティオが、一声鳴いた。
「心配ないわ。来るときだって大丈夫だったんだもの、帰りも大丈夫よ」
「……運が良かっただけです」
疲れ切った声で、騎道が返した。
「たぶん、僕への攻撃の為に、彼女の注意があの家から逸れていたんだ。そこまでして、僕を消したかった……。
でなければ、自宅の結界を出て安全でいられるわけがない。あながち、僕がこうなったのも無駄じゃなかった」
騎道は溜め息をもらした。すぐに、静まり返ったダイニングの気配に狼狽した。
「……? 彩子さん? ティオ? 彼女は? ティオ!?
まさか、一人で……!」
ドアを押し退けるようにして、騎道は浴室を出た。キャビネットから白いバス・タオルを掴み出し首にかける。
ダイニングには誰もいない。苛立ちの為か痛みのせいかわからない呻き声を発し、よろめきながら玄関に向かった。
「騎道……!」
彩子の呼び声。振り返るけれど、人影はないのだ。
「……ごめんね。ちょっと、驚かそうと思って……」
のぞきこむと、ダイニング・テーブルの下に、ティオを抱えうずくまる彩子が居た。
頭を振って、騎道はテーブルに手を突いた。
「……まったく。ティオはすっかり、彩子さんの言いなりだな……」
タオルの縁で髪から滴る水滴をこすり上げながら、さりげなく騎道はタオルを被った。胸の傷も隠す。
「何……? ひどい痣が」
「たいしたことない……」
テーブルの下から這い出してきた彩子に、背中を向けた。
「血が出てるわ。背中だって、打ち身だらけじゃない」
「僕のことはいいから……!」
「すぐに着替えなきゃ」
「僕に近付くんじゃない!」
鋭い一喝に、彩子は目を見張った。取り乱したと、受け取ってもいいほど切迫した拒絶。
「君は、居間に居て下さい……」
これも、強い命令調。いつものゆったりとした物腰は消えている。一人では、体を支えていられないのに。震えの止まらない腕。崩れまいと強張らせた頬。堅く向けられた背中に、彩子は恐れとは正反対のものを感じた。
「ね? 騎道は、あの子なんでしょう? 金髪で青い目をした10歳くらいの男の子。きれいな目をした子だった。
私、気にしてないよ。もう見慣れてるし、騎道には似合ってる。……お願いだから、早く着替えてよね」
言い残し、騎道の言う通り居間へ引き返す彩子。
ソファの左端、庭に向いた窓際の方に彩子は座った。軽い足取りで、ティオが付いてくる。
騎道はゆっくりとした足取りで、奥の部屋に引き籠もり、直ぐに現れた。黒のコットン・パンツの上に、ブルーのカッターシャツを羽織り、ボタンを止めるのもそこそこに、ダイニングへ取って返した。
「怪我の手当てが……」
言いかける彩子に気付き、もう一度奥へ引き返し、毛布を手に現れた。彩子の肩に回し、小声で答える。
「こっちの方が先」
濡れた金髪をかきあげ、露になった青い目で弱く笑みを作った。
しっかりとした足取りで、台所と居間を行き来しはじめる。
ある限りのコップとコーヒー・カップ、ガラスの小鉢。それらを部屋の四隅に、次に三方ある出入り口に置いた。
あとはその隙間を埋めるように、等間隔に並べる。次に、一つずつペットボトルの水で満たす。
手を貸そうと立ち上がりかけた彩子を、騎道は背を向けていながら察知した。
「君はそこに居て。ティオ。彩子さんから離れるな」
彩子よりも子猫の方をパートナーとして扱っている。
悔し紛れに、彩子はティオを抱え上げて尋ねた。
「ねえ。教えて。騎道は何をしているの?」
騎道は、真顔でティオを問い質す彩子を振り返った。
「臨時の結界を作っているんです。あまり大きなものは作れそうにないから」
心に距離を置きながら、騎道は丁寧に答えた。
彩子は、騎道の拒絶を受けないよう慎重に尋ねる。
「そんなに、私がここに居ることは危険なこと? 騎道にとって」
「その逆だね。僕と一緒に居ることで、君を最大の危機にさらすかもしれない。
……彼等は本気で、僕を排除しようとしている」
排除……。彩子は身を乗り出した。
「私は、ここにいない方がいいの? はっきりと言って。
騎道の負担になるくらいなら、どこにでも行くから」
真剣に問い掛ける彩子から、騎道は目を逸らした。
「……居て、欲しい」
なぜか、彩子は胸を衝かれて息苦しくなった。
「気にしなくていい。君は少しも負担にならないから」
居間の四方に配置した一つ一つの器を眺め、騎道はソファに向かい合う壁を背に座った。
「それじゃ、風邪を引くわ……」
「君はそこを動かないで」
繰り返す。騎道は顔をしかめながら片膝を立てた。
「その子を、掴まえていてくれますか? 何が起きても、驚いてそこから飛び出さないように」
彩子は言われるまま、何もないのにティオを抱き締めた。
騎道を伺う。笑っていた。体の痛みをこらえつつ。
「……何が、起きるの……?」
問い掛けを無視して、騎道は窓の中央に据えたタンブラーを見つめた。グラスの中に、細かい気泡が生まれている。
カタカタと、音を立ててグラスが振動する。同時に、家全体が震え出す。
彩子はソファの中央に伏せた、唸るティオを庇う。
首だけを伸ばして、騎道が凝視するグラスを確かめた。
……水が沸騰している。吹き零れそうだった。
家中の振動は静まりつつある。騎道は、動かない。
彩子は耳を塞いだ。超高音の歌声が、耳から頭の奥へ飛び込んでくる。脳が麻痺してゆく感覚。何……?
