すずみの短冊
「お姉ちゃん、髪結って」
起きて早々、眠たがるやよの肩を揺らしてせがむ。
「えー」
「だって、今日友達の誕生日会なんだよ」
「ちょっと待って」
大きく伸びをして、棚からブラシを取ると、やよは座って待っているすずみの髪をといた。
これから家族はみんなで親戚の家に行く。本当はすずみも一緒の予定だったが、誕生日会という予定が入ってしまったので、すずみだけは行かないことになった。
「何がいいの?」
「三つ編み」
「はいはい」
髪をきれいにといたあとは、真ん中で半分に分けて、順番に編んでいく。寝起きで眠いのに、姉は妹のリクエストにちゃんと応える。
「かわいくしてね」
「はいはい」
「今日は誕生日会なんだから」
誕生日会にはみんなおしゃれしてくるもの。自分だけ普段着で置いていかれるわけにはいかない。だからかわいくしていきたい。
それともうひとつ。今日は大好きな衣都に会えるから、少しでもかわいいところを見てもらいたいのだ。
表向きは七夕祭りを楽しみにしていることにしているが、本音はそれだけじゃなくて衣都に会うのも楽しみだった。
いつから好きなのかわからないくらい、ずっと衣都が好きだった。それは今日も変わらない。衣都に会えると思えば早起きも留守番も辛くない。
「はい、できたよ」
やよはすずみの頭を軽く叩いて立ち上がると、洋服に着替えはじめた。
すずみは姿見に自分を映して、髪とよそゆきの洋服をチェックした。三つ編みと洋服は相性がよく、かわいくてご機嫌になった。
「すず、朝ごはんどうする?」
「あとで食べる」
「わかった。ちゃんと鍵閉めて出掛けてね」
「わかってるよ。心配いらないってば」
心配性の姉に余裕の表情を見せて鍵を振り回した。姉は眠いせいもあって、何も言わないで階段を下りていった。
「なにしよっかな」
誕生日会は昼前からなので、もうひと眠りしても時間はあまる。でもわくわくして眠気などやってこない。
誕生日会が楽しみじゃないことはない。学校で仲良くしている友達だし、大勢でおしゃべりしたり、ケーキを食べるのは楽しい。そこは普通の小学生だ。けれど、七夕祭りの方がやっぱり楽しみだった。
今日の衣都はどんな服で来るのかとか、髪型はどうかとか、想像するだけで顔がにやついてしまう。
衣都には二週間ほど会っていない。毎日だって会いたいのに、二週間も会えないのは辛かった。だから今日は余計にうきうきしてしまう。
「そうだ、プレゼント忘れないようにかばんの横に置いておこう」
ふと思い出して棚の横に置いておいた友達へのプレゼントを手に取ってみる。
水色の包み紙の中身はいつか好きだと言っていたうさぎのキャラクターのタオルとマスコット。ベタかもしれないけれどはずれない。
「そらちゃん、喜んでくれるかな」
そらは仲良しグループの中の一人で休み時間や放課後はだいたい一緒にいる。どちらかといえばおとなしい方で、あまり目立たない。誕生日会はおそらくそらがいちばん目立つ日だろう。
すずみはプレゼントを机の上にもう一度鏡の前に立って、一回転してスカートをふくらませてみた。
何か物足りない。なんだろう。
鏡の中の自分を見て考えた。
「ちっちゃいな」
そう、すずみの身長は周りの女の子より少し低かった。だからスカートがふわりとしても格好がつかない。それに、衣都と並んだときにまるきり大人と子供になってしまう。それが嫌で、底の厚い靴をせがむのだが、親には買ってもらえないのだった。
衣都の身長は高めで、小顔だから何を着ても似合う。すずみはそんな衣都に憧れていた。
「すずちゃん、行ってくるわね」
下の階から母親の声が聞こえた。
「いってらっしゃーい」
部屋の戸から顔だけ出して返事をしてまた鏡の前に戻った。
背伸びをしてスカートの裾を持ち上げてみる。
「ちょっとはましかなあ」
つま先が疲れるまで背伸びをすると、あきらめてかかとを床につけた。
口をとがらせて少しにらめっこをしてから鏡に背を向けた。
「これからこれから」
すずみは自分に言い聞かせた。
まだまだ育ち盛りだから。背はこれから伸びるのだ。希望的観測という言葉を知らないすずみはそれをただ未来だと捉えていた。
わけもなく部屋の中を回って、ふと、やよの机の上の薄い冊子が目に留まった。
「なんだろう」
やよの椅子に座ってパラパラとめくってみる。
「夏の散歩グッズ」
冊子の中心は散歩のときに役に立つ新商品や散歩コースの紹介だった。それに載っている散歩コースはここからだいぶ離れた町のものばかり。表紙をもう一度見ると、その町のフリーペーパーだということがわかった。
「地味な内容だなあ」
と、言いつつひまつぶしに最初から最後まで読んでしまった。
「お腹空いたなあ」
そろそろいい時間だ。といってもいつもよりだいぶ遅い朝食だが、休みの日のぜいたくだからゆっくりととることにした。
階段を下りて居間に入ると、テーブルにサンドイッチが用意してあった。
冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、サンドイッチの前に座った。
「いただきます」
一口かじってよく味わった。
ゆっくり噛むとパンの味がよくわかった。
サンドイッチばかり見ていてもつまらないので、部屋の中を見回してみる。薄いカーテンを通して入ってくる光は白くて、電気をつけなくても部屋はちょうどいい明るさだ。電源の入っていないテレビはただの黒い四角で、少し変な感じにみえる。丸い振り子時計はいつものようにふらふらしていて、小さい音を立てながら時を進める。
部屋が広く感じる。自分ひとりには広すぎる。でも、広い部屋を独り占めできるチャンスはめったにない。今日は少しぜいたくな日だと思った。
二つ目のサンドイッチを食べながら、今度は衣都のことを考えた。
「なにしてるのかな」
野乃香と一緒にいるのかな。七夕祭りに行く準備をしているのかな。勉強をしているのかな。
あれこれ考えた。考えれば考えるだけ衣都に会いたくなった。
ふと、衣都の笑い顔を思い出す。きれいでかわいくて、どきどきする。一瞬サンドイッチの味がしなくなった。
麦茶を口に流して顔を冷やして、ふう、と息をついた。
そろそろお腹がふくれてきて、サンドイッチを食べる速さがますます遅くなった。
ゆっくりゆっくり三つ目のサンドイッチを食べて、皿が空になった。
「休憩しよっと」
と、ソファに座る。脚を伸ばしてみたりしてくつろいだ。
ひとりきりだからソファだって独り占めなのだ。ごろごろしていると母親に怒られるが、今は怒られることもない。嬉しくなって思い切り横になって伸びをした。
そうしたら、だんだん眠くなってきて、うっかりとそのまま眠ってしまった。
「あ!時間」
目が覚めたときは、もう家を出なければいけないころだった。
飛び起きて自分の部屋からかばんとプレゼントを持ってくると、玄関の戸を開けた。
「あ!鍵」
サンダルを脱いでもう一度自分の部屋に戻り、あわてて鍵を持ってきて戸締まりを確認してからやっと家を出発した。
日は容赦なく照りつけて暑いけれど、そんなことは言っていられなかった。遅刻はするまいと、サンダルで地面を踏み鳴らしながら駆けていった。
ほどなくして、そらの家が見えてくると、安心したのと同時に息が切れた。すずみは呼吸を整えながらそらの家に近づいていった。
