第7話 微熱を残したまま
ジワリと体中が汗ばむ。
室温が高くなりすぎたのだろうかと長谷川はあたりを見回した。
けれどレトロな石油ストーブはまだ威力を発揮しておらず、吐く息は依然として白い。
おかしくなってしまったのは、自分なのだろうか。
それともどこか幼い、調子を狂わす言動をする今日のリクなのだろうか。
「玉城が心配してたから、後から連絡を取ってやりなさい」
なおもじっとこちらを見つめてくるリクの視線を受けながら、長谷川の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「ああ、玉ちゃんね。表に車があったから、長谷川さんと一緒に来たのかなって思ってたけど」
「ずっと連絡取れなかったんだ。私の方こそ男二人でにぎやかにやってんだと思ったのに。どこに行ったのかな、玉城は」
「玉ちゃんと2人でクリスマスパーティ? 悪くないね。どうせ今年も玉ちゃん、彼女できなかったみたいだし」
「あんただって同じでしょう。好きな子くらい作りなさい」
「ぼく? ぼくならいるよ。好きな人」
「へえ。・・・だれ」
「長谷川さん」
刹那、長谷川の思考が止まった。
そのあと濁流のように心臓あたりから流れ出ようとするものを、訳も分からず力づくで抑え込む。
目の前の青年はその努力を知ってか知らずか、今までに見せた事のない、柔らかな微笑みの爆弾を投げてよこした。
「メリークリスマス。あなたに会えて、本当に嬉しかった」
そう。と、その時答えたのかどうか、その辺の記憶はあいまいだった。
ただひたすら自分の腕時計の文字盤を睨みながら、キッチンに入り、お湯を沸かした。
温かいミルクティーをいれてリクに手渡した後、病院から持って帰ったリクの衣類の洗濯をし、干し、何を食って生きてるんだと思わせるほど食材の乏しい冷蔵庫の中身から夕食を作り、さっと部屋を掃除した。
その間、きっかり60分。
いい頃合いだ。
長谷川はひとつ頷き、小さなバッグを肩に掛けると、振り向かずに玄関に向かった。
「玉城に車を出す様に言っておくから、明日の朝からちゃんと通院しなさい。あいつは年末年始暇だろうし、こき使っていいから。医者の指示には必ず従うように。携帯もちゃんと新しいの買いなさいね。それじゃ、時間だからもう行くわ。元気でね」
「…長谷川さん」
後ろから小さく呼び止められたが、長谷川はもうふり返ることもできずに、程良く暖まったその部屋を後にした。
外の空気は肌を刺すほどに冷え込んでいたが、逆にそれが有り難かった。
膨張してのぼせた頭を冷やしてくれる。
けれど心臓のあたりが僅かに痛み、思考が妙にまとまらない。おまけに背筋は、風邪をひいたときのようにぞわぞわ粟立つ。
こんなにも不可解な感情を抱えたまま、自分は無事にシンガポールに帰りつけるのだろうか。
「…何だってんだ。ったく」
長谷川はしつこく粉雪の舞う夕暮れの道を、途方に暮れながら歩き始めた。
◇
死にものぐるいで何とか森の中から抜け出した玉城は、息を切らせながらリクの家のドアノブを引いた。
窓からあかりがこぼれていたので期待はあったのだが、本当にドアが開いた瞬間は、安堵で崩れ落ちそうになった。
「リク! いるのか!?」
飛びこんだ家の中は心地よく暖まっており、オレンジのブランケットにくるまったままの青年が、ソファの中から笑いかけてきた。
「久しぶり、玉ちゃん。こんな寒い日に森を散策するなんて、物好きだね。草の実がいっぱいくっついてる」
「おま・・・。お前こそどこ行ってたんだよ! せっかく長谷川さん帰ってきてたのに。何度掛けても携帯に繋がらないし!」
「長谷川さんには、さっき会ったよ。ここで」
「あ、会ったのか? ここに来たのか長谷川さん」
「うん。ちょっとしか話せなかったけど。なるほどね、って思った」
「なるほどねって、何だよ」
玉城は青年にゆっくり近づきながら、眉をひそめた。凍えた頭と体がまだ正常に働かず、ギシギシ音がする。
けれど玉城の中のアンテナだけはビンビン反応して震える。どうしようもないほどの違和感。
「いい人だね。長谷川さん」
青年はクスリといたずらっぽく笑う。
その子供のような仕草にゾワッと鳥肌が立ち、同時に玉城の回路が急速に答えを弾き出した。
「おまえ、璃久か!」
危惧していたことが起こってしまった。
そうなのだ、年に数回、特にリクの体調が良くない時に、この男が出てきてしまうのを玉城は知っていた。
解離性同一障害であるリクの片割れ、岬璃久。
幼いころの過酷な環境と危機から精神を守るためにその身に育った、強靭で毒を持つ、もう一人の人格。
