第3話 契約
12月22日。
その日の昼、仲間と取材先に車で移動中の玉城の携帯に、長谷川から短いメールが入った。
《リクからの連絡、ない?》
昨日の夜は久々に飲み屋で長谷川と酒を酌み交わし、散々「おまえの人生設計はなってない」と、深夜1時までダメ出しを食らった玉城だが、その長谷川はどことなく元気が無かった。
理由は、このメールの一文に集約されているように思える。
こっちにいる間は大東和出版の同僚や、世話になった人の所を回るから忙しいんだと言ってたが、いい加減、一番会いたいのがリクだということを素直に認めればいいのに、とため息が出てくる。
電話で返そうとも思ったが、運転するカメラマンに気を遣い、玉城もまたメールで返した。
〈まだありません。あいつ、携帯水没でもさせたんじゃないですかね。ああ見えてけっこう雑いし。とっつかまえて新しいの買わせます。仕事の合間に、また寄ってみますよ〉
オフィス街の並木道を抜け、賑やかに店が並ぶ都道に差しかかった。
信号待ちの間、どこからともなく聞こえてくるクリスマスソングがやけに楽しげで、今の気持ちにそぐわない。
誰とも繋がっていようとしない自由すぎる友人に、改めて腹立たしさが込み上げてくる。
《別にもういいよ。福岡の実家に25日まで帰省して、そっから直でシンガポールに戻ることにしたから》
〈ええ!マジすか? リクに会わないんですか?どうせ長谷川さん、また半年くらい帰らないつもりなんでしょ?〉
《居ないものは仕方ないだろ。リクに会ったらよろしく伝えといて。昨日は酒、付き合ってくれてありがとうね。じゃあ》
珍しく可愛らしい顔文字を残して、長谷川はメールを終えてしまった。
けれど玉城には容易に想像がつく。きっと今夜彼女は、訳も分からず気を滅入らすだろう。
昨日はよっぽど酒の勢いで、言ってしまいそうになった。
長谷川さん、あなたはリクのことが好きなんですよ、と。
けれど、当のリクがあんなふうに愛だの恋だのとは別次元で生きている限り、それは禁句のように思えて口をつぐんだ。
ああ、今回も2人は会わず仕舞いなのだろうかと、無性に腹が立ってきた。
「むかつく。何のための携帯なんだよ。こうなったら今夜は東京中探し回ってやる!」
つい口に出してぼやきながら、玉城は携帯をポケットに仕舞い込んだ。
「彼女と連絡がつかないんですか? 玉城さん」
運転していた大東和出版のカメラマンが、ニヤッとして聞いてくる。
「そうなんです。すぐに連絡取れなくなっちゃうんですよ。せっかく携帯持たせてやったのに。気ままな奴で」
説明を少し端折って、玉城は毒づいた。
「携帯持たせてあげたんですか? 玉城さんが?」
「あ、払ってるのはあっちですよ、引っ張っていって契約させたって意味ですけど」
「そりゃあ、相当惚れ込んでますね。恋人でもなかなかしませんよ」
「そうですか?」
恋人では無いのだが。いまさら訂正も面倒くさかった。
「もうすぐクリスマスですからね。早く連絡つくといいですね」
「全くね。見つけたら綱でも付けておこうかな」
「そりゃもう、惚れすぎですよ玉城さん。どんだけ好きなんですか。やばいことしないでくださいよ?」
いや、女ではないんですよ、と言おうとしたが、話がますますややこしくなりそうなので、やめにした。
「その人、綺麗ですか?」
カメラマンは、更に興味深げに聞いてくる。玉城は少し考えながら答えてみた。
「ええ。美人ですよ。絶世のね」
「まじすか」
カメラマンは信じてないふうに返してきた。
「まじすよ」
嘘じゃない。各方面から引く手あまただ。好まない方面からのアプローチが多めだが。
玉城はもう一つ、小さくため息をついた。
◇
「まだ乾いてないから、触っちゃだめですよ」
描き上げたばかりの絵を覗き込み、人差し指で触ろうとした加奈子に、リクが優しく注意した。
もう夜の11時を回ってしまった。
筆も片づけたことだし、修正する気力も残っていない。
加奈子は他に用事もなかったのだろう。本当にこの絵が仕上がるまで、リクのそばで猫のようにじゃれて過ごした。
大好きなのと言って飲み続けていたシェリー酒のせいなのか、つねに視線が危なっかしく、時々描いているリクの首筋や頬に、いたずらっぽく触れてきた。
