やよの短冊
今日は三時に待ち合わせ。
「早く三時にならないかな」
「なんて?」
「なんでもない」
やよは朝から三時が待ち遠しかった。
今から親の用事に付き合わされて、親戚の家まで行かなければならない。それは退屈で面倒だった。
いつもなら妹のすずみも一緒だけれど、今日に限って友達の誕生日会に行くから別行動だった。
両親の横についてにこにこと愛想を振りまくなんて考えただけで疲れる。いつも時間をつぶすのに、ひたすら数を数えてみたり、部屋の輪郭を目で描いてみたりする。
寝起きでぼんやりしながらかばんにハンカチをしまっている横で母親がせっせと出かける準備とすずみの朝食の支度をしている。
「もうすぐ出るわよ」
「はあい」
気乗りのしない返事をして出発を待つ。
つまらないときの早起きは眠さも二倍だ。やよはゆっくりと瞬きをして時計を見た。三時までまだまだ時間がある。今日はどうやって暇つぶしをしようかと考えた。
「車出すぞー」
玄関から父親の声が聞こえてきた。
「ほら、行くわよ」
母親がやよをせっついた。
「はあい」
やよはあくびをしながら重い腰を上げて、仕方なく車に乗り込んだ。
車の中では、「いい天気ね」とか、「久しぶりに会うけどどうしてるかしら」とか、母親がほとんど喋っていたが、やよは生返事をするだけで、話はあまり聞いていなかった。
広い田舎道を進んでいくと、少しずつ建物が増えていき、街に変わっていくのがわかる。住宅街に沿った道を越え、立派な商店街を抜けると再び住宅街になる。車は多いが、渋滞せずに行くことができた。
車に揺られること一時間、一家は目的地に着いた。
車がスピードを落として止まると、やよは垂れていた頭を上げた。気づかないうちに眠っていたようだった。
三人そろって車から降りて、戸を閉めた。午前中の白い光がさんさんと降り注ぎ、目を閉じたやよのまぶたに刺さる。
「いらっしゃい」
親戚夫婦が出迎える。
やよは親の後についてにこにこして、きかれたことだけはきはきと答えればいい。難しいことではないけれど、気易くこなせることでもない。
客間に通されて、
「やよちゃん、久しぶりね」
なんて言われると、少し緊張する。はい、と答えて口角を上げる。いつまで上げていたらいいのだろう、と思いながら。
大人たちが世間話をしているあいだは、テーブルに出されたりんごジュースをちびちび飲みながら間を持たせた。
そういえば、今日はなぜここへ来たのか理由をちゃんと聞いていなかった。ここにいれば追々わかるだろうが、興味はないし、話をじっくり聞こうとは思わなかった。
待ち合わせまであとどれくらいだろう。
時計を見てもちっとも針は進まない。ジュースの中の氷は小さくなっている。ストローで氷とジュースをかき混ぜて、次の作戦を考えた。
やよが氷が溶けていくのを見ていると、客間の扉が開いて、女の子が入ってきた。
「こんにちは!」
「あら、えなちゃん」
「ちょっと見ないあいだに大きくなったな」
女の子はそこの家の娘、えなだった。
「えな、もう帰ってきたの?」
「うん」
母親に返事すると、テーブルの端にいるやよの姿が目に留まった。
「やよちゃん!久しぶりだね」
「うん」
咄嗟に言葉が出てこなくて、とりあえずうなずいた。
「やよちゃんと遊んできていいですか?」
えなは思いつくままに提案した。
「あら、いいの?じゃあ連れてってやって」
やよの母親は、行ってきなさい、とやよの膝を叩いた。
やよが流れについていけずにきょとんとしていると、えなは笑顔で手招きをした。やよはうなずきながら席を立って、えなに連れられて二階へ上がった。
えなが案内してくれた部屋は、カーテンや壁紙すべてが淡いピンクで、棚の上にはうさぎの置物があったりして、シンプルだけど女の子らしい空間だった。
「あたしの部屋だからくつろいで。あんなとこでじっとしてたら息が詰まっちゃうよね」
やよは床に座り込んでやっとえなの意図に気がついた。
「連れ出してくれてありがとう」
「そんな大げさな。あたしもやよちゃんと久しぶりに遊びたかったし」
歯を見せて笑う顔は、小さいころから変わっていないけれど、ずいぶんとお姉さんになっていた。やよは二歳の隔たりを大きく感じた。
やよとえなは歳が近いこともあって、小学生のころはよく遊んでいた。ところが、大きくなるにつれて両親たちが会う機会が減り、だんだんと距離ができていった。小学生なら性格や価値観なんてあまり関係なく、ただ親戚でよく会うという理由だけで仲良くできたものだけど、さすがに高校生になるとそうもいかない。やよは、えなが今どきのかわいい女子高生になっていて気後れしてしまった。
えなが部屋のカーテンを開けたり、小さなテーブルを運んだりしているあいだ、何から話そうかと悩んだ。口べたなやよにとっては、大きな試練だった。
何か話題を見つけようと部屋の中をきょろきょろと見回していると、えながテーブルを部屋の真ん中に持ってきてやよを呼んだ。
「そんなとこにいないでもっとこっちへおいでよ」
首を縦に振ってやよはテーブルの前まで移動して、えなと向かい合った。
「あたしが高三てことは、やよちゃんもついに高校生かあ」
頬杖をついてやよの顔をまじまじと見る。
「でも、まだなったばっかりで中学生と変わらない気がする」
照れ隠しに茶化しながら目をそらす。
「今はそうかもしれないけど、高校は全然違うよー。もっと楽しいんだから」
えなはにやりとした。
「たとえばさ、放課後に友達と寄り道したって普通だし、制服をちょこっと改造してかわいくできるし。あ、改造は先生にばれないようにうまくやらないとだけどね。それに文化祭だってあるしさ」
「文化祭」
やよはなんとなく繰り返した。それをちゃんと聞いていたえなが拾い上げた。
「そうだよ、文化祭。中学の出し物とはレベルが違うよ。みんながんばってるし、楽しみにしてる。そうだ、写真とか見せてあげるよ。うちの高校結構大きいからにぎやかなんだよね」
えなはそう言って、ピンクの棚からアルバムや紙をどっさり出してきた。
「ほら、外から見るとこんなかんじ」
「すごい」
文化祭と大きく掲げられた校門の写真を見ただけでやよは少し感動した。田舎の中学校までしか見たことがないやよにとって、大きな門や飾り付けられた道はテレビの中の世界だった。
「中庭のステージはこんなかんじで、全校生徒が入り混じって参加してる。あと、出店もこうやってみんなで出してて」
やよはえなの解説に夢中になった。高校生って自分たちでこんなこともできるんだ、と思うとわくわくした。えなは写真やパンフレットを片っ端から広げて見せてくれた。さっきまでとは大違いで、時計を見ることも忘れて話を聞いた。
「でね、普段使ってる自分たちの教室とか、特別教室ではまた別の出し物をしてるんだけど、うちの学校はステージよりこっちの方がすごいの。部活とか有志の集まりがすごく力を入れてて、みんな少人数なんだけど、好きなことやってるからこだわりがあるの。ここの部屋ではね、スライム作ってそれで的当てしてる。で、お持ち帰り用の容器もくれるんだけど、それがまさかの手作り!」
「こだわりがそこ?」
「そうなの。あとはきれいにメイクしてもらって、コスプレ衣装を貸してもらっての撮影所とか。これ見てよ。こんなのばっかり。偏ったコスプレ衣装に笑っちゃったよ。そうそう、これはすごかった。お化け屋敷作った人たちがリアルを追求するあまり、途中退出者続出。怖すぎて三日泣いてた子もいたとかって」
えなは写真を見て思い出し笑いをしている。やよもえなの話がおかしくて大笑いした。
「そうそう、あたしは何をしているかっていうと」
区切りのいいところでえなは思い出して別のファイルを持ってきた。
「じゃあん。こんなことしてます」
「これえなちゃんが?すごい!」
やよは目を丸くした。写真の教室の中は中世ヨーロッパのようなつくりで、たくさんの絵や彫刻がおいてある。廊下と教室の中はまるで異世界のようだ。
「あたしだけじゃないよ。美術部みんなで作ったんだよ。去年は中世のヨーロッパ風でいこうってことになってね」
「こんなの作れちゃうなんてみんなすごいね」
「でも、何が一番大変って、組み立てと置き場所を考えることなんだよね。展示してるのは美術室だし、直前まで授業で使うでしょ?だから置いておけないの。で、みんなでどうしようかと考えた結果、持ち運び式になったの。この壁もね、実は小さいパーツを並べて置いてるの。みんなで分担して家で保管して、前日に全部持ち寄って組み立てるの。まあパズルみたいなもんだね。大きい作品を作った子なんかは、三つに分解できるようにしてたなあ」
やよは口を開けたままただ驚いていた。こんなに立派な展示物が高校生にできるのか、という感心と、えなは思っていたよりもずっと才能ある人間になっていたのだな、という尊敬であっけにとられてしまった。
「さっきもそれで学校に行ってきたんだけど、今年もそろそろ準備を始めなくちゃいけないの。これからはここがアトリエ兼勉強部屋になります」
