3-2
彩子を自宅に送り届けると、晩秋の空は完全に暮れていた。晴れ渡った大気が、星を磨き上げる夜だった。
白い息を吐き出して、騎道はバイクを自宅の庭に停めた。
この日、『ストーン・ベイ』は休日に当たる。騎道は学園長夫人が用意した食事をかきこまずに味わえるはずだった。けれど。味噌汁を温めている一瞬。一人で食卓に向かう虚しさが、ぽつんと胸に落ちた。
どうして、彩子を誘わなかったのか……。彩子も、帰りの遅い修造を待って、一人で食べているはずだった。
別れる寸前、彼女はどんな顔をしていた?
思い出せなくて、一人うろたえ、唐突に同居している子猫を探しに外に出た。
「ティオ? ティオ、御飯だよ? どこに行ったんだ?」
子猫なのに、恐ろしく勘のいい猫だった。待ち構えていたように騎道に懐き、騎道の特殊能力で意思の疎通が計れることを幸いに、長年の同居人のように付き合っている。
ときどき、騎道を罰するように、こうして姿をくらまし、本当は一人なのだということを味合わせたりもする。
食後。騎道は再び、バイクで家を出た。最初に向かった先は、西の布陣。真紅の渦を前に、気持ちを落ち着ける。
雑念を払い、半ば伏せた瞼の暗がりに、青い炎を思念で呼び出す。すみやかに、邪悪な渦を向ける。青い力で取り巻き、焼き尽くすよう命ずる。
騎道の足元から、青い閃光が走り出す瞬間。体の半分が、引き摺り出されるような疲労感を感じた。
バランスを崩し、路上に膝をついてしまう。
「この程度で……? 自分ながら、呆れるな……」
叱責して、立ち上がる。見上げると、かなりの代償を払った甲斐はあった。悪意の渦は、その勢いを弱めている。恨めしげに、低い悲鳴を上げてさえいた。
騎道は素早くバイクに駆け寄った。フル・フェイスのヘルメットを被り、バイザーを下す。かちりと突き刺さる、視線があった。呻く悪意と、同列の存在。破壊を望む、暗闇に蠢く怨霊たちの飢えた欲望が、騎道を凝視していた。
逃げる気もなく、騎道は次の陣へバイクを駆った。
バイトが無い分、今夜はゆっくりと休めると踏んでいた。
多少の無理をしてでも、街に混乱をもたらす白楼陣を少しでも弱めておきたい。どうやら、敵はそんな騎道の都合に、構うつもりはないらしい。
北の陣でも、執拗な視線が騎道を追い掛ける。
騎道が唯一警戒するのは、青い炎を放った瞬間に生まれる、無防備な状態を突かれるのではないかということだけ。
攻撃に隙はつきものだった。虚を突かれては、カウンター・アタックをまともに食らうことになる。
さりげなく極度に集中して、騎道は相手の出方に備えた。
今度は、倒れたりはしない。赤と青が食い合う火花を耳にしながら、騎道は不信感を強めた。
……どういうつもりだ? これだけの殺気をもちながら。
今夜最後の責務と勝手に決めていた、東の陣。
ここは静かなものだった。
バイクを空き地に止めて、騎道はコートを脱いだ。
身を切るような冷たい風が、疲れた皮膚に心地良い。
珍しく、気合い替わりに、天空に右手を突き上げる。
夜の帳に手を掛ける仕草で、腕を振り下ろす。
冴えた大気を突き抜ける、一条の紫光。しなやかな正確さで巨大な渦を絡め取り、青く燃焼を始める。
「!」
騎道は周囲を振り返った。茶色く枯れた雑草の間から、気味の悪い笑い声が立ち昇っている。一人、二人ではない。呼応する卑下げた笑いが、蔑む、呪いの歌声に変わってゆく。
亡者どもには、直接騎道に手を出す力はない。
騎道は彼等を操る存在を探し、草地から路上へと飛び出した。居る。一台のセダン。横腹を向け、後部座席に乗せた人物を、これ見よがしに見せつける。
「……数磨君……」
赤い鬼火が、数磨を取り巻いていた。その明りが、数磨の頬のどす黒さを際立たせる。唇が、ふいに動いた。
白い吐息。消えずに、女の白い顔を形作る。
抜けるような面が、ゾクリと微笑む。
「!」
騎道の息が詰まった。背後へ、体が引き摺られる。
喉を千切り取ろうとする見えない手が、騎道を押し倒す。
防御。相手の力を無効にする思念は、まるで通じない。
否。騎道の力以上の念波が、繰り出されている為。
切れ間ない精神波。全身の自由が奪われた。
路上に仰け反る騎道に、次の攻撃が降り掛かる。
ミシリと、体中の骨が、鈍い音を上げ軋む。
悲鳴も塞がれた。異常な力が締め付ける。捩じられてゆく恐るべき感触に、騎道の意識は遠のきかけた。
呼吸が楽になる。替りに、肺への激痛が三ヶ所。
肋骨が折れていた。他にも数箇所。駆け巡る痛みだけで、十分自分の状況は把握できる。最低だ。
壊れた人形のように、騎道は路上に仰のいていた。
完全に、数磨の精神波は沈黙した。向こうも、一度に最大の力を放ったのだ。ダメージは大きいはす。
騎道も、やすやすと捩じられてやったわけではない。
両者の力が拮抗した上での、騎道の敗北。互いに無傷ではない。特に数磨は、不安定な能力者で制御不能だ。制御できない力の暴走が、結果的には騎道に勝った。
