現代に生きる超越者の一幕
がちゃりとドアノブを回して扉を開けると、
「おー、おかえり。今日は早かったなぁ」
玄関から真っすぐリビングへと続く廊下の先、開かれていたリビングの扉の向こうから笑みの声が聞こえて、彼女は少し困ったように眉尻を下げる笑みを浮かべた。
「ただいま、と言っておくべきですか」
「そうだなぁ。どうせならそう言ってくれると俺は嬉しいねー」
姿は見えないが、どうやら相手は喜んでいるようで、声には笑みの色が増したように聞こえる。
彼女は困ったような笑みを深めながら、カギを玄関脇に備え付けられている靴箱の上に置き、手にかけていた買い物袋とビジネスバッグを床に置く。続く動きでハイヒールを脱いで揃えながら買い物袋の紐を片手で掴んだ後、開きっぱなしのリビングの扉をくぐった。
「今日は定時で上がり?」
八畳ほどあるフローリングの床。その上に年中敷きっぱなしになっているホットカーペットの上に両足を投げ出して、腰よりもわずかに後ろ側にある位置に両手を置いて身体を反らし、部屋に入ってきた彼女に逆さま気味の穏やかな笑みを向ける一人の男がいる。
「ええ。今日は久しぶりにタイムサービスの波に揉まれてみようかと思いまして」
彼女は買い物袋を提げていた手を軽く上げて見せた後で、視線を彼から入口正面に置かれているテレビに移し、
「何か面白い番組はやっていますか?」
「いやーダメダメ。最近不況みたいだから、バラエティとかニュースとかしかなくってなぁ。暇を潰すだけなんだから番組の種類なんざどうでもいいんだが。しかし今日は特別面白いもんがないね、本当に。この時間は」
彼は体勢はそのままで、しかし笑みを苦笑に変えつつ片手だけぷらぷらと振って見せる。
彼女はそうですかと同様に苦笑しつつ肩を竦めてみせた後、足を台所の方へと向けて動かした。
台所はリビングの入り口から右に曲がればすぐ見えるところにある。カウンターキッチンであり、台所の中に入っても彼女の方から彼の顔が確認できた。台所の中はそれほど広くはないようだが、調理に必要な家電が一通り揃っている状態で、一人であるならば十分余裕をもって調理が行える空間が確保出来ているので、彼女も彼も不満はない。流しを始め、掃除がしっかりと行き届いてることが傍目にも判る清潔な調理場だった。
彼女が買い物袋に入れていたものを台所の各所に収めながら言う。
「最近御購入なさっていたゲームの方はもう終わったので?」
彼女の問いに、胡坐をかいてテレビをぼけーっと見ていた彼がん? と首を傾げて視線をテレビから彼女に移す。そして、無駄のない動きで台所の各所に物を仕舞いこんでいく彼女の背を見ながら、質問内容に該当する記憶を掘り起こして思い出し、
「あぁ、あれか。いや、まだやってないんだなこれが。まだ積んでる漫画と小説と、他のゲームが片付いてなくてなぁ」
気まずいと思っているのが判る苦笑いを浮かべて頬を掻いた。
一通り物を仕舞い終えた彼女は流しの縁に両手を置いて体重を預けながら、カウンター越しに彼を見る。そして、特に責めるような色もなく、呆れたというような感情もなく、その声にただ純粋な疑問の色を滲ませながら重ねて問う。
「以前から疑問に思っていたのですが。終わってから次を買うというのは駄目なのですか?」
彼は彼女の言葉に痛い所を突かれたと、そう言うように苦笑を深めながら答える。
「正論だねぇ、相棒。けどな、消費者心理ってのがあるのよ。あのゲーム、シナリオライターが以前やった面白いゲームの脚本書いてたのと同じヒトでな。それが判ると、積んでるやつを片づけて買う段になった時に品切れってのも残念すぎるとか考えちまうわけで。そうなると、確保しておきたくなっちまうもんなのさ」