えなは明るく笑っていたけれど、それはものすごく力のいることなんじゃないかと思った。好きなことと受験勉強をしっかりと両立させてまだ人に明るく振舞う余裕があるなんて、えなは普通の高校生以上にパワフルだ。やよは、少しでもえなみたいになれたらいいのに、と密かに思った。
「ねえ、やよちゃん、今年はうちの文化祭においでよ!きっと楽しめると思うよ」
「うん!」
やよはそう言ってもらえて嬉しかった。こんなに面白そうな行事に参加できることと、尊敬できるえなに誘ってもらったことが二重に嬉しかった。
きっと野乃香も楽しいと言うに違いない。はしゃいで「やよ、こっち」と言う光景が目に浮かぶ。やよは野乃香と一緒に来ることに決めた。
それからまだしばらく、えなは文化祭のことを話し、それから高校のいろはをやよに教えた。えなの話は面白くてためになった。やよは目をきらきらさせてえなの話を聞いた。もはやえなは二つ上の親戚の女の子ではなく、素敵な人生を先行くお姉さんだった。
途中で一度えながジュースを持ってきてくれた以外、二人はずっと向かい合ったままお喋りをした。朝の憂鬱などどこへやら、といったかんじである。
気づけば昼を回っていた。部屋の戸を叩く音がして、えなの母親が顔を出した。
「お昼ご飯どうする?」
「そうだなあ。やよちゃんと外で食べてきてもいい?」
「やよちゃんがいいならね」
えなは振り返ってやよぼ返事を待った。
「なんでもいいです」
「じゃ決まり。いつものとこ行ってくる」
「はいはい」
母親はそれだけ聞くと客間へ戻っていった。
「やよちゃん、安くておいしいとこあるから行こう」
「うん」
どこで何を食べるつもりなのかわからなかったが、ここで親戚一同で行儀よく食事をするより、二人で話しながら気兼ねなく食べる方がいいに決まっている。
「ちょっとだけ待ってね」
と言って、えなはかばんに財布と携帯電話を入れた。
「よし、出発」
えなが部屋を出ると、その後ろにやよはぴったりとついて歩いた。
外は日が高くなっていて頭のてっぺんに熱が溜まる。暑い。少しくらい都会でも、夏の空は同じように暑い。歩きはじめて五分もしないうちに体の表面が湿ってくる。歩道の横を軽やかに過ぎていく車がうらやましい。
「暑いのに歩かせちゃってごめんね」
「大丈夫だよ。まだ平気」
「今日はそこまで暑くないと思ったんだけど、それは午前中に出かけたからだね。暑いわ」
えなは手で顔を仰いだ。
「でも、その分おいしいもん食べられるから期待してて」
自信たっぷりに言うえなに、やよは大きくうなずいた。
「もう少し行ったら地下道があるから下りよう。その方が涼しいし、信号に引っ掛からないしね」
えなの言うとおり、数分歩くと地下への階段が見えた。地下道は地上より心持ち温度が低く、広々としていて歩きやすかった。えなたちと同じように考える人も少なくないらしく、まっすぐ歩いていくサラリーマンがあちこちにいた。
地下道は駅と駅ビルにつながっていて、そのままお目当ての駅ビルにたどり着くことができた。
「ここね、駅ビルなんだけど、五階にフードコートがあるの。カレースパがお気に入りなの」
えなはエレベーターを待つあいだ、フードコートについて教えてくれた。
「やよちゃん、カレー嫌い?」
急に気弱な物腰で尋ねられて、やよはすっとんきょうな声で返事した。
「嫌いじゃないよ!好きだよ、好き好き」
それを聞いて、安心するより面白いと思う方が大きくて、
「やよちゃん、そんなに真剣に答えなくてもいいよー。今何回好きって言ったー?」
と、えなは大笑いした。
やよはちょっと恥ずかしくなってうつむいた。
「カレーが好きならきっと気に入ると思うよ」
「ほんと?楽しみだな」
気を取り直して顔を上げると、エレベーターの戸が開いた。
「行こ」
二人は足早にエレベーターに乗り込んで五階のボタンを押した。
他にも何人か一緒に乗ったが、みんな五階で降りた。まさに昼時、フードコートがいちばん活気ある時間だった。
「うわあ、人がいっぱいだ」
やよは、地元のショッピングモールでもこんなにたくさんの人がいるのを見たことがなかった。
「そうだよー。お昼はいつもこんなかんじ」
えなはそう言いながら空いている席を探した。
一人分ならちらほら空きがあるけれど、二人まとまって空いているところがない。えなが席を見ながらフードコートを回るので、やよも黙ってその後をついて回った。
「今日に限ってなかなか空かないなあ」
フードコートをもう三周している。それでも二人は諦めなかった。えなはどうしてもカレースパゲティを食べたいと思っていたし、やよはえなの勧めるものに興味があったから。
えなの後ろを歩いていて、やよは何の気なしにえなを上から下まで見た。長い髪を適当に束ねて高い位置でポニーテールにしている。短い袖のティーシャツに膝上丈のスカートがよく似合う。よく見ると、膝裏の少し上辺りに青いものがついている。なんだろうと思って目を凝らすと、どうやら絵の具のようだった。そんなところも含めて格好いいとやよは思った。
「あ!あそこの席空いたよ」
えなは早歩きで席の確保に向かった。遅れて早歩きしてくるやよに手招きをしている。
やよが追いついて椅子の前に立つと、えなは、
「座って待ってて」
と言い残して、店の方へ行ってしまった。
一人残されて、やよは落ち着かずに辺りを見回した。家族連れや学生、やよの祖母くらいの年齢の人まで老若男女が楽しそうに食事をしている。中には一人でどんぶりをかきこんでいる人もいた。
店はフライドポテトのような軽食を置いているところから、定食をしっかり用意しているところまであって、幅広い。パフェやワッフルなどのデザートも充実していて、見ているだけでわくわくした。野乃香の好きそうな大盛りオムライスや特大パフェのことは帰ったら野乃香に教えてあげようと思った。
フードコート観察をしていると、一人で座っているのも気にならなかった。一番端に、雑誌に載っていた流行りの店があることに気づいてじっと見ていると、視界にえなが入った。お盆をまっすぐに持ちながらさっさと歩いてくる。
「お待たせー。ちょっと並んでたから時間かかっちゃった」
えなは皿をテーブルに置き、やよにフォークを手渡した。
「さ、食べよう」
「えなちゃん、お金」
やよは財布を持って待っていた。
「いいよー。安いし。ちょっとバイト代が入ったから潤ってるの。気にしないで食べて!」
それでもやよは、財布からお金を出そうとしたが、財布ごと押し返されてしまった。
「やよちゃんはこれをおいしく食べるのが仕事」
えなはもうフォークにスパゲティを巻いている。
「ありがとう。いただきます」
やよはありがたくご馳走になることにした。
えな曰く、カレースパゲティはここの定番メニューらしい。ミートソースやカルボナーラソースの代わりにカレーがかかっている。ソースは麺にからみやすいように少し固めになっている。今は期間限定夏野菜カレーで、スパイスが効いている特製ルウを使っているらしい。
「おいしい!」
一口食べてやよは感激した。暑い中来た甲斐があった。熱々で辛くてまた汗が流れたけれど、嫌な気分ではなかった。
「でしょ!これ、うちの学校で流行ってるの。えーと、ほら、あそこの制服着た子たち、同じ学校」
見ると男女四、五人が制服のままカレースパゲティを食べている。
「みんな好きなんだね」
「うん。結構ボリュームあるから部活帰りの子も多いの」
「そうなんだ」
やよはまた一口、スパゲティを食べた。なんだかえなたちの仲間に入ったみたいで嬉しかった。
熱くて辛いから、ときどき手を休めては氷の入った水を飲む。口の中がひんやりしてすっきりする。そうすると、また一口食べたくなる。でも、野乃香なら一気に食べた後に、「暑い」と言って水を飲み干すんだろうな、と思ってやよは一人でくすっと笑った。
「やよちゃんは高校生活どう?友達とか部活は?」
自分の高校とは違う話も聞きたいえなは、やよに話を振ってみた。
「中学のときよりクラスの数も増えたし、知らない子がクラスにたくさんいるからちょっと戸惑った。でも、部活するようになったら友達も増えてちょっとだけ高校に慣れてきたかなって気もする」
思ったままをつらつらと述べた。
「部活って何?」
「ぽぶ」
「え?」
やよの声が小さいうえに、隣の人がちょうど大きな声を出したので、えなは聞き取れなくて、もう一度聞こうと身を乗り出した。
「さんぽぶ」
「さんぽぶ?」
えなは首を傾げた。
「どういう部活なの?」
「あちこちを散歩する部活」
言いながら恥ずかしくなって語尾が小さくなる。あんなに上手な絵を描く人に、普段は散歩ばかりしている部活なんて言ったって笑われるに決まっている。下手したら、つまらない子だと思われて相手にされなくなるかもしれない。やよの顔はしょげていった。
「散歩?歩くってこと?何それ面白い!」
思った通り、えなは声を上げて笑った。
「そんな部活初めて聞いたよ。あたし興味あるなあ。どんなとこ歩くの?」