近くなる。窓……。
ガラス越しに、赤い影が浮かんだ。大きくなる。
入り込むつもり……?
彩子は震えた。あれは、あの女の影。
獲物を見出し、影はますます近くなる。
『……ここに居たのか……。さあ……』
影が生身の手を差し伸べる。ガラス窓を貫いて。
『!』
白い手の真下。タンブラーから、激しい水柱が突き上がる。水蒸気とともに、女の影を弾き出す。
女の絶叫が、風の速さで遠のいていった。
彩子は、緊張していた両肩を下した。
タンブラーは元通り、グラスの縁まで水を湛えている。
「油断していたみたいだ。ひとまず、彼女は逃げ出した。
しばらくは大丈夫。……少し休むから、気にしないで……。そこを動くんじゃない……」
体を縮めたまま、ゴロンと騎道は床に寝転んだ。
「また、来るっていうこと? 騎道!? しっかりして!
だったら、すぐに逃げなきゃ。そんなに疲れているなら無理よ! 痛っ!」
ティオが、立ち上がろうとした彩子の手を引っ掻いた。
彩子はティオの忠実さに目を見張った。
「……動くなって、いうことなの? 黙って、騎道をあのままにしろって?
そんなの出来ないわ。私、何もわからないけど、騎道はすごく疲れてる。体中ひどい怪我をしてるみたいなのに、これ以上無茶をさせたら……」
子猫は取り合わない。高貴に釣り上がった金色の瞳を、彩子から眠る騎道に移すだけ。
彩子は両手の拳をきつく握り締めた。目の前に、過去の幻が浮かんでくる。それが、死んだように横たわる騎道と重なろうとする。
幻影を振り切れず、呆然とした中で彩子は呟いた。
「……嫌よ……。……あんなのは嫌……。
もう二度と嫌なの……! あたしのために騎道があんなふうになるなんて、……そんなのダメ……!
絶対に、させない……!!」
ビクッと耳を立てて、ティオが彩子を振り返る。
彩子は大声を上げた。
「ねえ、起きて騎道! あたしのことなんて忘れて!
……騎道? 聞こえていないの?」
動かない騎道の全身を、彩子は絶望的な想いで見守った。
「私、あの人のところに行くわ。
このままにしておけないもの。今なら、間に合う……」
……さんみたいに、……せずに済む。今なら……。
彩子は胸の内で、自分に言い聞かせた。でなければ、震えてしまう。情けないくらい、逃げ出したくなる。
それほど、あの女は恐ろしい。自分が変わっていくのが怖い。彩子は窓の外に向かって声を上げた。
「聞こえる!? 聞いているんでしょう?
あなたに上げるわ。欲しいんでしょう、この体が」
「……何を言っているんです……? 君は……」
うわ言のように、騎道は口をきいた。
「騎道は逃げてよ。馬鹿な真似しないで……。
あたしを守らないでって、最初に言ったじゃない!?」
はっと、騎道は目を開けた。頭をもたげる。
「落ち着いて、彩子さん。しゃべるんじゃない……!」
「お願いだから、騎道には何もしないで! 馬鹿げた人殺しも全部やめて! この街の人を苦しめるのも!」
全身の毛を逆立て唸る、ティオの威嚇。彩子は、女が近くに居ることを感じた。
不思議なくらい、恐怖が遠のく。確信が満ちてくる。
……それでいいの。終わりにしなきゃ……。
「望みをかなえてあげる。あなたは私が欲しいの。
……さあ来て。御鷹姫!!」
「言うなっ!!」
騎道が吼える。