なんとか呼吸が普通に戻ったところで、インターホンのボタンを押した。
「はーいー?」
「すずみだよ」
「すずちゃん!今行くね」
まもなく扉からそらが出てきた。
「来てくれてありがとう。さ、どうぞー」
「おじゃましまあす」
玄関を上がって、大きな居間に通された。
「すずちゃんだ」
「やっほー」
すずみより先に何人かが既に座っておしゃべりをしていた。
すずみは適当なところに座ると、かばんの置き場所を探した。
「かばんはその辺に置いといていいよ。飲み物どれがいい?」
そらが紙コップを持ってすずみの横に座った。
テーブルにはいろんなジュースのペットボトルとお菓子ののった小皿が置いてあった。
「お菓子は控えめにしといた方がいいよ。すぐにお昼ごはんだからね」
そう言いながらすずみが見ていたオレンジジュースを取り、すずみのコップに注いだ。
「あのね」
そらはすずみに少しだけ寄って声をひそめた。
「お料理はあたしも手伝ってお母さんと一緒に作ったからたくさん食べてね」
来て早々食べ物のことを真面目に聞かされて、すずみはおかしくて笑った。
「何を言うのかと思ったら。もちろん食べるよ」
「えー、そこ笑うとこじゃないよー」
そらは頬をふくらませたが、すずみは、
「いいじゃん、べつに」
と言ってジュースを口にした。
そこへドアベルが鳴った。
「あ、誰かな?」
そらは立ち上がってインターホンに出た。
「はーいー?ああ!ちょっと待ってね」
そらが席を外した隙に、隣にいた希帆にすずみは声を掛けた。
「ねえ、きほちゃん、プレゼントもう渡した?」
「まだだよ。ケーキを食べるときにあげようってみんなで話してたの」
「そっか。わかった」
すずみは情報を得ると、みんなの話を聞いて流れを掴もうとした。
「ゆえちゃん、今日の服かわいいね」
「そう?実は初めて着たんだー」
「それ、雑誌で見た気がする」
すずみは指を差した。
「そうなの!それでお母さんにおねだりしたの」
「すずちゃん、よく知ってるね」
「たまたまだよ」
そこへ新しく来た子やそらも加わって、ファッション談義に花が咲いた。
小学生だっておしゃれには敏感で、おしゃべりも井戸端会議なみ。女の子が十人もそろえばたちまち華やかでにぎやかになる。
途中、
「すずちゃんはいつも自分に似合う服を着てるよね」
「あたしもそう思う。かわいいのが似合う」
なんて話があったけれど、すずみはあまり嬉しくなかった。
その「かわいい」は「小さい」というのが多くを占めているのだ。「小さい」自分が好きではないすずみにとって、「かわいい」は誉め言葉だとは限らない。
そういう風に言われる度に、もっと大きくなりたい、と思うのだった。
「お昼ごはんにしましょうか」
そらの母親が大皿を順番に運んでくる。
ごはんものやオードブルがテーブルに並び、その豪華さにみんな思わず声を上げた。
「さあ召し上がれ」
その言葉を合図にランチタイムが始まった。
料理はそれぞれ小さく切り分けてあり、みんなが好きなものを選んで食べられるようになっていて、いわばバイキング方式だった。
ピザや唐揚げは人気があって、しゃべっているあいだにあっというまに減っていった。
でもすずみのお気に入りはオムライスで、フライドポテトと交代に食べていた。
「すずちゃん、オムライス好き?」
おにぎりを手にしたそらが横から聞いてきた。
「うん。おいしいね、これ」
すずみはにこっと笑ってオムライスをスプーンにのせた。
「ほんとに?」
そらは嬉しそうに高い声で言った。
「それ、あたしが作ったんだ!」
「そうなの?すごいじゃん」
すずみは驚いた。同じ歳でこんなに上手にオムライスを作れるなんて。そらのいいところをひとつみつけたみたいですずみは心が弾んだ。友達のいいところが増えれば悪いところは気にならなくなるのだ。
「ありがとう!すずちゃんがたくさん食べてくれるから嬉しいよ。もっとお料理がんばらなくちゃ」
「新しいのができたらまた食べさせてね」
「もちろん」
今日のそらは積極的だ。いつもははっきりしなくていらいらしてしまうこともあるのだけれど、今日は一度もそんな風に思わなかった。そらは自信を持っているようにみえた。自分の誕生日会だからか、ひとつ歳を重ねて成長したのか。どちらにしてもそらがいつもよりしっかりしていて楽しそうで、すずみまで楽しくなった。
お腹いっぱいになったあとは、休む暇もなく、テレビゲームやボードゲームで大いに盛り上がった。みんなはしゃいでいつもより声が大きい。
そんな小学生に時間の感覚はなく、放っておけばいつまでだって遊んでいる。
すずみが時計と目があったのは偶然だった。
「あ!時間」
すずみはそっとゲームから抜けた。
「すずちゃん、もう?」
すかさずそらが駆け寄ってきた。
「うん、ごめんね」
そらの眉は下がった。
そしてすずみは気づいた。
ケーキの時間までいられない。
すずみはケーキを食べることができないのと、みんなで一緒にプレゼントを渡せないのが同じくらい残念だった。
「そらちゃん、お誕生日おめでとう」
すずみはそらに持ってきたプレゼントを差し出した。
「みんなと一緒に渡せなくてごめんね」
「ありがとう」
そらは袋をぎゅっと掴んだ。
「ねえ、ほんとにもう帰っちゃうの?もう少しいてくれたらケーキだって一緒に食べられるのに」
「ごめん。ずっと前から約束してたから。ケーキは残念だけど、また今度一緒にお菓子食べよ」
そらは少し下を向いて黙った。そして、
「うん。じゃあ、おみやげのクッキー、多めに持ってかえって」
と言ってかわいい袋を手渡した。
「ありがとう。楽しかったよ。また学校でね」
「こっちこそ、ありがとう。また遊びにきてね」
そのときのそらは少し寂しそうだったけれど、やっぱりいつもよりしっかりしてみえた。
道を曲がるまでそらに手を振って、家に向かった。もしかしたらもうやよが家に帰ってきているかもしれない、と思って急ぎ足で帰った。
朝とは違う日の光が頬に反射してまぶしい。
すずみはなるべく日陰をみつけて通るようにした。
「ただいま」
すずみの声が響くだけで返事がない。
「まだ帰ってきてないんだ」
三時までまだ少し余裕がある。今のうちに服を着替えて、かばんは別のを用意することにした。
服は動きやすいけどかわいいものに、かばんは両手が空くようにリュックに変えた。
そして、姿見の前に立ってコーディネートのチェックをした。
「なかなかいいかも」
こうして気にするのは衣都に会うから。衣都にださい子だと思われたら最悪だ。衣都に「かわいい」と言ってもらえるように努力をして、服も選んで、行動する。衣都から言われる「かわいい」は、特別にいい意味を持っているのだ。
車の音が聞こえてすぐ、扉を開ける音がした。家族が帰ってきたようだ。
時間は三時少し前。すぐに出るだろうと思って、リュックを背負って階段を下りた。
「おかえり。もう行く?」
やよは麦茶を冷蔵庫にしまっているところだった。
「うん、行こう」
やよはそのまま出掛けるらしく、床に置いていたかばんを拾い上げてすぐに玄関へ向かったので、すずもそのままついていった。
「いってきます!」
「気をつけてね」
と、母親の声を背に家を出た。
ささらさ山まではすぐなのに、やよは家を出るなり走り出した。すずみは置いていかれまいとそのあとを一緒に走った。