興味あるふりなんてしなくてもいいのに、と思いつつも、散歩部の魅力を少しでも伝えたいと、やよはがんばって説明した。
「始めは学校の近くを回るの。それから少しずつ距離を伸ばしていって、夏休みには一日かけていろんなところを歩くの。それで、この道はウォークラリーに最適だとか、あの広場はクラスの集まりに使えるとか調査したり、景色が素敵なところをみつけたり。あと、万歩計をつけて歩いて、消費カロリーを調べたりもしてるよ」
「楽しそうじゃん」
「うん。地味って言われるけどあたしは好き。実は幽霊部員がたくさんいて、ダイエットしたいときだけ参加する女子もよくみかけるよ」
「やっぱり女子は目の付け所が違うよね」
えなはまた笑った。でも、馬鹿にして笑っているんじゃないことはわかった。
「えなちゃんみたいな格好いい部活にも憧れるけど、あたしには無理だし」
照れ隠しにこそっと言ってみる。
「無理なことはないと思うけど、やよちゃんが楽しいならその部活が合ってるんだと思うよ。うちの学校に散歩部があったらあたしも入ってみたかったかも」
「ほんと?」
「うん。だってね、絵を描くときどうしてもピンとくる風景が浮かばなかったりすることがあるの。そういうときに、イライラしちゃって外へ飛び出したりするんだけど、しばらく歩いてると、心が落ち着いてきて、余裕が出てくる。そしたら景色も違って見えて、いつもの道でも小さな発見ができる。この夕日と屋根の境目がきれいだ、とかね。そんなことでまた絵を描こうって思える。今度は迷いなく描きたい世界が描けるの。だから散歩ってあたしも好き」
さっき自分の部活のことを語ったときと同じように笑うえなを見て、やよは散歩部がもっと好きになった。
もう少し部活の話をしてから、勉強の話、お小遣いの遣い道なんかを話した。スパゲティはぬるくなっても辛くてほどよく刺激的だった。
「これは食べておいて正解だね」
「でしょ?あ、ちょっとごめんね」
えなは話を切ってかばんから携帯電話を出した。
「もしもし?うん。今ね親戚の子とお昼食べてるの。うん。うん」
やよは気になりながら、スパゲティに視線を落とし、最後の一口をかみしめた。
「そうだね、うん。じゃあね」
えなは通話を切ると、すぐにやよに謝った。
「ごめんね、話止めちゃって」
「ううん。時間は大丈夫?もう帰る?」
「大丈夫だよ。彼氏が今日夕方から会おうっていうだけだから」
「えなちゃん彼氏いるんだあ」
やよは驚いた声を上げた。後から考えたらそんなの普通だけれど、そのときは突然で、ちゃんと考える余裕がなかったのだ。
「まあね。できたのわりと最近だけど。やよちゃんは?」
「いないよ」
「そっか。これからだよね。高校になると、やっぱりカップルが増えるよー。あたしの場合はね、親友にまず彼氏ができて、あたしとめっきり遊ばなくなったの。でも、途中で親友の大切さに気づいたみたいで、あたしともまた遊ぶようになって、なぜかあたしに彼氏の心配までしてくれてね。親友の彼氏の友達を紹介してくれたの。それで今は四人仲良し。笑っちゃうでしょ」
笑ってはいたけれど、えなは決して照れてもいなくて堂々としていた。
やよは一緒に笑った後、時間稼ぎに水を飲んだ。なんて返せばいいのかわからなかった。
「やよちゃん、仲良しの子はいるの?」
「うん」
やよは野乃香を思い浮かべた。
「じゃあさ、その子に先に彼氏ができちゃっても寂しくないように、彼氏ができてもあたしたちは仲良しねって約束しといた方がいいかもね。あ、やよちゃんが先に彼氏持ちになったときは親友とも遊んであげてね。これあたしの教訓。急に置いてかれると寂しいもん」
明るく微笑むえなは、やよのことを思って言ってくれている。それはわかっていたけれど、やよはうまく微笑み返せなかった。
野乃香に彼氏ができたら、なんて考えたことがなかった。
そんなの嫌だ。考えたくもなかった。
それは、自分が取り残されて寂しいからか。違う。野乃香とずっといたいのは自分だからだ。
もしお互いに彼氏ができたら四人仲良しでいいじゃないか。それも違う。そんな四人なんていらない。
やよはこのとき初めて自分の気持ちを意識した。
野乃香とずっと二人仲良しでいたい。野乃香と離れたくない。野乃香が自分から離れていくなんて、想像できなかった。
でも、高校生なら恋人が欲しいものなのだろうか。彼氏がいて当たり前なのだろうか。野乃香も彼氏を望んでいたりするのだろうか。
やよは急に不安になった。冷たい水を一気に飲んだ。それでも頭に熱が回っている気がした。
それから後の会話は最初から最後まで上の空で、ふと気づいたときは、帰りの地下道にいた。
「やっぱり帰りも暑いね」
「うん、暑い」
地上に上がってからえなの家までは、暑くて仕方がなかった。行きの三倍は歩いたような気がした。やよは早く家に帰って麦茶でも飲みたかった。
「ただいま」
「おかえり」
二人が客間に寄ると、両親たちは一斉に二人の方を向いた。
「さて、そろそろ帰るか」
そこでやよは両親が自分たちの帰りを待っていたことを知った。コーヒーカップの中身は空っぽで、時計を見ると、もう二時前だった。
「やよちゃん、また来てね」
「うん」
「文化祭にもね」
「うん」
えなとはまた会いたいと思ったし、本当はもっと気の利いた返事をしたかったけれど、野乃香への不安を隠すので精一杯だった。
帰りの車の中は、朝よりも気だるかった。母親に、
「お昼何食べたの?」
ときかれても、
「カレースパ」
としか答える気がしなかった。
「おいしかった?」とも聞かれたけれど、やっぱり「うん」としか言わなかった。
やよの頭には三時の待ち合わせしかなかった。
早く会って野乃香の気持ちを確かめたい。
そればかりがやよをせき立てる。家までの一時間という時間の長さに苛立ちすら感じた。
三時前、やよはやっと家に帰ってきた。ゆっくりしている暇はない。
待ち合わせの時間が迫っているからというより、野乃香に一刻も早く会いたいから、急いで準備をした。
準備といっても水筒に麦茶をなみなみ注ぐぐらいのものだが、それがやよには重要だった。
そして、ついでに自分の口にも麦茶を注いで完了。ちょうどいいところへすずみも下りてきて、待ち合わせに向かう準備は整った。
「おかえり。もう行く?」
すずみはちゃんとリュックを背負って立っている。
「うん、行こう」
二人は外へ出た。
「いってきます!」
車から荷物を出している母親は、
「気をつけてね」
と、見送った。
やよの家からささらさ山までは近い。走ればなお近い。走らなくても三時には間に合うが、やよは走らずにはいられなかった。それに付き合わされたすずみは気の毒だったが、小学生は走り慣れているからどうということはなかった。
ささらさ山バス停に着くと、二人は木陰に身を寄せた。そこで息を吐いて初めて汗が吹き出してきた。
「暑いね」
すずみは額をこすって汗を落としている。
「お姉ちゃん、いい子にしてた?」
「もちろん。あのね、えなちゃんに会ったよ」
「えなちゃん?花火とか一緒にしたえなちゃん?」
「そう。すごくお姉さんになってた」
「へえ。あたしも見たかったな」
すずみがこちらを見たので、やよは斜め下を向いてすずみと目を合わせた。
「すずは誕生日会、抜けてきちゃってよかったの?」
「うん。そらちゃんにはおめでとうって言えたし、みんなとはいつでも学校で会えるもん。ののちゃんといとちゃんの方が会える回数が少ないから」
「そう?すずがいいならそれでいいけど」
そこで話は一段落して、やよたちは汗がひくのを静かに待った。
祭りのときはいつもこのバス停が待ち合わせ場所に使われて人が集まるのだが、この時間にはさすがに誰もいない。祭りは日が暮れたころがいちばん栄えるのだ。
「ののちゃんたちまだかなあ」
すずみが道の遠くの方を見やっている。
時計はあと一分で三時になる。やよは時計と歩道を交互に見た。
あと何秒だろう、と再び時計に視線を向けたとき、すずみが声を出した。
「あ!ののちゃん来た」
その言葉に反応して、すずみと同じ方向を見た。
すずみが手を振ると、手を振り返してきた。その姿は間違いなく野乃香だった。こちらの存在に気づいた途端、野乃香は跳ぶように駆けてきた。
時計は三時ちょうどだ。
「時間ぴったりだね」
「間に合ったあ」
野乃香は汗だくで息を切らしている。
「のの、顔赤いよ。相当走ってきたでしょ?」
「ばれたか」
野乃香の熱が空気を伝ってやよに届く。暑い。
「ちょっと休もっか」
山の入口の石段に座ると、やよは持ってきたばかりの麦茶をコップに注いで野乃香に飲ませた。
「はいどうぞ」
「おお。ありがと」
野乃香が勢いよく飲むのを横で見守るやよ。
「生き返るねえ!」
「その元気なら心配ないな。もっといる?」
実は麦茶はそのために用意してきたようなもの。いる、と言うのを予想しながらきいてみた。
「いるいる!」
そうこなくっちゃね、とやよは思った。急いでお茶の用意だけはしてきたのだから。
