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衣都の短冊

「どんな先生なの?やっぱ鬼みたいな顔した?恐ろしいかんじの?」

「全然。かわいい女の先生だよ。かわいいけど、隙のなさそうなしっかり者ってかんじ」

 フランス語の教科書に目を通しながら衣都は答えた。

 朝江先生の授業は厳しいと評判だった。宿題をやってこないと散々説教されるとか、私語にチョークを飛ばしてくるとか、そういう類ではなく、授業内容自体が厳しい。宿題の量は多くて、授業を進めるペースが普通の倍くらいだ。同じレベルで試験があるものだから、脱落者も多く、単位を取れるのはごくわずかの学生だけだった。

 真面目な衣都は、勉強が苦ではなかったし、興味のあることはとことんやりたい性格だったので、朝江先生の授業も順調にこなしていた。

 それに、彼女が教えることに対して熱心なのも、衣都が授業に出る理由だった。

 朝江先生は、宿題をしてこないような生徒には容赦ないが、きちんとしている生徒には丁寧に教えてくれるし、授業外では優しくて明るい女性だった。

 たとえば、授業中に指されて宿題をしてこなかったのがばれると、

「試験の点から十点ひきます」

と、帳簿にメモをする。

 でも、授業後にわからないところを質問すると、ルーズリーフに例題を書き起こして説明し、

「これでもう一度考えてみて。それでもわからなかったら、この時間空きだから研究室まで来て」

と、自分の時間割を渡す。

 こんな調子なので、人数は限られているけれども、毎年確実に受講生が一定数いるのだ。

 今日の宿題も、教科書六ページをみっちり読まなければいけないという、地味だけど重い内容だった。

「ふうん。じゃあ先生は仮面を被っているんだね。ほんとは恐ろしい鬼なのに」

「あんたどこまで鬼をひきずるの?」

 頭の上にのせられていたぬいぐるみのぴろりえったが床に落っこちたが、衣都は無反応に徹した。下手に触ると、野乃香が調子に乗ってもっとぴろりえったで攻撃してくるからだ。今日のうちにこの宿題だけはやっておきたい。フランス語以外にも宿題があるから、できるだけ早く済ませたいのになかなか進まない。姉妹で同じ部屋だと面倒だと、こういうときに感じる。野乃香のいるところで集中することなどまず無理だった。

 衣都の怖い顔を見て、野乃香は慌てて、

「だって宿題が!」

と、抗議したが、衣都は容赦なく切り捨てる。

「うるさい」

 鬱陶しくなったので、野乃香の顔を押して突き飛ばした。

「あんたも今のうちから宿題始めとけば?」

と言ったものの、野乃香から返事はなく、「おやすみなさい」の声だけが時間差で返ってきた。

 衣都はため息をついた。心落ち着くため息だ。野乃香に「宿題」という言葉をつきつければ、たいていおとなしくなって逃げるか寝るかのどちらかをとる。

 ここからがようやく衣都の時間だ。野乃香の相手をしながら読んでいた部分をもう一度読み返し、しっかりと頭に入れる。授業中に指されてもちゃんと答えられるように。そう思いながら衣都は集中した。

 原文を読み終えると、日本語訳にとりかかる。辞書を駆使してノートに一文ずつ丁寧に書いていく。どうしてもわからないところは空けておいて、先生に質問するのだ。

 黙々と作業を続け、疲れてきたころにやっと宿題が完成した。衣都は大きく伸びをすると、少しぼうっとして頭を休ませた。

「そういえば」

 ふと思い出すなりかばんからファイルを取り出し、一枚のプリントを手に取った。

 それはこの前返ってきた小テストの答案で、それには丸バツだけではなく丁寧に解説がつけられていた。衣都はまだちゃんと結果を見ていなかったので、今のうちに見ておこうと思った。

「この和訳は難しいところですが、よく考えて言葉を選んだのがわかります。ニュアンスも出ていて良い訳です」と、褒められた。衣都は素直に嬉しいと思った。高評価を得られたから嬉しいのではなく、自分の考えを汲んでくれたことが嬉しいのだ。

 前からときどき感じていたのだけれど、朝江先生には衣都と似ているところがある。今のテストもそうだった。どういう過程でこの言葉を選んだかということを先生は理解してくれている。感覚が近いからこそ共有できるのだ。あるときの会話では、「わたしは生真面目なところがあって、ときどき疲れちゃうの。でも、どこまで真面目を通せばいいのかってそこでまた真剣に考えちゃって余計に疲れるのよ。笑っちゃうわよね」なんて言っていた。そのとき衣都ははっとした。衣都が普段から思っていることと全く同じことを言ったからだ。それ以来、どことなく親近感を抱き、授業がますます好きになった。

 だから朝江先生の授業には一番真面目になる。今日も宿題を先に終わらせておきたかったのはそういう理由からだった。

 時計は夜中といっていい時間を差していた。一段落ついて気が抜けると、急に眠気が襲ってきた。明日も朝から妹の世話をして、昼にはバイトに行かなければならないので、寝るのが賢明だと判断し静かに電気を消すと、自分でも驚くくらいの早さで眠りに落ちた。

 朝。うっすらと開いた目で目覚まし時計を探し、時計の針を読む。アラームを合わせた時間より少し早い。目覚ましの音で目が覚めたわけではなさそうだ。まだ意識がはっきりしない中でどうして目が覚めたのかを考えていると、外から耳障りな騒がしい音が聞こえてきた。原因はこれである。母親が掃除機をかけて家中を回っていた。

 衣都は隣で寝ている野乃香をなんとなく見た。野乃香はまったく目を覚ます気配がなく、布団からはみ出て熟睡していた。今起こそうとしても無駄だと悟ると、衣都は数回瞬きをしてからさっと起き上がり、顔を洗おうと部屋を出た。

「おはよう」

「あら、おはよう。もう起きたの?」

 母親は掃除機をかけっぱなしで喋るので、その後何と言ったのか聞き取れなかった。どうせたいしたことではないとふんで、衣都は廊下を通り過ぎて洗面所へ向かった。

 今日は学校がないから、朝もゆっくりできる。衣都はいつもより身支度に時間を割き、まめに髪を梳いたりしてみた。髪がきれいにまとまって、機嫌よく着替えをした。

「お母さん、朝ごはんはののと一緒がいいよね?」

 朝食を作ってくれるのは母親だから、衣都は母親の都合をきいてみる。

「どっちでもいいわよ。衣都が先に食べたいなら今作ろうか?」

「うーん。ののと一緒でいいや。もうちょっとしたら起こしてくるよ」

「はいはい」

 母親は掃除の続きをしにどこかへ行ってしまった。

 よく考えればべつに急いでいないから、野乃香を待って一緒に朝食にすればいい、ということで、衣都は部屋に戻って先に出掛ける準備をしておくことにした。

 部屋では相変わらず布団をぐしゃぐしゃにして野乃香が気持ちよさそうに寝ていた。それを無視して、衣都はクローゼットを開けたり棚を漁ったりした。少しぐらい音を立てたところで野乃香はびくともしないから気兼ねなく動き回れる。

 いつもどおり、今日の服やバイトの準備は昨日のうちにしてあったけれど、予想外に時間ができたから、かばんを変えることにした。今日はバイトが終わったら祭りへ直行する。それなら荷物は最低限にして、身軽にしておいた方が祭りのときに楽だ。そういうことで、衣都はいつものトートバッグから財布と化粧ポーチを抜いて、小さめのショルダーバッグに入れた。そうだ、ハンカチじゃなくてハンドタオルを持っていこう。その方が何かと便利だろう。そう考えて、たんすからハンドタオルを出し、ついでに野乃香の分も机の上に置いた。放っておいたらどうせ空っぽのかばんをひっかけて出ていくに違いないと思ったからだ。

 そろそろ起こしてもいいころだ。衣都は立ったまま上から声を浴びせた。

「のの、朝だよ」

 まったく反応がない。衣都は多めに空気を吸った。

「のの!」

 結構な大声だったはずだが、野乃香はまだ眠っている。

「仕方ないなあ」

 衣都は面倒臭そうに言うと、野乃香の布団を一気にひっぱり上げ、その辺に落ちていたぴろりえったで野乃香の顔面を覆った。そこでようやく野乃香が目を覚まし、ぴろりえったを両手で掴んだ。

「ぴろりえった、どうしてここに?」

「昨日人の布団の上に放ったまま寝たでしょうが」

 衣都は情けない妹の姿を冷静に見ている。

「ほら、もうとっくに日は昇ってるんだからね」

 身支度を済ませて妹を起こすのに奮闘した後は、すがすがしい朝の光も暑いくらいだった。今から野乃香が顔を洗って朝ごはんを食べてからだと何時から勉強できるか、と時計を見て計算していると、野乃香が何かを言い出した。

「あと五分だけ寝ていい?」

「だめ」

「三分」

「だめ」

「じゃ三十分」

「朝ごはん抜き」

「起きます」

 その言葉から少しおいて、野乃香はゆっくりと起きた。薄めのままぼうっとしている。まだ目が覚めていないのは明らかだった。

「早くおいでよ?あたしこれ以上朝ごはん待たないよ」

と言っていったん部屋を出た。

 しかし、こんなことで素直に起きてくるようなやつではないのは嫌というほどわかっていた。衣都は部屋を出て三歩で戻ると、野乃香に向かって声を張り上げた。

「ごはん!」

 野乃香はびっくりして立ち上がった。

「やっぱり寝ようとしてたな」

 すべてが予想どおりだった。世話のかかる妹だと思いながら衣都は今度こそ部屋を出ていった。

「今のの起こしてきたからそろそろ朝ごはん食べる」

 掃除を終えた母親は居間で書き物をしていた。

「はいはい、じゃあ作りましょ」

 そう言うと母親は手際よく卵を焼き、昨日の魚を簡単に調理し直した。

 衣都は冷蔵庫から茹でてあるじゃがいもを取り出し、マヨネーズやからしを混ぜ込んでポテトサラダを作った。

 その合間に足音が外から聞こえたと思うと、野乃香がゆっくりと居間に入ってきた。

「おはよう」

「あらおはよう。やっと起きたの?さっさと顔洗って歯磨きしてきなさい」

「はあい」

 野乃香が洗面所にいるあいだに朝食はできあがった。母親はご飯を茶碗二杯によそうと、居間から出ていった。あとは飲み物を用意するだけだ。自分のコップと野乃香のコップを持ってきて、均等に牛乳を注いだ。じきに野乃香は戻ってくるからと、衣都は先に椅子に座って待っていた。