やよはすずみより身長が高くて、走る姿も様になる。すずみには高校生の背中は大きかった。五つの歳の差をひしひしと感じた。
ささらさ山に着くと、バス停の木陰で野乃香が来るのを待った。
「暑いね」
今日はほとんど家の中にいたから汗をかいたのは今が初めてだった。
「お姉ちゃん、いい子にしてた?」
外に行くときはいい子にしていなさいよ、と母親に言われ続けていると当たり前のようにきいてしまう。
「もちろん。あのね、えなちゃんに会ったよ」
「えなちゃん?花火とか一緒にしたえなちゃん?」
「そう。すごくお姉さんになってた」
「へえ。あたしも見たかったな」
やよのことでも少しはお姉さんだと思うのに、えなはどれほどお姉さんになっているのか興味があった。
「すずは誕生日会、抜けてきちゃってよかったの?」
今度はやよが質問をしてきた。
「うん。そらちゃんにはおめでとうって言えたし、みんなとはいつでも学校で会えるもん。ののちゃんといとちゃんの方が会える回数が少ないから」
「そう?すずがいいならそれでいいけど」
そうなのだ。そらには悪いけれど、すずみにとっては衣都に会うことがいちばん大事なのだ。機会は一度たりとも逃したくなかった。
「ののちゃんたちまだかなあ」
まだ数分しか待っていないのにとてもじれったかった。
道をじっと見て野乃香たちが現れるのを待った。
「あ!ののちゃん来た」
すずみが手を振ると、向こうも手を振り返してきた。そしてそのまま駆けてくるのがわかった。でも、衣都の姿が見えない。もしかしたら別々に来るのかもしれないな、と思った。
「時間ぴったりだね」
「間に合ったあ」
野乃香は体育の授業のあとみたいな顔をしている。
「のの、顔赤いよ。相当走ってきたでしょ?」
「ばれたか」
「ちょっと休もっか」
山の入口の石段に三人で座ると、やよは麦茶をコップに注いで野乃香に飲ませた。
「はいどうぞ」
「おお。ありがと」
「生き返るねえ!」
「その元気なら心配ないな。もっといる?」
「いるいる!」
野乃香の飲み方は豪快だ。麦茶がどんどんなくなっていく。それをすずみは面白がって見ていた。
「おいしかった!ごちそうさま」
「いいえ。持ってきてよかったよ。まさかこんなに好評だとはね」
三人は笑った。
話が切れたとき、すずみは気になっていたことを野乃香にたずねた。
「ねえののちゃん、いとちゃんは?」
「それがね、お姉ちゃんバイトでさあ」
「え、そうなの?」
すずみの心はショックで真っ青になった。せっかく誕生日会も抜けてきたのに。二週間楽しみにしてきたのに。
「そう。だから来るのは七時だってさ。付き合い悪いよねえ」
不幸中の幸いとはこのことか。会えないわけではないとわかると、急に持ち直した。
「でも七時には来るんだね」
聞き間違えていたら困るから念を押しておく。
「うん。来なかったら電話かけまくるって言っといたから」
「じゃあコンサートは一緒に行けそうだね」
すずみは心の中で飛び跳ねた。一緒に七夕を締めくくれるならよしとしよう、と思った。
「そうだね。今日は天気もいいしね!」
「暑すぎるぐらいだけどね」
手を振ってやよは暑さをアピールした。
「暑いよほんと。やよのは涼しそうでいいなあ」
「そう?」
「うん。おだんごいっこで首がすっきり」
「ほら、後ろ向いて」
「ほい」
やよは慣れた手つきで野乃香の髪を整えた。やっぱりやよは器用だ。美容師にでもなれるんじゃないかと思った。
「はい、できあがり」
「どうなったの?見えないよー」
「こうなったよ」
と言って、すずみは手鏡を出して野乃香に見せてあげた。
「おお!おだんご!やよは上手だねー!」
鏡をしまう前にちらっと自分を映してみた。髪型はばっちりきまっている。衣都に見せても恥ずかしくない。
「おそろいだよ。さ、そろそろ登りますか」
やよの一声で、残りの二人は、
「おー!」
と、立ち上がった。
山の階段はただ上るだけではつまらないけれど、野乃香ややよから教えてもらったように遊びながら上るとすぐに頂上に着く。
「着いたー!」
ささらさ山の頂上はいつもきれいだ。特に今日は天気が良くて遠くの方までよく見渡せる。本当は衣都と見られれば最高だったのに、と思いながら景色を眺めた。衣都は今ごろ忙しく働いているのかな、と思うとちょっとだけ気がとがめた。
「そういえばさ、ささらさ山の主って本当にいるのかな?」
「どうなんだろうね」
ささらさ山の主の話はすずみたちのあいだでも話題に上ることがあったので知っていた。
「なになに、やよ、お願いでもあるのかい?」
「ううん。ふと思いついただけだよ」
「なんだ、つまんない」
ささらさ山の主は女の子の姿をしていて女の子の願いをきいてくれるらしい。こんなに都合のある話があるのだろうか。
「でもさ」
思っていることが途中から口に出てしまった。
「山の主は女の子の味方なんだよね?だったら本当にいたらいいのにな、って思っちゃう」
「すずはかわいいこと言うねえ」
野乃香にかわいいと言われてもべつに嬉しくなかった。ただ子供扱いしているだけだとわかっていたからだ。
「ののはこうなったらいいのに、とか、ああだったらいいのに、とかそういうのないの?」
「そうだなあ。あたしは今がしあわせだからなあ。あ、そうか。ずっとこのままだったらいいのにな、って思うかな」
「ののはののだなあ」
野乃香のいかにも言いそうなことだったが、それも一理あるように思った。このままなら、衣都と一緒にいられるのだから。
「そうだ!七夕のにおいを嗅ぎにいこう」
野乃香がそう言ってからは、ずっと野乃香のペースに巻き込まれっぱなしだった。山のてっぺんで草花のにおいをかいだり、あちこち歩き回ったり。挙句の果てに、姉たちはかけっこを始めてしまった。こういうときの二人は小学生のようで、ときにはすずみの方がお姉さんのように振舞うこともあった。衣都がいないのは物足りないけれど、この時間を心ゆくまで楽しんでいたのは間違いなかった。すずみにとって、やよと野乃香は姉妹であり、友達だった。二人には心を思い切りさらけ出すことができるのだ。衣都への気持ちを除いては。
「ねー。のど渇いたよ。なんか飲みにいこうよ」
真剣に競走をして干からびた野乃香はだらけている。
「じゃあ、うちへ来る?冷えたお茶が冷蔵庫にたっぷりあるよ」
「行く行くー!」
二人が立ち上がって歩き出したので、すずみはそのあとを一歩遅れてついていった。
「ただいま」
「あら、おかえり。もう帰ってきたの?」
「ちょっとお茶飲みにきただけ。ののも連れて」
「こんちはー!」
さっきまでへばっていたのにこの元気さである。野乃香が元気印と言われるのはこういうところなんだな、とすずみは思った。
「こんにちは。やよ、外は暑いからしっかり水分とってゆっくりしてから出かけたら?」
「そうだね」
やよが麦茶を入れているので、すずみは先に部屋へ上がって空気を入れ替えておくことにした。
「ののちゃん、二階に行こう」
「おう」
窓を開けると、風が入ってくる。気持ちよくてじっとそこに立っていたくなる。外を見ると、浴衣を着た人がちらほら歩いている。やっぱりみんな七夕祭りが好きなんだな、としみじみ思った。
「お待たせ。はい、どうぞ」
やよがお盆からコップを二人の手に移した。
「いただきまーす」
早速野乃香は上を向いて麦茶を口に流し込んだ。