おいしそうに飲んではおかわりをして、水筒は見事に空になった。野乃香がのどを冷やしていくのを見ていると、やよの汗もひいて涼しくなった。
おいしかった!ごちそうさま」
「いいえ。持ってきてよかったよ。まさかこんなに好評だとはね」
三人は笑った。
話の切れ目に、すずみがやよの横からひょっこりと顔を出した。
「ねえののちゃん、いとちゃんは?」
「それがね、お姉ちゃんバイトでさあ」
「え、そうなの?」
「そう。だから来るのは七時だってさ。付き合い悪いよねえ」
野乃香は目を細めて非難する。表情は変えなかったが、ひそかにやよも残念がった。
「でも七時には来るんだね」
「うん。来なかったら電話かけまくるって言っといたから」
「じゃあコンサートは一緒に行けそうだね」
すずみは嬉しそうに笑った。
「そうだね。今日は天気もいいしね!」
「暑すぎるぐらいだけどね」
手を振ってやよは顔に風を送った。この日差しを天気がいいと言ってのける明るさにやよはときどき面食らう。
「暑いよほんと。やよのは涼しそうでいいなあ」
結局暑いんじゃないの、と思いながら、
「そう?」
と返す。
「うん。おだんごいっこで首がすっきり」
たしかに野乃香から見れば涼しそうだろう。野乃香の髪は汗と風で乱れて肩にひっついている。だらしない。このまま放ってはおけない。
「ほら、後ろ向いて」
「ほい」
やよは野乃香の髪をほどき、手でといてからきっちり二等分してゴムで結う。これはこれでかわいいけれど、熱がこもるので、それをまるめて上げることにした。
「はい、できあがり」
「どうなったの?見えないよー」
「こうなったよ」
すずみはかばんから手鏡を出して野乃香を映す。
「おお!おだんご!やよは上手だねー!」
「おそろいだよ。さ、そろそろ登りますか」
仲良しなんだからおそろいでもいいじゃない、と思った。
「おー!」
と、野乃香とすずみが声を合わせる。
やよたちの定番、ささらさ山で自然と遊ぶコース。ちなみに散歩部の定番コースでもある。石を削ったり置いたりしてできた階段を軽々と上っていく。でもすぐに横道にそれて遊んだりするものだからなかなか頂上にたどりつかない。
「お祭り楽しみだねー!早くアイスとか食べたいな」
「アイスは衣都ちゃんが来てからだよ。その前にクレープ食べようよ」
野乃香はすぐにアイスクリームと言う。でも、やよはクレープを譲る気はなかった。
「あたしかき氷がいいな」
すずみは独り言みたいに言った。
寄り道をしながら蛇行して、やよたちはようやくささらさ山頂上に立った。
「着いたー!」
三人で町を見下ろす。いい眺めだ。三人何も言わなくても心が通っている。でも、今日は少し乱れがちだった。やよはさっきのえなの言葉を忘れられないでいた。この先ずっと、野乃香の横でこうして町を見下ろすのは自分ではないのかもしれない。そうなの?野乃香にきいてしまいたかったが、唐突にきけるようなことではない。もやもやして胸がつまる。こういうとき、誰か助けてくれないだろうか。
たとえば、ささらさ山の主とか。
普段考えもしないようなことが頭に浮かんだ。ここに現れて、自分の代わりに野乃香の気持ちをきいてはくれないだろうか。そう思いながら、あわよくば野乃香に自分と一緒にいたいと思わせてほしいとまで願った。
主が本当にいればいいのに。やよはわらにもすがりたい思いだった。
「そういえばさ」
誰とも目を合わさないでやよは話しはじめた。
「ささらさ山の主って本当にいるのかな?」
「どうなんだろうね」
野乃香の返事は想像以上に軽かった。
「なになに、やよ、お願いでもあるのかい?」
にやつきながらやよに顔を寄せた。
「ううん。ふと思いついただけだよ」
やよは精一杯無関心を装った。
「なんだ、つまんない」
「でもさ」
今度はすずみが口を開いた。
「山の主は女の子の味方なんだよね?だったら本当にいたらいいのにな、って思っちゃう」
「すずはかわいいこと言うねえ」
やはり野乃香の言葉は軽い。
「ののはこうなったらいいのに、とか、ああだったらいいのに、とかそういうのないの?」
やよはここぞとばかりにきいてみる。
野乃香は上を見て少し考えた。
「そうだなあ。あたしは今がしあわせだからなあ。あ、そうか。ずっとこのままだったらいいのにな、って思うかな」
やんちゃそうに歯を見せて笑うと、それ以上の答えは望めない。
「ののはののだなあ」
期待はずれの答えだったけれど、まっすぐな野乃香でいてくれることは嬉しくもあった。
「そうだ!七夕のにおいを嗅ぎにいこう」
野乃香は急に思い出して山の端の方を指差した。
野乃香お得意の野草観察だ。恒例行事だと思って付き合ったが、そこではやはり質問をぶつけるタイミングはみつけられなかった。
野草のにおいを嗅いで満足したかと思うと、今度は別の日課を思い出したようだ。
「よし、次はあれにしますか!」
「今日もやるの?」
やよは明らかに乗り気ではなかった。そんな気力はないのだ。
「やろうよ!今日は七夕だよ?」
「だから嫌なんだよ。暑いもん」
「えー。一回でいいからやろうよ。やろうよ!」
野乃香はやよの片腕を掴んで思い切り揺らした。
「もうわかったよ。一回だけね」
結局やよが折れた。
「やったあ!」
両手を合わせると、すずみに人差し指を立てる。
「すず、よろしく!」
「はーい。いくよ?」
すずみは二人から離れると、すっと息を吸いこんだ。
「ようい、どん!」
散歩部の高校生がここでまさかの徒競走。でも、本人たちはいたって真面目にやっている。やるときは絶対に手を抜かない。それが二人の暗黙のルールだった。
「ゴール!」
すずみがまっすぐに右手を上げた。
「お姉ちゃんの勝ち!」
わずかの差でやよが先にゴールした。二人は地面に滑り込むようにして止まり、荒い呼吸をした。
「あー!今日は負けかー!」
野乃香は悔しそうに土を叩いた。
「七夕の日に勝つって、なんか縁起がよさそう」
やよは嬉しそうに両手を上に伸ばした。自分の思いが叶うような気がしたのだ。
「ねー。のど渇いたよ。なんか飲みにいこうよ」
「じゃあ、うちへ来る?冷えたお茶が冷蔵庫にたっぷりあるよ」
「行く行くー!」
二人はゆっくり立ち上がって、階段の方へ歩き出した。すずみはそのあとを一歩遅れてついていった。
ささらさ山でひと遊びしてもまだ時間があった。少しくらいやよの家にいてもクレープを食べ損ねる心配はなかったので、のんびりと家に帰った。
「ただいま」
「あら、おかえり。もう帰ってきたの?」
やよの母親は買い物から帰ってきたところだった。
「ちょっとお茶飲みにきただけ。ののも連れて」
「こんちはー!」
「こんにちは。やよ、外は暑いからしっかり水分とってゆっくりしてから出かけたら?」
「そうだね」
急ぐこともないし、やよは部屋でお喋りでもして野乃香の気持ちをききだそうと試みた。
「ののちゃん、二階に行こう」
「おう」
そんなことは一切知らずに野乃香とすずみは部屋に入っていった。
今だってこうして何気なく家にお茶を飲みにきているけれど、だんだん家にも来なくなるのかな、と思うと寂しくなってきた。お盆の上の麦茶が揺れている。やよは唇をかみしめて麦茶を二階へ運んだ。
「お待たせ。はい、どうぞ」
やよはお盆を静かに机の上に置いて、二人にお茶を配った。
「いただきまーす」
早速お茶を一気飲みする野乃香を見てやよは心配した。
「ちょっと、一気に飲んだらお腹壊すよ」
「大丈夫だよ。いつもやってるもん」
「まったく」
いつまでも小学生のような顔をして堂々としているのだから返す言葉がない。
「すず、あんたはやっちゃだめ」
野乃香がやっているからといって妹にまで一気飲みさせるわけにはいかない。妹は正真正銘の小学生なのだから、今からお腹を壊したらあとが大変だ。
「はあ。生き返りますなあ」
「のの、それさっきも言った」
「だってこれがいちばんしっくりくるじゃん」
「年寄りくさいな」
「よいではないか」
と言ってから伸びをして、そのまま床に寝そべって動かない。
「やよの部屋は居心地いいねえ」
「そりゃどうも。そんな格好してたら余計に暑くない?」
「これが意外と快適よ」
「ならいいけど」
すずみが先に窓を開けておいてくれたおかげで、お茶を飲み終えるころには部屋の中が過ごしやすい温度になっていた。山で遊んで走り回った疲れをとるように三人はしばらくぼうっとしてた。
「ねえ、ののちゃん」
静かな部屋に静かな声で言った。
「なにー?」
「いとちゃん今日朝からずっとバイトなの?」
「いや、昼過ぎからだって。朝はあたしの家庭教師やってたよ。やっていらんのに」
野乃香は家庭教師の話題になるといつも、いらん、と言う。
「いとちゃんに勉強教えてもらってるの?いいな。いとちゃん頭いいもんね。あたしも教えてもらいたいな」
「えー、やめといた方がいいよー。叩くわ蹴るわのスパルタ授業だよ」
「それはののがちゃんとしないからでしょ?」
やよは遠慮なく言ってのける。どれだけきつく言っても野乃香は応えないことを知っているのだ。