「はぁ、そういうものですか。物欲に乏しい私にはよく判らない世界です。……ところで、今日は何か食べますか?」
「作ってくれるなら」
「主が望むのであれば」
彼は彼女の言葉をどう扱ったものか図りかねるような間を置いた後で、軽く息を吐きながら言う。
「……じゃあ頼もうか。なんか祭りの屋台で出てるようなやつがいいなぁ俺」
「では、焼きそばでも作りましょう」
「いいねぇ。楽しみだ」
彼女の返答を聞いて、彼は楽しそうに笑ってそう言った後で、彼女からテレビの方へと視線を戻す。
彼女はさて、と冷蔵庫をあけて材料を物色する。家にある食材に関しては把握しているし、大抵の物がすぐ作れる程度に常日頃から材料も揃えてある。しかし、実物を見て考えてみる時間というのも調理を楽しむには大切なことだと彼女は思う。
麺はある。豚バラもある。入れる野菜はもやし、玉ねぎ、キャベツが定番だろうか。ボリュームを増やすのが目的なら別にまた野菜なりをつけ足すのもいいが、ここは定番通りの三種でもいいだろう。そう考えながら材料を取り出し、台所に並べた上で、というか一番の問題は焼きそばの味付けじゃないだろうかと思い至った。ソースにするか塩にするか、それが悩みどころである。
彼女はちらりと視線を彼に投げるが、彼には聞けないと視線を戻す。自分の沽券に関わる問題だからだ。たかが料理で大げなと無関係なヒトならば考えるだろうが、彼女自身にとってこの選択を誤ることはそのレベルの問題なのであった。
「…………」
とは言え、あまりに悩むのも馬鹿馬鹿しい問題であることは自覚している。彼女は理論武装を行うために脳内会議を始めた。
――祭りの屋台で出ている焼きそばと言えばソース。
――そもそも焼きそばと言えばソース。
――塩は邪道ではないが別系統!
「よし」
彼女的脳内会議においては『焼きそばはソース』が正義であった。ならばよし、と憂いなく調理に移る。
「おい、相棒。なんかちょっと危険な流れというか何と言うか、不穏な空気をそっちから感じたんだが」
彼がテレビから視線を外して、三白眼で彼女を見る。
「気のせいです」
彼女は彼の言葉に対して迷いなくそう言いきった。そう、彼女が考えていることは正義についてであるのだから不穏なことである筈がない。焼きそばの味付けについての正義なのだからむしろ微笑ましい。
あと世の中言いきったもの勝ちである。
「……ならいいんだけどね。調理で怪我をしないように」
「するわけがないじゃないですか」
彼女は彼の溜息混じりの一言に苦笑した。
そうなんだけど一応ね、と彼は肩を竦めながら言って、視線を彼女から外した。
彼女はその心遣いに浅く目を伏せることで感謝の意を返し、エプロンをつけて調理を始める。
まずは鍋に水を張ってコンロの火にかける。
キャベツは芯をくり抜いて半分に切り、片方はラップに包んで冷蔵庫の中に戻した。残した半分の芯の部分を斜めに切り取り、そのまま五ミリ幅程度の千切りにする。千切りにしたキャベツは金ざるに入れて流水に晒す。彼女も彼も特に農薬やら何やらを特に気にしない性質なので、気にならなくなる程度に洗う。
お湯が沸いたら次にとりかかるのはもやしの下処理だ。お湯に塩をひとつまみ入れて使う分だけもやしを入れる。時間は三十秒程度でいいだろう。お湯を捨てるついでとばかりにざるの上にもやしをあげた。この時にキャベツの上にお湯ぶちまけてもよかったんだろうかとふと思うが、なんとなく次もやらない方がいい気がした。
麺をボウルにあけてレンジで温めながら、たまねぎの処理に移る。尖った頭と根元を切り落として、皮を剥ぐ。半分に切って、切断面を下にしてからそれぞれ端から厚めに切っていく。切っている途中でレンジが鳴り、一瞬扉だけでも開けようかと思ったが、別に放置してもいいかと作業を続行した。