「ちょっと、一気に飲んだらお腹壊すよ」
「大丈夫だよ。いつもやってるもん」
「まったく」
それ、今だ。同じくのどが渇いていたすずみは野乃香みたいに一気飲みをしてみたくなった。
「すず、あんたはやっちゃだめ」
作戦はあっさりと失敗した。やっぱり姉にはかなわない。すずみは一気飲みをあきらめた。
「はあ。生き返りますなあ」
「のの、それさっきも言った」
言ってた言ってた、と言う代わりにすずみは首だけ動かした。
「だってこれがいちばんしっくりくるじゃん」
「年寄りくさいな」
「よいではないか」
見ると野乃香はなにげなく床に寝転がっている。
「やよの部屋は居心地いいねえ」
「そりゃどうも。そんな格好してたら余計に暑くない?」
「これが意外と快適よ」
「ならいいけど」
暑い暑い、と言っていたけれど、だんだん汗も乾いて、のどの渇きもなくなった。何もしないで風に当たっているのが気持ちよかった。
時計を見ても、七時にはまだ遠い。でも、こうしているあいだも衣都は働いている。疲れていないかな、と、すずみは衣都のバイト先に思いをはせた。
「ねえ、ののちゃん」
「なにー?」
「いとちゃん今日朝からずっとバイトなの?」
「いや、昼過ぎからだって。朝はあたしの家庭教師やってたよ。やっていらんのに」
野乃香は面倒くさいと言わんばかりだったが、すずみは野乃香がうらやましくて仕方がなかった。
「いとちゃんに勉強教えてもらってるの?いいな。いとちゃん頭いいもんね。あたしも教えてもらいたいな」
無邪気を装ってさりげなくアピールしてみる。
「えー、やめといた方がいいよー。叩くわ蹴るわのスパルタ授業だよ」
「それはののがちゃんとしないからでしょ?」
「いやいや、そんなことないから!お姉ちゃんが厳しすぎるんだよ」
今のはやよが正しい気がした。
「でもいつもいとちゃん優しいよ」
衣都の擁護に回るのは当たり前だった。
「すずは騙されてるんだよ、あの外面に。というよりお姉ちゃんは外面もあんまりよくないけどね」
「そうかなあ?」
「そうだよ!勉強のことになったら特に鬼!」
勉強でも衣都とならがんばる。鬼でも衣都ならいい。野乃香はぜいたくなことを言っている、としか思えなかった。
「じゃあ、衣都ちゃんに怒られないように今から勉強する?」
「やよ、それはやめよう!」
「うそだよ」
衣都に勉強を教えてもらう運びには至らなかったが、衣都が勉強熱心なだけでなく、教える方にも熱心なことがわかって、すずみは納得した。
勉強はそんなに好きではないけれど、衣都が頭がいいから少しでも追いつきたい。勉強をしてがんばっていることを衣都に知ってもらいたい。そうしたら、もっと勉強ができるように家庭教師をしてくれるかもしれない。でも、そのためにはどうやって勉強している姿を見せればいいんだろう。学校や家で会うことがないからなかなか勉強しているところを見てもらう機会がない。教科書を読みながら話しかけるとか?いやいや、それはわざとらしい。それならどうしようか。
そこまで考えて、あとは堂々巡りになってしまった。なかなか名案は浮かばない。おまけに、すずみはそのまま無意識のうちに眠ってしまっていた。
「さあ、出かけるよ」
突然声が耳の中に響いて、すずみはびっくりして目を開けた。何をしていたのかを思い出そうと頭を回転させて、やっと目が覚めた。
「もう五時過ぎたよ」
「え!もうそんな時間?」
野乃香の大きな声で完全に我に返ると、慌ててリュックを背負った。
「お母さん、ささらさ山に行ってくるね」
「いってらっしゃい」
「お邪魔しましたー!」
「気をつけてね」
そうして三人はまたささらさ山へと戻った。昼寝をしたすずみと野乃香は体力を回復させて元通り元気になっていた。
「よし、元気出たから二段飛ばしで行こうかな」
「やめときなよ。これから夜までうろうろするんだから。それにライブで盛り上がるって言ってたじゃん」
「ちぇ。わかりましたよー」
「疲れちゃったらアイスもおいしく食べられないよ」
こういう場面を見ると、やよと野乃香が同じ歳だとは思えなかった。むしろ野乃香はすずみと同じ歳なのではないかと思うくらいだった。
「アイスがあるんだった!ん?待てよ」
階段のはじめでぴたりと止まって、
「あたし、昼ごはん食べてない!」
と、野乃香は思い出したように叫んだ。
昼ごはんを抜いても元気なところに驚くべきか、昼ごはんを忘れていたところに驚くべきか、迷うところだった。
頂上に着いてもまだ野乃香は、
「お腹空いた!早く何か食べようよ」
と、言っていた。
「クレープにしよ。いいでしょ?」
「何でもいい!お腹空いた!」
「そんなに大きな声出さなくても。じゃ決まりね。クレープ屋さんを探そ」
やよたちが両側の出店を見ながら歩くのを真似して左右に首を振って歩いた。
「クレープはどこかな?」
意味もなく言いながら歩く野乃香より先にみつけたのはすずみだった。
「あれじゃないかな?」
それはあたりだった。野乃香がクレープ屋めがけて走り出すと、やよも走り出し、それを見てすずみも走り出した。
正面から見ると、大きく「クレープ」と書いてあった。メニューがかわいくてすずみはじっと上から下まで見た。そのあいだに、やよの横で野乃香はいち早く注文していた。
「お姉さん、ツナじゃがチーズ大盛りで!」
「大盛りなんてないでしょ」
「いいよ」
クレープ屋の人は若い女の子だった。もしかしたら衣都と同じくらいかもしれない。
「一人目のお客さんだから特別に大盛りにしてあげる」
「やったー!」
クレープ屋の女の子は上手に生地で円を描いていく。それをもっと近くで見たくなって、すずみは静かに二人のあいだに割って入った。
初めて見るクレープ作りは面白くていいにおいがして、それだけでわくわくした。
「はいよ、大盛り!」
「おっきくてほかほかだ!ありがとう」
野乃香はクレープに釘付けだった。
「もう。チョコバナナください」
やよがもうどれにするか決めている。早くしないと自分のだけできるのが遅くなる、と急いですずみもメニューを見直して、いちばんに目に付いたものを言った。
「わたしはプリンミックス」
「すず、順番に言わなきゃ」
ちょっと急ぎすぎた、と反省した。
「いいよいいよ」
「すみません」
でも、女の子が感じよく笑ってくれたので、すずみはあまり気にしないことにした。
「はい、お待ち」
「大きい」
やよは大きさに圧倒されている。
すずみはできたての大きなクレープがかわいくておいしそうでうきうきしていた。
「ありがとうございます!」
と言って、店を離れて広場の方でクレープを食べる。
「いただきまあす」
野乃香が食べるのを見て真似して角からかじってみた。
「おいしい!」
たしかにおいしい。
「のの、口から出たよ」
やよの言葉は野乃香の耳には届いていなかった。
「ののちゃんのおかげで大きなクレープ食べられてよかったよ。ありがとう、ののちゃん」
すずみは特大クレープがおいしくて、たくさん食べられて幸せだった。
「いいってことよ」
野乃香が歯を見せて笑うと、すずみも真似して笑った。
「調子いいなあ」
三人で食べたクレープはとてもおいしかった。なんでもないことを話しながら、食べたいように食べる。クラスの友達と一緒だと、食べるのが遅いだの、そっちのもおいしそうだの、いろいろ言われて満足できない。だから、本当に楽しいことは家族や姉妹と一緒がいちばんなのだ。