 衣都の読みどおりに野乃香はその後すぐに居間に戻ってきた。そして二人で、「いただきます」と言ってから朝ごはんを始めた。

 野乃香は一旦椅子から離れたと思ったら、オレンジジュースを手に戻ってきた。牛乳の入ったコップに足そうとするのを衣都は注意深く見守った。というのも、野乃香は注ぐのが下手で二回に一回はこぼすからだ。今日はなんとかこぼさずに済んだので、衣都は少しほっとした。それから野乃香は元気よくごはんを食べた。そこへ母親が現れると、

「お母さん!今日の卵焼きすごくおいしい!プロみたいな焼き加減!」

と、伝えた。

「ありがと。お母さん忙しいから二人で食べてて」

「はあい!」

 母親は、近所に行ってくると言ってまた出ていき、居間には二人きりになった。

「ちょっと、ごはん飛ばさないでくれる?」

 黙ってはおれず、つい注意してしまう。野乃香はいつものように右から左へ聞き流しているので気にしていない。

「外でやらないでよね」

「ののちゃんおいしそうに食べるねってよく言われるよ」

「恥ずかしいやつだなもう。ほら、また飛ばしてる!」

 やっぱり言ってしまう。人の迷惑にならないように、妹が恥をかかないように。衣都は常にたくさんのことを考えていた。休みの日の朝ごはんぐらい適当にしていればいいのに、と自分でも思ったけれど、なかなかそうはできなかった。そういうところが真面目なんだな、と思いながらごはんを少し口に入れてゆっくりと噛んだ。これ以上は何も言うまい。

 卵焼きを切り分けて一口ずつ食べていると、視界で野乃香が大きく動いた。ふと見ると、皿はすべて空っぽで、茶碗には米粒ひとつ残っていない。いつ見ても食べるのが早い。衣都は気にせずに自分のペースで箸をすすめた。

「やよも朝ごはんもう食べたかな?」

 コップを握ったまま野乃香はつぶやいた。

「そりゃそうでしょ。やよちゃんはあんたが寝てるあいだに出かけたと思うけど」

 まだ寝ぼけているのか、と呆れながら衣都は牛乳を飲んだ。

「そっかあ。やよは何食べたのかな?親戚ん家でおいしいもの食べてるのかな?」

「どうしてあんたは食べ物のことしか言えないの?」

 今食事を終えたところなのにもう食べることを考えられるのは、ある意味感心しないでもない。何事にも計算がなく、意のままでいられることが許されるのはうらやましくもあった。

 野乃香が冷蔵庫から麦茶を持ってきたので、自分のコップも野乃香の方に置いた。麦茶のポットの持ち方が危うくて、衣都は心配しながらコップをしっかりと見ていた。野乃香はたいてい入れすぎるから、いつもは先に、「ストップ」と合図をするのだが、今日は黙って見ていることにした。それはあまり言い過ぎないように気をつけてのことだった。結局コップの縁ぎりぎりまで麦茶が注がれてしまったけれども、こぼさなかったのでよしとした。

 今日は四人で七夕祭りに行くけれど、野乃香の友達のやよとその妹のすずみはどこに行くにも一緒で、衣都には三姉妹のように見えていた。ただ、すずみはまだ小学生なので、上の二人に振り回されているんじゃないかとときどき心配していた。

「やよちゃんはまだしも、すずみちゃんは早起きしてえらいよね。あの子小学生なのにしっかりしてるわ」

「でもすずは今日親戚ん家に行ってないんだよ」

「え、そうなの?」

 どんなときでも一緒なのに珍しい。

「うん。友達の誕生日会なんだって」

 なるほど、そういう年頃か、と衣都は納得した。

「じゃあ七夕祭りはやよちゃんと二人だね」

「いやそれがね、三時からすずも来るって。一粒で二度おいしいってかんじだね」

「すずみちゃん、ほんとにいいのかな?友達と過ごしたいんじゃないのかな?」

「まあ、すずがそう言ってるんだからいいんじゃない?」

 野乃香はあっけらかんとして、コップの麦茶を喉へ流し込む。

 いくらすずみがそうすると言っていると聞いても、本心かどうかはわからない。断りきれなくて誕生日会を切り上げるのだったらかわいそうだ。でも、本当はどうしたいのか聞く暇もないし、聞く機会があっても十も上の知り合いにそんなことを切り出されて本当のことが言えるとも思えない。そもそも妹の友達の妹に口を出すのもどうかと思う。どう考えても、野乃香たちに任せるしか方法はない。

 衣都が箸を置くと、野乃香も空のコップをテーブルに置いた。

「さて、宿題だ」

「えー。ちょっとだけゆっくりさせて」

「今ゆっくりしてたでしょ。ほら、部屋へ行け」

 衣都は野乃香のお尻を叩いて無理やり部屋へ追いやると、手早く食器を洗い、遅れて自分の部屋に戻った。

 見ると、野乃香は部屋の中でふらふらして遊んでいる。衣都は黙って野乃香に近づき、結っている髪を引っ張って机まで連れていった。そして隣り合わせの机に自分も向かった。

「はい、かばん開けて」

「うえー」

 野乃香がやっとこさ教科書とノートを出すと、衣都はそれを確かめた。

「宿題はどれ?」

「忘れた」

 衣都は野乃香のほほを強めに引っ張って教科書を開かせると、その中身を目に入れた。

「これぐらいならすぐ取り戻せるよ」

 そうは言ったものの、その道のりは長いということがすぐにわかった。

 野乃香の遅れは予想以上だった。衣都は熱心にゆっくりと少しずつ教えた。妹が後で苦労しないようにという姉の優しさである。

 しばらくはなんとかがんばっていたが、ついに野乃香の集中力が完全に切れた。犬のぬいぐるみを転がしはじめたのがその印だった。

 衣都は続きをあきらめて、

「もう。一応宿題は終わったし、残りの復習は明日の夜だからね」

と、野乃香に釘を刺した。

「やったあ!終わったぞ。やよに電話しよ」

「やよちゃんは親戚ん家でしょ?」

「そうだった」

 野乃香はいつも二言目にはやよと言う。でも、こんな野乃香だからいつもべったりでは相手が疲れるだろうと、時々思うのだ。

「やよちゃんもこんな子と年中一緒で気の毒だね」

「そんなことないよ」

野乃香の返事は早かった。

「やよはいつもあたしと楽しく遊んでるもん」

「あんたがそう思ってるだけかもよ」

「いやいや。やよはいつもあたしに何でもしてくれるもん。お弁当忘れたら分けてくれるし、財布落としたらみつかるまでさがしてくれるし、宿題やってないときは見せてくれるし」

「それはあんたが困ったちゃんだからでしょ。ていうか宿題はやってけって言ってるでしょうが」

 何度言っても勉強のことは聞かない。それでも姉として言わないわけにはいかない。

「それはともかく、いつもしてもらってばっかりでいいの?たまにはやよちゃんに感謝の気持ちでも表したらどうなの?」

野乃香の返事がない。そう思って見ていると今度はあぐらをかきはじめた。

「そうか。やよに感謝するのか。いいねそれ」

 本当にわかっているのかは定かではなかったが、野乃香が急に立ち上がって小さなポシェットをひっかけたのを見て、何をするのか見当がついたので黙っていた。

「買い物に行ってくる!」

 衣都はただ自分の教科書を読んで、

「いってらっしゃい」

とだけ言った。

「あ、お姉ちゃん。七時にささらさ山だからね。来なかったら電話しまくるから」

 その言葉を最後に部屋から騒音が消えた。

 野乃香がいなくなった部屋は少し広く、のびのびとできた。それと同時に静かで少し物寂しくもあった。

 普段、全くの一人きりになることなんてほとんどないので、自然といろんなことを考えてしまう。

 野乃香はまたどこかでドジを踏んでいないだろうか。財布を忘れたりしていないかと、机の上を見たが、ないのできっとポシェットに入ったままなのだろう。

 母親は近所まで出かけたけれど、またどこかで長話をしてしばらくは帰ってこないと思った。こんなに暑い中で立ち話して大丈夫だろうか。

 次のフランス語の授業はどこまで進むのだろうか。朝江先生はどんな話をしてくれるだろう。こんなときはよくこういう言い方をします、なんてにこりとしながら説明する。質問したら、長いまつ毛を動かしながらうんうん、と言って聞いてくれる。

 どうして今、朝江先生のことを思い出したのだろう、と衣都は考えた。手元には別の授業のプリントがあるのに。

 朝から野乃香に構いすぎて自己嫌悪に陥っているのかとも思った。なぜそこへつながるかというと、この前朝江先生が、「人の世話を焼きすぎて、おせっかいだなって自己嫌悪になるときがある」と言っていたから。

 考えすぎは駄目。そう自分に言い聞かせる。

 窓に吊るした風鈴が上品に細かく震えた。とてもいい音だった。

 衣都は頭を切り替えて、宿題の続きに力を込めた。一度集中すると、時間が経つのを忘れて打ち込む。予習がてら先のプリントにまで目を通していたころ、時計が出掛ける時間を知らせた。