「いやいや、そんなことないから!お姉ちゃんが厳しすぎるんだよ」
手足をばたつかせて必死に反論するが、その面については、やよは衣都を支持している。
「でもいつもいとちゃん優しいよ」
「すずは騙されてるんだよ、あの外面に。というよりお姉ちゃんは外面もあんまりよくないけどね」
「そうかなあ?」
「そうだよ!勉強のことになったら特に鬼!」
勉強嫌いはここぞとばかりに声を荒げた。
「じゃあ、いとちゃんに怒られないように今から勉強する?」
それを聞いて野乃香はばねのように起き上がった。
「やよ、それはやめよう!」
「うそだよ」
真剣に訴えてくるのを見ているとばからしくなるけれど、そこが憎めないところでもあった。だからついついからかってしまうのだ。
窓からの風に当たりながらただ座っているだけの時間は心地いい。でも、いつもならもっと心地よくてもっとわくわくするのに、今日は気持ちが追いつかない。この瞬間、野乃香は自分と同じように心地いいと思っているのだろうか。それとも、ただお茶が飲めて涼めればどこでもいいのだろうか。
窓から野乃香に視線を移すと、野乃香の目は今にも閉じようとしていた。
「のの、寝ちゃうの?」
野乃香の顔を上から覗きこみながらやよは聞いてみた。
「寝ないよー」
と言いつつやはり目が半分閉じている。仕方がない。
「ちょっとだけだよ」
やよはささやいて、野乃香の横に座った。ふと見てみると、すずみも静かに寝息を立てていた。時計を見て三十分だけ寝かせてあげよう、と決めた。
部屋の中はさっきよりももっと静かになった。三人でいるのは変わらないのに、やよはこの部屋にひとり取り残されているような気がした。
やよはそっと野乃香の顔を覗き込んだ。やんちゃそうな寝顔だ。初めて会ったときから変わらない。どんなときでも元気で、いつもそれに振り回される。野乃香の明るさにのせられてしまう。でも、それで今までどれだけ自分が救われてきたかを考えると、野乃香の存在ははかり知れない。不思議と野乃香にはひきつけられてしまうのだ。
でも、きっとひきつけられているのは自分の方だけで、野乃香はべつに自分がいなくてもなんてことはないのかもしれない。代わりの誰かがいれば、それでいいのかもしれない。自分には野乃香の代わりなんていないのに。
そう思うと目が熱くなって、涙がにじみでてきた。けれどもそれをこぼすまいと、やよは瞬きをして気を散らした。こんなことじゃだめだ。もっと祭りを楽しまなくちゃ。野乃香の気持ちがどうであれ、野乃香が楽しいと思っているのは間違いなかった。野乃香のためにも雰囲気を壊さないようにしなくては、と思った。
「さあ、出かけるよ」
もう三十分経った。一声ですずみはすっかり目を覚ましたが、案の定、野乃香は眠りこけたままだ。やよは野乃香の顔の前にしゃがみこんで、頬を二、三度叩いた。
「お祭り始まっちゃうよ」
「は、い」
返事から数秒、野乃香はやっと体を起こした。
「もう五時過ぎたよ」
「え!もうそんな時間?」
あれだけ寝ておいてこの台詞である。やよはなれっこなので知らん顔してかばんを取った。
「お母さん、ささらさ山に行ってくるね」
「いってらっしゃい」
「お邪魔しましたー!」
目が覚めると途端に元気になって野乃香ははきはきとあいさつした。
「気をつけてね」
母親に手を振って外へ出ると、再びささらさ山に向かった。
祭りの日の夕方はいつもよりきらきらしてみえる。でも、今日は少しかすんでいる。きっとやよの目がかすんでいるのだ。それでもお腹は空く。落ち込んでいてもお菓子を食べるときは元気になるものだ。やよはクレープを想像しながら歩くと少し楽しいと思えた。
「よし、元気出たから二段飛ばしで行こうかな」
「やめときなよ。これから夜までうろうろするんだから。それにライブで盛り上がるって言ってたじゃん」
「ちぇ。わかりましたよー」
口を尖らせてすねる野乃香に、
「疲れちゃったらアイスもおいしく食べられないよ」
と、諭した。やよが止めなければ野乃香はおそらく階段で元気を使い果たしてしまっていただろう。
「アイスがあるんだった!ん?待てよ」
階段の一段目に足をかけたところで、野乃香が腕を組んで止まった。何を言い出すのかと思って見ていると、
「あたし、昼ごはん食べてない!」
と、主張した。
一体何をしていたんだか、と思う反面、昼ごはんを忘れるくらいのことがあったのだろうか、と気になったが、きくタイミングを逃してしまった。
階段を上り終えると、一度気づいてしまった空腹は治まらないらしく、野乃香は、
「お腹空いた!早く何か食べようよ」
と、二人をせかした。
「クレープにしよ。いいでしょ?」
「何でもいい!お腹空いた!」
「そんなに大きな声出さなくても。じゃ決まりね。クレープ屋さんを探そ」
真ん中の方にある広場まで続いている出店通りは、開店したてでまだ客と言う客はほとんどいない。やよたちと同じような学生が多くいて、学園祭のようでもある。いろんなお菓子の出店が並ぶ中でクレープを探そうとすると、意外と難しくて、三人がかりできょろきょろして歩いた。
「クレープはどこかな?」
野乃香がよそ見するのを正していると、すずみが、
「あれじゃないかな?」
と、左前方を指差した。
クレープという文字が見えた。あたりだ。やよは少しだけ気分が高まった。
次の瞬間、野乃香はクレープ屋に向かって走りだした。それにつられてやよとすずみもうっかり走りだしてしまった。
「いらっしゃい」
二十歳ぐらいの女の子がクレープ生地を抱えている。開店したばかりだからか、店には女の子一人しかいない。
「クレープはいかが?おいしいの作るよ」
「食べる!どれにしようかな」
野乃香は眉をつり上げてクレープを選んでいる。そして、決心してうなずいた。
「お姉さん、ツナじゃがチーズ大盛りで!」
「大盛りなんてないでしょ」
恥ずかしいやつだ。歳の離れた妹に注意するかのようにやよは野乃香の頬を二度叩いた。
「いいよ」
クレープ屋の女の子は笑った。
「一人目のお客さんだから特別に大盛りにしてあげる」
「やったー!」
本当にそれでいいのか、と女の子を心配しながらやよはクレープを見守った。そんなことを考えてもいない残りの二人は無邪気にクレープができあがるのをじっと見ていた。
「はいよ、大盛り!」
「おっきくてほかほかだ!ありがとう」
と言って、野乃香は片手でしっかりと握った。
「もう」
野乃香がすごくはしゃいでいるのが恥ずかしかった。そして、気を取り直してさっさと注文した。
「チョコバナナください」
「わたしはプリンミックス」
すずみは一緒になって看板を指した。
「すず、順番に言わなきゃ」
やよは申し訳なくなって女の子に頭を下げた。
「いいよいいよ」
女の子は嫌な顔ひとつしなかった。むしろ楽しそうにしている。
「すみません」
困った子たちで、という意味をこめてやよは言った。
女の子の手さばきは見事で、まさにプロといったかんじだった。速くきれいにクレープが作られるのを見て、三人は拍手をした。
「はい、お待ち」
こうしてあっというまに二人分のクレープがそれぞれの手に渡った。
「大きい」
やよは思わず口に出した。
すずみは嬉しそうにクレープをみつめている。
「ありがとうございます!」
と、声をそろえて三人は女の子に別れを告げ、落とさないように慎重にクレープを運んだ。
やよたちは広場の端にある大きな岩に座ってクレープを食べることにした。この岩は上が平らで椅子にはもってこいだった。
「いただきまあす」
野乃香は大きく口を開けてクレープにかぶりついた。
「おいしい!」
「のの、口から出たよ」
いつものことだから見ようとしなくても目に入ってしまう。
「ののちゃんのおかげで大きなクレープ食べられてよかったよ。ありがとう、ののちゃん」
「いいってことよ」
野乃香が歯を見せて笑うと、すずみも真似して笑った。二人とも本当に嬉しそうだった。
「調子いいなあ」
こんなに純粋に笑われてはかなわない。野乃香にはいつまでもそうしていてほしいと思った。
おいしいおいしい、と何度もやよに言いながらクレープをほおばる野乃香に、思わず心からの笑みがこぼれた。いくら悩んでいても野乃香の笑顔は最強だ。それなのに、その野乃香のことで悩んでいるなんてちぐはぐだった。
野乃香がクレープを半分以上食べてしまったころ、やよはまだ少しずつ味わっていた。そのときふと通りかかった人に見覚えがあった。
「あ」
やよは小さな声を出した。
それに反応して、野乃香とすずみも顔を上げた。
「高井さんと西延くんだ」
あれはやよたちのクラスメイトだ。二人仲よくソフトクリームを食べながら歩いている。
今だ。やよはチャンスを掴んだ。この流れなら野乃香に彼氏の話題を自然に出せる。どう思っているか単刀直入にきける。やよは心臓を高鳴らせながら話題を持ち出した。
「あの二人って付き合ってたの?」
「知らない。まあ仲はよさそうだね」