だから、今ここに衣都がいれば最高なのだ。一緒にクレープを食べて、しゃべって、あわよくばちょっと肩にもたれかかってみたり。そうすればクレープだって百倍おいしくなるのに。
まだバイトが終わらないのかな。できることならクレープを今から持っていってあげたい。今すぐにバイトからここへ来ればいいのに。そうすれば、クレープを分けてあげられる。
ここへ来たらなんて言えばいいのかな。お疲れ様?小学生にしては固すぎる。会いたかったよ。まっすぐすぎる気もするけれど、小学生ならおかしくないか。でもその前に、そんなこと言うのがちょっと恥ずかしいかもしれない。
クレープの中のプリンにぶち当たりながらああでもないこうでもない、と考えた。衣都のことなら何時間でも考えていられる。不意に野乃香に声を掛けられて気づくと、ステージではもう演奏が始まっていた。
「すず、全部食べられる?」
自分の手元を見てみたが、クレープはまだまだ大きい。よくよく考えると、少し前からあまり口を動かしていない。限界だ。
「もうお腹いっぱい」
「じゃ、ちょうだい」
食べてくれるならありがたい。すずみは黙って野乃香にあげた。
と、野乃香は腕を伸ばした。すずみは言われるがままにクレープを野乃香に差し出した。
「やった!いただきー」
「お腹は落ち着いたんじゃなかったの?」
「落ち着いただけで、満足したとは言ってない」
「ああそうですか」
野乃香は飲みっぷりだけでなく食べっぷりもよかった。高校生ってパワフルだな、と感心してしまった。
すずみはお腹がいっぱいなのをなんとかしようと、じっとしていた。ステージの観客に浴衣を見ると、今日が七夕祭りだということを思い出した。
七夕といえば、天の川。今日は天気がよかったからよく見えるはず。織姫と彦星も会えるはず。すずみにとっての織姫は衣都だ。織姫は本当にここに来てくれるのだろうか。すずみは不安になってきた。天気がよければ彦星は織姫と会えるけれど、彦星でもない自分が織姫と会うことができるのか。
ぼんやりとした七夕の話を思い浮かべると、嫌なことばかりが浮き彫りになる。もし衣都に彦星ができたらどうなるのか。今までみたいに遊んでくれないだろう。でも、どうしようもない。自分が彦星になれないことをすずみはわかっていた。
「天の川見られるかな」
黙っているのが辛くなって口から言葉をはじき出した。
「今日は天気がいいからきっと見られるよ」
やよに頭を撫でられてほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
「今年もみんなで天の川鑑賞だよ」
野乃香が、みんなで、と言うとなんとなく衣都が本当に来るような気がしてきた。
「いとちゃんはまだ?」
やっぱり待ちきれなくてきいてしまう。
「あと三十分はあるな」
時間を見て野乃香が教えてくれた。
「三十分かあ」
長い。
「お姉ちゃんが来るまでひと遊びする?そしたら七時なんてすぐだよ」
野乃香はさっと岩から飛び降りた。
その方が気が紛れていいかもしれない。
「うん、そうする」
すずみも岩から離れて、野乃香と歩きだした。
「のの、どこ行くの?」
「あっちの大きい木。腕が鈍ってないか確かめるの」
ひとり残るわけにもいかず、やよがそのあとから二人を追った。
そうして、三人で木登りをしていると、三十分は本当に早く過ぎた。衣都から電話が掛かってきたときは飛び上がらんばかりの気持ちだった。
もうすぐ、やっと衣都に会える。
すずみの胸は高鳴った。
「やよ!やよ!」
広場まで戻ってきて衣都を待つあいだ、ステージの演奏に合わせて野乃香が盛り上がっていた。無理やりやよも巻き込んで踊っているのを見て、すずみも楽しくなってきた。衣都がここに来ると思えば、浮かれずにはいられない。一緒になって騒いでいた。
そのとき、突然頭に何かが触れた。誰かに頭を撫でられているのだ。驚いて振り返ろうとしたとき、頭の上で声がした。
「随分ご機嫌だね」
野乃香とやよは同時に振り返った。
「お!やっと来たか」
「お待たせ」
衣都だ。衣都が頭を撫でている。嬉しくてどきどきして頭が思うように働かない。とっさに出てきた言葉をそのまま口に出した。
「衣都ちゃん早かったね」
時計はまだ七時になっていなかった。
さっきあれほど考えていたお迎えの言葉などどれも出てきやしなかった。
「うん、片付けが順調に終わったから。七時過ぎるかなと思ってたんだけどね」
「遅刻は許しませんよ」
「なんであんたは偉そうなんだよ」
それを聞いてすずみは笑ったが、こんな冗談が言える野乃香のことをうらやましいと、また思った。
「ねえ衣都ちゃん、お腹空いてない?」
「ちょっと空いてるかな。今日ゆっくり休憩とってないし」
「お店忙しかったの?」
聞きたいことがありすぎて、すずみは人の話を全然聞けていない。興奮して話の流れを読めていないのだ。
それでも衣都は軽くうなずきながら優しく答えた。
「七夕だし。ここらへんはお祭りっていうとみんな元気になるからね」
「じゃあ、そこのたい焼き食べよう」
さっき団子を食べたところなのにまだ食べる気なのか。
「あんた、先にいろいろ食べてんのにまだ食べるの?」
「いや、今日はそんなに食べてない」
堂々としているが、ばればれのうそである。
「あっそう。ま、近いしたい焼きでいいよ。あたしの分も買ってきて」
「すずはいる?」
やよにきかれてすずみは少し迷った。
「一個は食べ過ぎな気がする」
「わかった。半分つしよ」
二人はいつものように半分ずつ食べることにした。半分ずつにすると、物だけじゃなく気持ちまで分け合える気がしてすずみは半分つが好きだった。
やよが行ってしまうとすずみは衣都と二人きりになった。
運よくベンチが空いたのでそこに座る。さあ、何を話そう。
「すずみちゃん、半分でいいの?」
先に衣都の方が話しかけてきた。やった、と思った。話しかけるより話しかけられる方が嬉しいに決まっている。
「うん。最後のアイスの分とっておかないと」
これは小食ぶっているのではなくて本音。
「うちのブラックホールに聞かせてやりたいわ」
ため息混じりに言う姿も分別のある大人というかんじで格好いい。横目で顔を見ると、衣都は少しだるそうに目を細めている。普段あまり見られない表情を見納めようと、何度も盗み見した。
会話がなくなって、ステージの音がやけに響く。せっかく二人きりなのだから何か話したいのに、なかなか話題が浮かばない。気の利いた言葉も出てこない。話のタネを探そうと、きょろきょろしてみる。その途中で衣都の顔がはっきりと視界に入った。衣都は目を閉じている。
眠っているわけではないだろうけれど、少し休みたいのかもしれないと思い、すずみは黙っていた。
そして気づいた。目を閉じているということは、衣都の顔をまじまじと見てもばれない。すずみは体を少し衣都の方に向けて、しばらく衣都の顔をみつめた。
大人っぽくてどきどきした。でも、それと同時に自分の子供っぽさが際立って、衣都との距離を感じて落ち込む。
子供であることを利用して甘える自分と、大人になって同じ視線を持ちたい自分とのあいだに矛盾をみつけて戸惑う。ときどき自分がどうしたいのかわからなくなる。でも、すぐにどっちでもいいか、と思って忘れる。考えてどうにかなるものでもないし、考えるだけ時間の無駄だ。