「さてと」

 プリントをファイルにしまい、机の上をおおよそ片付けると、衣都はさっき用意したショルダーバッグを提げて家を出た。

「いってきまあす」

 少し前に帰ってきていた母親が家の奥から声だけをこちらに向けた。

「帰りは?」

「ののとお祭り行ってから夜帰るよ」

「そう。いってらっしゃい」

 家から五分ほど歩くと、バス停がある。衣都は日傘を差したままバスが来るのを待った。

 バス停には衣都しかいない。太陽が高い位置から光を放ち、日傘に強く突き刺さる。なんだか自分ひとりが熱を集めている気がして思わず、「暑い」と声を出した。

汗はかきたくないと思っていたところに、ちょうどバスが到着した。ステップに足を乗せる直前まで日傘を差して日を避けた。

 バイト先までは二十分くらい。降りたバス停からすぐのカフェで働いている。セルフサービスの店なので、すべてが流れ作業だった。入った当初は何ひとつうまくできず、流れ作業に関わることすらできなかった。順応性のない自分に落ち込んだりもしたが、それだけでは終わらなかった。なぜできないのかを考え、どうすればできるようになるのかを考えた。バスに乗っているあいだはひたすら考えたものである。そのおかげもあって、今ではすっかりベテランの域で、同時に入った学生より遥かにてきぱきと仕事をこなし、ときには焼きたてパンケーキを担当することもある。

 そんなバスの旅も今は別のことを考える余裕がある。

 今日は七夕だから店は忙しいか、とか、みんなは七夕祭りに行くのだろうか、とかなんでもないことを考えていた。

 バスの中から見える道にはいつもより人が多くいて、子供や若者が楽しそうに群れているだけではなく、年配の人も連れ立ってあちこちの店を出入りしている。この町は七夕祭りが大好きなのだな、と衣都は改めて思った。

 ほどなくして衣都はバスを降り、店の裏口から入っていった。

「おはよう」

 小さな女子ロッカー室には先に二人の女の子がいた。

「おはよう。衣都、今日は覚悟しといた方がいいよ」

 同じ歳の日名子が情報をくれようとしている。

「どういうこと?」

「今日はかなり忙しいみたいよ。近所の高校が七夕祭りの待ち合わせ場所にしてるのと、そこの会館でなんかやってるおじちゃんおばちゃんがちょっと休憩しにくるのとダブル繁忙期だよ」

 日名子は両手のひらを広げて大げさに表現した。

「人足りるかなあ?」

 日名子の横にいた蒔絵はエプロンを結びながら、少し不安げな表情をした。

「一日中忙しいのかな?」

「たぶん、夕方までは忙しいね。夕方からの子が来てくれたら人数は余裕出るんだけどな」

「じゃあ、夕方までいかに持ちこたえるかだね」

 蒔絵は眉をつり上げた。

「朝からのメンバーも疲れてるだろうけど、逃げ場はないね」

 日名子はいたずらっ子のようににやりと笑った。

「朝のメンバーは何人?」

「今日は三人」

「少なくはないんだね」

 衣都は状況を把握しながらかばんをロッカーに入れ、エプロンをつけた。

「そう!お客さんが予想以上に多いだけ」

 ここは現代風のよくあるカフェだが、田舎町の中心地という立地なので、客数はしれている。通常は一日数人のバイトで事足りるのだが、たまにこのように込むことがあると店内はてんてこ舞いになってしまう。

「よし、行くか!」

 日名子が気合いを入れて扉を開けた。

 店内は人の声とコーヒーメーカーなどの機械音でごった返していた。

 仕事に慣れている三人はうまくタイミングを見計らって合間に入り、接客にあたった。

「いらっしゃいませ!」

 仕事モードに切り替わると、そのあとは怒涛のような数時間を過ごしたのだった。

「アイスカフェオレのエムサイズください」

「アイスカフェオレのエムサイズですね」

 衣都が注文を繰り返すと、女子高生は小さな小銭入れから小銭を取り出す。

「ちょうど頂戴します。ありがとうございます。あちらでお待ちください」

 流れるように台詞を言い、笑顔を作る。口が回らないほど忙しかったが、ミスもなくこなしていた。

 このまま何事もなければいいなと思っていた矢先、朝から入っていた年下の女の子が注文を取り違えて勘定も狂わせてしまった。まだあまり慣れていないので、ひとつ間違うと次々と間違って、ちょっとしたパニック状態になっていた。

 それにいち早く気づいた衣都は、彼女の横に回り、客に謝りながら注文を取り直してから乱れた列の整理をした。

 女の子は泣きそうに眉を下げていた。

「大丈夫だよ」

 衣都は小声で言いながら肩を軽く叩いた。

 それを見ていた早番の大学生時原は、

「さすがっすね」

と、衣都に向けて親指を立てた。

 それから十分もすると、心持ち客の数が減ってきた。その隙に、衣都と日名子は早番のメンバーに休憩をとるように言い、残りのメンバーで上手に対応した。

 衣都と日名子は同じ大学の同級生だ。学科は違うけれども時間が合えば一緒に食堂へ行くし、同じシフトのときは一緒に出勤することもある。休みの日に遊んだことは今まで一度もないものの、価値観や感覚が似ているから話は弾んだ。何より仕事のペースが同じで、いちいち言葉を交わさなくても次にすることがお互いにわかる。だから、二人がそろえばその場はかなり効率的に回るのだ。

「俺も休憩行っていいっすか?」

 時原はどさくさに紛れてきいてみた。しかし、

「あんたは後」

と、日名子に一蹴された。

「早番全員抜けたら三人になっちゃうでしょうが」

 日名子は見えないのをいいことに時原の足を軽く蹴った。

「日名子、クリームが切れそうなんだけど、新しいのどこかな?」

 注文の合間を縫って蒔絵が後ろの冷蔵庫を開けている。

「あれ、ない?じゃこっちの冷蔵庫にあると思う」

 自分の後ろを指しながら、日名子はコーヒー豆を継ぎ足し、時原には、

「テーブル拭いてきて」

と、指示を出した。

 店内は高校生と年配の集団でいっぱいで、常連客は隅の方でひっそりとしていた。グループがいくつも固まると、どうしても話し声が大きくなる。そうなると、注文する客の声を聞くのに神経を使い、こちらの声がしっかり聞こえるように喉を使わなければならない。

「アイスココアのエルですね」

 衣都の声がカウンターに響く。

「ちょっと?」

「はい」

 どこかの席から来たらしいおばさんが、カウンターの端から店員を呼んだ。

 声が聞こえた気がして、とりあえず返事をしながら日名子は振り返った。

「このコーヒーってね」

「はい」

 これはまずい。

 日名子は察知した。

「衣都」

 日名子は内輪だけに聞こえるぐらいの声で衣都をこちらに向かせると、目と手で合図を送った。

 衣都はそれを受けて、蒔絵にポジションの交代を頼み、テーブルを拭いて戻ってきた時原に、注文をとる位置につかせた。それから日名子の作っていたパンケーキを引き継いで、客に出すと、立て続けに注文のあった「焼きたてパンケーキ」をせっせと作った。

 おばさんはさっき注文したコーヒーを持ってきて日名子相手に話しはじめた。豆がどこのかとか、どういうブレンドかとか、質問から始まり、そのうちに自分のコーヒーに対するこだわりを披露する流れになった。

 日名子は話を切るタイミングをうかがいながら相槌を打った。

 そのあいだ、出勤する数の少ない蒔絵が要領を得ないままコーヒーと紅茶を作ろうとするのを衣都はさりげなくフォローする。蒔絵の手元を見ていたと思った次の瞬間にはパンケーキに目を移し、皿の上に滑らせる。