反応が薄い。人のことはあまり気にしない野乃香だから二人のことはどうでもいいのかもしれない。
「あのソフトクリーム何味だろ」
その次の言葉がそれか。人の話の腰を折るどころの話ではない。やよは話がそれてしまう前に思い切って言った。
「ねえ、ののは誰かと付き合いたい?」
やよは野乃香の顔を見た。面と向かってはっきりと聞きたかった。
「あたしにはよくわかんないや。まだ早いよそんな話」
目を閉じ、おちゃらけて自分の頭を叩く野乃香。最悪の答えは聞かずに済んだものの、はぐらかされた気がしなくもない。それが本心なのかどうかやよは判別できなかった。
「そうだよね。ののには早いよね」
やよは一旦攻めるのをやめた。
「なにさそれ!やよにだってまだ早いよ」
本気にして怒るところが子供らしいというか野乃香らしいというか。また複雑な思いがこみ上げてきそうなのを抑えるために、やよは野乃香のクレープをいきなり一口食べた。
「あ!やよ、ずるい!」
と言って、野乃香も負けじとやよのクレープにかじりついた。こんなことができる友達なんてそうそうできない。野乃香がクレープを奪い返してくれたのが、特別な友達のようで嬉しかった。
「チョコバナナもおいしいな」
そしてさっきの真顔はどこかへ行って、野乃香はまた満足そうにクレープを味わっていた。
そのあとクラスメイトの二人はやよたちに気づかないまま通り過ぎていった。野乃香はもちろん、やよも二人のことはもう気にならなかった。
少し経つと、ステージに女子高生が二人登場して、穏やかなギターの音を奏ではじめた。ステージ前のベンチには人が集まっていて、いよいよ七夕祭りが本格的に始まった。
ギターと歌の流れに乗って野乃香はゆったりとリズムをとっていた。やよとすずみはまだクレープを食べている。大盛りだから、普通のペースで食べていると時間が掛かる。
「お腹が落ち着いた」
「それはよかった。なんせ大盛りだったからね」
「やよのだって大盛りだったじゃん。すず、全部食べられる?」
野乃香は身を乗り出して、すずみのクレープの様子を見た。
「もうお腹いっぱい」
と、すずみは答えた。まだ口の中にはクレープが入っている。これ以上食べる気がなさそうなのを見るとすかさず、
「じゃ、ちょうだい」
と、野乃香は手を開いてすずみの前に出した。すずみは野乃香に残りを渡した。
「やった!いただきー」
野乃香は腹ペコの子供のようにクレープを口に入れる。
「お腹は落ち着いたんじゃなかったの?」
そんなに食べて大丈夫?そう口をついて出そうだったが、こんなことでは満腹になるはずがない、と思い直してやよは口をつぐんだ。
「落ち着いただけで、満足したとは言ってない」
「ああそうですか」
横でクリームを顔につけながら食べる野乃香がいるのでは、アコースティックライブどころではない。やよはあきらめて、ぼんやりとステージを眺めた。
ステージの二人も仲良しなんだろうか。彼氏はいるのだろうか。そんなことが気になってしまう。でも、自分みたいに悩んでいることはないんだろうな、と思った。ギターの音も歌声も、やよの耳にはほとんど入らずに空のほうへ全部散っていった。
「天の川見られるかな」
突然すずみがつぶやいた。
「今日は天気がいいからきっと見られるよ」
やよがすずみの頭をなでる。ちゃんと天の川を見るのを楽しみにしているかわいい妹だ。
「今年もみんなで天の川鑑賞だよ」
みんなで天の川鑑賞。野乃香のみんなはこの四人のことだろうか。もしも別の人と天の川を見ることになっても、みんなで天の川鑑賞と言うのだろうか。やよには自分たち以外の天の川鑑賞なんて存在しなかった。
「いとちゃんはまだ?」
じっとしているのに飽きてきたのか、すずみは足を動かしている。
「あと三十分はあるな」
野乃香は携帯電話をポケットから取り出して時間を見る。
「三十分かあ」
「お姉ちゃんが来るまでひと遊びする?そしたら七時なんてすぐだよ」
野乃香は携帯電話をしまって、岩から飛び降りた。
「うん、そうする」
すずみまで岩から飛び降りた。何を言っても遊びにいくだろうから、やよは付き合って二人のあとを歩いた。
着いたところは奥の方の大きな木。三人は器用によじ登って眺めのいい位置に並んだ。ただ景色を見ているだけでも楽しいのだけれど、今日のやよはそんなに楽しめない。野乃香の気持ちをきくタイミングをずっとうかがっていたからだ。でも三十分は未収穫のまま過ぎて、広場に戻ることになった。「あたしとずっと一緒にいたいと思う?」なんて、どうしたらきけるというのだ。やよは泣きたい気持ちになった。
広場ではさっきと打って変わってノリのいいロックナンバーが流れていた。
野乃香は木登り後にもかかわらず、元気いっぱいに体を動かしている。
「ほら!やよも!」
やよの手を無理やり引っ張って頭上にかざす。
「あたしはいいよ」
やよはそんな気分になれないし、気持ちを落ち着かせたかった。というよりそもそも恥ずかしい。
「いいじゃん、今日はお祭りだよ。やよ!やよ!」
一人でお祭り騒ぎをしている野乃香には疲れたが、やよはやけになって同じように右手をかざした。
すると楽しそうにみえたのか、すずみも飛び跳ねて一緒に盛り上がった。
「随分ご機嫌だね」
音楽の隙間から声聞こえて、野乃香とやよは同時に振り返った。
「お!やっと来たか」
「お待たせ」
衣都の登場だ。
「衣都ちゃん早かったね」
まだ七時前だ。妹はいつも遅刻か時間ギリギリだが、姉は必ず早く来る。姉妹でも性格が真逆だった。
「うん、片付けが順調に終わったから。七時過ぎるかなと思ってたんだけどね」
「遅刻は許しませんよ」
「なんであんたは偉そうなんだよ」
息がぴったりの凸凹姉妹にはいつも笑わされる。
「ねえ衣都ちゃん、お腹空いてない?」
きっと七夕で忙しくてろくに食べていないだろうと予想して、やよはまず衣都に疲れをとってもらおうと思った。
「ちょっと空いてるかな。今日ゆっくり休憩とってないし」
やっぱり、とやよは思った。
「お店忙しかったの?」
すずみが衣都の方を少し見上げた。
「七夕だし。ここらへんはお祭りっていうとみんな元気になるからね」
「じゃあ、そこのたい焼き食べよう」
野乃香は迷いなくたい焼き屋を指した。体がすでにそちらに向いている。
「あんた、先にいろいろ食べてんのにまだ食べるの?」
「いや、今日はそんなに食べてない」
「あっそう。ま、近いしたい焼きでいいよ。あたしの分も買ってきて」
さすが姉はなんでもわかっている。余裕で妹を扱うところはやよも見習いたいところだった。
野乃香はもう歩きはじめているから、やよは口早にすずみと相談した。
「すずはいる?」
「一個は食べ過ぎな気がする」
「わかった。半分つしよ」
それだけ確かめてやよは野乃香に追いつくように小走りした。
「あんことクリーム一個ずつで!」
「あいよ。お譲ちゃんは?」
たい焼き屋のおじさんはやよにも注文をきいた。
「あんこひとつ」
「あいよ」
ちょうど焼き上がったたい焼きを紙にくるんで渡してくれた。
「熱いから気をつけてな」
「ありがとう!」
いとも簡単にたい焼きを手に入れてやよたちはベンチへ向かった。
「やよもあんこかよ」
「ひとつって言われたらあんこでしょ」
「いやいや、クリームだね」
自信満々に持論を展開するが、やよは相手にしていない。
衣都たちのところへ戻ってくるなり、野乃香は衣都にたい焼きをぶっきらぼうに差し出す。
「あんこだよ」
そして衣都の横に座った。
「すず、あんこでいいよね?」
すずみの隣に座り、やよはたい焼きを上手に二等分した。
焼きたてのうちにと、四人そろって早速たい焼きをかじる。
「ののちゃんのは中身何?」
「クリーム!たい焼きといえばクリームだよ」
そこでもクリームを推す野乃香。なんとかのひとつ覚えだとやよは思った。
観客の声が大きくなって、演奏の締めに入っているのに気づいた。次はまた別の出演者が出てくるのだろう。
ステージを見ていると、
「何か飲み物買ってくる」
と言って、衣都が立ち上がった。
「あたしも行く」
すずみもすぐに立ち上がり、衣都の横に並んだ。
「あたしは炭酸がいいな。一本でいいよ。やよと一緒に飲むから」
座ったまま野乃香は衣都に注文する。自分で買いに行く気はないらしい。
「また勝手に決めて。やよちゃんは?」
「一本も飲めないからののと半分つでいいかな」
野乃香と半分つならいつものことだ。それに、当たり前のように一緒に飲むのは仲のいい証拠だとやよは思っていた。
「そう?炭酸でいいの?」
「うん」
やよがうなずくと、衣都とすずみは飲み物を買いに歩いていった。
「この時間お店はどこも人がいっぱいだから時間が掛かるかもね」
やよは広場と屋台の列を交互に見た。
「べつにいいや。やよとステージ見てたらすぐだよ」
「まあね。ののといると時間が短く感じるよ。うるさいから」
とからかったけれど、本当は嬉しい顔を隠したかっただけだった。
「うるさくないもん。元気があると言っておくれ。あ!次のライブ始まったよ」