切ったものをボウルにあげて、レンジから麺の入ったボウルを取り出す。麺には軽く醤油と、ほんの少しだけ塩コショウを振って、箸でほぐしておいた。
「さて、あとはさっさと焼いてしまうだけですね」
言って、彼女は台所の上にある棚から金属の板を一枚取り出した。二つ並ぶコンロを丁度よく塞ぐような大きさで、厚みは五ミリほどだろうか。そのサイズの金属製品を上の棚から下ろす行為は難儀どころか危険だと思われるのだが、彼女は特に危なげなく台所の上に下ろした。下ろした際にどんっと結構な音がしたので、重さはかなりのものだと思われる。見た目通り。
「……何の音よ?」
「調理用の鉄板です。市販のフライパンに家庭用コンロではうまく調理出来る気がしないもので、これを使おうかと思いまして。上に仕舞っていたので下ろしたら音が」
説明しながら、重音を轟かせた金属板を難なく片手で持ち上げてひらひらと振って見せる彼女を見て、彼は視線を三白眼へと移行させる。
「なんで上に」
「下に置いてたら足に当たって痛いじゃないですか」
「上に置いてたら落ちてきて頭割れるだろ常識的に考えて」
「あはは、変なことを仰らないでください。――私の方が硬いです」
「俺の強度は人並みなんだけどね……」
やれやれと肩をすくめて呟きながら、彼は再び視線をテレビに戻した。
彼女は彼の言葉の意味を図りかねるかのようにほんの少しだけ首を傾げたが、考えても判らないだろうと思ってすぐに思考を中断したようだ。金属板をコンロの上に置き、両方に火を点ける。
待つこと数秒で、金属板の上がゆらりと歪んで見えるようになる。
彼女は冷蔵庫からバターを取り出し、床の上にあるビニール袋の中からにんにくをひとかけら取りだした。
バターの容器に差しっぱなしになっているバターナイフでバターを適量削り取って鉄板の上に投げる。バターは熱せられた板の上でじゅうじゅうと香ばしい音を立てて泡を弾け飛ばし、濃い油の匂いをまき散らしながら溶けていく。
彼女はそれを見ながら引き出しから金属製のコテを二本取り出す。続く動きで、まな板の上に置いたにんにくをコテで叩き潰してそのまま削ぎ取り、板の上に乗せる。
バターの濃厚な匂いとにんにくの強く食欲を引き立てる刺激的な匂いが十分混ざりあったところで、豚バラを投入。二本のコテで器用に細かく切り分けた後で、切っておいた野菜を投入する。塩、コショウをふりかけ混ぜて、ソースを軽くかけて絡めたら少し隅に寄せ集めてスペースを空ける。
次は麺だ。空いたスペースで軽く温めた後で、寄せていた具材と混ぜる。今度はしっかりとソースをかけて混ぜていく。
「おー、いい音でいい匂いだ。そろそろ出来そう?」
「はい。もうちょっとです」
彼女は水分をしっかりと飛ばすように、少し長く板の上で熱し続ける。焦がさぬように、混ぜる手を止めることはなく。
「うん、これでよし」
麺を少し切って口に含み味見をしつつ味を調整して、十分かと判断したところで火を止めた。
余熱で焦げないようにと更に混ぜてみたところで、
「多少の焦げ味も乙だぜ相棒。というかいい匂い過ぎるから早く食いたい」
カウンターによりかかって作業を覗き見ていた彼がそんなことをのたまい、
「わかりました」
彼女はそんな彼に困ったような、それでも楽しさが見える笑みを浮かべて頷いて見せた。
混ぜる手を止めて引き出しから皿を二枚取り出し、コテを器用に使って皿の上に丁寧に焼きそばを盛る。金属板の上から皿に焼きそばを移し終えたらコテを流しに置いて、引き出しから箸を二揃取ってそれぞれの皿に差してから、カウンターから作業を見ていた彼に向って皿を差し出す。