 そして、パンケーキの注文が途切れたところで、

「日名」

と呼びつけた。

 呼ばれた日名子は、

「はい」

と大きく返事して、おばさんに会釈して一歩後ろに引っ込んだ。

 それでおばさんは気が済んだのか、空気を読んだのか、コーヒーを持って席へ戻っていった。

 衣都はおばさんの話を切り上げるために、わざと日名子に用事があるような素振りで声を掛けたのだ。

「ありがと」

 日名子は衣都にこっそり言って目配せすると、衣都は黙って笑顔で目配せを返した。

 ピークが去ったと確信したころ、先に休憩に行っていた早番の二人が戻ってきた。

「ほら、行っていいぞ」

 カップを片手に日名子は時原に休憩のゴーサインを出した。

「よっしゃ。じゃ、行ってきます」

 時原はそそくさとカウンターから出ていった。

 ピークが去ったとはいえ、暇になったわけではなかった。客は入れ替わり立ち替わり来るし、テイクアウトが増えて、一人が複数買っていくパターンになってきた。

 カウンターは五人でも少ないぐらいだった。皆、必死で迅速な対応を心がけた。汗が流れても、拭く間を惜しんでコーヒーを淹れた。

 あっという間に数十分が過ぎて、時原が戻ってきた。

「入りまーす」

 少し乗りは軽いが、彼なりに頑張っているようだった。

 衣都は、接客の切れ目に蒔絵が休憩に行けるように持っていった。

「蒔絵ちゃん、休憩行ってらっしゃい」

「衣都ちゃんたちは?」

 蒔絵は驚いたような顔をしている。

「気にしないで。後から順番に行くから」

と言って、蒔絵の背中を押した。

「ごめんね、ありがとう」

 蒔絵は申し訳なさそうに両手を胸の前でそわそわと動かして、そっとカウンターから抜けた。

 五人体制になると、だいぶ余裕をもって対応できるようになった。衣都と日名子だけではなく他のメンバーも落ち着いてきて、間違いなく飲み物を作れるようになった。

 その状況を充分把握して、日名子は衣都に、

「抜けていいよ」

と言って、パンケーキ用の皿を置いた。

 衣都はパンケーキの焼き具合を確かめながら、

「あたしは上がりが早いからいいよ。日名は最後までだから今のうち行った方がいいかもよ?」

と、時計を視線で指した。

「じゃあ、水分補給だけでもしてきなよ。衣都に倒れられたらあたしが困る」

 日名子は冗談ぽく大げさに言って、衣都の背中を叩いた。

 そう言われると、衣都は安心して休憩をとることができた。日名子の言葉はいつも力強いのだ。

 黙ってうなずき、きれいに焼き上がったパンケーキを皿に移すと、それを日名子が手に持ち、

「お待たせいたしました」

と、カウンター越しに客に渡した。

 その隙に衣都は隅の扉から裏へ回った。

 従業員用の部屋は小さく、数人が座るといっぱいになる。そこには先に休憩をとっていた蒔絵がいた。衣都は水筒だけを持って蒔絵の隣に座った。

「お疲れ。先に行かせてくれてありがとね。外、落ち着いた?」

「うん。お客さんも減ってきたし、少しくらい抜けても大丈夫」

「そっか」

 蒔絵はおにぎりを少しかじった。

「今日はほんとに忙しいね」

「うん。おかげで時間が過ぎるのが早いけどね」

「ごめんね、衣都ちゃんに助けてもらってばっかりで」

 蒔絵はしょげた声で言った。

「そんなことないよ。蒔絵ちゃんは仕事できてるよ。今日だって閉店までのシフトでしょ。あたしはもう少しで上がりだけど」

 衣都は手のひらを振って蒔絵の言葉を否定する。

「七夕なのに夜まで仕事じゃん」

「そんなのたいしたことじゃないよ。どうせ暇だもん」

「あれ、彼はどうしたの?」

「今日は仕事が遅くなるんだって。だから七夕は明日にするの」

 にこりと笑って、残りのおにぎりを口に入れた。

 衣都はそれを聞いて気が楽になった。今日のシフトのせいで二人の七夕が潰されたらいい気分はしない。もし二人で七夕祭りに行くと言うなら、衣都はシフトを代わるつもりでいた。

「衣都ちゃんは今夜どうするの?」

「妹たちとささらさ山へ行くよ。他に用事もないしね」

「そうなの?相手はいくらでもいそうなのに」

 意外そうな顔をして蒔絵は衣都をみつめた。

「あたしにはまだ早い気がして」

 衣都は斜め上を見た。

「全然早くないよ。むしろ遅いかも。誰かよさそうな人とか気になる人はいないの?」

「うーん」

 答えがみつからず、時間稼ぎのために水筒のお茶を飲んだ。

 よさそうとはどういう意味だろう。気になるとはどういうことだろう。

 そんなこと深く考えたことはなかったが、ここで深く考えてみてもわからなかった。

 衣都はいつだって家族と一緒にいた。ときに友達と集まったりもしていた。それで楽しかったし、満ち足りていた


。その他のことにまで頭が回っていなかった。

 これからはそういうことも考えなければいけないのだろうか。

 そう考えると、衣都の気分は重くなった。

「やっぱりまだ考えられないかな」

 結局それだけを答えると、

「そっか。でも衣都ちゃんは慎重派だから、将来は安泰だと思うよ」

 優しい蒔絵のことだから、衣都を思って素直に言ったのだろう。その気持ち自体は嬉しかった。でも、ちゃんと喜べなかった。

 将来って何?

 安泰って何?

 それが気になった。

 でもこれ以上考えても、答えが出るとは思えなかった。衣都は水筒の中身を空にして、蓋を閉めて立ち上がった。

「水分補給もしたし、戻るね」

「もう終わり?もうちょっと休んだら?」

「今日は上がりが早いから大丈夫。日名と交代してくるよ。後が長いから蒔絵はゆっくりしててね」

 軽く手を振って部屋を出ると、日名子のもとへ寄り声を掛けた。

「お先」

「もう?」

「充分」

 短い会話を終えて目をしっかり合わせた後、日名子は休憩をとった。

 入れ代わりに衣都は日名子の位置につき、コーヒーを淹れて、少しでも手が空くと、備品の補充に当たった。

 その後は、客の数がだんだんと減っていき、蒔絵が戻ってくると、

「あら静かだね」

と驚いたほど、穏やかなカフェになった。

 今は五人いれば充分で、簡単な掃除ができるくらいの状態だった。

「アイスコーヒーのエムとパンケーキで」

「アイスコーヒーエムとパンケーキですね」

 その声を聞いて、衣都はパンケーキの生地を焼きはじめた。

 夕方と言ってもいい時間でも、パンケーキの需要は意外とある。特に今日は食べ盛りの学生が小腹を満たすのに選んでいた。

 衣都は小さなパンケーキを何枚も焼いては皿に盛り付けた。火を使うので周りが暑くなるが、黙って焼き続ける。

 通りすがりに覗いた蒔絵が、

「やっぱり衣都ちゃんのがいちばんきれい。器用だね」

と言った。

「そうかな?」

 衣都はそうだとは思っていなかった。日名子だって同じように作れるし、しょっちゅうやってれば誰でもできる。そう思っていた。

「おかえり」

「ただいま」

 日名子はカウンターに戻ってくると、衣都と一言交わし、

「お疲れ。もう時間だね」

と、早番の三人に順番に声を掛けた。

 あっというまに早番の上がりの時間だ。

「ねえ、今日の七夕はどうすんの?」

 日名子はにやにやしながら訊いてくる。

「妹たちの付き添い」

「えー、そうなの?なんだあ」

 つまらないという顔をする日名子に、

「どうして?」

と、尋ねた。

「今ね、時原が、衣都と七夕祭りに行きたいって言ってたの。衣都にはどうせ相手もいないし、面白そうだから訊いてみたんだけどな」

「なんで日名が面白がるの。妹たちだけじゃ心配だから親も保護者代わりにしてるし、時原とは行けないよ」

「残念。案外うまくいったかもしれないのに」

 言いながら日名子は時原に残念なお知らせを伝えにいった。

 もし時原と七夕祭りに行ったらどうなるのだろう。どう思うのだろう。

 衣都は、時原と七夕祭り行くことを漠然て想像してみた。

 きっと、時原があっちへ行こう、これ食べよう、楽しいね、などと言うのだろう。それで自分ものせられて、時原のペースで過ごすのだろう。

 一緒にいるのが嫌だとは思わない。でも、一緒にいたいかと言われると、特にそうは思わない。どちらでもいい気がする。

 どちらでもいいということは、時原と一緒にいろ、と言われたらずっと一緒にいてもいいということか?それは違う気がする。

 そもそも、一緒にいて楽しいかというと、楽しくはない。ただ、うんざりするわけではない。

 これは、単に時原のことをよく知らないからで、一緒にいる時間が増えて、お互いをもっと知るようになれば、楽しいと思えるのかもしれない。

 楽しいと思えたら好きということなのだろうか。

 結局のところ、そこまで考えても何も変わらなかった。やはり好きという感情は自分の中でまだ育っていないのだ、と衣都は思った。

「あ」

 しまった、と思った。

 パンケーキを少し焼きすぎてしまった。

 急いでパンから離し、皿の上で目を凝らす。

「それくらい大丈夫」

 後ろで日名子の声がした。カップを両手に持ちながらそれだけ言って、待っている客に飲み物を届けた。

 衣都は日名子の言葉を受けて、パンケーキをきれいに盛り付けて出した。

 外は昼間とは違う明るさで満ちている。夕日が強く差して、コーヒーカップがオレンジ色に染まる。

 年配の集いが終わったらしく、注文以外に話しかけてくるおばさんたちもいなくなり、店内はほとんど学生で埋まっていた。この時間に席が埋まることはめったにないため、まだまだ昼のような錯覚を起こす。

「疲れたでしょー?」

 笑いながら日名子が衣都の顔を覗きこむ。

「まあね。でもこの後の方が大変かも」

「妹ちゃんのお世話もいいけど、しっかり休みなよ?どうせまた予習もきっちりやってから寝るんでしょ」

「予習はやっておかないと、指されたとき困るじゃん」

「衣都はほんと真面目だなあ。ついでにあたしの宿題もやって」

「やだ」

 それを見て、カップを洗いながら蒔絵はくすくす笑っていた。

「いらっしゃいませ」

 さっとレジ前に戻ると、日名子は注文をとり、衣都はカップの用意をした。

 この日も最後まで二人の息はぴったりだった。

「さて、衣都は上がりだね。早く妹ちゃんたちのとこへ行ってきな」

 日名子は紙のカップを手渡し、衣都の肩を叩いて送り出した。

「店長が持ってかえっていいってさ」

 衣都の知らないあいだに、日名子は持ち帰りドリンクを用意していた。

「ありがと」

 衣都はしっかりとカップを握った。

「お疲れさま。またね」

 蒔絵は控えめに右手を振った。

「じゃあね、お先」

と言って裏へ下がると、衣都は素早くエプロンを外し、かばんを持ってバス停へと向かった。

 バス停に着くと、まもなくバスが来た。

 家には戻らずに、このままささらさ山へ直行する。ささらさ山の目の前にバス停があるから、バスに乗っていれば七夕祭りはすぐそこなのだ。

 毎日忙しく過ごす衣都も、今日はさすがに疲れたようで、バスに揺られるうちに浅い眠りに落ちていた。

 はっとして目を開けたとき、ささらさ山の一つ前のバス停に留まっていた。降りる準備をして時計を見ると、七時にはまだ余裕があった。

 ささらさ山停留所では何人も人が降り、バス停の周りには待ち合わせをしている人がたくさんいた。みんな行き先はもちろんささらさ山頂上である。

 バスから降りて一番に衣都は野乃香にもうすぐ行くよ、と電話を掛けた。

 山の頂上まで一人で歩くと長く感じるものだった。前も後ろも人だらけ。小さい山だからたいした人数じゃなくても多く見える。一人で歩いている人もいたけれど、なぜか複数で歩いている人ばかりが目に付いた。