相変わらずノリのいい野乃香はやよを巻き込んで歌って踊った。
途中でギターが間奏を独り占めしたのを聴いて単純な野乃香は、
「ギターってかっこいいよね」
と、ステージを見たままやよに言った。
ギターを弾いているのは高校生ぐらいの男の子だった。やっぱり野乃香も普通の女の子と同じで、ギターを弾く男の子が格好いいと思うのか。やよは落胆と嫉妬で意地悪なことを言った。
「そう?でも弾いてる人はそんなにかっこよくないよ」
実はただ意地悪したのではなく、野乃香の気持ちを引き出そうとかまをかけてみたのだ。
「そうかなあ?」
「ただいま」
そこへ衣都たちが戻ってきて、野乃香の注意はジュースに移ってしまい、答えを聞きそびれた。
野乃香はそれきりギターのことは口にしなかった。いきなり蓋を開けてそのまま口にあてがい、のどを鳴らした。
「はい、半分」
すっきりした様子で缶をやよに向けた。
「もう半分飲んだの?」
「飲みだしたら止まらなくて」
「何言ってんだか」
やよはギターのことを思い出しつつ、缶を手に取って残りを少しずつ飲んだ。気をつけてはいたけれど、野乃香がこぼして濡らした部分に触れてしまい、やよの手は少しべたべたしたのだった。
ライブがすべて終わったころ、やよたちは騒ぎ疲れていた。ステージといえば、あとは七夕コンサートを残すのみ。ステージの前に座っている人たちも少し静かになって、ライブの余韻に浸っているようだった。
やよたちも同じく、ついさっきまでのリズムを思い出しながら、ゆっくりと熱を冷ましていた。
「天の川、見えてる」
その言葉に反応して三人も空を見上げた。
「ほんとだ」
どんなに落ち込んでいても、天の川がきれいなのはわかる。でも、いつもみたいに脳裏に焼きつかない。きれい、きれい、と唱えるほど、その言葉が遠ざかっていく気がした。
「今年も織姫と彦星が会えてよかったよかった」
野乃香が調子の外れた声で言った。深く考えていないのはまるわかりだ。
「あんた、その話ちゃんと知ってんの?」
「なんとなく」
「ののちゃん、適当に言ってるでしょ」
野乃香はへらへらと笑っている。
織姫と彦星なんて、簡単に言ってくれるけど、野乃香はその意味を考えたことがあるのだろうか。今日一日そればかり考えている人の気も知らないで笑っているのが許せなかった。それを通り越して空回りしている自分がみじめになった。
「でもさ、ここには彦星がいなくて織姫ばっかりだね」
やよは自嘲で言おうとしたわけではなかったが、結果的にそれと同じことだったかもしれない。
「じゃあ、誰か彦星連れてくる?」
野乃香はやよを馬鹿にするみたいに笑う。その意味を考えて言っているのか、と問いただしたかったが、それよりもその先が気になって質問を返した。
「当てがあるの?」
「お父さん!」
「それはいいや」
やよはしらけてしまった。
本当にそれしか当てがないのか、茶化しているのか、実はやよよりもずっと多くを考えているのか、やよには見当がつかなかった。もうわけがわからなくなっていた。
「いとちゃんに彦星は?」
今度はすずみが衣都に質問をした。
「うーん」
少し考えて、
「いないなあ」
と、衣都は答えた。
「そうなんだ」
「べつにさあ」
大きな声で野乃香が割って入ってきた。
「織姫四人でもいいじゃん、楽しけりゃ。それに織姫ばっかりなら雨で会えないこともないしね」
突拍子もない発言に一瞬みんなの動きが止まった。そしてすぐにおかしくなって吹き出した。
「またばかなこと言って」
「ののらしいなあ」
野乃香らしい言葉だった。そしてそこに偽りはなかった。野乃香は本気で言っている。今までの付き合いでそれくらいはわかった。やよはそこで笑うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
「でも、雨でも会えるのはいいことだよね」
すずみが人差し指を立てて言うと、
「でしょ!」
と、野乃香はすずみの肩を叩いた。
「痛いよ、ののちゃん」
笑いながらすずみが肩をさすると、
「ごめーん。だってすずがいいこと言うからさあ」
と、へらへらして言った。
「ののちゃん、七夕だから気分が上がってるね」
「そうなんだよー!」
ばかみたいだけれど、野乃香は本当に楽しそうで、今ここで四人でいることを楽しんでいることだけはたしかだと思った。
「もしもし」
衣都が電話に出た。やよは気になってちらりと衣都を見たが、衣都はそっぽを向いて何か言っている。そのうちにやよたちから離れて遠くの何かを見ているのだけはわかった。そして、こちらへ戻ってくると、
「いとちゃん、用事?」
衣都にすずみがいち早く声を掛けた。
「その先の出店を手伝ってほしいって友達が。お開きまでには帰ってくるから」
急いでいる様子の衣都を追いかけて、すずみは呼び止める。
「いとちゃん、邪魔しないからあたしもついていきたいな。いとちゃんが働いてるとこ見てみたい」
間をおいて、
「いいよ」
と、衣都が答えると、すずみは嬉しそうな顔をした。そして二人は手をつないで駆けていった。
「あらら、行っちゃった」
「せっかく四人揃ったのにね」
最後のコンサートが始まって、いちばんロマンチックなときにふたりはぽつんと広場の端に座っている。
「二人ともお開きまでに帰ってくるかな」
「うん」
野乃香の返事は適当だとわかったが、やよも話したい気分ではなかったので気にならなかった。
ぼんやりと音楽が耳に入ってくる。
去年の七夕は、二人になろうがずっと話していた。話が途切れても全然苦ではなかった。何をしていても、二人でいればお互いを理解できた。
それがどうして今年はそうはいかないのだろう。今日は野乃香の心も離れている気がする。いつかは野乃香も彼氏と七夕に来るようになって自分を置いてどこかへ行ってしまうのだろうか。
いつまでもこのままではいられない?それが普通?高校生になるとはそういうことなのか。少しずつ大人になるということ?大人にならなきゃいけないの?
嫌だ。そんな大人なんて嫌だ。なりたくもない。
やっぱり野乃香といたい。ずっと一緒にいたい。どこにも行かないでほしい。
やよの思いが心の中を一気に駆け巡った。そして、抱えきれなくなってそれが外へ飛び出した。
やよはベンチに置かれた野乃香の手を自分の手で覆い、力を込めた。強い目で野乃香をみつめ、声が上がってくるのを待った。
野乃香は驚いてやよをみつめ返してきた。
やよは震えを抑えて、心のままに言葉を紡いだ。
「あたしたち、ずっとこうして一緒に七夕を過ごせるよね」
言ってしまった、とやよは思ったがもう遅い。野乃香の反応を見るのも怖くて、一秒一秒が胸を締めつけた。
「ずっとこのままだよ」
思いがけない言葉が返ってきて、やよは一瞬頭が真っ白になった。
茶化すこともなく、真面目ぶることもない、その声色にやよは野乃香の真意を知った。
嬉しくてなんて言ったらいいかわからずに頭を整理していると、
「ありがとう、やよ」
という声が耳に届いた。
ありがとう、の意味がわからず、やよはさらに混乱した。
「やよはさ、いつもあたしを楽しくさせてくれるよね」
それは野乃香の方だと思いながら、やよはまだ考えていた。
「そうかな?」
「そうなんだよ」
野乃香の目がきらきらしているのがわかる。きっと自分も同じように目がきらきらしているに違いないと思った。
「今日ずっと忘れてたよ!」
はっとして野乃香は大声で言った。
「何を?」
急いでポシェットを開いて手に掴んだものを見せる。
「何これ?」
「織姫人形だよ!これはやよにあげる」
ぼうっとしているやよの手を引き寄せて、野乃香は織姫人形を無理やり握らせた。
「それでね」
もう一度ポシェットの中を漁る。
「これがあたしの!」
「同じじゃん」
まったく同じ織姫人形が二つここにある。
「よく見てよ。ほら、やよだけ特別に」
そう言われてもう一度見ると、やよの織姫人形の髪にはきらきら光る髪飾りがついている。
「やよのだけ付けてもらったんだよ」
野乃香は得意気だ。
「やよへの感謝の気持ちだよ。やよには光るものが似合うからね。それに、そのお世話能力はあたしにはない。だからあたしのには付いてない」
自分の織姫人形をやよの人形の隣に並べてみせる。
「わかりやすいでしょ!」
急に冗談ぽく言って嬉しそうに野乃香は笑った。
「ほんと、野乃香はわかりやすい。でも、これじゃ織姫が二人だよ」
嬉しいけれど、織姫が二人なのはどうなのか。やよの疑問は不意に口をついて出た。
「だからさっきも言ったでしょ。楽しけりゃ織姫だけでもいいじゃん」
「雨で会えないこともないし?」
「そういうこと!」
二人は声を出して大笑いした。
織姫二人でもいい。野乃香が言うのだからそうなのだ。
ずっと一緒に。思いのかたちは違うかもしれないけれど、思う気持ちは同じ。どんなかたちであれずっと一緒にいられる。それだけでやよは満足だった。今日のところは。
「アイスは?」
急に野乃香が現実に引き戻した。今は何時だ?