「はい、どうぞ」
「おお、どうもどうも。って、相棒の分も渡してくれよ、置いとくから」
「すみません。ありがとうございます」
彼女は台所の上に置いたままだったもう一皿も彼に手渡した。
「渡したら食べられてしまいそうかなと思ってしまいまして」
「言うようになったな相棒。……やらねーよ、そこまで飢えちゃいない」
彼女はくすくす笑った後ですみませんと謝りつつ、エプロンを戻して台所を出る。
「どうぞ」
彼がカウンター傍に置かれた椅子を引いて彼女の着席を促し、彼女は促されるままに座る。それを見て、彼もその隣にある椅子に座った。
「では」
いただきます、と二人での食事が始まった。
「んー、にんにくがいい味出してるねえ。うまい」
「恐悦至極」
「でもいいのか? 相棒」
「?」
「いや、明日も仕事だろ? にんにくとか、匂いの残るやつ食べて人前に出るのって大丈夫なのかなと。俺はこうしてうまいもの食えて満足ではあるんだがね、おまえはその辺考えてるのかと思って聞いてみたんだが」
「…………」
彼女は麺で口と皿が繋がった状態で固まった。だらだらと嫌な汗が出ているのは、にんにくが効いているからとかそんな理由ではなさそうである。
「考えてなかったな? スーツにも付くぜ、匂い。布製品はその辺厳しいから」
彼はそんな様子を横目で見ながら、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「うぅ」
彼女は自分の失態に机に片肘をついてこめかみに手を当てて唸る。
「ま、手段を選ばなければどうとでもなる問題だろうけど」
「常道な手段でやるとなると、ブレスケアとか凄い面倒くさい……」
彼女は溜息を吐いて、食事の後のことについて思いを巡らせる。
それをほんの少しだけ咎めるように、彼は彼女の頭を軽く小突いた。
「まぁとりあえず作っちまったし食っちまったんだから、今は楽しく食べておけよ」
彼女はその言葉を聞いて、自分の発言について少し反省した。
「それもそうですね。……食事は楽しく。これはいつの世であっても至福の一瞬です」
「俺もそう思う」
「だからと言って、私を苛めて楽しむのはやめてください」
彼女は食事を再開しながら、三白眼の横目で彼を見やる。
その視線を受けて、彼は心外なという表情で言う。
「いや、今スーツのままで食事してる姿を見て思い至ったのであって、別に使ってるところから気付いていて言わなかったわけじゃあねーよ?」
「そういうことにしておきましょう」
「うお、信じてねえなこいつ」
「主に限ってそんなことはあり得ないでしょう」
「買い被り過ぎだよ。……しかし仕事か。最近どうなんだ? 仕事の調子とかってのは。ニュースを見ると不況不況と言われてるが、クビになりそうで焦るとかってのはあるのか?」
「周囲のヒトに、そんな様子はちらほら見られるようには思えますが。私はそもそも暇潰しですからね。仕事をこなす、というのが趣味になっているのでクビになったら別な仕事に移ればいいだけですし」
「なるほどなぁ。しかし、相棒。残業があっても帰ってくるの早い気がするんだが、仕事場の連中と飲みに行ったりとかはしないのか?」
「流石に忘年会や新年会は、面倒ではありますが最低限と判断して付き合ってはいます。しかし、それ以外は全て断っていますね。行く必要性を感じないので」
「それでやっていけるもんなの?」
「クビになってもいいのであれば問題はないでしょう。私はあの場で働くことが重要なのではなく、働いている状態であることが重要なので」
「そんなもんか」