 ふとさっきの話を思い出す。

 時原と今ここにいたら、どんな風に感じたのだろう。てっぺんなんてすぐに見えるのだろうか。そうしたら楽しいのかな。そうしたら「将来安泰」なのかな。

 そんな風に考えている今でも、時原の誘いを断ったことを後悔してはいなかった。目の前のカップルがうらやましいとも思わなかった。ただ、一人で歩いているのが寂しいような気がほんの少しだけした。

 でも、衣都は一人ではない。大切な妹たちがこの上にいるのだから。思いがそこへたどりついたとき、山の頂上が見えてきた。七夕祭りは目の前だ。

 空が薄暗くなってきて、出店ではビール片手に浮かれる人がたくさんいた。その周りではお菓子を持った子供たちが走り回っている。

 賑わう出店通りをまっすぐ歩くと、音楽が聞こえてきた。そろそろ広場も見えてくる。

 「端の方」という情報を頼りに衣都は広場の端をたどった。すると、見慣れた三つの影が広場の隅で動いているのが目に入った。間違いなく野乃香たちだ。よく知っている人物ほど、遠くからでも、顔がよく見えなくてもわかるものだ。

 衣都は三人の様子を見ながら近づいていくが、それに気がつく様子は一向にない。よく見ると不格好だが踊っているようだ。その横ですずみも一緒になって動いている。充分近づいたところで一番小さなすずみの頭を撫でるのと同時に声を掛けた。

「随分ご機嫌だね」

すずみは一瞬びっくりして固まったが、それが誰かわかると、わあ、と言いながら衣都にくっついた。

「お!やっと来たか」

「お待たせ」

「衣都ちゃん早かったね」

 まだ予定の七時には少し早かった。

「うん、片付けが順調に終わったから。七時過ぎるかなと思ってたんだけどね」

「遅刻は許しませんよ」

 野乃香は腕を組んでふんぞり返っている。

「なんであんたは偉そうなんだよ」

 衣都は目を細めた。

「ねえ衣都ちゃん、お腹空いてない?」

「ちょっと空いてるかな。今日ゆっくり休憩とってないし」

「お店忙しかったの?」

 すずみが衣都に言う。

「七夕だし。ここらへんはお祭りっていうとみんな元気になるからね」

「じゃあ、そこのたい焼き食べよう」

 野乃香がすぐそこの屋台を指差した。

「あんた、先にいろいろ食べてんのにまだ食べるの?」

「いや、今日はそんなに食べてない」

 ばればれのうそに衣都は目をつぶった。

「あっそう。ま、近いしたい焼きでいいよ。あたしの分も買ってきて」

 疲れていて少し休みたかった衣都は野乃香に小銭を握らせた。元気なやつに買いにいかせるのが効率がいい。

 野乃香は小銭を握ったその足で屋台へ向かった。

「すずはいる?」

「一個は食べ過ぎな気がする」

「わかった。半分つしよ」

 この仲良し姉妹はいつも半分つしている気がする。うちでは考えられないわ、と衣都は心の中でつぶやいた。やよは意見がまとまると野乃香とたい焼きを買いにいった。

 広場に残った衣都とすずみは近くのベンチがちょうど空いたのでそこに座って待った。

「すずみちゃん、半分でいいの?」

「うん。最後のアイスの分とっておかないと」

「うちのブラックホールに聞かせてやりたいわ」

 やっと落ち着いて腰を下ろせて気が抜けると、衣都は少し目を閉じた。スピーカーから流れる音楽と人の楽しそうな声。遠くの木が揺れる音が合わさると、祭りに来ているんだな、と実感する。小さいころからずっとこうしてここにいた。だからこの感覚が体に染み込んでいる。こうしてそれを感じると、とても安心するのだ。

 山の上の空気を存分に吸うと、衣都は目を開けた。視線を感じて横を向くと、すずみがこちらを見ていた。

 どうしたの、と言う代わりに首をかしげると、すずみは表情を変えずにぽつりと言った。

「いとちゃんて大人っぽいね」

「そう?まあ二十歳過ぎたら大人だから、大人といえば大人だけど。すずみちゃんから見たらだいぶ大きく見えるかな?」

 衣都は冗談混じりに言って、子供との距離を縮めようとした。

「はたちよりもっと大人みたい」

 そう言われて衣都はどう反応しようか迷った。

 老けてみえるなら喜ばしいことではないし、上級の魅力があるということなら嬉しいことだし、しっかりしてみえるなら複雑なところである。衣都は自分がしっかりしているとか、頼りになる人間だとは思っていなかった。そう言われると負担に感じてしまう。

「なに?褒めてくれてんの?」

 結局すべてを流して三枚目になってみた。

「うん。なんか、大人だなって」

 すずみが真面目な顔をしているものだから、ついついちょっかいを出したくなって、すずみの両ほほを両手で挟んだ。

「すずみちゃんはときどき面白いこと言うなあ」

「そんなことないよ」

 すずみはまたいつもみたいに笑った。

 会話が途切れてなんとなく手持ち無沙汰になった両手が気になった。それに少し暑い。そこで衣都はさっき日名子が用意してくれた飲み物を思い出した。香りからするとアイスティーだ。カップを傾けて数口分を一気に飲んだ。のどがすっとして心地いい。

「すずみちゃんも飲む?」

 深く考えずにすずみにカップを向ける。すずみはうなずいてから両手でカップを持って、少しずつ飲んだ。その飲み方が小動物のような愛らしさを醸し出す。小学生は純粋だな、なんて思いながら、野乃香の小学生のころを思い出した。すずみとは似ても似つかないほどやんちゃでうるさくて、ちゃっかりしていた。小学生でも人によってこうも違うのか、とため息をついた。

 噂をすれば現れるだろうと思っていると、本当に野乃香たちが帰ってくるのが見えた。

「あんこだよ」

 帰ってくるなり野乃香は衣都にあんこのたい焼きを渡し、衣都の横に腰掛けた。

「すず、あんこでいいよね?」

 すずみの隣で、やよはたい焼きを上手に二等分した。

 みんなにたい焼きが行き渡ると、四人一斉に焼きを食べはじめた。

「ののちゃんのは中身何?」

「クリーム!たい焼きといえばクリームだよ」

 野乃香の答えに軽くうなずきながら、すずみはりすみたいに少しずつ食べた。

 広場の音が変わりはじめた。幕間だ。たい焼きも食べ終えて、ちょうど一息ついたところだった。衣都はちょうどいいタイミングだと思い、

「何か飲み物買ってくる」

と言って、立ち上がった。。

 持ってきたアイスティーは空っぽだった。

「あたしも行く」

 すずみもベンチを離れて、衣都の横に立った。

「あたしは炭酸がいいな。一本でいいよ。やよと一緒に飲むから」

 座ったまま野乃香は衣都に言う。

「また勝手に決めて。やよちゃんは?」

「一本も飲めないからののと半分つでいいかな」

「そう?炭酸でいいの?」

「うん」

 やよはやよで従順な子だ。野乃香の言いなりで、姉として申し訳なくなった。昼間はやよに感謝するとか調子のいいことを言っていたけれど、お祭り騒ぎですっかり忘れているんじゃないか。あまり首を突っ込みたくはないけれど、放ってもおけない。今晩家でさりげなくきいてみようと思った。

「行こうか」

「うん」

 二人並んで飲み物を買いに出店の方に歩いていった。

「甘いもの食べたらのどが渇くよね」

 衣都が少し首を傾げてすずみと目を合わせる。

「そうだね。あたしもあんこ食べたら絶対何か飲みたくなるんだ」

 空中にコップを描いて、それを持つ仕草をするすずみ。子供のお遊戯を見ているようで和んだ衣都は、真似をして宙に浮くコップを持った。

 一番近くにあったジューススタンドには少し列ができていたが、どこへ行ってもそんなに変わらないだろうし、すずみを連れて無駄に歩き回るのも気が引けたので、そこの最後尾に並んだ。

 屋根の下には段ボール製のメニューが吊ってあり、衣都は背伸びをしてジュースの種類を見た。

 一緒になって背伸びをするすずみだが、メニューには到底目が届かない。

「前に行って見てきなよ。あたし並んでるから」

 衣都はすずみの背中を軽く押した。

 うん、と言ってすずみは数メートル先まで歩いていった。

 上を向いて真剣にメニューに目を通すと、首を二、三度縦に揺すってから衣都のところへ戻ってきた。

「決めた?」

「うん」

「何にするの?」

「レモンティー」

 とっておきのことを教えるみたいにすずみは嬉しそうに言った。

「あら、意外と大人だねえ」

 そうしてすずみはレモンティー、野乃香たちにはサイダー、衣都はアイスティーを買ってかえった。

「ただいま」

 衣都たちが帰ってきたのに気づくと、野乃香は真っ先に手を伸ばし、炭酸ジュースを勢いよく開けた。中身がこぼれたのを衣都は見ていたが、放っておいた。手がべたべたになろうが気にしないのはわかっていたからだ。

