第2話 スイートルームの静寂
12月21日、夜。
右手に持った筆が滑らかにキャンバスの上をなぞっていく。
リクの目はただ、そのキャンバスとパレット、そして傍らに横たわる女の体を規則正しく移動した。
アンティーク調の2人がけのソファに、しどけなく横たわっている加奈子の裸体は、他の30歳のどの女よりもきっと豊満で美しいのだろうが、リクにとって女体は純然たる絵のモチーフであり、それ以上でもそれ以下でもない。
リクがこよなく愛する森の動植物を描く時のようなときめきは、ここには無かった。
それでも以前のように、意に添わぬ依頼の全てを断るような事はもうしない。
仕事として絵を描くと言うことの意味。人として生きるという事。それを、玉城や長谷川と付き合うようになってから、少しずつ考えるようになった。
この仕事はこの仕事で、ちゃんとやり遂げたかった。
「わあ、すごい。見るたびにどんどん色合い変わっていくのね。油絵って、こんな風に仕上がっていくのかぁ。でも、もうこれ完成よね? すっごくきれいだもん。私の体なのに、なんだか嫉妬しちゃう。この絵の透けるような柔らかい肌は、お手入れしなくたって永遠に年を取らないんですもんね」
ワンポーズの15分を過ぎていたらしく、ソファから抜け出した加奈子がリクの絵をのぞき込み、感嘆混じりのため息をもらした。
「明日には仕上げようと思ってます。乾かす時間を入れると、期限ギリギリになってしまってごめんなさい。仕上げはもうモデルは必要ありませんから、加奈子さんは帰国の準備をなさってください」
手を動かしながらそう言うと、加奈子が筆を持ったままのリク右手をギュッと両手で包み込んだ。
まだその手の甲に大きく残る傷痕を、加奈子が自分の親指の腹でそっと撫でる。愛撫でもするように。
1年半前、ある事件で犯人にナイフで貫かれた傷跡だ。
自分が挑発したせいだと責任を感じ、凹み切っていた玉城のためにも、と思い、リハビリに真剣に取り組んだ。
リクが筆を握れるようになったことを玉城は泣いて喜び、その事件でシンガポールにいながらリクの命を救った長谷川は、「頼むからもう二度と心配させないでくれ」と、彼女らしいメールをくれた。
リクの過去の絡む辛い事件だったが、その傷跡は、あの二人との絆を感じさせてくれるものであり、嫌いではなかった。
「本当に女の気持ちを踏みにじる人よね、ミサキさんって。それともわざと、そんな意地悪を言うのかな。私、そんなに魅力無い体じゃないと思うんだけどなあ」
加奈子は自分の形の良い豊満な乳房を両手でそっとすくい上げ、芝居がかった悲しげな目でリクを見つめてくる。
「最後の日には、私からもお礼するって言ってたのにさ。会長だって、絵のお礼にサービスするくらい、目をつぶってくれると思うよ? まあ、そんなことわざわざ報告しないけど」
言い方は悪いが、自分の体をうまく使って生きてきた女独特のさばけた愛嬌が、そこかしこに伺われる。
確かに魅力的で可愛い人だと思った。年上ではあるが、その体はきっと極上の部類に入るのだろう。
けれど、その“お礼”を受取るだけの気力がリクには無かった。
「ごめんなさい」
ポロリと出たその本音に、加奈子はどうやら本当に落胆してしまったらしい。
「もういいわよ。本当は私があなたに興味あっただけだから。白状しちゃうとね。だけどまさか断られるとは思ってなかったなあ」
加奈子はふふっと笑うと、先程とは別のソファのほうへ歩み寄り、脱ぎ散らかした服や下着の上にぽんと体を投げ出した。
「でも私、明日もここに来るから。あなたと絵をゆっくり眺めて過ごすわ。だってフランスに帰ったら私、毎日会長のしわくちゃのほっぺたにキスして暮らすのよ? 愛してない訳じゃないんだけど気力がいるのよ。明日は充電。それくらい、いいでしょ?」
リクが笑って頷くと、加奈子はようやく機嫌を直し、下着を身につけはじめた。
その加奈子の横のテーブルで、リクの携帯電話のバイブ音が響いた。