自分に危害を与えるものには刃を持って切りかかっていく野生と執念を兼ね備えながらも、その凶暴さゆえ9歳でリクが一旦体内に封印したために、どこかしら言動に無垢な幼さを残す。
玉城は密かにブラック璃久と呼んでいる。
リクと璃久は一応折り合いを付けたはずだが、まだうまく融合できず、たまにこうして入れ替わる。
ずっとリクと一緒に居る玉城だけに分かる、特異なバイオリズム。
傍若無人で我が儘で、度の過ぎるイタズラを仕掛けて来る小悪魔。
長谷川には一度説明はしたことがあるが、実際の璃久を彼女は知らない。
そしてもう、消えてしまった過去の話だと思っているに違いない。
「お前、長谷川さんに何か言ったのか?」
「別に。少し話をしただけ」
「本当にそれだけか? 変なこと言わなかっただろうな!」
「変なことは言ってないよ。ただ・・・」
「ただ?」
「好きだよって 言った」
そう言ってニッコリ笑う璃久に、玉城は凍り付いた。
「お・・・おまえなあ!」
「リクは、長谷川さんのこと嫌いじゃないよ。会いたがってたのも本当だし。だからそう伝えただけじゃん。悪いことなんてしてないよ」
何を想っているのか判断できない無表情でゆっくりとソファから立ち上がった璃久は、ブランケットを床に落として小さく伸びをした。
一体こいつは何を考えているのだろう。
この璃久の思考回路が子どものまま止まっているのは知っている。それもあって、口から出るのが本心なのか冗談なのかの判断が難しい。
いったい璃久は、リクの気持ちをどこまで把握しているのだろう。
長谷川に、「あれはリクじゃないんです。無視してください」と言うべきなのか・・・。
けれど無邪気に“好き”と言った璃久の笑顔に、今までと違う穏やかさを見たのも確かなのだ。
リクと璃久の融合は、誰も気づかないうちに少しずつ進んでいるのかもしれない。
もしかして、冗談ではないのだろうか。リクの『好き』は。
そして、それを聞いた長谷川はいったい、何を思ったのだろう・・・
だが唐突に、思案真っ最中の玉城の腕をぐいと引っ張り、璃久がその耳元に唇を寄せた。
「ねえねえ、玉ちゃん。いっしょにお風呂に入ろうよ。ここのお風呂、お化け出そうで怖いんだ」
「・・・」
撤回だ。 やはり近いうちにメールしよう。
長谷川さん、ごめんなさい。あれは違うんです。リクではないのです、たぶん! ・・・と。
青年のフワフワ頭を一発どつきながら、玉城はそう思った。
◇
これから冬本番の日本とは打って変わり、ここシンガポールでは今日も汗ばむほどの陽気だ。
「ねえ。…どうして長谷川さんは日本から戻ってきた後、決まって体調不良になるんですかぁ? 普段は病気なんて無縁なのに」
長谷川のアパートメントを訪ねた部下の多恵が、あきれた声を出した。
あの豪傑の長谷川が、猫のように丸まってベッドにもぐり込んでいるのだ。
側に体温計が転がっている。熱でもあるのだろうか。
多恵は小首をかしげながら、珍しい物を見る目で、ベッドの盛り上がりを眺めた。
「明日、お仕事お休みしますか?」
「・・・いや、行くよ。悪いね多恵ちゃん。どうってことないんだ。ちょっと疲れただけ」
この豪快でパワーの塊のような長谷川が、“ちょっと疲れて寝込む”なんて、きっとそのうち、この常夏のシンガポールに雹が降る。
リクや玉城と一緒にクリスマスを過ごせたのかと聞きたかったのだが、そんな雰囲気でもない。
期待した東京ばな奈のお土産も、今回は無さそうだ。
長谷川本人は泥人形と化してるし、退屈だし、このままこっそり帰っちゃおうと、もう一度ベッドをふり返った多恵の目が、妙な物を捕らえた。
〈ねえ 行こうよ。 あっちに一緒に いこうよ〉
おかっぱ頭のホラーチックな目をした白装束の少女が、長谷川の枕元に座り込んで話しかけている。
結構必死な様子だが、長谷川にはまったく聞こえていないらしい。
多恵は2、3度まばたきしながら見つめる。
「長谷川さん、これ日本から連れて来ちゃったんですかぁ?」
けれどもう、ベッドの中からは寝息しか聞こえない。
霊感のない長谷川にはきっと、こういう厄介なものは一生見えないし、害はないのだろう。しかしながら、ずっとここに居座られるのも、なんだか鬱陶しい気がした。
「お土産なら、東京ばな奈のほうがいいのに」
仕方ない、今週末の自分の帰郷の時に連れ帰って、玉城先輩にでも押しつけよう。
うん、それがいい。 一番いい。
多恵は、自分の名案に満足し、おかっぱ頭の少女を呼び寄せた。
「おいで。一緒に遊んでくれそうなお兄さんを、紹介してあげるから」
〈END〉