 野乃香とやよは二人で喋りながらジュースを飲んでいたので、こちらはこちらで静かにのどを潤そうと、衣都はすずみと話をした。

「すずみちゃん、レモンティーが好きなの?」

「うん。レモンがちょっとすっぱくておいしい」

「ジュースは飲まないの?」

「そんなことないよ。ときどき飲むよ。でもやっぱりレモンティーが好き」

 すずみはレモンティーを一口飲んでから、衣都に質問を返した。

「いとちゃんはレモンなしの紅茶が好きなの?」

「そうだねえ。レモンティーも好きだけど、一番は何も入れないブラックティーだね。すっきりしてていくらでも飲めちゃう。あと、香りも好きだな」

「そうなんだ。今度はあたしもブラックティーにしてみよう」

「砂糖入れないと渋いよ。すずみちゃん、飲めるかなあ?」

 わざと意地悪に言ってすずみの反応を見る。

「飲めるよ!飲めるかな?ちょっとくらいなら飲めると思う!」

 必死に答える姿が歳より幼稚でかわいい。すずみはいつもまっすぐに返してくるから、からかい甲斐がある。衣都はアイスティーを飲みながらすずみの頭をぽんぽんと叩いた。

 そうしているあいだもステージのライブは大いに盛り上がりを見せ、観客と出演者が一体となって楽しんでいた。もちろんそこに衣都や野乃香たちも加わっていたが、すずみは飽きたのか疲れたのか、途中から何度かベンチに腰を下ろした。その横に衣都も座ってさりげなくすずみの様子を見た。保護者代わりというのはそういうことで、体調が悪くなっていないか常に気を配っていた。

「疲れた?」

「うん、ちょっとだけ。座りたくなった」

 すずみは両手をベンチにつけて、足をぶらぶらさせた。

「今日はバイト忙しかったの?」

 少し心配そうにきいてくる。

「そうだね。お客さんいっぱい来たよ。でもみんなのチームワークでなんとか乗り切ったよ」

 衣都はあえて余裕の表情を見せる。

「みんな仲良しなんだね」

「うん。仲良しだから楽しくお仕事できるの」

「すごいなあ。お仕事か」

 すずみは遠くを見ながら言った。

「べつにすごくないよ。大人になればみんなやってる。すずみちゃんはしっかりしてるからばりばり仕事できる人になるよ」

「そうかな」

 照れ笑いをするすずみに、そうだよ、と言ってすずみの手の甲に手をのせた。すずみは嬉しそうに一度だけうなずいた。

 そうしてまた立ち上がって音楽にのってみたり、座って他愛もないことを喋ったりして時を過ごした。ライブはあっというまに終わりを告げた。

「のってたら暑くなっちゃった」

 野乃香は満足げにベンチへ戻ってきた。

 華やかな音が消えて、人の話すこもった音が低く響く。四人は少しのあいだ、何も言わなかった。衣都はぼんやりと昼間のことを思い出していた。日名子が面白がって時原とくっつけようとしていたけれど、何が面白いのかまったく理解できなかった。たぶん、面白いと思える余裕がないのだ。そんなこと考えたこともなかったから。

「天の川、見えてる」

 突然頭の中に邪魔が入った。野乃香の声だ。

 衣都は「天の川」という言葉につられて空を見上げた。

「ほんとだ」

 暗くてつやめいた空に不透明な白い光が見える。きれいだと思った。

 そのときに気づいた。いつもと変わらない人と一緒にいつもの天の川を見てきれいだと思えるのは、そこに自分の落ち着く居場所があるということだと。

「今年も織姫と彦星が会えてよかったよかった」

「あんた、その話ちゃんと知ってんの?」

 真面目に考えていたのに野乃香が茶々を入れるから、反射的にきつい口調で言ってしまった。

「なんとなく」

 言うまでもなく、野乃香は全然気にしていない。

「ののちゃん、適当に言ってるでしょ」

 すずみは的確に指摘した。

「でもさ、ここには彦星がいなくて織姫ばっかりだね」

 やよが自分たちのことを指しながら笑う。

「じゃあ、誰か彦星連れてくる?」

 野乃香はにやにやしながらやよに言ってみる。

「当てがあるの?」

「お父さん!」

「それはいいや」

 相変わらず馬鹿なことを言っている、とこの場の誰もが思ったに違いない。もちろん衣都は黙っていた。

 すると、今度はすずみが喋りだした。

「いとちゃんに彦星は?」

「うーん」

 ここでその質問か。衣都はさっきのことが頭の中を駆け巡った。今、自分に彦星が必要なのだろうか。そうじゃない。今必要なのはこの居場所だ。そう決め込むと、

「いないなあ」

と、答えた。

「そうなんだ」

「べつにさあ」

 空気を読むことを知らない野乃香は大きな声で割って入ってきた。

「織姫四人でもいいじゃん、楽しけりゃ。それに織姫ばっかりなら雨で会えないこともないしね」

 突拍子もない発言に一瞬みんなの動きが止まった。そしてすぐにおかしくなって吹き出した。

「またばかなこと言って」

 口ではそう言いながら、衣都は別のことを考えていた。

 織姫だけでもいい。少なくとも今は。そこに心落ち着く場所があるのなら。織姫とか彦星なんて、考えてどうにかするものじゃない。天の川だって考えて見るものじゃない。目に映るままを感じればいい。そう思うと少しは気分が晴れた。とりあえず、この瞬間は。

「ののらしいなあ」

 やよはまだ笑っていた。

「でも、雨でも会えるのはいいことだよね」

 すずみが人差し指を立てて言うと、

「でしょ!」

と、野乃香はすずみの肩を叩いた。

 野乃香たちは他愛ないことを言っては笑いあっていた。衣都はときどき返事をしながら見守った。

 そこへ突然携帯電話の着信音がした。

 かばんから電話を取り出してすぐにボタンを押した。

「もしもし」

 バイト仲間の花野からだ。野乃香たちがうるさくて花野の声がよく聞こえない。方耳をふさぎながら野乃香たちか


ら離れた。内容は、三十分ほど出店の手伝いをしてくれないかということだった。花野は早口で慌てているのが目に見えた。困っている人を放っておけない衣都はもちろんすぐに駆けつけることにした。

「いとちゃん、用事?」

 三人に事情を話そうとすると、すずみがいち早く声を掛けてきた。

「その先の出店を手伝ってほしいって友達が。お開きまでには帰ってくるから」

 衣都が急いで行こうとするのを、すずみが呼び止めた。

「いとちゃん、邪魔しないからあたしもついていきたいな。いとちゃんが働いてるとこ見てみたい」

 じっとみつめられているあいだに、衣都は考えた。すずみの日ごろの行いはよく知っているから大丈夫だ

と判断して、にこりと笑った。

「いいよ」

 すずみの顔が明るくなった。

「はぐれないように手つないでようか」

 衣都は左手を伸ばした。

「うん」

 すずみは衣都の手を力いっぱい握った。

 出店に挟まれた道は狭くないはずなのに、人がびっしり詰まっていて家の廊下みたいに狭く感じる。田舎なのにこんなに人がいたんだな、と衣都はこのときいつも思う。

「たぶんそんなに遠くはないから」

 前を向いて進みながらすずみの手を引く。

「わかった」

 すずみは懸命に衣都についていく。

 立ち止まっている人を避け、蛇行しながら目的の出店を目指した。

 途中、喋りながら歩く人が前を見ずに横へ飛び出してきた。それを咄嗟に避けようとしたすずみがバランスを崩してつまずき、転びそうになった。

「わっ」

 すずみが思わず出した声と同時に衣都はすずみの手を強く引っ張った。

「大丈夫?」

 立ち止まってすずみの姿を見た。

「うん」

 すずみはびっくりしているようで、目の焦点が合っていなかった。

「もうちょっとだからね」

 衣都はゆっくり歩き出した。

 言うタイミングはずれていたが、すずみは鼓動を抑えながら、

「ありがとう」

と、小さい声で言った。

 急ぐあまり早く歩き過ぎたのを反省して、衣都はさっきより遅めに歩いた。

 でも、だんだんとすずみが早く歩いて衣都より前に出てきたので、少しだけ歩くスピードを上げた。すずみががんばってついてこようとしているのが目に見えたからだ。

「あれかな?」

 衣都は人の頭の隙間から先の出店を覗いた。

 一緒になってすずみも見ようとするが、背が足りない。

「やっぱそうだわ」

 確信すると、うまく人をすり抜けて出店の真ん前に立った。

「衣都!ありがと」

 友達は衣都に気づくと、手招きで店の中へ呼び寄せた。

「あのね花野、この子うちの妹なんだけど、絶対邪魔しないから奥に座らせといてもいいかな?」

 最初にすずみの紹介を済ませて仲間の様子を見た。

「かわいい!見て、燐子」

 花野はもう一人に急いで知らせる。

「かわいい!衣都の妹ってこんなにかわいかったんだ」

 奥からシロップを持って飛び出てきた燐子は背を丸めてすずみの顔をまじまじと見た。

 すずみは恥ずかしそうに目を逸らして口を横に引っ張った。

「あたしらばたばたするけど、ちょっと我慢しててね。後でパンケーキあげるから」

 すずみのつるつるの黒髪をひと撫ですると、花野は衣都に仕事をざっくりと説明した。

「パンケーキを焼けばいいんだね」

「そゆこと。いつものバイトのつもりでよろしく」

「あ、お客さん来たよ」

 いらっしゃいませ、と言ってから、衣都は早速パンケーキを焼きはじめた。

 衣都たちが来たときは、たまたま客が途切れたところだった。花野たちの休憩は束の間、パンケーキ待ちの列が再びできあがった。

 生地をすべて流し込み、焼けるのを待つ少しのあいだに、振り返ってすずみがいるのを確認した。

 すずみはおとなしく座ってこちらを見ている。衣都が微笑むと、すずみも同じように微笑んだ。

 それを見て安心し、パンケーキを次々に焼いた。客の列が切れることはなく、ただひたすらきれいな焼き色がつくまでパンケーキとにらめっこをした。

 花野が注文をとり、衣都と燐子は一緒になって、ありがとうございます、と笑顔で言う。そして、花野がお金を受け取り、衣都がパンケーキを皿に移し、燐子がトッピングを施して渡す。