そう、今だって貴重な時間を無駄にはできない。すずみは目の前にいる衣都をただみつめた。
すると、衣都が目を開けてこちらを見てきた。何か言わなければ。
「いとちゃんて大人っぽいね」
それしか思いつかなかった。
「そう?まあ二十歳過ぎたら大人だから、大人といえば大人だけど。すずみちゃんから見たらだいぶ大きく見えるかな?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて見返してくる。
「はたちよりもっと大人みたい」
そこらへんの二十歳よりずっと格好良くてかわいくて余裕のある大人に見える。
「なに?褒めてくれてんの?」
衣都がにやついて冗談ぽく言っているのに、つい真面目に答えてしまった。
「うん。なんか、大人だなって」
「すずみちゃんはときどき面白いこと言うなあ」
衣都の手が両頬に触れている。ちょっと冷たい。そしてすべすべだ。
「そんなことないよ」
顔が赤くなりそうなのを必死で隠しながらまた真面目に答えてしまった。
落ち着こうと深めに呼吸をする。まだ頬に衣都の手の感覚が残っている。これでは落ち着けない。なんとかしようと自分の手を頬に当ててみたりしていると、衣都が飲み物を飲んでいるのが見えた。何を飲んでいるのだろう。
「すずみちゃんも飲む?」
そんなつもりで見たのではないが、コップを差し出されてとっさに受け取ってしまった。緊張しながら少しずつ飲んでみた。アイスティーだ。家で飲むのよりおいしい。衣都の飲み物を一緒に飲んでいるのが嬉しくて、途中からアイスティーの味がしなくなった。
「あんこだよ」
野乃香たちが戻ってきて、たい焼きを配りはじめた。
「すず、あんこでいいよね?」
すずみは、やよが割った半分を食べた。
「ののちゃんのは中身何?」
興奮を冷まそうと、あえて野乃香に声をかけてみる。
「クリーム!たい焼きといえばクリームだよ」
野乃香は相変わらず元気だった。
たい焼きをすっかり食べ終えて、みんなが休憩しているころ、衣都が、
「何か飲み物買ってくる」
と言って、立ち上がった。
どうやらさっきのアイスティーは全部飲んでしまったらしい。
「あたしも行く」
すずみはすかさず立候補した。ここでわざわざ衣都を一人にしておくこともない。それにお供がいた方が寂しくないだろう。
「あたしは炭酸がいいな。一本でいいよ。やよと一緒に飲むから」
座ったまま野乃香は衣都に言う。
「また勝手に決めて。やよちゃんは?」
「一本も飲めないからののと半分つでいいかな」
「そう?炭酸でいいの?」
「うん」
話がつくと、早速飲み物を買いに行くことになった。
「行こうか」
「うん」
歩きながら、
「甘いもの食べたらのどが渇くよね」
とか、言ってみる。
「そうだね。あたしもあんこ食べたら絶対何か飲みたくなるんだ」
話を合わせて同じような仕草をしてくれて、それだけですずみは楽しくなった。
たどり着いたジューススタンドには少し列ができていて、待つあいだに何にするか決めてしまおうと、看板を見ようとするが、背が足りない。それでもがんばって背伸びをしていると、
「前に行って見てきなよ。あたし並んでるから」
衣都が背中を押してくれたので、遠慮なくメニューに目を通してよく考えて戻ってきた。
「決めた?」
「うん」
「何にするの?」
「レモンティー」
自分が好きなのはレモンティーで、衣都が飲んでいたのはアイスティー。さりげなく似たものを選んでいることを教えたかった。
「あら、意外と大人だねえ」
そう、大人みたいな一面もあるのだ。ただの子供より少しは衣都に近いはず。
すずみと衣都は飲み物を抱えて戻ってくると、野乃香たちにも渡して蓋を開けた。
「すずみちゃん、レモンティーが好きなの?」
「うん。レモンがちょっとすっぱくておいしい」
ここでレモンが好きなことをさりげなくアピールする。
「ジュースは飲まないの?」
「そんなことないよ。ときどき飲むよ。でもやっぱりレモンティーが好き」
ここで衣都の好みもきいておかなければ。
「いとちゃんはレモンなしの紅茶が好きなの?」
「そうだねえ。レモンティーも好きだけど、一番は何も入れないブラックティーだね。すっきりしてていくらでも飲めちゃう。あと、香りも好きだな」
「そうなんだ。今度はあたしもブラックティーにしてみよう」
好きな人のすることはなんでも真似をしたくなるのだ。
「砂糖入れないと渋いよ。すずみちゃん、飲めるかなあ?」
なんだか子供扱いされちる、と思いながらも必死で答えるあたりが結局子供なんだな、と思った。
「飲めるよ!飲めるかな?ちょっとくらいなら飲めると思う!」
少しでも衣都に追いつきたいからつい真剣になってしまう。
そうしたら、衣都に笑いながら頭を軽く叩かれた。こういうときの子ども扱いは悪くない。調子のいいことだ。
ジュースを飲んだあとは、またライブを見ながら騒いだけれど、昼間からいろいろイベントがあったからか、すずみは少し疲れて眠くなってきた。立っているのが面倒臭い。
「疲れた?」
絶妙なタイミングで衣都が様子をうかがってくる。さすが衣都だ。
「うん、ちょっとだけ。座りたくなった」
正直に答えてすずみはベンチに座って力を抜いた。
「今日はバイト忙しかったの?」
そういえば肝心なことをまだきいていなかった。
「そうだね。お客さんいっぱい来たよ。でもみんなのチームワークでなんとか乗り切ったよ」
衣都は元気に答えてくれた。
「みんな仲良しなんだね」
「うん。仲良しだから楽しくお仕事できるの」
「すごいなあ。お仕事か」
仕事なんて遠すぎてよくわからない。それをやってのける衣都はやっぱり大人だ。それに、みんな仲良しだとは大人相手だけれどちょっと妬ける。
「べつにすごくないよ。大人になればみんなやってる。すずみちゃんはしっかりしてるからばりばり仕事できる人になるよ」
「そうかな」
しっかりしている、と言われて嬉しかった。衣都みたいになりたくて、しっかりするようにがんばっているのだから。
そうだよ、と言ってすずみの手に衣都の手が触れたとき、すずみはどきどきしてうなずくことしかできなかった。
そしてあっというまに元気を取り戻し、野乃香たちに混じって踊ってみたり、存分に騒いで、おしゃべりをしてライブの終わりまでを過ごした。
騒ぎ疲れてみんなしばらくじっとしていた。ようやく落ち着いた夜がやってきた。
七時までは長く感じたが、そのあとは長いような短いような、どちらともいえない複雑なかんじった。
「天の川、見えてる」
ぼんやりしていると野乃香が空を見上げて言った。
「ほんとだ」
本当に空に流れる川のようだった。こんなものがずっと遠くの空にあるなんてなんだか不思議だ。
「今年も織姫と彦星が会えてよかったよかった」
「あんた、その話ちゃんと知ってんの?」
「なんとなく」
衣都の反応が素早くてさすがだと思った。野乃香はあまり考えていないようだったから、ちょっと突っついてみた。
「ののちゃん、適当に言ってるでしょ」
「でもさ、ここには彦星がいなくて織姫ばっかりだね」
やよが自分たちのことを指しながら笑う。
そうだ、ここには彦星がいない。でも実はどこかに隠れていたりして。そう思うとすずみははらはらした。
「じゃあ、誰か彦星連れてくる?」
「当てがあるの?」
「お父さん!」