鎮痛剤のお陰で、腹部の疼痛はなんとか一時的に和らいでいたが、一日中赤の他人に見つめられて過ごすのは、こんなにも疲れる物なのかと、リクは改めて思った。
これが玉城や長谷川だったとしても、同じなのだろうか。
いや、彼らならたぶん違ったと思う。
日本に帰ってきている長谷川のことに、束の間思いを馳せた。
絵を発送すれば仕事も終わるし、明日は連絡を取ってみようか。そう考えた瞬間、微熱続きの疲れた体が、ほんの少し安らいだ。
「こんなに綺麗に描いてもらえるなんて、正直思っても見なかった。会長もきっと大喜びよ。ありがとうね、ミサキさん。私の気持ちを受け取って貰えなかったのは、けっこう心残りだけど、これでお別れね」
いたずらな笑みを浮かべながら、加奈子は歩み寄り、リクの唇にぽってりした自分の唇を押しつけた。
その行動よりも、唇の冷えた感触に驚いて、リクはほんの少し身を退く。
シェリー酒の、甘い香りが残った。
「あら? 熱があるのね。風邪かしら」
「・・・かもしれません」
「それじゃ早く休まなきゃ。酔っぱらい女の相手をしてる場合じゃないわ。今年いっぱい、この部屋はあなたの自由に使っていいし、ゆっくり休んでね。私は退散するわ。でも、いつかきっとまた、会いましょうね」
自由で可愛い人だと思いながら、リクはバタバタと帰り支度をはじめたクライアントの愛人に、丁重に礼を言った。
裸体を何日も見つめていたって、その人の本当の魅力は分からない。こういうほんの少しの会話で、心が優しく解される。
いい人だったなと気づくのは、いつも別れ際だ。
「ところでさぁ」
ドアから半身を出した状態で、加奈子はリクをふり返った。
「はい?」
「何かこの部屋に居るあいだずっと、誰か別の人の視線を感じてたような気がするんだけど、気のせいかな」
別れ際に、言い残すようなことだろうか。面白い人だとリクは少し笑った。
「ああ、そういうこともあるかも知れません」
「そうなの?」
「ええ。僕のそばにいたら」
理解したのかどうか定かではないが、「ああ」と加奈子はまだ少し酔い覚めやらぬ笑みを浮かべて大きく頷くと、「お大事にね」と手を振り、ドアの向こうに消えた。
長谷川さんといっしょにシンガポールに転勤になった、多恵ちゃんに印象が似てるな、とリクは思った。
そして、堪えていたものを吐き出すように息を吐く。
ひとりでは広すぎるスイートルームに、あと乾くのを待つだけの絵と共に残されたリクは、どうやら自分の中の異変と向き合わざるをえなくなった。
鎮痛剤の効果はもうほとんど無く、内蔵全てが熱を持って鈍く疼き出したように思えた。
放っておけば治まると思っていたのに、いつまでも絡みつく痛みが煩わしい。
仕事は期限に間に合った。絵は、あとで発送の手配を頼んでしまえば自分はもうここから帰られる。
長谷川に会える。
けれどそう思った瞬間、吐き気と刺すような痛みに襲われ、リクはその場にうずくまった。
フロントに繋がる受話器には遠く届かない。
腹部を押さえて、絨毯の上に力なくゴロンと転がったリクの横に、再び気配が近づいてきた。
〈ねえ、もうそろそろ、いいでしょ。一緒に行こうよ。あっちに〉
おかっぱの少女は、期待を込めた目をして、今夜もリクを見下ろした。
昨日よりも輪郭がはっきり見えてしまって、リクは内心「まいったな」と思った。
どこで拾ってしまったのだろう。
「それより、誰か呼んできてくれない? ちょっと今、大変なんだ」
リクにしては、愛想良く言ったつもりだったのだが、どうやら少女の機嫌を損ねたらしい。
少女は、結構少女にあるまじきすさまじい形相をつくり、そっぽを向いてしまった。
「呼んできてくれたら、あとで僕の友達を紹介してあげるからさ。きっと君と遊んでくれると思うよ」
〈本当に?〉
「うん」
少女はやっと機嫌を直したらしく、壁の中に溶け込むようにして、消えてしまった。
ホテル内のどこかに、都合良く彼女が見える人間が居るとは思えなかったが、電話口まで這っていく事がどうにも、リクには億劫だった。
あの子が誰かを呼んで来てくれたら、本当にお礼をしよう。
僕の家に行ってごらん。僕と同じ年くらいの気のいい男が、そのうち来るから。・・・と。
あの子のいい遊び相手になってくれるんじゃないだろうか。
後で、「いい加減にしてくれ」と怒られるかもしれないが。
不機嫌に小言を言う玉城を想い浮かべながら、リクは目を閉じた。