 はじめのうちは少しぎこちなかったが、すぐに感覚を掴み、十分経たないうちにきれいなチームワークが完成した。

「いらっしゃいませ!トッピングはどれにしますか?」

 小学生が看板を見て固まっている。一人で買い物などしたことのない素振りで、緊張しているのが伝わってくる。

「メープルシロップかクリームかチョコソースだよ。どれか好きなのある?」

 くだけた言い方で花野は小学生の緊張を解こうとした。

 小学生は首をひねってどれにしようか迷っている。決めかねたのか看板から目を離してちらっと衣都の方を見た。

 衣都は優しく笑いかけて、

「チョコはどう?おいしいよ」

と、勧めると、小学生はゆっくりうなずいた。

「じゃあチョコソースだね。すぐできるからねー」

 花野は一歩ずれるように誘導した。そして、次の客に対応した。

 老若男女、さまざまな人が並んでいたが、三人は分担しつつ助け合いつつ上手に接客した。屋台というよりいつものカフェといったかんじだ。

 小さい屋台に狭い店幅。そこに三人が並んで立っているのだからそれだけでも暑い。そこへ持ってきて衣都の目の前には火にかかったホットプレートがある。三人は額に汗をにじませながらパンケーキを売り切った。

 店じまいの時間が近づくと、ちらほらと片付けだす店が出てきた。パンケーキ屋の列も短くなり、見切りをつけた花野は大きな声で店じまいを知らせた。

「あと三人でおしまいでーす」

 今焼いているのがちょうど三人分だった。

 その声が届くと、自然と三組だけが残った。周りの店も同じようにして店を閉めていた。

 最後のパンケーキだ、と衣都は気合いを入れて丁寧に焼いた。

「いらっしゃいませ!」

 花野が最後の客に挨拶をする。

「チョコソースでお願いします」

「ありがとうございます!」

 花野の後に続いて、

「ありがとうございます!」

と、衣都と燐子が言った。

 そのとき、衣都の視線が固まった。

 思いもかけないことで、ピンと来ない。

 理解するのに一瞬時差があった。衣都の心臓は大きく脈打った。

「先生」

「あら!どこかで見た顔が」

 相手も少なからず驚いていた。

 それもそのはず。地元から離れた大学に通う学生に大学以外の場所で会ったのだ。しかもこんな小さな田舎町の祭りで。

 いつもとは違う髪型で、服も少し薄着だ。雰囲気が変わっても、朝江先生がかわいいのは変わらない。

「びっくりです。こんなところで会うなんて」

「まさかこんなところでパンケーキ焼いてるとは思わなかったわ」

 あははと笑いながら髪をかきあげる姿は、いつもの真面目な先生とは少し違って、自由な大人、という印象だった。

 同じ人でもこんなに変わるものなのか、なんて思っているあいだにパンケーキはすっかりきつね色になっていた。急いですくって皿に移すと、燐子が手早くソースをかけた。

「宿題はもうやった?」

「は、はい」

「さすがね。お疲れ様。それじゃ、また学校でね」

 パンケーキ片手に手を振ると、朝江先生は足取り軽くどこかへ行ってしまった。

 あまりにも唐突すぎて、気の利いた言葉など浮かばず、ただ先生がいなくなるのをぼうっと見ているだけだった。

「今の人先生なの?」

「かわいいお姉さんだねえ」

「うん。フランス語の」

 へえ、と言いながら花野と燐子は早速片付けに取りかかり、つられて衣都も手伝った。

 朝江先生はプライベートでもかわいいのだ。それは、自分しか知らない秘密のようで嬉しかった。

 先生は誰と一緒に来ているのだろう。なぜささらさ山にいるのだろう。パンケーキが好きなのだろうか。チョコレートソースは誰の注文だろうか。

 聞きたいことは山ほどある。でも気づくのが遅かった。それに、ききたくてもきけることではない。

 一番何をききたかったか。

 それは、先生が誰と来ているか、ということ。なぜ気になるのかはわからない。でも知りたかった。

 そこで、ふとある仮定が浮かんだ。

 朝江先生と一緒に祭りに来たら、自分はどう思うのだろう。もちろん、嫌ではない。楽しいかどうかと言われると、わからない。

 よく考えると、これはさっき時原に対して考えたことと同じではないか。時原と二人なら、付き合うということにも発展することもあり、好きかどうかという問題とも直結している。なら、朝江先生となら?二人でいても女同士だから、付き合うということにも、好きかどうかという問題にも直結しない、ということか。そもそも、好きという感情が未発達な衣都にはその違いがわからなかった。

 頭にもやもやを残したまま、衣都はゆっくりと動いた。

「あ!」

 花野が大声を出した。

 驚いて二人は花野の方を向いた。

「妹のパンケーキ!」

「あ!」

 燐子も同じ声を出した。

 見ると、すずみはさっきと同じ場所に座って目をぱちくりさせている。

「ごめんね!今作るから」

 燐子はホットプレートを温め直し、生地を少しだけ作った。

「あれ?ちょっと多いかも。ま、いっか」

 独り言を言いながらさっさとパンケーキを何枚か焼いていく。衣都が作るより若干いびつで焼き色が濃いが、燐子は気にせず紙のパックにのせた。

「お待たせ!」

 すずみの顔の前に山盛りのパンケーキを差し出す。

「あ、トッピングは何がいい?」

「えっと」

「全部のせちゃうね」

 テーブルに一旦引き返し、シロップとクリームとソースを適当に掛け、改めてすずみに見せた。

「いい子にしてたからご褒美だよ。遠慮なく食べなー」

 すずみはパンケーキに目を落とし、

「これフォーク」

と、フォークを渡されると、

「いただきます」

と言ってにんまりした。

「衣都、ありがとね!ほんとに助かったよ」

 花野は衣都の手を両手でがっちりと掴んだ。

「お役に立ててよかったよ」

「衣都がいてラッキーだったよ。あのね」

 時間がなくて言うのが遅くなったのを取り戻すかのように、花野は一続きで話をした。

「夕穂が財布を落としたお客さんを追っかけていったんだけど、十分待っても十五分待っても帰ってこなかったの。どうしたんだろって燐子と言ってたら携帯が鳴って、出てみたら、夕穂が迷子に捕まって動けないって言うのよ。広場の奥まで追いかけていったのに、そこで財布の持ち主を見失って、その代わりに迷子が現れて夕穂から離れないらしいの。家族を探しにいこうとか、案内所に行こうって言うと大声で泣き叫ぶって。それは携帯から聞こえてきたから間違いないと思う。迷子は、ここで待っててってお母さんが言ったの、の一点張りで、しばらく帰れないかも、ってわけで衣都を呼んだの」

「そうだったんだ。夕穂まだ帰ってきてないんでしょ?大丈夫かな。あたし見にいってくるよ」

 衣都は屋台を半分出た。

「いや、いいよ。これ片付けたら電話してみるから」

 屋台は時間までに片付けなければいけないという祭りルールがあるため、とりあえず店じまいをしようとした。

 テーブルを折り畳んで寝かせようと、二人でテーブルに手をかけたとき、こちらへ駆けてくる足音とよく通る声が耳に入ってきた。

「ごめーん!」

 その声に屋台にいた四人が一斉に表に注目した。

「夕穂!」

 花野は一番にそれが誰かを特定した。

「もう終わっちゃったね」

 噂をすればなんとやら。息を切らしながら夕穂が帰ってきたのだ。

 夕穂は屋台の中の人数が多いのにすぐ気がついて、経緯を察知した。

「衣都、もしかして手伝いに来てくれたの?」

「そう!あんたが帰ってこないから衣都を呼んだの。今夜はささらさ山に来るって聞いてたから」

 衣都が答えるより先に花野が説明する。

「うわ、ほんとごめん」

 言葉に気持ちがこもっているのがわかる。

「べつにいいよ」

「それで迷子と財布は?」

 気になって仕方がない花野は話を引き出そうと、衣都の言葉に重なりそうな勢いで質問をぶつけた。

「お母さんが来たんだよ。それで、財布をどうしようかと思ってたところにちょうどさっきの落とし主が見えたから、大声で引き留めた。そしたら今度は気づいて止まってくれたから返してきた」