「それはいいや」
きくタイミングをうかがって、ここぞとばかりに口を挟んだ。
「いとちゃんに彦星は?」
「うーん」
はいかいいえのはずなのに、どうして悩むのか。そんなこと、悩まないでさっさと答えてほしかった。
「いないなあ」
と、答えた。
「そうなんだ」
平然を装ってはいたが、すずみはほっとしていた。もう少し、このままでいたいのだ。だから、もう少しのあいだ、彦星には現れないでほしいと思っていた。
「べつにさあ」
野乃香が言葉を重ねてくる。
「織姫四人でもいいじゃん、楽しけりゃ。それに織姫ばっかりなら雨で会えないこともないしね」
どういうことだ。でも、なんだかいいことを言っている気がする。
「またばかなこと言って」
「ののらしいなあ」
「でも、雨でも会えるのはいいことだよね」
すずみが人差し指を立てて言うと、
「でしょ!」
と、野乃香はすずみの肩を叩いた。
ここに織姫しかいないなら、天の川を渡る必要もない。だから雨でも会える。いつだって会える。だから、今もこうして一緒にいる。すずみの心は弾んだ。
そうしてまた笑いあっていると、
「もしもし」
と言って、衣都が離れていった。電話をしている様子だ。嫌な予感がする。
衣都が電話を切ってこちらへ戻ってくると、すずみは衣都より先に口を開いた。
「いとちゃん、用事?」
「その先の出店を手伝ってほしいって友達が。お開きまでには帰ってくるから」
衣都が急いで行こうとするのを、すずみは呼び止めた。衣都と離れたくない。せっかく夜まで待ったのに、もう別れるだなんて絶対に嫌だった。
「いとちゃん、邪魔しないからあたしもついていきたいな。いとちゃんが働いてるとこ見てみたい」
とっさに思いついたのがこれだった。それくらいしかついていく方法がない。子供っぽく甘えて言ってみた。どうかうなずいて、と思いながら衣都をみつめた。
「いいよ」
狙い通りになった。思わず笑みがこぼれる。
「はぐれないように手つないでようか」
衣都が左手を伸ばした。
「うん」
すずみは衣都の手を力いっぱい握った。そのうえ手をつなげるなんて、勇気を出した甲斐があった。
「たぶんそんなに遠くはないから」
「わかった」
すずみは足手まといにならないように懸命に衣都についていった。
人ごみをすり抜けるように、衣都が要領よく先導してくれたが、途中で人にぶつかりそうになって、すずみが転びそうになった。
「わっ」
転ぶ!
「大丈夫?」
あれ、転んでいない。見ると衣都が心配そうにこちらを見ながらすずみの腕をしっかりと引いていた。
「うん」
転びそうになった衝撃と、衣都に腕を強く引かれた衝撃ですずみは動揺していた。
「もうちょっとだからね」
衣都はゆっくり歩き出した。
「ありがとう」
すずみは思い出したように言って、呼吸を整えた。
衣都が気を遣って遅めに歩いてくれているのがわかると、すずみは必死に早く歩いた。こんなことでお荷物にはなりたくなかったのだ。
「あれかな?」
衣都は目的の店をみつけたようだ。
すずみには遠くて目線が合わないからわからなかった。
「やっぱそうだわ」
確信すると、周りの人をよけながら出店の前に立った。
「衣都!ありがと」
友達に手招きされて、衣都と一緒にすずみも出店の中に入った。
「あのね花野、この子うちの妹なんだけど、絶対邪魔しないから奥に座らせといてもいいかな?」
うちの妹と言った。妹と。すずみは感激して「お姉ちゃん」と言って腕を抱こうかと思った。
「かわいい!見て、燐子」
花野はもう一人に急いで知らせる。
「かわいい!衣都の妹ってこんなにかわいかったんだ」
子供だからかわいいと言われているだけだとわかっているものの、何度も言われると照れてしまう。
「あたしらばたばたするけど、ちょっと我慢しててね。後でパンケーキあげるから」
すずみはにこにこしてうなずいていた。外ではいい子にするのが家のきまりである。
「パンケーキを焼けばいいんだね」
「そゆこと。いつものバイトのつもりでよろしく」
「あ、お客さん来たよ」
いらっしゃいませ、と言ってから、衣都は早速パンケーキを焼きはじめた。
すずみはそのとき初めて衣都の働く姿を見た。てきぱきと動いて、きれいなパンケーキを作って、かわいい笑顔であいさつして。衣都は想像以上に素敵だった。
パンケーキをひたすら焼くという繰り返しの作業だが、見ていてまったく飽きなかった。まばたきの時間も惜しいぐらいで、すずみは後ろの方で食い入るようにずっと見ていた。
「あと三人でおしまいでーす」
気づけばもうそんな時間。ここで衣都が働くのを見ていられるのもあと数分だ。
同じペースで客はパンケーキを手にして去っていき、最後の一人が店の前に立った。
「先生」
「あら!どこかで見た顔が」
先生?衣都の学校の先生か。それにしても衣都はとてもびっくりしている様子だ。
「びっくりです。こんなところで会うなんて」
「まさかこんなところでパンケーキ焼いてるとは思わなかったわ」
気のせいかさっきより手の動きが鈍い。
「宿題はもうやった?」
「は、はい」
「さすがね。お疲れ様。それじゃ、また学校でね」
先生はすぐにいなくなったが、衣都はまだ少し驚いているようだった。
「今の人先生なの?」
「かわいいお姉さんだねえ」
「うん。フランス語の」
フランス語の先生なのか。覚えておこう。なにせ、衣都がこんなに驚いた顔を見たのは初めてだったから。よほど怖い先生なのかもしれない、とすずみは踏んでいた。
最後のパンケーキが売れると、あとは片付けをして終わりらしい。衣都はいつまでここにいるのだろう、と思っていると、
「あ!」
という花野の大声がした。
すずみは肩を震わせて固まった。
「妹のパンケーキ!」
「あ!」
燐子も同じ声を出した。
「ごめんね!今作るから」
燐子はホットプレートを温め直し、生地を少しだけ作った。
衣都が目的だから、パンケーキはなくてもいいのに、と思いながら、せっかく作ってくれているのでおとなしくしていた。
「あれ?ちょっと多いかも。ま、いっか」
燐子の背中からは適当な性格が漂っていたが、燐子を信じてパンケーキを待った。
「お待たせ!」
すずみの顔の前に山盛りのパンケーキを差し出す。意外と食べられそうなかんじだ。
「あ、トッピングは何がいい?」
「えっと」
急に言われても困ってしまう。たしかトッピングの種類は、と考えていると、
「全部のせちゃうね」
と、返事をする前にソースやクリームがどっさりとかけられた。
「いい子にしてたからご褒美だよ。遠慮なく食べなー」
すずみはパンケーキに目を落とし、
「これフォーク」
と、フォークを渡されると、
「いただきます」
と言ってにんまりした。
なんだかんだ言っても、おいしそうだった。全部はとても無理だから、少しだけ食べることにした。
「どう?」
「おいしい!」
「そう?やったー」
燐子は両手を広げて喜んだ。
「ねえ、名前なんていうの?」
「すずみ」
「すずみちゃんかあ。何年生?」
「五年生」
「そっかあ。五年生かあ。かわいいねえ」
いつもより子供扱いされている気がしたが、悪い気はしなかった。
「ごめんね、お姉ちゃん取っちゃって。せっかくお祭りに来たのにね」
「でも、パンケーキ食べられたからいいの」
「そう?ありがとねえ。残ったら持ってかえってね」
