第5話 落胆と苛立ちの先
JR五日市線の終着駅からバスに乗り、更にその終点。
チラチラと小雪の舞う中を、そこからまたひたすら歩いてきた長谷川は、やっと辿り着いたリクの家の前に、見覚えのある水色の軽自動車を見つけドキリとした。
玉城の車だ。
どうしたことか、今日は最高に親しみのある水色に見える。
玉城が来ていると言うことは、リクもきっと家の中に居るのだろう。
3日前玉城にメールを入れた後、記述通り福岡の田舎に帰ったのだが、両親や親戚の「早く結婚しろ」「見合いをしろ」「シンガポールなんかで何やってんだ」攻撃にうんざりし、長谷川はその日のうちに東京に戻ってきてしまっていた。
長谷川も34歳。
女の幸せは結婚なのだと信じて疑わない両親にしてみれば、ハラハラする気持ちも分からないでもないが、今まで独り身で全く不自由無かったものを、わざわざ婚姻などという縛りの中に身を置かねばならない意味分からない。
孫の顔が見たいのならば、自分より10歳年下の、姉とは似ても似つかない可愛らしい妹が願いを叶えてくれるだろう。
自分を心配してくれる両親の気持ちは嬉しかったが、やはり我慢にも限界があり、口論は避けられそうにもないので、しばらく実家に帰るのはよそうと思った。
昨日の深夜までは独身貴族の友人達と久々の交友を深めていたのだが、さて、ここで何の予定もなくなった。
予約した帰りの便までは、あと6時間弱。
また玉城で時間を潰そうと思ったのだが、どういうわけか昼くらいから玉城の携帯に繋がらないので渋々諦めた。
悲しいことに、あと思いつくのはリクの所しか無かったのだ。
あの青年が家に帰っている確率は低かったが、足が自然とここに向いていた。
不思議な青年だと、長谷川はいつも思う。
どこにも自分を縛り付けず、まるで気まぐれな旅鳥のようにふわふわと所在なく漂う癖に、その内面から滲み出す鮮やかな色彩は、見る者の目の奥に色濃く焼き付いてしまう。
どんな色だったのかもう一度肉眼で確かめたくなって手を伸ばし、その羽根を捕らえたと思っても、一瞬手を滑らせたら最後、ふわりとまた空に奪われてしまい、失った者は再び空を見上げ、空しくその鮮やかな色を探すのだ。
やはりあの鳥の住む世界は、この手の中では無いのだろうと、少しばかり落胆しながら。
長谷川はうっすらと粉雪の薄化粧をした水色のボンネットの横を通り過ぎ、今まで役に立った記憶のないドアベルを押した。
しばらく待ったが、反応がない。
ドアノブを回してみたが、しっかり鍵が掛かったままだ。
時刻は5時で、雪雲に覆われた空は少しばかり薄暗くなっていたが、家の中から灯りはこぼれていなかった。
リクはいない・・・。玉城は車を置いて、どこか他所へ行っているのだ。
思った以上に大きな落胆を抱え、長谷川はもう一度玉城の携帯に電話を掛けた。
けれどやはり通じない。
ため息をつきながら携帯の画面を見つめ、長谷川はダメ元でもう一度、画廊「無門館」のオーナー、佐伯に電話を掛けてみた。
リクの絵を扱っている画廊のオーナー佐伯は、リクが唯一恩義を感じている老人だった。
リクの消息を知っている人間は、玉城の他にはこの男しか思いつかない。
思いがけず、そのコールは二回ほどで繋がった。
聞こえてきたのは何故か、いつにも増して平身低頭な佐伯の声だった。
「長谷川さん、日本におられるのですね! 携帯に何度もお電話頂いていたみたいで、すみません。実はわたしも先ほど、プライベートな旅行から帰ってきたばかりで。あの、このたびは本当に申し訳なく思っています。ミサキさんの事、何とお詫びしていいのやら・・・」
突然出たその名前に、長谷川は感電したように反応した。
「リクがどうかしたんですか?」
「え、ご存じない? 3日前ホテルの部屋で倒れられて、手術されたことも?」
「リクが!? なんで!」