「そうなの?よかった。まあ財布追いかけてえらい目に遭ったね。お疲れ」

 ほっとした表情を浮かべて花野は夕穂にジュースを手渡した。

「店は大丈夫だった?」

 ジュースを一口飲んで息をつき、質問を返す。

「衣都のおかげで無事終了」

 花野は衣都を見て笑うと、今度はジュースを衣都にも渡した。

「あー、なんか安心した。衣都ありがとう。今度埋め合わせするから」

「うん、何がいいか考えといて」

 衣都は両肩を叩かれて揺れながら、

「そんなのいいよ」

と、手を振った。

「ごめん、長いこといてもらっちゃって。あとは三人でやるからお祭りの続きをどうぞ!って、もう終わっちゃってるけど」

「せめて短冊だけでも掛けてきて!」

 二人は二人なりに精一杯気を遣った。

 その気遣いが伝わってきたので、衣都は広場へ戻ることにした。

「じゃあそろそろ失礼しますか。妹たちも待ってるし」

 つい口をついて出てしまった。

「まだ他に妹がいるの?」

 衣都は数十分前の台詞をすっかり忘れていた。

「えっとね。さっきはめんどくさいから妹って言ったんだけど、あの子はうちの妹の友達の妹なの」

「妹の…、ん?」

「妹の妹?」

 花野たちは疲れて頭が回っていない。

「ほんとは妹じゃないけど、いつも一緒にいるからまあ妹みたいなもんだよ」

 そう言ってから、衣都はすずみを呼んだ。

「すずみちゃん、また遊ぼうね」

 燐子がすずみの頭を撫でた。

「あたしも癒されたよー」

 花野はすずみの手を握って別れを惜しんだ。

「じゃあね。あとちょっとがんばって」

「ありがとねー!」

 三人は口々に礼を言って衣都たちを見送った。

 出店の通りはだいぶ空いていたが、それでもぶらついている人たちが目についた。

「さ、行こうか」

「いとちゃん」

「何?」

「これ半分つしよう」

 何かと思ってすずみの上げた手元を見ると、ビニール袋に入ったパンケーキの紙箱がぶら下がっていた。

 本当に半分つが好きな子だと思うと、かわいくておかしくなった。

「りんこちゃんがいっぱい作ってくれたんだけど、食べきれなくて」

「全部持ってかえりなよ。やよちゃんと明日にでも食べたら?」

「でも、いとちゃんとののちゃんが食べる分もあるよ」

「あたしはバイトでパンケーキ作ってるし、ののにはいつも家で作ってあげてるからちょっと飽きたかなって。だからすずみちゃん遠慮せずに持ってかえって」

 衣都はすずみににこりと笑って前を向いた。

 そのとき左手に何か柔らかいものが触れた。それは左の手のひらにぴたりとついて熱を伝えてくる。

 疲れていて一瞬判断が鈍り、それが何かわからないままに衣都は咄嗟に左手を見た。

 すずみの手だ。

 それがわかってすずみの顔を見ると、遅れてすずみが見返してきた。手を握る力が少し強くなる。

「さっきみたいに転びそうになったら大変だから。今はパンケーキがあるし」

 小学生らしい言葉足らずで舌足らずな喋りが、しっかりしているいつものすずみとは違って新鮮だった。朝から晩まではしゃいで眠くなってきたのだと衣都は思った。

「そうだね。しっかりつないでおこう」

 衣都はすずみの手を握り返した。

あまり話しかけて余計に疲れさせてはかわいそうだと、静かに歩いた。

 ときどき風に乗ってパンケーキの匂いが袋から上がってくる。パンケーキとチョコレートソースの混ざった匂い。衣都の目にさっきの朝江先生の姿がはっきりと浮かんだ。

 学校とはだいぶ違う印象だった。学校でも充分かわいらしい姿だけれど、どこか固い雰囲気もある。教える人間の威厳みたいなものが潜んでいる。それなのに、さっきはそんなものを一切感じなかった。柔らかくて女っぽかった。気のせいか笑い顔も違った。

 そういえば、チョコレートソースを選んだけれど、朝江先生はチョコレートが好きなのだろうか。それとも連れの人が好きなのだろうか。

 こんなことが衣都の頭につらつらと浮かんだ。いつも話に共感していた人の違う面を見たから、衝撃的なんだろうな、と衣都は思った。いつか自分もあんな風に二つの自分を持つようになるのだろうか、なんて思っているうちに、広場に戻ってきていた。

 野乃香とやよが話しているのが見える。

「ごめん、遅くなったね」

「お姉ちゃん何してたの?」

「バイト先の友達がさ」

 疲れていた衣都はひとまず座ることにした。

「パンケーキの屋台やってたんだけど、突然一人手が放せなくなって、その穴埋めをしてほしいって。ほら、お祭りの最後は込むでしょ?忙しくて二人じゃ回らなかったみたい」

「お姉ちゃん今日はよく働いたねえ」

 野乃香がわかったような口をきく。

「そんなに忙しいとこにすずがついていっちゃってごめんね」

「すずみちゃんおとなしく端っこで見てただけだから困ることなんてなかったよ。むしろ友達は癒されてた。かわいいって」

 衣都は隣に座るすずみの肩を片手で抱いて褒めた。小柄なすずみは衣都の腕にすっぽりとおさまった。

「あ!アイス溶けちゃう」

やよは慌ててアイスクリームを持ち出す。

「買っといてくれたの?」

「だってあと五分で出店閉まっちゃうとこだったんだもん」

「ありがとう!アイス楽しみにしてたんだ」

 すずみは子供らしく素直に喜んでいた。

 それぞれの手元にアイスクリームが行き渡ると、

「いただきます!」

と、みんなで楽しみにしていたデザートを口にした。

 ベンチの上にしばらく置かれていたので、アイスクリームは周りから溶けはじめて、一部は液体状になっていた。衣都はその液体からすくって口に入れた。冷たいチョコレートドリンクみたいで、おいしかった。

 すずみはついさっき燐子に無理やりパンケーキを食べさせられていたからお腹いっぱいなんじゃないかと心配してすずみの様子をうかがった。

「おいしいね」

 すずみはおいしそうにアイスクリームを食べている。いらぬ心配だったようだ。

 こうして四人でアイスクリームを食べていると、ふいに子供のころの自分が現れる。そのころは姉なんて自覚もなくて、泥まみれになって遊ぶ野乃香ややよと本気で張り合っていた。すずみはろくに言葉も喋れないのに仲間に加わろうと必死だった。どんなに騒いでけんかをしても、四人はアイスクリームを食べればすぐに仲直りした。そのころの自分たちがいなくなったとは思わない。でも、少しずつ変わっている。知らないあいだに変化している。そして今の自分たちがここにいる。

 考えて変えるものじゃない。時とともに自然と変わっていくんだ。衣都はそう思った。考えすぎたって答えは出ない。今はゆっくりとアイスクリームの時間を過ごせばいい。そう思うと、今日一日のもやもやが薄れていった。

 七夕の夜くらい、頭を空っぽにしよう。

 衣都は自然と表情が緩むのがわかった。

「いとちゃん、どうしたの?」

「なんでもない。アイスクリームがおいしいなあって」

 衣都が笑うとすずみも一緒になって笑った。残りのアイスクリームは溶けるより早く衣都の口に入った。カップが空になるのにそう長くはかからなかった。みんな満足そうな顔をしている。

 真上の空は涼しげな星の光の映える夏空だった。天の川はアイスクリームが溶け出したみたいに見えて、衣都は一人で笑いをこらえた。

「さて、行きますか」

「はあい」

 七夕祭りの締めくくりといえば、ささらさ山の一本木に短冊を飾ること。四人は広場を離れて奥の野草地帯へ入っていた。

みんな、ちゃんと短冊は用意してきたかな?」

 野乃香は興奮気味だ。

「おー」

 すずみは短冊を片手に手を挙げた。

「あれ?お二人さん、短冊用意してないのかい?」

「あたし、まだなの」

「実はあたしもなのよ。でも、今決めたからすぐ書いちゃうよ」

 そのときの気分で一番しっくりくることを書くのが恒例で、本当はバイトの休憩中にでも書こうと思っていたのだが、忙しくてそれどころではなかった。それに、何が望みかわからなくなっていた。心の迷いが衣都を短冊から遠ざけた。けれど、今なら短冊に託したい思いがはっきりとわかる。衣都は短冊にすらすらと文字を書いた。

「あたしも」

 衣都が書くのを見て、やよもなにやら書きはじめた。

「なになにー」

 衣都の背後から、野乃香は短冊の文字を追った。

「えー。なんだ。一緒じゃんかー」

そう言って自分の短冊を披露する。

 読むと、「来年もみんなで一緒に七夕できますように」と書いてある。

「あたしもだよ!」

 すずみが短冊を振り回しながら高い声で言った。

「言いにくいけどあたしも一緒だ」

 やよは書きたての願いごとをそっと見せた。

「みんな一緒ってすごいね!やっぱあたしたち最高だね!」

 野乃香はやよとすずみの手を取って飛びはねた。

 口には出さなかったけれど、衣都は安心したのと嬉しいのとで一緒に飛び上がらんばかりの気持ちだった。

 短冊を枝に結びながら、来年の七夕を想像した。今年とは少し違うかもしれない。でも、きっと四人一緒に笑って過ごせる。そうして一年一年を重ねていくのだな、と思った。悩むことがあっても、どこかに抜け道はある。衣都にとってはそれがささらさ山の七夕なのだった。

 自分の背より高いところにくくりつけようと必死に背伸びをするすずみをひょいと抱き上げた。

「ほら、好きなとこに結びなよ」

 すずみは少し迷ってから一息にひもを結んだ。足を地面につけると、

「ありがとう」

と、元気よく礼を言った。

「そろそろ帰ろうか」

 四人とも短冊を飾って時計を見ると、いい時間になっていた。あまり長居すると母親に怒られてしまう、と言って帰る方向に足が向かない三人を衣都がまとめて引っ張る。

 夜道はいつもとは違って祭りの後の人たちでにぎやかだった。野乃香が少しくらい大きな声を出しても目立たないから安心だ。

 帰ろうと促したのは衣都だったが、本当は衣都ももう少し夜風に当たっていたかった。今夜の風は少し冷たくて火照った頭を冷やすのにちょうどよかった。

「またね。おやすみ」

 衣都と野乃香は、やよとすずみに手を振って別れた。

 姉妹も半分になると静かだった。

「さて、帰ったらお風呂入って寝よっと」

 野乃香は宣言した。

「あたしも」

「え?」

 野乃香の「え」が辺りに響き渡る。

「のの、うるさい」

「いやだって、お姉ちゃん、勉強の続きって言わないの?」

 調子が狂って野乃香は自分から勉強の話題を出してしまった。

「今日はね。ゆっくり寝るの」

 その表情は穏やかで、野乃香は気味が悪くなった。

「ほんとに?」

「ほんとに。でも今日だけだから。明日からはまた勉強させるから」

 最後の一言に凄みがあって、野乃香はそれから黙っていた。

 今日は疲れたけれど、その分ぐっすり眠れそうだ。そして明日になったらまた元気に目を覚ますんだ。

 衣都は帰り道、それ以外に何も考えなかった。

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