燐子はすずみに気を遣って、話相手になっていた。おかげで衣都が花野と話していても退屈しなかった。
「ごめーん!」
大きな声がこちらに向かって一直線に入ってきた。
「夕穂!」
「もう終わっちゃったね」
衣都が呼ばれるはめになった原因の張本人が現れた。衣都たちと何かを話しながら、ときどき、「ごめん」と言っているのだけがわかった。
そのあいだに、すずみはパンケーキの箱を閉じて、「ごちそうさま」と一人で言った。
「これに入れて帰りなー」
燐子がビニール袋を広げて準備していた。
「ありがとう」
と、燐子にもう一度礼を言った。
衣都が、「すずみちゃん」と呼んでいる。すずみはパンケーキの袋を持って衣都に寄っていった。
「すずみちゃん、また遊ぼうね」
燐子に頭を撫でられて、大きくうなずいた。この短時間にすずみは燐子にだいぶ懐いていた。
「あたしも癒されたよー」
花野はすずみの手を握って目を細くして笑った。
「じゃあね。あとちょっとがんばって」
「ありがとねー!」
三人と別れて早速野乃香たちの待つ広場へ向かう。
「さ、行こうか」
「いとちゃん」
すずみは今のうちに、と声を掛けた。
「何?」
「これ半分つしよう」
と、ビニール袋を上げた。
「りんこちゃんがいっぱい作ってくれたんだけど、食べきれなくて」
「全部持ってかえりなよ。やよちゃんと明日にでも食べたら?」
「でも、いとちゃんとののちゃんが食べる分もあるよ」
「あたしはバイトでパンケーキ作ってるし、ののにはいつも家で作ってあげてるからちょっと飽きたかなって。だからすずみちゃん遠慮せずに持ってかえって」
衣都と半分つできるチャンスだと思ったのに残念だった。でも、衣都は自分のことを思って言ってくれているのだからそれはそれで喜ぶべきところでもあった。
あと何分かでまた四人になってしまう。今日の二人きりはこれが最後だ。それに、今ならいい口実がある。鼓動が速くなるのを感じながら、すずみは思い切って衣都の左手を取った。
どきどきしながら衣都の反応を待つ。
衣都がこちらに向いたのを感じて衣都を見て、一息に台詞を言った。
「さっきみたいに転びそうになったら大変だから。今はパンケーキがあるし」
ちょっとたどたどしかったかもしれない。でもきっと変ではなかったはず。
「そうだね。しっかりつないでおこう」
衣都の手が密着して、しっかりと手をつないでいるのを実感した。本当の姉妹になったみたいでときめいた。
たった数分のあいだだったけれど、今日いちばんの幸せな瞬間だった。すずみは一歩一歩をしっかりと踏みしめて歩いた。
「ごめん、遅くなったね」
広場に着くと、野乃香とやよが声に気づいて顔を上げた。
「お姉ちゃん何してたの?」
「バイト先の友達がさ」
衣都が座ったので一緒になってすずみも横に座った。
「パンケーキの屋台やってたんだけど、突然一人手が放せなくなって、その穴埋めをしてほしいって。ほら、お祭りの最後は込むでしょ?忙しくて二人じゃ回らなかったみたい」
「お姉ちゃん今日はよく働いたねえ」
本当に衣都はよく働いていた。それはすずみが保証する。
「そんなに忙しいとこにすずがついていっちゃってごめんね」
姉はときどき余計なことを言うな、と妹は少しへそを曲げた。
「すずみちゃんおとなしく端っこで見てただけだから困ることなんてなかったよ。むしろ友達は癒されてた。かわいいって」
不意に肩を片手で抱かれて、どきっとした。へそを曲げたことなどすっかり忘れるくらいの衝撃だった。なんだか体がやけに熱い。
「あ!アイス溶けちゃう」
やよは慌ててアイスクリームをみんなの前に出した。
「買っといてくれたの?」
「だってあと五分で出店閉まっちゃうとこだったんだもん」
「ありがとう!アイス楽しみにしてたんだ」
アイスクリームのことは今の今まで忘れていたが、思い出すとやっぱり食べたくなった。それに、この暑さをなんとかしたかった。
「いただきます!」
と、みんなでアイスクリームを堪能する。
一口目を口に入れると、舌が冷たくなり、二口目を入れると、口の中全体が冷えていった。三口目を食べると、体の温度が少しだけ下がったような気がした。
「おいしいね」
すずみは衣都に言った。やっと体が普通の温度になって、衣都に声を掛けられるくらいに落ち着いたのだった。
あとは無心でどんどん溶けていくアイスクリームを食べた。一気に食べるのはちょっとぜいたくだけど、祭りの日くらいはいい、ということにしておいた。
ふと気になって衣都の顔を見ると、少し笑っているように見えた。
「いとちゃん、どうしたの?」
「なんでもない。アイスクリームがおいしいなあって」
そのときの笑い顔はいつもと少し違う気がしたけれど、楽しそうなのに変わりはなかった。同じ時間を一緒に過ごせて本当に幸せだと思った。それがいつまで続くかはわからないが、少なくとも今は幸せなのだ。
「さて、行きますか」
「はあい」
みんながすっかりアイスクリームを食べ終わると、最後の行事のために山の奥にある一本木へと歩いていった。
「みんな、ちゃんと短冊は用意してきたかな?」
野乃香が掛け声を掛けた。
「おー」
すずみは短冊を片手に手を挙げてのった。でも、返事をしたのはすずみだけで気が抜けてしまった。
「あれ?お二人さん、短冊用意してないのかい?」
「あたし、まだなの」
「実はあたしもなのよ。でも、今決めたからすぐ書いちゃうよ」
やよのはともかく、衣都の願いごとには興味がある。何を書くのか気になって、じりじりと衣都に寄っていくと、もっと大胆に真後ろから堂々と覗く野乃香が先に知った。
「なになにー。えー。なんだ。一緒じゃんかー」
野乃香がそう言っているあいだにそっと衣都の短冊を読んだ。
驚きで目が潤んだ。
すずみの願いごとも同じだったのだ。
「あたしもだよ!」
すずみは短冊を振り回した。
「言いにくいけどあたしも一緒だ」
やよの短冊にも書きたての文字でちゃんと同じことが書かれている。
「みんな一緒ってすごいね!やっぱあたしたち最高だね!」
野乃香はやよとすずみの手を取って飛びはねた。
最高だ。
四人は姉妹だ。
姉妹で充分なのだ。
たとえいつか衣都に彦星ができても、そのときはせめて織姫の機織機にでもなろう。そうすればいつでも会える。でも、もう少しだけ天の川を渡らないでここにいてほしいと思った。わがままだけど、子供だから仕方がないのだ。
短冊を結ぶのは、もっと高いところがいい。自分の背より高いところ。いつかそこに手が届くようになるといいな、なんて思いながら無理して背伸びをしていると、体が地面から浮いた。
「ほら、好きなとこに結びなよ」
今日は衣都に驚かされてばっかりだ。慌ててどこに結ぶかを決めて、できる限り強く縛った。
「ありがとう」
と、大きな声で言ってしっかり地面を踏んだ。
「そろそろ帰ろうか」
保護者代わりの衣都に従って、山を下りた。
「またね。おやすみ」
と言って、衣都と別れたあとも、すずみの気持ちはふわふわしていた。
「すず、眠い?」
「ちょっとだけ」
「今日は帰ったらゆっくり寝ようね」
「寝ないよ」
やよはぽかんとしている。
「どうしたの?」
「勉強してから寝るの」
「無理しちゃって。あたしは先に寝るからね」
やよになんと言われようが高らかにそう宣言したはずだったのに、やよより先に布団の中で夢を見ていたのは、やっぱりまだ子供だから仕方がない。