彼は言って、席から立ち上がる。
「何かありましましたか?」
「お茶が欲しくなっただけだよ。――ああ、気にせず食ってていい。慌てて用意しようとしなくていいから。何も判らないガキじゃあるまいし、茶くらい自分で用意出来るさ。まぁ淹れる場合は、相棒ほどうまくはならないんだけど」
「すみません」
「謝るようなことはひとつも無いだろうに。気にしすぎで気の遣いすぎだよ」
彼は苦笑を残して台所に移動する。冷蔵庫からお茶のペットボトルを、台所の引き出しからコップを二個取り出して、カウンターに戻ってくると、彼女の前にコップをひとつ置き、自分のところにもうひとつを置いてから、まず彼女のコップにお茶を注いだ。
「流石に自分で淹れるのは面倒なんでな、勘弁しといてくれ」
「いえ、私の分まで持ってきて頂いて、申し訳ないくらいです」
「飯食ったら飲み物飲んで一服。これはやっぱり、生きていくには大事なことだよなぁ」
言って、彼は自分のコップにお茶を注いで一口含んだ後で、まだ残っている焼きそばに箸を伸ばす。
「そうですね。……まぁ、私達はそれが無くても生きていけますが」
「そう言うなって。娯楽が無いと時間を潰すのは大変だろう?」
「私の場合、本質的には娯楽が無くても問題無いのですが。……しかし、娯楽と言えば。最近は出歩いていらっしゃらないようですが、そういった関わりを持つのはもうお止めになったのですか?」
「最近は面白いことになりそうな気配も感じないからなぁ。あとは、出歩いても気安く話しかけられるような状態では無いというのが痛いね。子どもに話しかけようとすると親の目は痛いし、周囲のヒトの目も痛いしでやりにくいったらない。結果として、ある程度狙いを絞ってから出ていかないといけない環境になってるというのが現状かな。まぁそういうわけで、いくつか種を播いておいて様子を見るくらいしか出来ることが無いんだ」
「私としては、そういった関わり合いは少ない方が助かります」
「俺としては現状退屈で若干つまらないんだがね。図らずも相棒の希望を叶えていて、それで助かってくれてるなら、それはそれでありか。ゲームやらで暇を潰すのも、それはそれで面白いからな」
彼はそう言って、焼きそばの最後の一口を口に含んで咀嚼すると、彼女に向かってごちそうさまと言って両手を合わせる。
彼女はそれを見て、お粗末様でしたと笑みで答えた後で、彼の皿を自分の皿に重ねようと腕を動かした。しかし、その動きを彼が片手で制する。
「とりあえずスーツから着替えてシャワーでも浴びて来いって。片付けくらいなら俺がやるから」
「ですが……」
「食いたいって言ったのは俺だからな。作って貰ったんだし、片付けはやるさ。それがバランスってもんだよ」
「……では、おねがいします」
「スーツはハンガーにかけて玄関のどっかにかけといてくれ。明日クリーニングに持っていっておくから」
「わかりました。本当は私が持っていくべきなのでしょうが……。申し訳ありません。おねがいします」
彼女は彼に向って深く頭を下げた後で、リビングを出て自室へと向かった。
ぱたりと扉の閉まる音が聞こえた後で、彼はやれやれと吐息をひとつ吐く。
「相棒はもうちょっと俺を下に見てくれる位で丁度いいんだが。……本人が望む境界がそこなら致し方無しか」
呟いてから立ち上がり、カウンターの上にある皿を重ねて持って流しに移動する。
「しかしまぁ、昔よりも幾分人間らしくはなってきたんだろうか。皮肉が言えるようになれば一人前だよなぁ」
彼はくつくつと笑いながらそう呟いた後で、洗い物を開始した。
「……ふぅ」