ならば。経験に勝る騎道に利はある。こんな目に遭うのは始めてではないと、騎道は自分に呟いていた。
「対超能力者の闘いというのは、あっけないものだな。
常人には、わけがわからないままにケリがつく。
こうして見ている限りでも、君がどのくらい死に掛けているのかすら、計れないんだからね。騎道君?」
「……生きていますよ。残念ですが。秋津会長……」
言い返すにも苦労する。騎道は蔑む秋津を、目だけで探した。肩を掴まれ、乱暴に引き起こされる。咳き込んで、騎道は胸の痛みにも襲われ、後はただ歯を食いしばり、体に触れるすべての物を呪うしかなかった。
道路脇の板塀に押し当てられた。誰が親切にしてくれたのか、騎道は見ることもできない。頭を垂れて、眠るなと心で叫ぶ。
秋津は、やれやれと肩をすくめていた。騎道を引き起こした磯崎に目くばせする。そのままにしておけと。
おもむろに左手の刀に右手をかける。秋津家の所蔵品のうちでも名刀の一つ。だが、静磨にとっては、この場に最も相応しい武器だった。抜き放ち、騎道を見据える。
「飛鷹君は悲しむだろうね。君のこんな惨めな死に様を知れば。ナイトを失ったなら、絶望しかねない。
そこでやっと、自分がどうするべきか知るだろう。
たった一つしかない命は、無駄にしてはいけないことを。
共有してでも、生き長らえることのすばらしさを自覚するはずだ。君の死は、彼女にとって、よい教訓になる。
珍しいね? すっかり元気がない。苦しいんだろう?
楽にしてやるよ」
胸の高さで水平に構えた切っ先を、秋津はためらうことなく繰り出した。渾身の力で、狙い違えずに。
刀身は騎道の胸部正中に突き刺さる。深々と貫き、背にした板塀でさえも、乾いた音を立てて突き通す。
苦痛に跳ね上がった両肩を、磯崎が押さえ付けた。
がくがくと肩が麻痺する。騎道は血を吐いていた。
「……これが君の正体か?」
騎道の艶やかな金髪を鷲掴む。秋津は手を返し、刀を抜き取る。鮮血が、どくりと吹き出す。ジーンズ地を、黒く染めてゆく。
秋津は、血に濡れた柄を磯崎に差し出した。
「念の為、止めを刺しておけ。始末はお前に任せる」
目前での凶行に震え出していた磯崎は、静磨の威圧感に押され刀を両手で受け取る。
支えを失い、騎道の体はずるずると路上に転がった。
秋津は踵を返し、数磨の車に乗り込んだ。数磨は、正面を見据えたまま気を失っていた。こんな目に遭わせた騎道に、死への一撃を与えたことは、静磨の怒りをわずかに宥めていた。静磨は振り向きもせず車を走らせた。
「……まるで別人だ……」
磯崎は、内心の驚愕を言葉にすることで、精神の均衡を保とうとしていた。静磨は、そんな一言では表せないほど変質していた。刀を振るった瞬間の形相は、悪鬼そのものだった。彼の配下にいることが、これほど恐ろしいと思ったことはない。止めを刺せとはどういう意味か、秋津家に仕える一員として、知らぬわけではなかった。
騎道を仰向けにした。目を閉じている。放っておけば、明け方までには出血多量で死ぬだろう。
だが静磨に、それを待つ気はない。
血塗られた刃先を、騎道の喉にあてがった。真剣の扱いには慣れている。しかし、手が震える。
「……あなたでは、僕に太刀打ちできない……」
心臓を貫かれたはずの人間が、おもむろに口を開いた。
「すんでの所で逃げられたんです。ここで朝まで、昏倒していて下さい。日が昇ったら、秋津家に駆け込めばいい」
目を開く騎道。磯崎は完全に動きを止めた。自分から路上に転がり、意識を失っていた。
刀を避けて、騎道は細く息をついた。
仮死状態になることで、静磨や数磨の目をくらますことが出来たのは幸運だった。何より、数磨に憑いていた御鷹姫を騙せたことは、奇跡としか考えようがない。磯崎に暗示を賭けるまでが、騎道の力の限界に近かった。
「……眠いな……」
このまま寝付いてしまいたかった。体中の疼きも、痛みに麻痺した状態では、だんだんと薄れてゆく。打ち身から発熱するほてりは、外気の寒さと相まってこれも眠気を誘う。ただし。いつまでもくずくずしていれば、御鷹姫の支配下にある悪霊たちが直ぐに嗅ぎ付けるだろう。
胸を庇い、右へ寝返りを打とうとしたが徒労だった。
意識が心地良い方へ引き摺られてゆく。
声さえなければ、騎道は眠っていただろう。
「なぜ? ここに居るはずがないのに……。
……呼んでいるような声が聞こえる……」
呼び声に引き寄せられる自分が、騎道はおかしかった。どんなにガードを堅くしても、己は己を裏切る。
自分の心でありながら、予測できないことを考え、コントロールしきれない。
封じてしまいたい感情が、騎道の口に登ろうとしていた。
「こんなに酷い姿を見せたくないのに。
……今は誰よりも、君に逢いたい……。
触れていたい。できるなら、そばで眠りたい……」
……馬鹿げてる。
理性が打ち消す。身勝手だと、自分を責める。