「あと五分で出店閉まるよ!」
やよは時間を知らせると、野乃香は一目散に出店のほうに飛んでいった。
「やよ、早く!」
野乃香はやよの手を強く引いて、出店通りを進む。
「あれ?この辺じゃなかったっけ?」
「もうちょっと先だよ」
場所を覚え違えていた野乃香は立ち止まってしまった。二人にそんな暇はない。やよが先導して無事たどり着き、お目当てのささらさアイスを手にしてベンチまでゆっくりと戻った。
アイスクリームを確保できてひと安心すると、気が抜けて二人はぼうっとしてベンチで待機した。
「お姉ちゃんたち、まだかなあ」
けだるそうに野乃香は言うのを横で聞きながら、やよは織姫人形を両手で持ち上げた。
「のの、この髪飾りは自分でつけたの?」
銀色の留めに色鮮やかなビーズが人形の髪の上できらきらと光っている。
「違うよ。あたしがこんな器用なことできるわけないじゃん。これはお店の人がサービスしてくれたんだよ」
「どこのお店?」
「いつものショッピングモールの二階。本屋の横の小さいとこだったよ」
「そんなとこに人形売ってるお店なんてあった?新しくできたのかな」
本屋の横には人形を売るような店はない。よく行く場所だから思い違いだということはないはずだが、もしかしたらごく最近できた店なのかもしれないし、今度行ってみようと思った。
「そうじゃない?だからサービスしてくれたんだよ、たぶん」
「そっか」
やよは人形をみつめた。正直なところ、こんなに自分のことを考えてくれているとは思っていなかったから、驚きの方が大きかったけれど、人形を見ているうちに喜びがだんだんとこみ上げてきた。
「ねえ、気に入ってくれた?」
その顔には正直な気持ちが表れているようだった。野乃香はやよの喜ぶ顔を期待している。
「もちろんだよ」
と言ったけれど、野乃香の頬を弱くつねって照れを隠してしまった。
笑いながらむくれた野乃香の顔を見ていると、
「ごめん、遅くなったね」
という声が聞こえた。
衣都とすずみが帰ってきた。
「お姉ちゃん何してたの?」
「バイト先の友達がさ」
話しながら衣都とすずみは並んでベンチに座った。
「パンケーキの屋台やってたんだけど、突然一人手が放せなくなって、その穴埋めをしてほしいって。ほら、お祭りの最後は込むでしょ?忙しくて二人じゃ回らなかったみたい」
「お姉ちゃん今日はよく働いたねえ」
「そんなに忙しいとこにすずがついていっちゃってごめんね」
そうとわかっていればすずみを行かせなかったのに。
「すずみちゃんおとなしく端っこで見てただけだから困ることなんてなかったよ。むしろ友達は癒されてた。かわいいって」
すずみは満足そうにしているが、きっと衣都は気を遣ってくれているんだろうな、と思った。
「あ!アイス溶けちゃう」
買ってからだいぶ経っているから、早くしないと全部液体になってしまう。
「買っといてくれたの?」
衣都は意外そうな顔をした。きっとアイスクリームどころではなかたのだろう。
「だってあと五分で出店閉まっちゃうとこだったんだもん」
「ありがとう!アイス楽しみにしてたんだ」
二人にも喜んでもらえて急いで買いにいった甲斐があった。
やよがそれぞれにアイスクリームを渡すと、いちばんに野乃香が手をつけた。
「じゃ早速いただきます!」
野乃香がアイスクリームをスプーンにのるだけのせて食べはじめた。いつ落とすかとひやひやしながら自分のアイスクリームをつついた。野乃香はこういうとき、たいがい地面にではなく服の上に落とすのだ。
みんなでごはんを食べるとおいしいなんてよく言うけれど、それは野乃香のためにある言葉なんじゃないかと思った。野乃香ほど何でもおいしく食べる人をやよは見たことがない。野乃香の食べているところを見ていると、本当に自分の食べているものもおいしく感じるのだ。
「さっきより明るく見える」
ふと空を見上げてみる。不思議とさっきよりも光が増してきれいに見える。
「あたしもそう思う」
今までずっと当たり前だと思っていた七夕も、そうじゃないことに今日気づいた。わかっているから言わないなんてだめ。わかっているから言わなくちゃ。思っていることを伝えなくちゃ。伝えたらもっとわかるしもっと思うようになる。
それがやよと野乃香の関係なのだ。
高校生になるってこういうこと?もう中学生と一緒ではない。
やよはほんの少しだけ成長した気がした。
せっかく自分に小さな自身がついたところでやよが吹き出して笑った。
「何?気持ち悪いなあ」
せっかくの雰囲気が台無しだった。
野乃香はそんなことを知る由もなく、
「何でもないよ」
と言ってまだにやついている。
「やっぱり七夕祭りっていいよね」
野乃香がやよの肩に自分の肩をぶつけて、またあははと笑った。
本当によく笑う子だ。
「さて、行きますか」
衣都はゆっくりと立ち上がった。
「はあい」
続いて三人が立ち、そのまま短冊を飾りに一本木のほうへ向かった。
やよは気乗りがしなかったが、行かないわけにはいかない。これがないと七夕祭りは終わらないのだ。
「みんな、ちゃんと短冊は用意してきたかな?」
「おー」
どうも野乃香とすずみだけがその気のようだ。
「あれ?お二人さん、短冊用意してないのかい?」
「あたし、まだなの」
やよは仕方なく告白した。本当は三時までに書く予定だったけど、気分は短冊どころではなかった。
「実はあたしもなのよ。でも、今決めたからすぐ書いちゃうよ」
と、衣都はかばんから短冊とペンを出して迷いなく書く。
「あたしも」
早くしないと焦って余計に何も浮かばなくなる。やよはとりあえずいちばんに浮かんだものを書き出した。
「なになにー」
野乃香が面白がって衣都にからんでいる。
「えー。なんだ。一緒じゃんかー」
そう言って野乃香が自分の短冊を見せてくるので、何の気なしに読んでみた。
「来年もみんなで一緒に七夕できますように」とは、今まさに自分が書いた言葉ではないか。
「あたしもだよ!」
ぽかんとしていると、すずみまで自分の短冊を見せてきた。
三人に先に披露されてしまって一人残されたが、言わなくてもどうせばれる。
「言いにくいけどあたしも一緒だ」
遅れてやよは白状した。
「みんな一緒ってすごいね!やっぱあたしたち最高だね!」
すずみは無邪気にはねて喜んでいる。
考えてみれば四人とも同じ願いごとなんて、そうそうない。今年の七夕はやっぱり少し違うと思った。
野乃香がいて、自分がいて、衣都とすずみがいる。それがいちばん大切だと、野乃香も思っていたことが嬉しかった。
来年も絶対に一緒にここへ来るとやよは心に誓った。
短冊を木に結び終えて、それを眺める。大きな木にたくさんの短冊が葉のように並んでいる。
夜風が一本木の葉と短冊を揺らしていく。ささら、ささらときれいな音がして、緑のにおいが鼻をかすめた。それはハーブティーみたいなにおいだった。
「そろそろ帰ろうか」
そして今年の七夕祭りはお開きとなった。
階段をいちばん下まで下りると、野乃香と衣都とは別々になる。
「またね。おやすみ」
野乃香は最後まで元気があり余っていた。いつまでも思い切り手を振って、やっと背を向けて帰った。
家までの数分、二人はぽつりぽつりとしゃべった。二人とも眠かったのだ。
すずみが寝ないで勉強するなんて言っているけど、やよはそんなことお構いなしに寝るつもりにしている。
今日はいろいろあって疲れたんだから。