彼が洗い物を片付けて、カウンターに座りながら自分で淹れたお茶を片手にテレビを眺めていると、寝巻姿の彼女がリビングにやってきた。両肩にかけるようにしてタオルを置き、肩から胸元に落ちるタオルの端で髪を拭いている。
「申し訳ありません、お先にシャワー頂いてしまいまして」
彼女は彼の視線に気付いて、眉尻を下げた笑みを浮かべた。
「俺が勧めたんだっつの。気にする必要性なんぞねーよ。……って、髪乾かしてないのか?」
「え? ああ、まぁ、そうですね」
「どうせ早く出ないと、とか考えたんだろおまえは」
「それは……まぁ、そういう部分も無いとは言いませんが、そういうことばかりを考えて出たという訳ではないですよ」
「まぁいいけどさ。……そんなにおいしい訳でもない温かいお茶があるんだけど、飲む?」
「頂きます」
言って、彼女はカウンター傍の椅子に腰を下ろしてから、お茶の入った湯のみを受け取った。
彼は湯のみを彼女に渡すと、一度リビングから出て、あるものを持ってすぐにまたリビングに戻ってきた。
「それは?」
「見たら判るだろ。ドライヤーだよ、ドライヤー。あと櫛な。あ、なぜとか聞くなよ? 答えるのが恥ずかしいからな」
彼はカウンターの上、壁側にあるコンセントにドライヤーを繋いで調子を確かめるように何度かオンオフを繰り返した。
「ほれ、背中向けとけ」
「え」
「え、じゃねーよ。たまにはいいだろう、こういうのも」
「ですが」
「いいから」
「……わかりました」
彼女はいくら言っても止めてくれることは無さそうだと判断して、諦め混じりの吐息を吐きながら彼に対して背を向けた。
「溜息吐くことはないだろうよ」
彼女の態度に対して彼は苦笑をしながら、まずは彼女の首にかけられたタオルを抜き取って畳み、彼女の髪に乗せる。タオルの上から指の腹を頭皮に押し当てるようにして、可能な限りで水気をとった。
「手を煩わせる事態を私が好まないだけです」
「大切なものは大事に扱うもんだ。それと似たようなもんだろうに」
タオルを彼女の頭からどけてカウンターの上に置き、ドライヤーを手にして風を当てる。十センチ以上離すのが良かったんだったか、と普段使わない知識を思い起こしつつ、彼はドライヤーと櫛を動かしていく。櫛を髪に隙間を作るように動かした後で、ドライヤーの風をあてる。風が根元から毛先に走るように意識しながらドライヤーを動かす。それの繰り返しだった。
「……心遣いは嬉しくとも、ここまで自分で動けるようになった身としては、申し訳なさも同時に生まれてしまうのですよ」
「人間臭くていいんじゃねーの、そういうのも。――ほれ、終わりだ。まだ湿ってるかもしれないが、残りは自然乾燥な」
ドライヤーの電源を切り、彼女の頭をぽんと軽く叩いてから、彼は椅子から立ち上がる。
「ありがとうございます」
「礼を言う程の事じゃあないだろうと言いきりたいところではあるけれど、言われて悪い気分はしないね」
彼は笑みでそう言って、ドライヤーをコンセントから外してタオルと櫛を持ってリビングを出た。
彼が出した道具を元の所に仕舞い直してからリビングに戻ってくると、彼女が再び台所に立っていた。
「何してるんだ?」
「お茶を淹れようかと思いまして。飲みますか?」
「淹れてくれるなら飲むよ」
「はい」
頷いたところで、お湯が沸いた。
彼女は火を止めて、沸いたお湯をまず湯のみに注ぐ。二人分なので二人分それぞれにお湯を入れ、その後で茶葉の入った缶から急須に茶葉を移す。そして、湯のみに入ったお湯を急須に移して一分ほど待ってから、それぞれの湯のみに急須のお茶を交互に注いでいく。最後の一滴まで使い切った後で、二つの湯のみを持って台所を出た。
「どうぞ」
「どうもどうも」
座ったままの彼にお茶を手渡した後で、彼女も隣に座ってお茶をすする。
