第6話 眩暈
ドアの前に立つ長谷川の方へ、リクはゆっくりと歩いて来た。
自分からは歩み寄ることをせず、長谷川は仁王立ちしたまま、リクをじっと待つ。
リクが自分の手の届く距離まで来るほんの僅かな時間で呼吸を整え、本来の平常心を取り戻すことに集中した。
--- このときめきに似た感情は何だ。鼓動は何を誤作動している。思い出せ、今はそんなことよりも大事な本題があったではないか。
神経を集中した途端脳髄を駆け上がってきた感情に任せ、長谷川はすぐ目の前まで歩み寄ってきた青年の手に持っていた紙袋を無言で奪い取った。
小娘のような胸の高鳴りは何とか収まり、代わりに先ほどまでの煮えたぎる苛立たしさが激しくぶり返してきたのだ。
奪い取った紙袋は軽くガサッと音を立てた。
たぶん何も持たずにたったひとりで入院したリクに、病院側が持たせたものだろう。袋に入っているのは使用後の衣類らしかった。
リクはその乱暴な行動に呆れているのか琥珀の目を見開き、無言で長谷川を見つめている。
まだ術後の痛みがあるのだろう、少し動きが緩慢だ。顔色も青白い。
だが、優しい言葉をかける気にはならなかった。
「鍵は?」
乱暴に聞くと、リクはジーンズのポケットからゆっくりそれを取り出し、大人しく長谷川に差し出してくる。
無言で受け取って鍵を開けると、長谷川はぐいとリクの腕をつかみ、家の中に引き込んだ。
「ソファに座ってなさい」
まるで子どもに言うように指示すると、リクはただ大人しく従い、ゆっくりと布張りのソファに腰を下ろした。
長谷川は収まらない苛立ちを押さえ込みながら、とにかくリクの体を温めてやりたくて、石油ストーブに火をつけ、薄着の青年の肩に、横に畳んであったブランケットを掛けた。
「何か、怒ってる? 長谷川さん」
「怒ってるよ。殴り倒したいほど怒ってるけど、殴ったって何にもならないだろうから、やめておく」
「携帯、通じなかったこと?」
「そんなことじゃない。倒れるまで仕事するなって事! いくら佐伯さんの頼みだからって、自分の体
より大事な仕事なんてないだろうが! それからなんで3日で出てきたの。医者嫌いって事じゃ通らないよ?」
「いっぱい質問来た」
リクは声を立てずに笑った。それでも少し下腹を抑えながら。
「ほら見なさい、痛むんでしょうが!」
「最初はね、ただの腹痛だと思ったんだ。薬飲んでたら収まるかなって。…でも、そうじゃなくて、びっくりした」
リクはソファに更に深く沈み込むと、少し気だるそうな目で仁王立ちの長谷川を見上げてくる。
どこまでも形よく整った目元、深く透明な琥珀の瞳は、相変わらず見つめていると訳もなく胸がざわつく。
そのせいで、出会った最初の頃は、どうも苦手な青年だと感じたものだった。
ずいぶん慣れたと思ったのに、離れている間に免疫が低下したのだろうか・・・などとボンヤリ感じながら、その目を見つめ返した。
思えばこうやって目を見て話すのは、もう1年半ぶりのことだ。
けれどいつまでもしっかりと自分を見つめてくるリクは、あの頃のリクと少し違い、長谷川は再び先ほどと同じ種類の違和感を覚えた。
目の前にいるのは紛れもなくミサキ・リク。それ以外では有り得ないのに。
自分が目をつけ、1年にわたって美術誌『グリッド』に取り上げた若き油彩画家。
思いがけず、霊能力を持つが故の苦悩、そして壮絶な過去を知り、その苦悩からの逃避に手を貸してやったばかりに、ついつい情が湧いてしまった。
そう、情が湧いてしまった、ただそれだけのことなのに。
何かにつけ、思い出すと苦しくなる厄介な男。
湧き出してくる感慨に任せながら、じっと立ったままその目を見つめていると、リクは薄紅を引いたような柔らかな唇でニコリと笑い、となりの空間をポンと手で叩いた。
「ねえ。ここに座ってよ、長谷川さん」
眩暈がした。
そんな仕草も言葉も今までとはどこか違う。何かが違う。気のせいだろうか。
いや、それよりも自分は何かひどく怒ってたのではなかったかと、しばし頭を巡らせた。
「いいよ。もうあまり時間がないし」
「飛行機?」
「うん」
「本当にもうシンガポールに帰っちゃうの? 仕事、忙しい?」
「私のことはいいんだよ。それよりあんた、・・・そうだよ! あんた何でそんなに早く病院出てきたんだよ。手術して3日って、なに! 医者が嫌いだとか言うんならちょっと性根入れ替えたほうがいいよ、長生きしたいんなら!」
「佐伯さん情報?」
「どこ情報でもいいよ。通院が長引くだけでしょうが。世話してくれる彼女がいるならまだしも、どうすんだよ、一人で。言っとくが玉城は当てにならないよ」
「ああ、うん。医者も怒ってた。今日帰って傷口悪化したって責任持ちませんよって」
リクが笑う。やはり下腹に手を当てたままだ。
「笑い事じゃないよ! なんでそんな事するのかって訊いてる!」
「今日がクリスマスだから」
「・・・は?」
笑うのをやめて見上げてきたリクともう一度しっかりと目が合った。
「壊れかけた携帯に、一度だけ玉ちゃんからのメールが入ったんだ。長谷川さんが、25日まで日本にいるって。だから絵を仕上げるのを急いだ。モデルの女の人が寝ようって誘ってきたけど、そんな時間も勿体なくて急いで描いた。早く終わらせれば、長谷川さんに会えるかなって。それなのに入院だとか、手術だとか。ツイてないよ、ほんと」
リクはそう言いながらゆっくりと立ち上がり、頑として座らなかった長谷川の正面に立った。息のかかるほどの距離に。
長谷川よりほんの少し背の低い、細身の体。キメの細かい冬の肌と、そして吸い込まれそうなほど澄んだ琥珀の瞳は、やはりこの青年のものだ。別人などでは有り得ない。
だがその口元の僅かな笑みは、今までにない無邪気さと企みと、そして色気を含み、長谷川を捕らえて放さなかった。
「長谷川さんに会いたかったんだ。どうしても」
何かで軽く殴られたような、身じろぎせずにいられない衝撃があった。体中の皮膚が、ザワリと粟立つ。
いったい何だというのだ。
しばらく離れていた弟か息子に会うようなつもりで帰国したのだ。
もっと自分を大切にしろと、説教して帰ろうと思っていたのだ。 それなのに、これは一体、なんなのだ。