すっかり壊れてしまったと思い、ずっとそこに放置していたものだ。
加奈子がそれをすくいあげ、突然の復活に驚いているリクに手渡した。
「お仕事? それとも彼女かな?」
「今朝まで、充電しても全く反応しなかったから壊れたと思ってたんです。3日前一緒に雨に濡れてしまったから、もうだめかなって。急に直ることもあるんでしょうか」
「さあ、どうなのかな。メカ音痴だからわかんない。それよりもミサキさん、一緒に雨に濡れたとき、風邪でもひいた?」
「え?」
「朝から思ってたんだけどさ、今日のミサキさん、ちょっとしんどそう」
「いえ、そんなことないです」
少しドキリとしながら、顔を伏せるようにリクは携帯の画面を見つめた。
そして表示された名に、再びドキリとした。
「ねえ、お仕事? それとも彼女からのお誘い? 彼女だったら私、今夜はこのまま大人しく帰るから」
加奈子が問う。
「・・・恋人です」
落ち着いた口調でリクがそう言うと、加奈子は今度は納得した笑みを浮かべ、「じゃあ、また明日ね」と言い残して、部屋を出ていってくれた。
加奈子のパトロンである男が用意してくれたスイートルームは、途端に静寂につつまれる。
この人工的な静寂は、ここに閉じこもって丸4日になるが、どうも馴染めない。森の中での静寂とは、まったく別物なのだ。
明日、仕上げに加奈子が付き合ってくれるのはラッキーなのかも知れない。
焦りや痛みを紛らわすことができる。
そんなことを思いながらリクはさっき届いたメールの着信履歴を再び眺めた。
そこには交互に、長谷川と玉城の名が並んでいる。
玉城は暇さえあれば送ってくるが、長谷川からのメールは本当に久しぶりだった。
どちらを開こうと一瞬迷い、なんとなく玉城のほうを先に開いてみると、玉城らしい、せわしない文字の羅列だった。
《リク、長谷川さんが帰って来てるのに、どこ行ってんだよ。25日いっぱいまでしか日本に居られないそうだから、ぜったいそれまでに帰っ---》
そこまで読み、スクロールしようと思ったところで、再び電源が落ちた。
今度はもう、どこを押しても叩いても反応しない。やはり、直ったわけでは無かったらしい。
一瞬でも読めた事は有り難かったが、消えてしまった情報が悲しい。長谷川は、何と書いて送ってきたのだろう。
落胆と同時に、しばらく忘れていた下腹の痛みがにわかにぶり返してきた。
昼にボルタレンを飲んで押さえていたのだが、さすがに効き目が切れてきたのだろう。
もう一錠飲もうかと思ったが、そう思っただけで吐き気が込み上げてきた。
そういえばこの薬を以前玉城に貰ったとき、胃が荒れるから続けて飲むなと言われていたのを思い出した。
ひざを折り、心地よい絨毯の上にゆっくりとしゃがみ込みながら、リクは吐き気を堪えた。
下腹の鈍痛は、背中の方まで広がって行っているようだ。
医者になど、行かない。そんな時間はないのだ。
長谷川にも会いたかったが、この仕事をきちんと仕上げてからにしたかった。
大丈夫、25日まで日本にいるのなら、まだ少し時間はある。
体を丸くしていると、吐き気は僅かに収まったが、頭がボンヤリとして、意識が少し遠のいていく。
死ぬ時って、こんな感じなんだろうか。そうだったら、楽なのに。
そんなことを、ちょっとだけ思った。
〈それなら、こっちに来る?〉
ふいに、頭の中に響くような幼い声がした。
閉じかけた目を開いてみると、すぐ横に、同じようにしゃがみ込んでいるおかっぱ頭の小さな女の子がいた。
無邪気に小首をかしげ、猫の様に異様に光る目でリクを興味深げに覗き込んでいる。
裸足なのは分かったが、どんな服を着ているのか、輪郭が曖昧だ。
〈ねえ、こっちにおいでよ。いっしょに行こうよ〉
女の子の声が、更に大きく頭の中で響く。あまり心地の良いものではなかった。
「ああ、そうだね。そのうちね」
リクは素っ気なく返事をし、目を閉じた。
長谷川さん、元気かな。会いたいな。 そんなことを思いながら。