「退屈だという話ですが」
「ん? 突然どうした、というか何の話だ?」
「……いえ、いつまでこうしていられるのだろうかと、ふと考えてしまったもので」
「ふぅん。そりゃまた唐突に、何でまた、と聞きたくなるところだけど」
「いつも頭の隅で考えていることなんですけどね、私の場合」
「そうなの?」
「例えばの話ですが。――物語には不死者と称され、尋常なヒトではありえない寿命をもって、長い時間を過ごした人間がいますよね」
「……まぁ、設定としてはよくある話だな。それが?」
「彼らはいったい何を思ってその長い時間を過ごしていたのだろうと、ふと考えるのですよ。その不死者というのは、元々そうであったにせよ、無かったにせよ、人間なのです。それだけの時間を過ごすだけの理由は、いったい何だったのだろうと――」
「死にたくなかっただけじゃないのかね」
彼女の言葉を遮るように、彼は静かにそう言った。
続ける言葉を止められた彼女は、しかし、彼の言葉をオウム返しのように繰り返して問う。
「……死にたくなかっただけ、ですか?」
「そ、死にたくなかっただけ。でもまぁ、それを意識しない程度に、生きるための、死にたくないと思うための理由が他にあったなら、それは幸せだということなんじゃないかなー」
「…………」
彼女は彼の言葉を咀嚼するために、目を伏せて思考するような素振りを見せた。
彼はそれを横目で見ながら、おどけるように肩を竦めて言う。
「ま、あえて不死者とかいう極端な例でなくてもよさそうな話ではあるけどね、これ。相棒、おまえは少し考え方が飛躍的というか何というか……難しく考え過ぎだな。さっきの仕事の話じゃあないが、最近何か嫌なことでもあったのか? 相談事なら、まぁ力になれるかどうかは判らないにせよ、聞くくらいならしてやれると思うけどなぁ俺」
「いえ、今の言葉で十分です。私も少しは人間臭くなってきたと、そういうことなんでしょう」
「よく判らないが。追加で助言をするのなら、だ。いつまでもこうしていたいと思うのなら、そう出来るように自分で色々やっていけばいいんじゃないか? やらない後悔よりやった後悔、というやつだ。月並みな言葉で申し訳ないが」
「頑張ります」
彼女はそう頷いて、湯のみに残ったお茶を一息に飲み干した。熱さに耐えるように少し身悶えていたように見えたが、やがて立ち上がり、流しに湯のみを持って移動する。
「今日はもう寝ます。おやすみなさい」
「おお、早いな。おやすみ」
彼女は湯のみを流しに置いた後で、彼に対して深く頭を下げて、リビングから出て行った。
ぱたりと扉が閉まる音を聞いて、彼はまだ湯のみに残っているお茶をすすり、
「俺も部屋に戻って……積みゲーでも消化するか」
湯のみをカウンターに置いて、しかし、ふと思い出したかのように立ち上がる動きを止めた。
「……部屋に行く前に消臭剤まいておかないと。朝起きてこの部屋に入ったら死ぬな」
溜息をひとつ。
よっこいせと重い腰をあげて、カウンターの隅に置いている消臭剤を手にリビングをぐるぐる回る。布製品を中心に、家電製品にはかけないように少し注意しながら、一通り目につく範囲に消臭剤をまいた後で、よしと頷きをひとつ残し、カウンター上の湯のみを流しに置いた。
「のんびりとした良い一日だった。明日もこうだといいんだがなぁ。まぁ今から夜なべでゲームだから一日も何もあったものじゃあないか」
リビングの点いている電気を消して回りながら、そう呟いて。
「明日はとりあえず相棒を起こした後でスーツをクリーニングに出す、と。忘れないように、後でメモ残しとこう」
追加でそう呟きを残した後で、彼もリビングから自室へと移った。