長谷川は携帯を握りつぶさんばかりの勢いで掴み、前のめりで声を張り上げた。
「いやその、急性虫垂炎だったそうで・・・」
「ちゅ・・・虫垂炎?」
安堵と共に、体中の力が抜けてしまうのを感じた。
「ビックリさせないでくださいよ佐伯さん。だったら心配ない。すぐに退院できるでしょうし。第一、佐伯さんが謝る事じゃない」
「それがですね、ずいぶん我慢されたそうで。もう少し遅かったら大変だったと聞きました」
「・・・なんでそんな、我慢する必要があるんですか」
長谷川は眉をひそめた。第一、なんでホテルの部屋なんだ? と。
「実は私がミサキさんに絵を依頼してしまったのです。上得意のイギリスの貿易商の会長さんが、ミサキさんの絵にいたく惚れ込まれまして。どうしても自分の愛人の絵を描いて欲しいとご所望で。別荘の新築に間に合わせるようにと、強く希望されまして」
日程もタイトだし、リクが裸婦を好んで描かないことを知っている佐伯は、断ってくれてもいいと付け加えてその話を持ちかけたのだが、リクは二つ返事でOKしたらしかった。必ず間に合わせます、と。
意外でした、と佐伯は言ったが、長谷川はさもありなんと思った。
リクはぶっきらぼうに見えて、これ、と決めた人に対しては実はとても義理堅い。
絵描きとしての自分の道を確立させてくれた佐伯の頼みは尚更で、何を置いても断ったりしないだろう。
体調に異変があっても、きっとそんなことは二の次にして、約束を果たそうとするに違いない。
長谷川は胃の痛くなるのを感じ、ゆっくりと息を吐き出した。
「で。リクは今、どこの病院にいるんですか? あまり時間が無いんだけど、顔を見てから帰ります」
「それがその・・・」
「何か?」
「早々に退院してしまったそうなんです。どうやら主治医と揉めて、無理やり退院を早めてもらったようで」
「は? どうして? まだ3日目でしょうが!」
「そ、そうなんですが私もついさっき病院から短い電話をもらっただけで、何が何だか。何かあった時の連絡先に私の番号を書いてくれてたみたいで、それは有難かったんですが、私が叱られてしまいました。とにかく明日から毎日外来に連れてこないと責任持てないと。あ、もちろん私が必ず・・・」
「リクはいったい、今どこにいるんですか。病院を出たのはいつ頃?」
かぶり気味に質問を投げつける。
電話の向こうの佐伯の、答えに窮する息遣いが伝わってくるが、込み上げる高ぶりが止まらない。
爆発寸前だった。
「あのバカたれ!!」
携帯を握ったまま叫んだ長谷川の背後の路面で、キッ、とタクシーの止まる音がした。
しどろもどろの佐伯の声を聞きながら、そちらの方をふり返った長谷川の思考が止まった。
耳から入るすべての音も、何かの膜で遮断された
ゆっくりと車から降りて来た青年の、横顔、首筋、視線、タクシーの運転手との短い会話で動く唇、ほんの少し大きめのジャケットの袖から覗く細い指。
その柔らかく無駄のない所作一つ一つに全神経が奪われた。
さっきまで命綱のように必死に掴んでいた携帯を耳から外し、オフボタンを押すのも忘れ、無意識にカバンに放り込む。
もう何も説明は必要なかった。
探し人は、目の前にいる。
走り過ぎたタクシーをほんの少しばかり目で追った後、青年はゆっくり視線を長谷川に移した。
そこに長谷川がいることに、驚く素振りもない。
琥珀色の瞳も、形のいい唇も、スラリとした肢体も、少し眩しそうに相手を見つめる癖も、何一つ変わっていない。
「長谷川さん?」
分かり切っているくせに語尾を上げ、ほんの少し首を傾げながら、僅かに鼻にかかった子供っぽい声で問いかけてくる。
何一つ変わっていないと思った直後に感じたのは、微かな「違和感」だった。
だが、そんな違和感など、鼻先に降りた雪が溶けるよりも早く霧散した。
知らず知らず凍えてしまっていた長谷川の体の中を、じんわりと温かい何かが巡りはじめた。




